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最終話 絆

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 「わあ、これが日本海なの? お母さん、初めて見たわ」

 その日の日本海には泪雨が降っていた。
 新幹線の窓ガラスに雨が当たり、幾筋もの雨が斜めに流れて行く。
 日本海には白い馬が跳ねるように、大きな白波が無数に立っていた。
 お嬢様育ちの母は、すっかり旅行気分ではしゃいでいる。
 無理もない、こうして親子で遠出をすることなど、今までにはなかったことだった。

 「お兄ちゃん、富山って何が美味しいのかなあ?」

 愛理も父親に会えるうれしさと、家族での旅行気分に浮かれていた。
 でも、俺は気が重かった。
 父親がそう素直に、俺たち家族と一緒に帰るとは思えなかったからだ。
 相当の覚悟を持って家を出た父が、果たして俺たちの説得に応じるだろうか?
 俺の気持ちは今日の北陸の空のように灰色で、暗澹たる想いだった。



 定刻通りに北陸新幹線は富山駅に着いた。
 軽く下調べはして来たつもりだったが、富山駅の前は見事に整理され、都市計画の優秀さが窺えた。
 これも県民性を反映したものだろう。
 俺たちは予約しておいたホテルにチェックインを済ませ、軽く食事をして仮眠を取ることにした。
 親父の店の閉店を待って、俺たちは親父を説得に行くつもりだったからだ。



 親父の店に向かうタクシーの中で、母がポツリと言った。

 「お父様、私たちと一緒に帰って下さるかしら?」
 「大丈夫だよママ、お父さんは家族だもん」

 親父はその家族を捨てて、この北陸の地、富山まで逃れて来たのだと。


 
 午前零時が閉店だということだったので、23時頃、店の外から店内を覗いた。
 すると閉店1時間前だというのに、とても賑やかだった。
 俺たちは言葉を失った。親父はまるで別人のように楽しそうに笑っていたからだ。
 俺たちは一抹の不安を覚えた。


     「親父は俺たちと帰らないかもしれない」


 次第にお客が帰り始め、そして最後のお客も帰り、親父が店の暖簾を仕舞おうと出て来た時、俺たちは親父に声を掛けた。

      「あなた」
      「お父さん」
      「親父」

 父は驚く様子もなく、それはまるで俺たちが来ることを既に予想していたかのように笑って見せた。

 「よく来たな? 取り敢えず店で話そう」



 店の中は古いが、綺麗に整理整頓がされていた。
 カウンターには先程のお客たちの食器やコップ、グラスなどがそのままに残されていた。

 「ちょっと待っていてくれ、今、片付けるから」
 「あなた、そんなこと私がやりますから」
 「私も」

 俺たち家族は無言で食器等を片付け、洗い物をして店の後始末をした。
 カウンターをダスターで拭く母の目から涙が溢れていた。
 その涙は父を憐れむ涙ではなく、うれし涙だったはずだ。
 それは今まで、こうして家族で何かをするということがなかったからだと俺は思った。
 愛理は楽しそうだった。親父の仕事を手伝っている自分に。



 「みんなありがとう、おかげで早く終わったよ。さあ、座ってくれ。
 何か飲むか?」

 (ありがとう?)

 それは初めて親父から聞いた言葉だった。
 俺たちの心が停止した瞬間だった。

 「親父、俺たちと一緒に帰ろう、東京に」

 すると父は笑顔で言った。

 「そうだ、俺の焼鳥、食べてみないか? それと生ビールも、ウマいぞー、ビックリするくらいに、アハハハハ」

 親父が笑っている、あの親父が・・・。


 「じゃあ、折角だからいただこうかしら、あなたの焼鳥を」
 「うん、私も食べたい。お父さんの焼鳥、食べてみたい」
 「よし、それじゃあまず焼鳥だ、その後に生ビールを飲む方が旨いからな?
 ちょっと待ってろよ」

 親父はとても嬉しそうだった。
 家族に自分の料理を振舞うことに。
 父は慣れた手つきで焼鳥を焼き始めた。
 香ばしい焼鳥の焼ける匂いがして来た。
 たっぷりのタレをつけて、焼鳥が俺たちに供された。


 「さあ熱いうちに食べなさい。今、生ビールを注いでやるからな?」

 父は真剣な眼差しでジョッキに生ビールを注いだ。


 「あなた、いただきます」
 「いただきまーす! 凄くおいしそう!」

 俺たちはその旨さに驚いた。

 (これが親父の焼いた焼鳥なのか?)
 
