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第一楽章
第11話 卑怯者になれ
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琴子が激怒するのも無理はなかった。
私は琴子によって掛けられた、テキーラ・サンセットを拭いもせず、自分のカクテル、「ジプシー」を一気に飲み干した。
バーテンダーがおしぼりを渡してくれた。
「よろしければお使い下さい」
「ありがとう。テキーラを下さい」
「かしこまりました」
テキーラにライムを絞り、呷った。
喉が焼けるように熱い。鼻から抜けるテキーラとライムの鮮烈な香り。
そしてジョン・コルトレーンのJAZZ。
今の私は思い切り酔いたい気分だった。
さっき琴子が店を出て行った時、すぐにでも彼女を追い駆けたい自分と、それを必死に止めようとするふたりの自分がいた。
琴子は何も悪くはない。私が彼女に酷い仕打ちをしたのだ。
私はなんて身勝手な男なのだろう。
琴子と朋華を天秤に掛けるなんて。
即断即決が本分の、外科医の私が聞いて呆れる。
医学者としての保証された未来と、人間らしく愛に満ちた人生。
損得勘定だけで考えるのなら、もちろん朋華を選ぶべきだろう。
だが、それが素直に出来ない自分もいた。
琴子と結婚したい。愛した女と結婚したい。
だがその決断をするには勇気が必要だった。
普通の外科医として生きる勇気が。
私は琴子を本気で愛していた。
彼女の女としての魅力と、あの女神のような歌声。
朋華とのセックスは忘れ難いものではあったが、私が彼女を抱いたのはおそらく、彼女への「同情」だったはずだ。
ふと彼女が見せた、普段は誰にも見せないであろう「淋しげな横顔」に私は惹かれたのだ。
だがそれは愛ではない。
その時、朋華から着信があったが、私はそれを無視した。
今はとても話せるような気分ではなかった。
すると今度はLINEが何度も送られて来た。短文だったので既読にはしなかった。
今どこ?
すぐ来て!
今すぐ来て!
私はスマホの電源を切った。
コンコンコン
「琴ちゃん、入るわよー」
朝、私がいつものエスプレッソを飲みに降りて来ないのを心配して、母が部屋にやって来た。
服を着たままベッドに横になっている私を見て、母はすべてを悟ったようだった。
「木村君と喧嘩でもしたの?」
「婚約、白紙にしたいって・・・」
母は私の傍に来て、私の髪を子供の頃のように撫でてくれた。
「そうだったの。それは辛かったわね?」
「ママーっ!」
私は母にしがみ付いて号泣した。
母は私の背中をやさしく摩りながら言った。
「白紙に戻したいってただそれだけ? 他に何か言われなかった?」
私は首を横に振った。
「ただ一言、「白紙にしたい」ってそれだけ。
そして注文した彼のカクテルが「ジプシー」だったの」
「そのカクテルの意味は確か「しばしの別れ」だったわよね?
でもそれなら大丈夫。木村君は琴ちゃんのことを振ったわけじゃないわ。多分、迷っているんだと思う。
だから「しばしの別れ」なんじゃないかしら?
それにもしキッパリと琴ちゃんと別れたいのなら、小野リサのコンサートになんかに誘うかしら?「別れてくれ」ってメールか電話で済む話じゃないの?
「白紙にしたい」ということは、心の整理がつくまで「少し待っていて欲しい」ということじゃないかしら。
出会った頃の気持ちに戻って真剣に琴ちゃんとの将来を考えてみたいということだとママは思うけど。
もしかすると大学病院の偉い人から「ウチの娘と付き合わないか?」なんて言われたんじゃないの? 出世のためにとか?」
「そうかしら?」
私の心に少しだけ希望の光が差した。
思えばその言葉があまりにショックで店をそのまま飛び出しては来たが、その後にもしかするとまだ彼の話が残っていたのかもしれない。
私はようやく自分を俯瞰して見ることが出来た。
「でもね、これは恋愛マイスターのママからのアドバイスだけど、もし彼から連絡が来ても、1度はそれを無視しなさい。
すると彼は焦るはずだから。
「あの時、自分はなんて馬鹿なことを言ってしまったんだろう」と後悔させてあげなさい。
でも2回目の電話には出なさい。そしてなるべく冷めた態度でこう言うの。「今更何の用?」って。
そうして立場を逆転させないと後がたいへんだから。
賢い女は男を立ててあげながら、ちゃんと操縦しないとね? ママみたいに。うふっ。
だって琴子は木村君と一緒になりたいんでしょう?」
私は子供のようにコクリと頷いた。
「ママもあなた位の時にね、結婚の約束をした人がいたの。凄く素敵な人だったわ。ハンサムでやさしくて頭も良くてね。今でもその人の事が好き。
琴子が本当に木村君のことが好きならこの勝負、必ず勝ちなさい」
「でも、彼から連絡なんて本当に来るかしら?」
「安心しなさい。週明けには必ず電話してくるはずだから。
ママを信じなさい。この恋愛経験豊富なママの言うことを」
そう言って、母は笑って私を励ましてくれた。
「さあお風呂に入ってらっしゃい。ゆっくりとね?
