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第2話
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「ねえ、そっちで一緒に飲んでもいい?」
「どうぞ」
その女は私の隣に座った。
酒とゲランの『夜間飛行』、そして煙草の匂いがした。
ゲランの『夜間飛行』は以前、編集者の聡子に贈った香水だった。
ゲランの調香師だったジャック・ゲランは、サン・テグジュペリの小説、『夜間飛行』のような香水を生み出した。
トップノート、ミドル、ラストと変化してゆく香りはその名に相応しい物だ。
シトラス、ウッディー、フローラルとスパイシーが複雑に絡み合った香り。
それを纏う女には「儚い孤独」がなければならない。
この女にはそれが備わっていた。
「私、千雪。あなたは?」
「三島」
「何してる人?」
「当ててみな」
「んー、ネクタイはしていないしダークスーツでもないから公務員と銀行員ではないようね?
でも服装はお洒落で高そう。アパレルとか芸能関係?」
「違うな」
「じゃあIT社長とか大学の先生だ! 当たりでしょう!」
「全部ハズレだ」
「じゃあ何?」
「ヤクザ」
「そんな優しいヤクザなんていないわよ」
千雪はつまらなそうに酒を飲んだ。
「優しく見えるだけかもしれない。お姉さん、人を見る目がないな?」
私は笑った。
「男を見る目はないけど、ヤクザには見えないなあ」
「お姉さんは人妻さんか? 結婚指輪をしているようだけど」
「そうよ、「ひとりの人妻」。だから「ひとり妻」。旦那は死んじゃった・・・」
この女の悲しい横顔と、酒を飲む理由が分かったような気がした。
私は話題を変えた。
「俺の田舎は東北なんだが、銀座に来るとつくづく思うんだ。
ここも同じ日本なのかって。
ベンツにフェラーリ、ロールスロイス。
仕立ての良いスーツを着た紳士とシャネルやグッチの淑女たち。
銀座は華麗な街だ」
マスターが口を開いた。
「銀座で商売していると、よくバカにされますよ。
ここで認められるには、せめて創業100年以上じゃないと笑われますから」
「マスターは今いくつなの?」
「41です」
「ここで何年やってるの?」
「今年でやっと3年目になります」
「じゃあ、あと97年かあ? 138歳まで頑張らないといけないわけだ」
「もう死んでいますよ、その頃には」
私たちは笑った。
その時初めて、私は千雪が笑うのを見た。
3人組のサラリーマンが店にやって来た。
そしてその後、すぐに20代のカップルもやって来て、店は満席になった。
「お腹空いた。ねえ、ラーメン食べに行こうよ」
「何ラーメンだ?」
「豚骨ラーメン。東京で一番美味しい豚骨ラーメンなんだよ」
「豚骨ならいいよ」
「それじゃあ塩ラーメンだったら?」
「いや、塩もいい」
「結局何でもいいんじゃない?」
「何でもいいんだ。実はさっき、気取ったフレンチを食べたから、どうも食べた気がしなくてね?
俺は苦手なんだよ、あのアラカルトってヤツが。
マスター、ご馳走様。
お会計は彼女の分も一緒で。
また来るよ。ギムレットを飲みに」
「お待ちしております」
「悪いわね? ご馳走になっちゃって」
「銀座のクラブで飲むよりはるかに安いよ。千雪のような女と飲めるなら」
「そうやって何人の女を口説いて来たの?」
「アンタを口説いた覚えはないけどな?」
「ヘンなひと。マスター、またね~」
「久しぶりに見ましたよ、千雪さんの笑った顔」
「私、笑ってた?」
「ほら、今も笑ってますよ。おやすみなさい」
「おやすみマスター」
10月の夜の銀座の風は冷たかった。
「タクシーで行こうか?」
「新橋なんだけど、タクシーにしようか? 歩くのイヤだしね?」
タクシーに乗ると、千雪は私にカラダを預けた。
私は久しぶりに欲情した。
そのラーメン屋は新橋の飲み屋街にあった。
入口を厚いビニールシートで覆った、オープンスタイルの店で、以前、博多で食べた、豚骨の髄液をグツグツと煮込んだ独特の同じ臭みがあった。
「一杯500円なんだな?」
「安いでしょ? でも味は確かよ」
後から後から客が来ては、去って行った。
かなり人気のラーメン屋だった。
髪を気にしながらレンゲでスープを啜る千雪。
「ああ美味しいー。久しぶりにまともな食事をしたわ」
「旨いな? 博多の天神で食べた豚骨ラーメンと同じ味がする」
「よかった、喜んでもらって」
「どうして俺を誘ってくれたんだ?」
「死んだ夫のことを訊かなかったから。
普通の男はね? 私のカラダが目当て。
だから同情するかのように夫の話を訊こうとする。
私の気を引くためにね?
