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第1話

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 「朝食はテーブルに置いてあるから後で食べてね? それじゃあ行ってきまーす」

 俺は返事をする代わりに、ベッドから右手を挙げてそれに応えた。
 塔子は俺に軽くキスをして、職場へと出掛けて行った。


 熱いシャワーを浴び、髭を剃った。
 塔子の用意してくれた朝食も、既にランチになってしまった。

 鍋の赤出汁の味噌汁に火を入れた。
 食卓には卵焼とキンピラ、小松菜のお浸しと鮭の西京焼き、そしてしば漬けが添えられていた。
 俺は炊飯ジャーから飯をよそり、昼の料理番組を見ながら食事を摂っていた。
 塔子は料理が得意な女だった。栄養のバランスも考えて、俺に旨い食事を作ってくれる。


 俺と塔子は15才も歳が離れており、彼女は30、俺は既に45才になっていた。
 昨夜、行為を終えた後、塔子が俺に言った。

 「ねえ、このまま一緒に私とここで暮らさない?」
 「俺は塔子に新しい恋人が出来るまでの「抱き枕」でいい」

 俺はそう言って塔子のサラサラの髪を撫でた。

 「私もそろそろママになりたい」
 「俺にパパは似合わねえ。お前のようないい女なら、もっと若い金持ちイケメンたちが、わんさか寄って来る。
 やさしくて、塔子の言うことなら何でも聞いてくれる、アホで扱い易い男たちがな?
 俺は今45才で無職。塔子とは15歳も歳が離れている。
 子供が幼稚園に通い始めて、運動会やお遊戯会に行けばこう言われるハズだ。
 「あら、今日はお爺ちゃんと一緒なのね? よかったわね」ってな?」
 「歳の差なんて関係ないわ。私は平気よ。
 カトちゃんなんてあの若い奥さんと45才も離れているじゃない?」
 「でも、子供はいない。
 それに俺たちは付き合ってまだ3カ月だ」

 塔子は30才でバージンだった。彼女にとって俺が「初めての男」だった。
 それなりに付き合った男はいたようだが、タイミングを逃してしまっていたらしい。
 塔子は安易な選択をしようとしているようだった。
 俺のことなどまだ何も知らないくせにだ。


 「ビビッと来たのよ。聖子ちゃんみたいに。
 私の王子様は絶対にこの人だって」
 「俺は白馬に乗った王子じゃなく、茶色のロバに乗ったただのオッサンだぜ?」
 「おじさんじゃないわ、素敵なよ」
 「塔子、お前はいつからそんなにバカになった?
 自分と子供のしあわせも計算出来なくてどうする?
 お前、それでも中学校の先生か?
 女はな? 計算高く生きなきゃただのバカだ。もっとあざとく生きろ。
 女のしあわせは男次第だ。
 この豊かな時代に、こんなくたびれた中古車じゃなくて、もっとピカピカの新車に乗れ。
 塔子の学校にはイケメン教師はいねえのか?」
 「そんな人、誰もいないわよ」

 俺の胸で白い指を持て余す塔子。

 「これから現れるかもしれないじゃないか?」
 
 塔子は俺にカラダを寄せ、こう言った。

 「じゃあこのままでいい。このままでいいからずっと私の傍にいて」
 「おそらくお前はそのうちすぐに俺に飽きると思うけどな?」
 「絶対に飽きないもん」
 「それでよく教師が務まるな?」
 「教師は普通に人を好きになってはいけないの?」
 「教師ならもっとちゃんとした男を好きになれ」


 俺のいい女の条件は三つ。
 料理が好きでクルマの運転が上手。そして本が好きな女だ。
 塔子は料理が得意で読書もするが、クルマの運転が下手だった。
 塔子のクルマの助手席に乗ると、ジェットコースターよりもスリルがある。
 彼女の言い分はこうだ。

 「クルマは男が運転するものでしょう? だから私は運転が下手でもいいの!」

 俺はそんな塔子が嫌いではない。
 今、俺にはそんな塔子のような女が三人いた。

 今井紗栄子は読書家で、クルマの運転はレーサー級。
 A級ライセンスも持っており、俺のランボルギーニ・ガヤルドを自在に乗りこなす女だが、料理はしない。
 料理が苦手というわけではなく、「嫌い」なのだ。
 紗栄子に言わせると、料理に掛ける時間が無駄だという。
 外食で旨い物を食べ、足りない栄養素はサプリメントで補い、野菜などはスムージーを飲めばいいと言う女だった。
 料理は調理だけではなく、準備も後片付けも必要だ。
 その時間が非効率だと彼女は言うのだ。