エスプレッソ、用意しておいてあげるから」
「ありがとうママ」
私は湯舟に浸かりながら昨夜のことを考えていた。
冷静に思い起こせば母の言う通りだと思った。
別れ話をするために、わざわざ私を小野リサのコンサートになんか誘うはずはない。
兎に角母が言うように、彼から連絡が来るのを待ってみよう。
それでもし、彼からのアプローチがなければそれまでの話だ。
私は竹内まりやの『不思議なピーチパイ』をハミングした。
医局でシュナイダー博士の最新論文を読んでいると、黒沢教授から呼び出された。
話の内容は大体の予想はついていた。
教授室に入る前、秘書の潤子さんに用件を伝えた。
「教授に呼ばれたのですが」
「珈琲がいいかしら? それともルイボスティ?」
「すみません、じゃあ珈琲で」
「了解」
彼女の電話応対には定評があった。
どんなクレームや難題を吹っ掛けて来る相手にも皆、最後には笑顔に変えてしまう。
帰国子女でもあり英語はネイティブ、そしてフランス語と中国語にも堪能だった。
教授秘書として彼女の右に出る者はいない。
ナースや女医たちの憧れの存在でもあった。
「教授、木村先生がいらっしゃいました」
「通してくれ」
「かしこまりました」
私が教授室に入ろうとした時、潤子さんがそっと私に耳打ちしてくれた。
「10分ほど前に朋華さんが中に入って行ったわよ。がんばってね? 負けちゃ駄目よ」
だがそれは私の想定内だった。
「失礼します」
「おお悪いねー、忙しいところを呼び出してしまって」
「いえ、ご用件は?」
「まあ座りたまえ」
だがそこに朋華の姿はなかった。おそらくベランダか、クローゼットにでも隠れているのだろう。私と教授の話を聞くために。
潤子さんが珈琲を持って入って来た。
私の前にそっと珈琲を置いて、彼女は教授室を出て行った。
潤子さんが退室して、黒沢教授はゆっくりと話しを始めた。
「カネと権力を持つにはどうすればいいと思うかね?」
「まずそれを求めることが必要だと思います」
「そりゃそうだ。そしてカネも権力も要らないという人間はいない。ガンジーやマザーテレサでもない限りはな? 結論から言おう。それは「卑怯者になる」ということだよ。
周りからのやっかみ、嫉妬、妬みや誹謗中傷などを気にせず、「この卑怯者! 死ね!」と罵られる、本物の卑怯者になることだよ。それが出来なければ君はそこそこの心臓外科医で終わる。
最近、朋華を無視しているそうじゃないか? 父親としては穏やかではないなあ。
まさか君は私の大切な娘を「中古車」にして乗り捨てるつもりではないだろうね? うちの朋華はレンタカーではないよ、木村君?」
「・・・」
黒沢教授がソファー・テーブルの上のシガレット・ケースからタバコを取り出して咥えようとした時、私は咄嗟に置かれていたライターに手を伸ばし、火を点けた。
教授は深く煙を吸い込んで、それをゆっくりと吐いた。
「ふうーっ、僕は親バカでね? ひとり娘の朋華は目に入れてもいいくらいに可愛くて仕方がないんだ。
そのカワイイ愛娘が落ち込んいる姿を見るのは、親として実に忍び難い。わかるね? 木村君? 僕が君に何を言いたいのか?
