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第15話

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 物音で目が覚めた。
 伊作がカフェオレを淹れてくれているようだった。

 心地よい珈琲とミルクの香り。
 パリでの私たちの朝が始まろうとしていた。

 コポコポとカップに注がれるミルクと珈琲が混ざり合う音。
 私はベッドの中から伊作に声を掛けた。

 「おはよう、伊作」
 「おはよう、奈緒」

 私はベッドの上に座り、羽毛布団にくるまり素肌を隠した。

 「おまちどうさま、お目覚めのカフェオーレですよ、王女様?」


 私は彼からカップを受け取り、ベッドに零さぬように慎重にそれを口に運んだ。


 「美味しい。王子様に淹れてもらうと一段と美味しいわ」

 伊作は私に軽くキスをした。
 私たちは生まれたままの姿で、同じ布団に包まり肌を寄せた。
 暖炉がパチパチと音を立てて燃えていた。
 彼の肌の温もりが心地良い。


 「王子様、今日は私をどこに連れて行ってくれるの?」
 「今日は美術館を巡ってみようと思うんだ」
 「素敵。ルーブルとか?」
 「もちろんルーブルにも行くよ。でもその前にオルセーに行こうと思っているんだ」
 「オルセー美術館って、あの大きな時計のある美術館?」
 「そうだよ、そのオルセー」
 
 私はベッドサイドにカップを置き、布団を取り去ると伊作に熱いキスをした。
 伊作も同じようにカップを置き、私の胸にやさしく触れた。

 「フレンチ・キスして・・・」
 「フレンチ・キスの意味、知ってて言ってるの?」
 「本で読んだ」

 私たちは昨夜の続きを始めた。




 その美術館はセーヌを挟んでルーブルの対岸にあった。

 「オルセー美術館は駅舎を改装した美術館でね? ルーブルに比べたら収蔵品は少ないけど、ここには僕の好きなブラマンクとゴーガンがあるんだ。
 だから最初にここを奈緒に見せたかった」
 「ブラマンクとゴーガン?」
 「そうだよ、僕の絵とは作風は違うけどね?」


 私たちは腕を組み、館内を歩き始めた。

 光の美術館。
 オルセーのメインホールはとても明るく綺麗だった。
 日本の美術館とはまるでスケールが異なる。
 欧州人の美への憧憬には感服せざるを得ない。
 巨匠たちの作品に私は圧倒された。
 そして私たちはある作品の前で立ち止まった。

 そこにはあの有名なゴーガンの『タヒチの女』が佇んでいた。

 タヒチの波打ち際の女たち。
 ひとりは俯き、もうひとりはこちらをじっと見ている。
 その絵には灼熱の原色のタヒチ、強烈な剥き出しの本能が描かれていた。


 「残酷な太陽みたいな絵だと思わないかい?
 ゴーガンがタヒチに渡った年に描かれた物らしい。
 この女と、そして性病に侵されたゴーガンの生への執念が押し寄せて来るようだ」
 「現物の前に来ると、言葉が出ないわ」
 「ゴーガンはパリにいる時はセザンヌに影響を受けて静物画を中心に描いていた。
 株の仲買人をして財をなした彼だが、パリでの株の大暴落で財産を失ってしまう。
 彼は自分の芸術への想いを封じることが出来ず、家族とフランスの植民地、タヒチへの移住を決意する。
 だが妻に反対され、子供も奪われ失意の中ですべてを失い、彼は単身、タヒチへと渡った。
 そして貧困の中、梅毒で死んだ。
 彼のすべてがこの絵なんだよ」
 「そうなんだ? 女には理解できないなあ、家族よりも大切なものがあるのね? 男には」
 「本当の芸術は満たされた生活からは生まれやしない。
 芸術は自分の大切な物と引き換えに神から与えられる物なんだ。
 ゴーガンは世俗的な幸福と引き換えにこの絵を描くことが出来た」
 「私には無理かも? 芸術家の奥さんにはなれない気がする」
 「ゴーガンのふる里を描いた『冬の風景』の絵があるんだが、ゴーガンの郷愁に切なくなるよ。
 家族との冬の極寒の地でのささやかな暮らしと、絵と性への欲望が色彩華やかなタヒチでの暮らしの中で消し去ろうともがき苦しむゴーガン。
 彼は芸術と幸福への憧れの中で葛藤していたんだ。
 友人のゴッホは耳を削ぎ落とし、絶望の中、ひまわり畑で自らの命を絶ち、そしてゴーガンは心も身体もズタボロになって孤独の中で死んでいった。
 でも僕はそこまで自分にストイックにはなれない。
 奈緒のためなら絵筆を折ってもいいとさえ思う。
 君のためなら僕は絵を捨てる覚悟があるんだ」

 そして伊作は強く私を抱きしめた。
 でもその時の私は嬉しくはなかった。
 
 彼の人生を変える勇気が私にはなかったからだ。

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