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第三楽章

第2話 再びのパリ

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 琴子が家を出て行ってから1週間、私は彼女に自分が如何に依存していたかを思い知らされた。

 トマトジュースを飲みながら朝食の準備を始めた。
 ベーコンをカリカリに焼き、フライパンに卵をふたつ落そうとした時、卵の黄身が崩れてしまった。

 「くそっ!」

 私はコンロの火を止め、フライ返しをシンクへ叩きつけた。
 その残響が孤独の虚しさだった。
 
 
 ひとり、ダイニングテーブルで摂る朝食。少し焦げたトーストにバターを塗り、つぶれたベーコンエッグにマヨネーズを掛けて食べた。
 不味い朝食だった。
 そしてたった1週間で家の中はゴミ屋敷に変貌し、酒瓶が転がっていた。
 
 掃除に洗濯、料理。私の身の回のことすべてを琴子がしてくれていた。
 俺の靴を磨いてくれる妻はもういない。
 私は仕事に忙殺され、アメリカに行ってしまった朋華のことを懐かしむあまり、琴子に辛くあたってしまったことを後悔した。
 
 
 寂しさに耐えきれず、私はアメリカにいる朋華に電話をした。
 だがその携帯は既に解約され、使用不可となっていた。 
 私は月と太陽を同時に失い、暗黒の中を漂っていた。

 (俺は一体何をしていたんだろう?)

 それは自業自得だった。

 (せめて琴子に誠意のある謝罪がしたい)

 私は理事長である父に頼み、自分の預金口座から実家の病院の当座預金に1,000万円を送金し、小切手を振り出してもらった。
 
 「輝信、女はカネが掛かる生き物だ。今度再婚する時は慎重にな? 仕事と「そっちの方」は家庭に持ち込んではいかん」

 そう言って父は苦笑いをしていた。
 事実、父と母は戸籍上の夫婦というだけで、父は自分の病院の若い女医と、そして母はテニスクラブのコーチと不倫をしていた。
 父は母親の実家の財産だけが目当てだったようだ。
 だがそのおかげで病院経営は安定していた。
 そんな父は「成功者だ」と周囲から称賛されている。



 実家に戻ったが、母と父は何も言わなかった。
 義母から母に電話があったらしい。

 「どういう事ですの? 離婚だなんてみっともない!」
 「娘は息子さんから長い間、酷いDVを受けていたようです。警察に届けようとも思いましたがご安心下さい、息子さんの将来と、そちら様のこともありますので、被害届は出さないことにいたしました。ただ・・・」
 「ただ何です!」
 「謝って下さい、私に」
 「なんでわたくしがあなたに謝罪しなければならないの!」
 「謝りなさい! ロクデナシの息子を育てた母親として!」

 もちろん義母は母に謝ることはせず、そのまま電話を一方的に切ったらしい。


 父は母に言ったそうだ。

 「彼はまだ、大学病院の医者としての自覚がなかったんだ。教授には向かん男だよ」
 「あなたみたいに銀座のホステスでもいれば良かったんでしょうけどね?」

 父には愛人がいた。
 結婚してすぐ、母は私を身籠りピアニストを辞めた。
 母はそんな父を野放しにし、妻として父に尽くしていた。

   良妻賢母

 それは母の代名詞だった。
 母はずっと苦しんでいた。
 その悲しみと苦悩は母の弾くショパンに込められていた。
 母はショパンしか弾かなかった。

 「琴ちゃん、今回はいい勉強になったわね? これであなたはもっといい女になったはずよ。今度こそいい恋愛をしなさい。子供の事を考えなければ結婚に拘る必要はないんだから」

 そう言って母は私を励ましてくれた。



 結婚生活のストレスから解放された私は、水を得た魚のように音楽に打ち込むことが出来た。
 オペラのアリアの楽譜は音符のひとつひとつに歌詞がついている。それは演奏に合わせて歌詞を忠実に表現するためだ。
 私は楽譜に曲に対する注意や気付いた点、イメージなどを出来るだけ詳細に書き記していく。
 赤や青のペンを使い、様々な色の蛍光ペンでLINEを引いたり、付箋紙で楽譜はいつもグチャグチャだった。
 それは私にしか解読することが出来ない。
 私は常に楽譜を三冊用意して、徹底的にその歌劇を理解するように努めている。