そこでどうだろう? 娘の朋華といっそ婚約しては? もちろん娘はそれを望んでいる」
「少しお時間をいただきたく存じます」
「その珈琲が冷めないうちに返事をしたまえ」
私は目の前に置かれた珈琲に手を付けようとはしなかった。
「木村君も卑怯者の誹りを受けなさい。
勝てば官軍だよ、木村君。
そして私の跡を継いで、将来この白い巨塔の王になれ」
それは考えるまでもなかった。
今、この場で「Yes」と言えばそれで私の将来は安泰となる。すべてを手中に収めることが出来るのだ。
朋華は才色兼備の申し分のない女だ。一体彼女の何に不満があるというのだ。
「教授、1週間だけ考えさせて下さい」
「フィアンセのプリマドンナ、海音寺琴子さんはそんなに魅力的な女性なのかね? 私も一度、お会いしてみたいものだよ」
「・・・」
この男の情報網を甘く見てはいけない。
おそらく医局の誰かが教授に喋ったに違いなかった。
「そんなにオペラが好きならオーチャード・ホールにでも行けばいいじゃないか? ミラノ・スカラ座でもいい。君は外科医ではなく、音楽家志望だったのかね? まあいいだろう。では1週間後の19時までに返事をしなさい」
「分かりました」
私が部屋を出て行こうとすると、黒沢教授から呼び止められた。
「木村君、今度の教授会で君を准教授に推薦しようと考えている。君には期待しているんだ。娘の婿として。
そうそう、それからもう一つ、青森の本学の系列病院から頼まれてね? ウチの医局員の中から優秀な心臓外科医をとお願いされているんだよ。
もし万が一、君が青森に行くようなことがあれば、青森のリンゴジュースを僕に送ってくれないかなあ。僕はあの濃厚な青森のリンゴジュースが大好きなんだよ。でも青森は寒いらしいぞー、日本有数の豪雪地帯だしな? あはははは」
私は深く頭を下げ、教授室を退室した。
そして潤子さんに詫びた。
「すみません、折角淹れていただいた珈琲に手をつけられませんでした」
「あらまあ、教授のお嬢さんには手をつけちゃったのにね? うふっ」
輝信が出て行くとクローゼットの中から朋華が出て来た。
「ありがとうパパ! あれだけ言われて「うん」と言わなければここの精神科で診察を受けた方がいいわね? あはははは」
「ますます俺は彼が欲しくなったぞ。黒沢家の種馬としてな? あはははは。
いいか朋華。この世には2つの人間しかいない。
「支配される者」と「支配する者」だ」
「私は支配されるのはイヤ」
「私もだよ。やはり朋華は俺と血を分けた親子だな? あはははは」
(見てらっしゃい海音寺さん。私は運命に身を委ねるほど甘ちゃんじゃないわ。どんな卑怯な手を使ってでも彼を私のモノにして見せる)
朋華は残酷な快感に心が奮えた。
私は琴子によって掛けられた、テキーラ・サンセットを拭いもせず、自分のカクテル、「ジプシー」を一気に飲み干した。
バーテンダーがおしぼりを渡してくれた。
「よろしければお使い下さい」
「ありがとう。テキーラを下さい」
「かしこまりました」
テキーラにライムを絞り、呷った。
喉が焼けるように熱い。鼻から抜けるテキーラとライムの鮮烈な香り。
そしてジョン・コルトレーンのJAZZ。
今の私は思い切り酔いたい気分だった。
さっき琴子が店を出て行った時、すぐにでも彼女を追い駆けたい自分と、それを必死に止めようとするふたりの自分がいた。
琴子は何も悪くはない。私が彼女に酷い仕打ちをしたのだ。
私はなんて身勝手な男なのだろう。
琴子と朋華を天秤に掛けるなんて。
即断即決が本分の、外科医の私が聞いて呆れる。
医学者としての保証された未来と、人間らしく愛に満ちた人生。
損得勘定だけで考えるのなら、もちろん朋華を選ぶべきだろう。
だが、それが素直に出来ない自分もいた。
琴子と結婚したい。愛した女と結婚したい。
だがその決断をするには勇気が必要だった。
普通の外科医として生きる勇気が。
私は琴子を本気で愛していた。
彼女の女としての魅力と、あの女神のような歌声。
朋華とのセックスは忘れ難いものではあったが、私が彼女を抱いたのはおそらく、彼女への「同情」だったはずだ。
ふと彼女が見せた、普段は誰にも見せないであろう「淋しげな横顔」に私は惹かれたのだ。
だがそれは愛ではない。
その時、朋華から着信があったが、私はそれを無視した。
今はとても話せるような気分ではなかった。
すると今度はLINEが何度も送られて来た。短文だったので既読にはしなかった。
今どこ?
すぐ来て!
今すぐ来て!
