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第2話

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 人生に絶望しかけていた私をJAZZが救ってくれた。
 私にはオペラしかないと思っていた。私はアリアを歌うべきディーヴァだと。
 だがオペラは私には似合わない衣装であり、無理やりそのオペラという衣装に自分を合わせようと、必死に藻掻いていただけだったのかもしれなかった。

 JAZZはすぐに私を受け入れてくれた。
 片思いなのか両思いなのか? 別れるのか添い遂げるのか?
 JAZZもまた洋服と同じで、似合っているとかいないとか、そういう第三者の評価は不要だった。
 その服の着心地が自分に合っていればそれで良かった。それがいいかどうかなんて自分が決めるものだからである。人生の幸福なんてそんなものだ。
 JAZZとの出会いが私に新しい音楽の道を示してくれた。


 JAZZは19世紀末から20世紀初頭にルイジアナ州ニューオリンズの黒人たちの間で生まれた音楽である。
 初めは「JASS」と呼んでいたようだが、それがやがてJAZZとなった。
 どちらもスラングで性行為の意味を持つ隠語だ。
 黒人霊歌やフィールドハラー、労働歌としてのブルースやシンコペーションを主体とした黒人音楽、ラグタイムをそのルーツとしていた。
 主に西アフリカから「輸出」された黒人奴隷たち。男は過酷な労働に従事させられ、女は子守や掃除、炊事に洗濯をするメイドとして、また白人の性奴隷にされていた。
 そして白人と黒人との混血、「クレオール」が生まれたのである。
 欧州のクラッシック音楽と西アフリカのリズムサウンドが融合してブルースなどが生まれ、後にJAZZへと進化して行った。
 JAZZは楽譜に忠実な西洋音楽とは異なり、複雑なコード進行に合わせて自由にセッションすることが出来る、演奏者たちのアドリブが主体の音楽となって行った。
 JAZZプレイヤーの中には楽譜を読めない者もいる。つまりJAZZは心から生まれる魂の瞬間芸術なのである。

 藝大での同期、ピアノ科の左近寺さこんじに訊いたことがある。

 「ねえ、左近寺はJAZZって弾いたことあるの?」
 「JAZZ? 俺は黒人の音楽は認めない。音楽とはショパンでありベートーヴェンであり、モーツァルトでありバッハなんだ。JAZZを弾くとヘンな癖がついてクラッシックが弾けなくなってしまう。だから俺はJAZZは演奏したことがない」

 左近寺はそう憮然ぶぜんと言った。
 その頃の私はオペラに夢中だったので、それ以上JAZZの話に触れることはなかった。
 そして今、私はそのJAZZに夢中になっている。
 この体の震えは一体何だろう? 頬が泡立つようなこの感覚。まるで灼熱の砂漠で見つけたオアシスのようだった。
 私の心の渇きをJAZZが潤してくれた。
 私はJAZZを求めて喫茶店やBAR、クラブを巡って歩いた。それはまさに「JAZZ巡礼」だった。


 そんなある日、生演奏をやっているBAR、『Lost Quintetto』を訪れると、あれほどJAZZをけなしていた左近寺がピアノを弾いていた。
 演奏をしながら私に気付いた左近寺は、照れ笑いをしながら演奏を続けた。
 それは軽快なChick Coreaのようなピアノだった。


 演奏が終わると左近寺が私のところにやって来た。

 「早紀、日本に帰っていたのか? 久しぶりだな?」
 「JAZZは音楽じゃないんじゃなかったの? 左近寺」
 「ごめん、訂正するよ。JAZZは素晴らしい音楽だ。
 折角苦労して音大を出ても、学校の音楽教師の職はあってもピアニストとしての仕事はない。俺は何もせず、毎日を宛もなく街を漂っていた。その時なんだ、JAZZと出会ったのは。すごい衝撃だった。
 早紀、これほど凄まじい音楽はないよ!」
 「何だかそれを聞いて安心したわ。私もすっかりJAZZのとりこになってしまったから」
 「早紀もか? オペラは? イタリアに留学したって聞いたけど?」
 「もうオペラは辞めたの。声がダメになっちゃって」
 「俺は好きだけどな? 早紀のその声」
 
