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第二楽章

第5話 もう逃げない

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 何度電話しても、LINEをしてもテルと連絡がつかなかった。

 ひと目でいい、テルに会いたい。凄く会いたい。
 明日はようやく1日オフになり、私はテルに無性に甘えたかった。

 (何かあったのかしら?)

 不安になった私は、直接病院に彼を訪ねることにした。



 偶然、病院の廊下ですれ違った看護師たちが話しているのを聞いてしまった。

 「でも木村准教授も大変よね? 裁判だなんて穏やかじゃないわよね?」
 「あの若さで准教授になったばかりなのにね?」
 「でも大丈夫だと思う。だって医療裁判なんて殆ど負けないから。最高裁まで行けば分からないけど、普通の人ではそんな悠長に裁判なんて続けられないもの」
 「それもそうよね? それに次期学長と噂されている黒沢教授がついているから安心よ。あのやり手の黒沢教授がついていれば」

 私は自分の耳を疑った。

 (何? 何なの今の話? 木村准教授って言ってたわよね? それに医療裁判って何?)

 私の頭の中は混乱していたが、とりあえず心臓外科の医局に彼を訪ねることにした。

 
 医局の前まで行くと、ちょうど銀縁のメガネをかけた神経質そうな若い医師がいたので訊ねた。

 「いつもお世話になっております。木村輝信の身内の者ですが、おりますでしょうか?」
 「ああ、木村准教授ですね? こちらこそいつも大変お世話になっております。ではご案内いたします」


 廊下を少し歩くとその部屋のドアには「准教授室」と金属プレートが貼られており、ドア枠の脇には「木村輝信」と、彼のネームプレートが入れてあった。
 テルの名前を見た時、私は初めて彼の偉大さを知った。
 彼はすでにエリート医師になっていたのだ。

 「准教授はこちらにいらっしゃると思います。では私はこれで失礼いたします」
 「ご親切にありがとうございました」

 その医師はその場を去って行った。

 ドアを3回ノックしたが部屋の中から返事はなかった。
 私は無意識にドアを開けた。
 するとその瞬間、私は目の前で行われている光景を認識することが出来なかった。

 そこには白衣を着たテルと、彼の膝の上に乗ってスカートがたくし上げられ、下着が顕になった朋華の姿があった。
 私を見て驚くテルと、勝ち誇ったように微笑む朋華。
 
 「これはどういうことなの! テル! また私を裏切ったのね!」
 「裏切ったですって? 彼が今、どんなに大変な状況にあるのか知りもしないでよくそんなことが言えたものね?
 あなたがいけないんでしょう? お歌にばかり夢中になって彼を放ったらかしにするから。
 悪いのはどっちかしら?」

 彼が私に鋭い眼差しを向けて言い放った。

 「何だ! いきなり病院まで来るなんて!」
 「だって電話をしても全然出てくれないじゃないの! 心配したのよ! 何かあったんじゃないかと思って! そして来てみたらこの仕打ち! 何なの一体!」
 「今、僕はそれどころじゃないんだ! 帰ってくれ!」

 私は怯まなかった。

 「それに何でアンタがここにいるのよ!」

 私は語気を更に荒げた。

 「私はただ、輝信に呼ばれただけよ。あなたこそ何? 彼の仕事場にまで押し掛けて来て。はしたない女」
 「出てって! 私は彼と話しがあるの!」
 「いつも音楽優先で彼を放っておいて、何よ今更。 
 どんなに彼があなたに会いたかったか知りもしないくせに。
 自分の都合で彼を振り回さないで頂戴。今、輝信は患者から訴えられて大変なんだから!」

 輝信は黙っていた。

 「本当なの? 裁判って?」
 「今、僕と黒沢教授、そして大学病院と厚労省までもが損害賠償請求訴訟を提起されているのは事実だ。
 彼女とは今、その裁判資料の作成を手伝ってもらって、打ち合わせをしていたところだ。教授の命令でね? やましいことは何もない」

 朋華は薄ら笑いを浮かべていた。

 「輝信の言う通りよ、私たちに疚しいことは何もないから安心しなさい。歌姫ちゃん」

 彼の口元には彼女のルージュの痕が残っていた。
 そして彼の白衣の襟元には、朋華の細くて美しく長い髪の毛が一本付着したままだった。
 彼女の白いブラウスのボタンが2つ外され、白いブラが見えていた。
 私はテルの頬を思いっきり往復ビンタをすると、そのまま泣きながら部屋を飛び出した。
 彼は追いかけて来てはくれなかった。
 私は逃げるように病院を出た。涙が溢れて止まらなかった。
 そんな私を街の人たちは好奇の目で見ていた。



 近くのカフェのトイレに入り、化粧を直した。

 私は彼の病院を訪れたことを後悔した。
 呼出して貰えば良かったものを、運命の悪戯なのか? 彼の部屋を訪れてしまった自分が悔しかった。
 彼の元を訪れなければあんな光景を目にすることもなく、あの女に好き放題言われることもなかったのだ。