でもあなたは訊かなかった」
「俺はただ、湿っぽい話が好きじゃないだけだ。
俺も同じだ。お前とやりたいと思って千雪について来た」
私はそう言ってまた一口、麺を啜った。
細麺のバリカタ麺の喉越しが心地良い。
高菜に紅ショウガを入れ、擦り胡麻をかけて味変を楽しんで食べた。
私たちはラーメンを食べ終えると、腕を組んで深夜の新橋の街を歩いた。
汐留の高層マンションの前に差し掛かかった時、千雪が言った。
「私の家、ここなの。寄ってく?」
千雪の部屋は23階にあり、東京タワーが正面に見えていた。
だがそこは酷いゴミ屋敷だった。
酒瓶や缶ビールが散乱し、食べかけのコンビニ弁当が干からびて悪臭を放っていた。
部屋にはすえた匂いが充満していた。
「少し散らかってるけど、気にしないで」
私は部屋の窓を開け、すぐに換気をした。
「ゴミ袋はどこだ?」
「余計なことはしないで! やりたいんでしょ? 私と」
「やりたいが、それは掃除が済んでからだ」
真夜中、私たちは掃除を始めた。
「どうぞ」
その女は私の隣に座った。
酒とゲランの『夜間飛行』、そして煙草の匂いがした。
ゲランの『夜間飛行』は以前、編集者の聡子に贈った香水だった。
ゲランの調香師だったジャック・ゲランは、サン・テグジュペリの小説、『夜間飛行』のような香水を生み出した。
トップノート、ミドル、ラストと変化してゆく香りはその名に相応しい物だ。
シトラス、ウッディー、フローラルとスパイシーが複雑に絡み合った香り。
それを纏う女には「儚い孤独」がなければならない。
この女にはそれが備わっていた。
「私、千雪。あなたは?」
「三島」
「何してる人?」
「当ててみな」
「んー、ネクタイはしていないしダークスーツでもないから公務員と銀行員ではないようね?
でも服装はお洒落で高そう。アパレルとか芸能関係?」
「違うな」
「じゃあIT社長とか大学の先生だ! 当たりでしょう!」
「全部ハズレだ」
「じゃあ何?」
「ヤクザ」
「そんな優しいヤクザなんていないわよ」
千雪はつまらなそうに酒を飲んだ。
「優しく見えるだけかもしれない。お姉さん、人を見る目がないな?」
私は笑った。
「男を見る目はないけど、ヤクザには見えないなあ」
「お姉さんは人妻さんか? 結婚指輪をしているようだけど」
「そうよ、「ひとりの人妻」。だから「ひとり妻」。旦那は死んじゃった・・・」
この女の悲しい横顔と、酒を飲む理由が分かったような気がした。
私は話題を変えた。
「俺の田舎は東北なんだが、銀座に来るとつくづく思うんだ。
ここも同じ日本なのかって。
ベンツにフェラーリ、ロールスロイス。
仕立ての良いスーツを着た紳士とシャネルやグッチの淑女たち。
銀座は華麗な街だ」
マスターが口を開いた。
「銀座で商売していると、よくバカにされますよ。
ここで認められるには、せめて創業100年以上じゃないと笑われますから」
「マスターは今いくつなの?」
「41です」
「ここで何年やってるの?」
「今年でやっと3年目になります」
「じゃあ、あと97年かあ? 138歳まで頑張らないといけないわけだ」
「もう死んでいますよ、その頃には」
私たちは笑った。
その時初めて、私は千雪が笑うのを見た。
3人組のサラリーマンが店にやって来た。
そしてその後、すぐに20代のカップルもやって来て、店は満席になった。
「お腹空いた。ねえ、ラーメン食べに行こうよ」
「何ラーメンだ?」
「豚骨ラーメン。東京で一番美味しい豚骨ラーメンなんだよ」
「豚骨ならいいよ」
「それじゃあ塩ラーメンだったら?」
「いや、塩もいい」
「結局何でもいいんじゃない?」
「何でもいいんだ。実はさっき、気取ったフレンチを食べたから、どうも食べた気がしなくてね?