私はスマホの電源を切った。
コンコンコン
「琴ちゃん、入るわよー」
朝、私がいつものエスプレッソを飲みに降りて来ないのを心配して、母が部屋にやって来た。
服を着たままベッドに横になっている私を見て、母はすべてを悟ったようだった。
「木村君と喧嘩でもしたの?」
「婚約、白紙にしたいって・・・」
母は私の傍に来て、私の髪を子供の頃のように撫でてくれた。
「そうだったの。それは辛かったわね?」
「ママーっ!」
私は母にしがみ付いて号泣した。
母は私の背中をやさしく摩りながら言った。
「白紙に戻したいってただそれだけ? 他に何か言われなかった?」
私は首を横に振った。
「ただ一言、「白紙にしたい」ってそれだけ。
そして注文した彼のカクテルが「ジプシー」だったの」
「そのカクテルの意味は確か「しばしの別れ」だったわよね?
でもそれなら大丈夫。木村君は琴ちゃんのことを振ったわけじゃないわ。多分、迷っているんだと思う。
だから「しばしの別れ」なんじゃないかしら?
それにもしキッパリと琴ちゃんと別れたいのなら、小野リサのコンサートになんかに誘うかしら?「別れてくれ」ってメールか電話で済む話じゃないの?
「白紙にしたい」ということは、心の整理がつくまで「少し待っていて欲しい」ということじゃないかしら。
出会った頃の気持ちに戻って真剣に琴ちゃんとの将来を考えてみたいということだとママは思うけど。
もしかすると大学病院の偉い人から「ウチの娘と付き合わないか?」なんて言われたんじゃないの? 出世のためにとか?」
「そうかしら?」
私の心に少しだけ希望の光が差した。
思えばその言葉があまりにショックで店をそのまま飛び出しては来たが、その後にもしかするとまだ彼の話が残っていたのかもしれない。
私はようやく自分を俯瞰して見ることが出来た。
「でもね、これは恋愛マイスターのママからのアドバイスだけど、もし彼から連絡が来ても、1度はそれを無視しなさい。
すると彼は焦るはずだから。
「あの時、自分はなんて馬鹿なことを言ってしまったんだろう」と後悔させてあげなさい。
でも2回目の電話には出なさい。そしてなるべく冷めた態度でこう言うの。「今更何の用?」って。
そうして立場を逆転させないと後がたいへんだから。
賢い女は男を立ててあげながら、ちゃんと操縦しないとね? ママみたいに。うふっ。
だって琴子は木村君と一緒になりたいんでしょう?」
私は子供のようにコクリと頷いた。
「ママもあなた位の時にね、結婚の約束をした人がいたの。凄く素敵な人だったわ。ハンサムでやさしくて頭も良くてね。今でもその人の事が好き。
琴子が本当に木村君のことが好きならこの勝負、必ず勝ちなさい」
「でも、彼から連絡なんて本当に来るかしら?」
「安心しなさい。週明けには必ず電話してくるはずだから。
ママを信じなさい。この恋愛経験豊富なママの言うことを」
そう言って、母は笑って私を励ましてくれた。
「さあお風呂に入ってらっしゃい。ゆっくりとね?
エスプレッソ、用意しておいてあげるから」
「ありがとうママ」
私は湯舟に浸かりながら昨夜のことを考えていた。
冷静に思い起こせば母の言う通りだと思った。
別れ話をするために、わざわざ私を小野リサのコンサートになんか誘うはずはない。
兎に角母が言うように、彼から連絡が来るのを待ってみよう。
それでもし、彼からのアプローチがなければそれまでの話だ。
私は竹内まりやの『不思議なピーチパイ』をハミングした。
医局でシュナイダー博士の最新論文を読んでいると、黒沢教授から呼び出された。
話の内容は大体の予想はついていた。
教授室に入る前、秘書の潤子さんに用件を伝えた。
「教授に呼ばれたのですが」
「珈琲がいいかしら? それともルイボスティ?」
「すみません、じゃあ珈琲で」
「了解」
彼女の電話応対には定評があった。
どんなクレームや難題を吹っ掛けて来る相手にも皆、最後には笑顔に変えてしまう。
帰国子女でもあり英語はネイティブ、そしてフランス語と中国語にも堪能だった。
教授秘書として彼女の右に出る者はいない。
ナースや女医たちの憧れの存在でもあった。
「教授、木村先生がいらっしゃいました」
「通してくれ」
「かしこまりました」
私が教授室に入ろうとした時、潤子さんがそっと私に耳打ちしてくれた。
「10分ほど前に朋華さんが中に入って行ったわよ。がんばってね? 負けちゃ駄目よ」
だがそれは私の想定内だった。
「失礼します」
「おお悪いねー、忙しいところを呼び出してしまって」