 (私が悪いの? テルの辛い気持ちも理解しない私が)

 私はアメリカに行って破局した、元カレの最後の言葉を思い出した。

 「琴子の一番は俺じゃない、オペラだから」

 確かにそうだった。
 私は歌うことに夢中だった。だからこそプロとして沢山の聴衆の前で歌い、万来の拍手喝采を浴びて舞台に立つことが出来るのだ。
 その快感はセックスでの快楽とは比べ物にはならないものなのだ。
 歌と恋愛を両立させることは難しいのだろうか?
 愛し愛され、傷付き傷付けて人は成長していく。
 プリマドンナとして、私がもっと進化して行くためには恋愛は不可欠な要素だ。
 だが私は音楽に没頭するあまり、恋をいつも疎かにしてしまう。
 元カレと上手くいかなかったのも遠距離だったからではなく、私は彼を忘れてしまっていたのかもしれない。

 (もうテルのことは諦めるしかないのかしら? 何よ、ちょっとくらい会えなかっただけでまたあの女と浮気するなんて!)

 別れる?
 でもそれには抵抗がある。みんなが私たちの結婚を楽しみにしてくれているからだ。
 それを今更「彼に浮気されたから結婚するのを辞めます」なんてとても言えない。

 「あなたに女としての魅力がないから浮気されるのよ」

 そう嘲笑されるのがオチだ。
 幸か不幸か、まだ彼から婚約の解消は宣告されていない。
 おそらく彼は迷っているはずだ。
 今度で2度目。「三度目」までは多めに見るのが賢い女なのだろうか?

 そして思った。「あの女にだけは負けたくはない」と。
 あんなに偉そうに人を見下すような女に彼を盗られてしまうわけにはいかない。
 そもそもなんで私が引き下がらなければいけないの?
 冗談じゃないわ!
 あの女狐から彼を絶対に取り戻してみせる!
 もう恋愛から逃げることはしない! 彼は「私のもの」だから!

 不思議と勇気が湧いて来た。

 (私は歌姫、ディーバなのよ!)

 この恋愛は決して悲劇で終わらせたくない!
 私なのよ、この恋のオペラの主役は!
 この舞台の主役を最後まで私は演じ切ってみせる!


 私は温くなってしまった珈琲を一気に飲み干し、再び彼に電話を掛けた。
 もし彼が電話に出なければ、また病院に押しかけるまでだ。

 すると3回のコールで彼が電話に出た。

 「さっきはすまなかった」
 「5分でいいの、会えないかしら? このままでは納得出来ない!」
 「今日、リハは?」
 「今日はお休みだったの。だからテルに会いに来たの」
 「そうか、少しゆっくり話そう。18時に渋谷のあのBARで待ってる」
 「わかったわ。18時に渋谷ね?」
 「気を付けてな」

 テルは以前のやさしいテルに戻っていた。
 うれしかった。さっきの光景を私はもう忘れていた。
 夜までまだ時間があったので、私は一旦家に帰ることにした。


 
 家に帰ると母に言われた。

 「あら、もう帰って来たの? 久しぶりのデートにしては早かったんじゃない?」

 私は母に今日あったことのすべてを打ち明けた。
 話している最中、また怒りが込み上げて来たが泣くことはなかった。

 「大変だったわね? それで今夜、また木村君と会うのね?」
 「うん。私、間違ってないわよね?」
 「間違ってはいないけど、正しくはないわね?
 男はね、そういう本能の動物なの。そこを上手く手懐けないとね?」

 母は笑っていた。

 「手懐ける?」
 「男は女以上に寂しがり屋さんなの。つまりいつまでも子供みたいなものなのよ。いつも女に母性を求める。
 琴ちゃんが今大変なのはわかるわ。でもね、会う努力は必要よ。恋愛の破局はお互いの思い違いが原因だから。
 「ボクはこう思っていた」「私はこう考えていたわ」なんてね? 大丈夫、傷はまだ浅いわ。木村君も准教授になったばかりでおまけに裁判でクタクタなのよ。何も言わなくていいの、ただ彼のことを許して、慰めてあげなさい。彼の母親になったつもりで」
 「嫌われちゃったかな? 私」
 「嫌いなら、ゆっくり会って話したいなんて言わないし、電話にも出ないわよ。うふっ」

 また母の言葉に私は救われた。
 今日のことには触れず、まずは彼をゆっくり癒してあげよう。
 包み込むようなやさしい愛で、広い心で、そしてカラダで。
 この恋を確実なものにするために。


 今日の下着はいつもの清楚な物ではなく、かなり大胆な攻めた物にした。
 膝上のニットのグレーのワンピース。そして母の香水棚からDiorの『POISON』を拝借した。
 私の中に秘めた獣を彼に曝け出すために。

 「私がただのソプラニスタじゃないことを教えてあげる」

 私は歌劇『サロメ』の主人公となって勇敢に家を出た。
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