俺は苦手なんだよ、あのアラカルトってヤツが。
マスター、ご馳走様。
お会計は彼女の分も一緒で。
また来るよ。ギムレットを飲みに」
「お待ちしております」
「悪いわね? ご馳走になっちゃって」
「銀座のクラブで飲むよりはるかに安いよ。千雪のような女と飲めるなら」
「そうやって何人の女を口説いて来たの?」
「アンタを口説いた覚えはないけどな?」
「ヘンなひと。マスター、またね~」
「久しぶりに見ましたよ、千雪さんの笑った顔」
「私、笑ってた?」
「ほら、今も笑ってますよ。おやすみなさい」
「おやすみマスター」
10月の夜の銀座の風は冷たかった。
「タクシーで行こうか?」
「新橋なんだけど、タクシーにしようか? 歩くのイヤだしね?」
タクシーに乗ると、千雪は私にカラダを預けた。
私は久しぶりに欲情した。
そのラーメン屋は新橋の飲み屋街にあった。
入口を厚いビニールシートで覆った、オープンスタイルの店で、以前、博多で食べた、豚骨の髄液をグツグツと煮込んだ独特の同じ臭みがあった。
「一杯500円なんだな?」
「安いでしょ? でも味は確かよ」
後から後から客が来ては、去って行った。
かなり人気のラーメン屋だった。
髪を気にしながらレンゲでスープを啜る千雪。
「ああ美味しいー。久しぶりにまともな食事をしたわ」
「旨いな? 博多の天神で食べた豚骨ラーメンと同じ味がする」
「よかった、喜んでもらって」
「どうして俺を誘ってくれたんだ?」
「死んだ夫のことを訊かなかったから。
普通の男はね? 私のカラダが目当て。
だから同情するかのように夫の話を訊こうとする。
私の気を引くためにね?
でもあなたは訊かなかった」
「俺はただ、湿っぽい話が好きじゃないだけだ。
俺も同じだ。お前とやりたいと思って千雪について来た」
私はそう言ってまた一口、麺を啜った。
細麺のバリカタ麺の喉越しが心地良い。
高菜に紅ショウガを入れ、擦り胡麻をかけて味変を楽しんで食べた。
私たちはラーメンを食べ終えると、腕を組んで深夜の新橋の街を歩いた。
汐留の高層マンションの前に差し掛かかった時、千雪が言った。
「私の家、ここなの。寄ってく?」
千雪の部屋は23階にあり、東京タワーが正面に見えていた。
だがそこは酷いゴミ屋敷だった。
酒瓶や缶ビールが散乱し、食べかけのコンビニ弁当が干からびて悪臭を放っていた。
部屋にはすえた匂いが充満していた。
「少し散らかってるけど、気にしないで」
私は部屋の窓を開け、すぐに換気をした。
「ゴミ袋はどこだ?」
「余計なことはしないで! やりたいんでしょ? 私と」
「やりたいが、それは掃除が済んでからだ」
真夜中、私たちは掃除を始めた。
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