 こんな旨い焼鳥を、俺は今まで食べたことがなかった。
 高等裁判所の判事でもある父が、にこやかに焼鳥を焼いている。
 そしてそれを楽しそうに食べている俺たち家族。
 俺は夢を見ているのかと思った。
 俺はこの時初めて、これが「家族の団欒」だと知った。


 「どうだ? ウマいだろう?
 ほら、冷たい生ビールも飲め!」
 
 愛理が言った。

 「すごく、す、ごく・・・、美味しいよ、お父さん・・・」

 そして母も何も言わず、ただ泣くばかりだった。

 「そうか、泣くほど旨いか?」

 親父も泣いていた。
 あの親父が・・・。
 そして俺も泣いた。家族全員が嬉し泣きをした。
 家族の絆が見えた瞬間だった。


 「親父、もう、もういいだろう? 俺たちと一緒に、帰ろ、う・・・」
 「すまんがそれは出来ない。俺はここで死ぬと決めたんだ。この富山で。
 俺の我儘を許してくれ。
 ここで俺が世話になった銀次さんという男と、俺は約束したんだ。店を引継いで、この焼鳥の味を守っていくことを。
 銀次さんは10年前に俺が判決を言い渡した男で、偶然ここで再会した。
 俺たちは導かれたんだよ、大きな力に。
 俺は今まで大勢の人たちを裁いて来た。人の運命を左右して来た。
 そんな権利は人間にはない。人間は神ではないのだから。
 死刑を言い渡す時、俺は手が震える。
 民事に移った今でも、それを忘れることはできない。
 俺は本当は弱い人間なんだ」
 「違うわ! お父さんは弱くなんかない! やさしいだけよ!」

 俺は愛理がこんなに自分を主張するのを初めて見た。
 そして、母が静かに言った。

 「裕也と愛理は東京へ帰りなさい。私はお父様とここに残るから。
 いいでしょ? あなた?」
 「・・・」
 「ママ、今なんて言ったの? ここに残るって、どうゆうこと!」
 「ママはね、お父様の妻だから、夫の決断に従うのは妻としての当然の義務なの。いいわよね? あなた? 私がここであなたを手伝っても」
 「大変だぞ、焼鳥屋の女将は?」
 「覚悟はしています。でもあなたの役に立ちたいの。お願いします」

 母は父に頭を下げた。

 「好きにすればいい。でもここには何もないぞ」
 「あなたがいるじゃありませんか?」




 それから3年が過ぎた。
 父と母は焼鳥屋のおしどり夫婦として、地元では評判の店になっていた。


 「女将さーん、生ビールお替り~っつ!」
 「ハーイ! ただいまー!」

 お客たちはこの夫婦が、まさか高裁の元裁判官夫妻だとは誰も知らない。


 「愛理、今年の『おわら風の盆』どうするんだ?」
 「もちろん行くに決まってるでしょ、パパとママに会いに行かなきゃ」
 「そうだな、どうしてるかな? あのふたり」
 「きっと大きなお口を開けて笑っているわよ」


 遠くから、雷鳴が聞こえた。
 夕立が近づいているのだろう。
 そしてやがて雨は上がり、庭のアネモネも輝くはずだ。

 私は読みかけの論文から目を離し、グラスにウイスキーを注いだ。

 「親父、今日は父の日だね? いつもありがとう、乾杯」
 
 俺はグラスを富山に向けて掲げた。

                  『アネモネ』完
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