 長田おさだ直子は本をあまり読まない。だが冷静な判断力があり、クルマの運転はいつも的確だった。
 そして料理の腕前は料理研究家としても知られる存在で、料理本の出版や、テレビの料理番組にもよく出演していた。
 直子の作る料理はもはや芸術の域にさえあった。
 彼女はまるで絵描きのように皿を彩る食の魔術師だった。

 俺は、そんな女たちの家を転々と渡り歩いて暮らしていた。
 塔子との出会いは三カ月前、行きつけのショットバーだった。

 中学の音楽教諭をしている塔子は、職場の飲み会でカラオケを強要されるのが大嫌いだった。

 「中村先生は音楽の先生なんだからさあ、カラオケくらい歌ってよ~」
 「聴きたい聴きたい! 歌って歌って! 中村先生の歌、聴いてみたい!」
 「ダメダメ、中村先生はカラオケが大嫌いなんだから。中村先生はカラオケのイリオモテヤマネコなの。
 アンタたち、それを知ってて無理やり歌わせようっていうのは、それこそ虐めよ、い、じ、め。あはははは」

 学年主任のバツイチ独身女、瀬川綾子が言ったその言葉で塔子の我慢がレッドゾーンを超えてしまった。
 塔子の前にマイクが置かれ、勝手に松田聖子の『瑠璃色の地球』が入れられた。
 イントロが流れると、同僚の先生たちから拍手と歓声、口笛がスナックに響き渡った。

 すると塔子は財布から5,000円札を取り出し、カウンターの上にそれを叩きつけた。

 「私、今夜はこれで失礼します!」
 「ごめんごめん、中村先生。ご機嫌直してよー」
 「そうよ、これからじゃないのー」

 そして彼女はそのままスナックを出て、俺が常連のBARに飲み直すためにやって来たらしい。


 「マンハッタンを下さい」
 「かしこまりました」

 彼女は疲れたように、俺からひと席離れたカウンターに座った。
 バーテンダーの義男が言った。

 「バロンさんはカラオケとかしないんですか?」
 「しねえよ、あんなの。バカバカしい」

 俺は独身貴族という意味で、知り合いたちからは「バロン(男爵)」と呼ばれていた。


 「あんなの、歌いたい奴が歌えばいい。 
 カネでも貰えるなら歌ってやってもいいが、俺はタダじゃ歌わねえよ。ギャラもねえのに俺が歌うわけねえだろう?
 それに歌いたくない奴に無理やり歌わせようとするヤツっているだろう? あれは最低だな?
 ちょっとばかり自分が歌が上手いからって、前座に使うなっつーの」

 するとそれに塔子がすぐに反応した。

 「そうですよね? 自分が歌いたいからって私を出汁にして。本当にサイテー」
 「アンタもカラオケは歌わない主義か?」
 「ええ、大っ嫌いです。あんなカラオケなんて下品な物」
 「じゃあ、俺と仲間だな?」
 「私、歌謡曲って好きじゃないんです。一応、音大でオペラを勉強していたので。
 チャラチャラした歌が嫌いなんです。声楽は芸術ですから」
 「へえー、つまりアンタは音楽はアカデミックじゃねーとダメなんだ? 北島サブちゃんとかの演歌は音楽じゃねえと?」
 「そうは言っていませんけど、松田聖子や郷ひろみなんて芸術ではないからです」

  
 俺は店の隅にあるアップライトのピアノの前に進み、蓋を開けるとビリー・ジョエルの『NewYork state of mind』の弾き語りを始めた。
 ざわついていたBARが急に静かになった。


 俺が歌い終わると、客たちから拍手喝采が浴びせられた。

 「アンコール! アンコール!」
 「もっと歌って下さーい!」

 俺は笑って手を上げ、それには応じなかった。
 カウンター席に戻ると彼女が俺に謝って来た。

 「ごめんなさい、さっきは生意気なことを言って」
 「アンタが言うように、声楽は芸術かもしれねえ。でもな? じゃあ芸術ってなんだ?」
 「えっ・・・」
 「芸術って人に感動を与えることじゃねえのか?
 絵画でも彫刻でも、クラッシック音楽も芸術だという。
 だがな? バアちゃんが作る糠漬も立派な芸術なんだよ。
 心が動くこと、感動が芸術なんだ」
 「ピアノはどこで勉強されたんですか?」
 「自己流だよ自己流。あはははは」

 俺は氷の溶けたロイヤルサルートを一口飲んで煙草に火を点けた。

 そしてその夜、俺は塔子と一夜を共にした。
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