 もちろん、管弦楽のスコアも合わせて暗譜する。
 私は間奏の時も休みはしない。
 それはその音楽によってプリマドンナの心情の変化に自分をシンクロさせるためでもある。
 3時間近くにも及ぶ歌劇は真剣勝負だ。オペラは歌手と指揮者、オーケストラ、舞台、衣装が混然一体でなければ成立しない総合芸術なのだ。



 リハーサルは順調に進んでいた。
 プッチーニ作、『蝶々夫人』

 裕福だった実家が没落し、弱冠15歳だった娘、蝶々は芸者に身売りをしてしまう。

 アメリカ海軍士官であったピンカートンは、軽い気持ちで蝶々と結婚してしまう。
 その時の長崎のアメリカ総領事、シャープレスはピンカートンを問い質す。

 「君は本当に彼女を愛しているのかね?」
 「愛が気まぐれかどうかはわかりませんが、蝶々が私の心を捉えたことは確かです」

 『捨てられても私は幸福よ』と歌う蝶々夫人とピンカートンの愛のデュエット。

 そして幸せな3年間はあっという間に過ぎ、ピンカートンはアメリカに帰国してしまい、ケイトという女性と本国で結婚してしまう。

 あの有名なアリア、『ある晴れた日に』を歌い上げる蝶々夫人と女中のスズキ。

 そんなことを知らない蝶々夫人はピンカートンの子供を身籠っており、彼の帰国後、子供を出産する。

 再び妻のケイトを伴い、長崎を訪れるピンカートン。
 アメリカの船が長崎に入港したことを知り、歓喜する蝶々夫人。

 シャープレス領事は蝶々夫人の女中のスズキに「ピンカートンの子供をケイトに預ける方がいい」と助言する。

 蝶々夫人もそれに同意し、子供に目隠しをさせ、蝶々は絶望して短刀で自害してしまうという悲劇のオペラだ。


 琴子の蝶々夫人は素晴らしい出来だった。
 公演は大成功だった。聴衆は涙している者さえいた。

 「Bravo! Madam Butterfly!」

 聴衆は総立ちだった。




 楽屋に戻るとマネージャーがやって来て、

 「琴子さん、旦那さんがお見えです」

 離婚したことはまだ公表してはいなかった。
 私はステージネームをそのまま「海音寺琴子」にしておいて本当に良かったと思った。
 既婚者であるということで、イヤな男に言い寄られることもないからだ。

 「通して頂戴」

 別に断る理由はなかった。もう彼は他人なのだから。

 楽屋のドアをノックする音が聞こえた。

 「どうぞ」

 彼は微笑んで近づいて来た。
 嫌悪感に鳥肌が立った。もし何かされそうになったらすぐに大声を出そうと私は身構えた。

 「素晴らしい蝶々夫人だったよ」
 「ご用件は?」

 私は敢えて冷たく言い放った。
 話が長くなるのを避けたかったからだ。

 「今までありがとう、そしてすまなかった。
 ただそれを言いに来たんだ。あと、これを君に」
 
 彼は私に封筒を差し出した。

 「何これ?」
 「今までの給料だ、受け取って欲しい」

 封筒を開けると1,000万円の小切手が入っていた。

 「君が僕に尽くしてくれた3年分としては少ないかもしれないが、それで勘弁してくれ」
 「ありがとう。助かるわ」
 「それじゃ元気で」
 「あなたもね」

 彼は振り返らずに楽屋を出て行った。
 今となっては彼に対して何の感慨もなく、私は小切手を無造作にバッグに仕舞った。
 


 私は自分をリセットするために旅に出ることにした。
 旅先はパリに選んだ。
 パリは以前に何度か訪れており、土地勘もあったからだ。
 
 目的地を敢えてイタリアにしなかったのは、少しの間、オペラから離れて自分の人生を俯瞰して見たかったからだ。
 

 
 
 晩秋のシャルル・ド・ゴール空港は快晴だった。
 芸術の都、パリ。花の都、パリ。
 
 パリは傷付いた私をあたたかく迎え入れてくれた。
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