 お世辞でもうれしかった。

 「ありがとう左近寺。でもこの通りお酒とタバコで声はダミ声、高音も出なくなっちゃった。今では3オクターブも怪しいくらい」
 「それならJAZZを歌えばいい。Diana Krallは知ってるよな?」
 「知らない。誰それ? 有名な人?」
 「彼女を知らない奴はモグリだぜ。白人だが少ししゃがれた低音が魅力のJAZZシンガーだ。それに早紀みたいに美人でピアニストでもある。音楽の基礎もしっかりしているJAZZヴォーカリストだ。
 ちょっと待ってろ、今、レコードを掛けてやるから。 マスター、次はダイアナを掛けてもいいかい?」
 「いいよ」

 マスターは棒タイの似合うロマンスグレーの頭髪に、ヒゲを生やした紳士だった。

 
 『Fly me to the Moon』


 彼女が歌うその最初の一音で私は心臓を正確に撃ち抜かれた。
 Julie LondonもFrank Sinatraも、みんなが歌うあの美しいバラード。
 だがダイアナのそれは唯一無二の音楽だった。似て非なる物だった。
 私は自然とそれを口ずさんでいた。

 「早紀、歌ってみるか? 俺のピアノで」

 左近寺はレコードを止め、ピアノの前に座った。
 私はスタンドマイクの前に立って左近寺のピアノを待った。そして左近寺は私に目配せをした。

 (行くぞ早紀)
 (うん)

 私は目を閉じ、彼のピアノに合わせて心を込めて歌った。
 セックスの時以上のエクスタシーが私を包み込んだ。
 忘れていた聴衆の前で歌うこの快感。
 左近寺の弾くピアノ、スネアドラム、ウッドベース、アルトサックスにフルートが続いてセッションが始まった。

 その後、『Cry me a River』『Smoke Gets in Your  eyes』も歌った。
 涙ぐんでいる若い女性客もいた。

 歌い終わるとお客さんたちから拍手喝采を浴びた。しあわせだった。
 小さなBARが揺れた。
 私は白い燕尾服を着たオペラを追いかけるのを諦め、ちょいワル男のJAZZに益々のめり込んで行った。



 左近寺からの推薦もあり、私は彼らのメンバーに加えてもらい、正式にヴォーカリストになった。


 夜のステージの前に、左近寺と近くのカフェテラスでお茶をした。

 「阿川泰子やジュリー・ロンドンよりも、早紀の歌はとてもセクシーだよ。今まで余程辛いことがあったんだな?」
 「まあね? それなりに色々あったわ。左近寺はどうなの?」
 「2年前に離婚した。妻と娘を悲しませてしまった」
 「へえー、左近寺、結婚していたんだ?」
 「子供が出来てな? デキ婚だよ。
 院を出てすぐに籍を入れた。そして別れた」
 「子供さんには会わせてもらっているの?」
 「いや、会わせてもらってはいない。だが仕送りだけは続けているよ。少ない額だけどね?」
 「エラいね? 左近寺は」
 「一応、俺も親だからな?」
 
 私はそれ以上その話を掘り下げようとはしなかった。
 私には奥さんの気持ちが痛いほどよく理解出来たからだ。
 ピアニストの夢を追う生活力のないやさしい夫とどんどん成長していく子供。女は安定が欲しい。将来の揺るぎない、より確実な保証が。
 夢でご飯は食べられない。
 私は話題を替えた。

 「左近寺の実家は病院だったよね? どうして医者にならなかったの?」
 「まともな医者になるのは大変だと思ったからだ。それに兄貴と姉貴が医者だし、俺のミスで人が死んだら俺は生きてはいけないからな?
 でも一応医大も受験して合格したんだけど、藝大に進学した。
 親にはもちろん反対されたよ。「ピアノは趣味でやればいいだろう?」とね?
 そして俺は世界的なピアニストになると宣言したんだ。早紀、ここ笑うところだぜ? あはははは
 俺は医者じゃなく、人の人生に潤いを与えるようなピアニストになろうとしたんだ」

 胸がキュンとした。左近寺はこんな奴だったと思い出した。
 いつも自分の夢をキラキラとした瞳で熱く話す男だった。

 「早紀、JAZZって深いよ。覗けば覗くほど底が見えなくなる。入り込めば入り込むほど迷い込んでしまう。
 貴族のようにワイン片手の上流階級の音楽ではなく、庶民の、黒人たちの喜怒哀楽に溢れているのがJAZZなんだ。
 俺はそんなJAZZを極めてみたい」
 「私も」

 私たちはサンドイッチを食べ、アイスティを飲んだ。
 日傘を差した女たちが、テラス席の前の坂道を俯くように登って行った。

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