「いえ、ご用件は?」
「まあ座りたまえ」
だがそこに朋華の姿はなかった。おそらくベランダか、クローゼットにでも隠れているのだろう。私と教授の話を聞くために。
潤子さんが珈琲を持って入って来た。
私の前にそっと珈琲を置いて、彼女は教授室を出て行った。
潤子さんが退室して、黒沢教授はゆっくりと話しを始めた。
「カネと権力を持つにはどうすればいいと思うかね?」
「まずそれを求めることが必要だと思います」
「そりゃそうだ。そしてカネも権力も要らないという人間はいない。ガンジーやマザーテレサでもない限りはな? 結論から言おう。それは「卑怯者になる」ということだよ。
周りからのやっかみ、嫉妬、妬みや誹謗中傷などを気にせず、「この卑怯者! 死ね!」と罵られる、本物の卑怯者になることだよ。それが出来なければ君はそこそこの心臓外科医で終わる。
最近、朋華を無視しているそうじゃないか? 父親としては穏やかではないなあ。
まさか君は私の大切な娘を「中古車」にして乗り捨てるつもりではないだろうね? うちの朋華はレンタカーではないよ、木村君?」
「・・・」
黒沢教授がソファー・テーブルの上のシガレット・ケースからタバコを取り出して咥えようとした時、私は咄嗟に置かれていたライターに手を伸ばし、火を点けた。
教授は深く煙を吸い込んで、それをゆっくりと吐いた。
「ふうーっ、僕は親バカでね? ひとり娘の朋華は目に入れてもいいくらいに可愛くて仕方がないんだ。
そのカワイイ愛娘が落ち込んいる姿を見るのは、親として実に忍び難い。わかるね? 木村君? 僕が君に何を言いたいのか?
そこでどうだろう? 娘の朋華といっそ婚約しては? もちろん娘はそれを望んでいる」
「少しお時間をいただきたく存じます」
「その珈琲が冷めないうちに返事をしたまえ」
私は目の前に置かれた珈琲に手を付けようとはしなかった。
「木村君も卑怯者の誹りを受けなさい。
勝てば官軍だよ、木村君。
そして私の跡を継いで、将来この白い巨塔の王になれ」
それは考えるまでもなかった。
今、この場で「Yes」と言えばそれで私の将来は安泰となる。すべてを手中に収めることが出来るのだ。
朋華は才色兼備の申し分のない女だ。一体彼女の何に不満があるというのだ。
「教授、1週間だけ考えさせて下さい」
「フィアンセのプリマドンナ、海音寺琴子さんはそんなに魅力的な女性なのかね? 私も一度、お会いしてみたいものだよ」
「・・・」
この男の情報網を甘く見てはいけない。
おそらく医局の誰かが教授に喋ったに違いなかった。
「そんなにオペラが好きならオーチャード・ホールにでも行けばいいじゃないか? ミラノ・スカラ座でもいい。君は外科医ではなく、音楽家志望だったのかね? まあいいだろう。では1週間後の19時までに返事をしなさい」
「分かりました」
私が部屋を出て行こうとすると、黒沢教授から呼び止められた。
「木村君、今度の教授会で君を准教授に推薦しようと考えている。君には期待しているんだ。娘の婿として。
そうそう、それからもう一つ、青森の本学の系列病院から頼まれてね? ウチの医局員の中から優秀な心臓外科医をとお願いされているんだよ。
もし万が一、君が青森に行くようなことがあれば、青森のリンゴジュースを僕に送ってくれないかなあ。僕はあの濃厚な青森のリンゴジュースが大好きなんだよ。でも青森は寒いらしいぞー、日本有数の豪雪地帯だしな? あはははは」
私は深く頭を下げ、教授室を退室した。
そして潤子さんに詫びた。
「すみません、折角淹れていただいた珈琲に手をつけられませんでした」
「あらまあ、教授のお嬢さんには手をつけちゃったのにね? うふっ」
輝信が出て行くとクローゼットの中から朋華が出て来た。
「ありがとうパパ! あれだけ言われて「うん」と言わなければここの精神科で診察を受けた方がいいわね? あはははは」
「ますます俺は彼が欲しくなったぞ。黒沢家の種馬としてな? あはははは。
いいか朋華。この世には2つの人間しかいない。
「支配される者」と「支配する者」だ」
「私は支配されるのはイヤ」
「私もだよ。やはり朋華は俺と血を分けた親子だな? あはははは」
(見てらっしゃい海音寺さん。私は運命に身を委ねるほど甘ちゃんじゃないわ。どんな卑怯な手を使ってでも彼を私のモノにして見せる)
朋華は残酷な快感に心が奮えた。
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