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第6話
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浴衣に丹前を羽織り、大浴場へと向かった。
部屋にも露天の檜風呂はあったが、折角の温泉旅館なので、風呂を堪能することにしたのである。
清潔感のある程よい明るさの脱衣場、充実したアメニティ・グッズも整い、客への配慮と高級旅館としてのプライドが窺えた。
大浴場には老人が2人と中年の客がひとり、湯に浸かっていた。
私は掛け湯をしてカラダを流し、屋外の露天風呂へと出て行った。
今日の日没は午後4時半である、もう日暮れ間近だった。
大きな露天風呂には銀髪の先客がいた。
私はその老人の対岸の湯に浸かることにした。
庭園の真っ赤に色づいた紅葉の葉が、所々湯に浮かんでいる。
それは夕暮れの空にとてもよく似合っていた。
(今度は渚を連れて来てやりたいものだ)
今日も手術室で奮闘しているであろう渚に、私は思いを馳せた。
室内風呂から露天風呂へ、さっきの老人が私の隣に入って来た。
「よっこらしょっと。ここの温泉はやわらかくていいですなあ、それによくあったまります。
この宿はよく利用されるのですか?」
「いえ、今回が初めてです」
「そうでしたか? 私は富山に住んでおりますが、毎年春、夏、秋、冬にはこの『潮騒閣』を訪れます。
いつもは家内と一緒なんですが、夏の終わりに亡くなりまして、今日は私ひとりで参りました。
生きている時は当たり前のように暮らしていましたが、いざひとりになると色々と考えさせられます。
家内がなんでもしてくれていたのだと痛感しますし、何でもっと労ってやれなかったのかと反省もしていますよ」
そう言って老人は湯を静かに手前にかき寄せた。
「そうでしたか? 私は先月、父を亡くしまして、父の写真を持って北陸の旅にやって来ました。 どうして生きているうちにもっと親孝行しなかったのかと悔やまれます」
「親を見送ることで人は成長するものです。あなたはそれに気づいただけでも素晴らしいと思います。
私にも娘と息子がおりますが、もう何年も会ってはおりません、あなたのご尊父はしあわせだ」
老人は両手で湯を掬い顔を洗った。それは流した涙を隠すためのものだった。今は亡き奥様のことを思い出していたのかもしれない。
「ではお先に失礼します」
「つまらない話をしてすみませんでした」
私はまるで親父と話しているような気がした。
風呂から上がり、脱衣場に併設された休憩所で無料の生ビールをビール・サーバーから注いで一気に飲んだ。旨かった。私は備え付けのマッサージチェアに座り、全身を解した。
夕食は部屋で摂ることが出来た。
海の幸、山の幸が備前や九谷の器に並んだ。そしてその料理に合わせた、あるいは酒に合わせたと言った方がいいのだろうか、新潟の銘酒がそれを引き立てた。
食事を終え、私は部屋の露天風呂に入った。
明るい満月の夜だった。古代檜の香りが実にいい。
渚がいないことが残念だった。
風呂から上がり、ビールを飲んでいると内線電話が鳴った。
雪乃からだった。
「ねえ、少しラウンジで一緒に飲まない?」
俺は丹前を着て、ラウンジへ向った。
雪乃は和服に着替えていた。新幹線の中でイメージした以上に美しかった。そこだけほんのりと明るくなっているようだった。
「こんばんは。どう? いい旅館でしょ?」
「凄いな? まるで皇室にでもなったような気分だよ」
「本物の皇室の方もお泊りになるのよ。政財界の大物とかも」
「だろうな? 風呂も食事も言う事なしだよ」
「お褒めいただきありがとうございます。何を召し上がりますか?」
雪乃は銀座のチイママのように言った。
「それじゃあジントニックを」
「さっそくウチのバーテンダーの腕を確かめに来たわね? 佐竹、こちらのお客様にジントニックをお出しして」
「かしこまりました」
そのバーテンダーはキチンと髪をオールバックにした、40前後の男だった。胸にはソムリエバッチも着けていた。
俺はそっと目を閉じ、耳を澄ませた。
音を聞いているだけで、そのバーテンダーが只者ではないことがわかった。
まるで心地よいJAZZを聴いているかのようだった。シンプルな酒ほどバーテンダーの技量が出るものだ。
「お待ちどう様でした」
俺はこんなにも繊細で美味いジントニックを飲んだことがなかった。
「いかが?」
「すばらしいよ、こんなジントニックは飲んだことがない」
「佐竹はね? 日本の大会でも優勝歴があるのよ。私も彼のお酒は大好き」
雪乃はマルガリータを口にした。
「新潟の次はどこに行くか決めたの?」
「富山、金沢に行くことにしたよ」
「それはいいわね? 食べ物も美味しいし、東京と京都のいいとこ取りだもんね?」
「富山には少しだけ住んでいたことがあるんだ」
「そうなんだ? 素敵な旅になるといいわね? 私は明後日東京に帰るわ」
雪乃は紙のコースターの裏に携帯電話の番号と、店の名前を書いて私に渡した。
「東京に戻ったら一度お店にも来てね? それじゃあおやすみなさい。よい旅を」
「それじゃあまた、今度は東京で」
雪乃は去って行ったが、俺はバーテンダーと世間話を続けた。
いい夜だった。
部屋にも露天の檜風呂はあったが、折角の温泉旅館なので、風呂を堪能することにしたのである。
清潔感のある程よい明るさの脱衣場、充実したアメニティ・グッズも整い、客への配慮と高級旅館としてのプライドが窺えた。
大浴場には老人が2人と中年の客がひとり、湯に浸かっていた。
私は掛け湯をしてカラダを流し、屋外の露天風呂へと出て行った。
今日の日没は午後4時半である、もう日暮れ間近だった。
大きな露天風呂には銀髪の先客がいた。
私はその老人の対岸の湯に浸かることにした。
庭園の真っ赤に色づいた紅葉の葉が、所々湯に浮かんでいる。
それは夕暮れの空にとてもよく似合っていた。
(今度は渚を連れて来てやりたいものだ)
今日も手術室で奮闘しているであろう渚に、私は思いを馳せた。
室内風呂から露天風呂へ、さっきの老人が私の隣に入って来た。
「よっこらしょっと。ここの温泉はやわらかくていいですなあ、それによくあったまります。
この宿はよく利用されるのですか?」
「いえ、今回が初めてです」
「そうでしたか? 私は富山に住んでおりますが、毎年春、夏、秋、冬にはこの『潮騒閣』を訪れます。
いつもは家内と一緒なんですが、夏の終わりに亡くなりまして、今日は私ひとりで参りました。
生きている時は当たり前のように暮らしていましたが、いざひとりになると色々と考えさせられます。
家内がなんでもしてくれていたのだと痛感しますし、何でもっと労ってやれなかったのかと反省もしていますよ」
そう言って老人は湯を静かに手前にかき寄せた。
「そうでしたか? 私は先月、父を亡くしまして、父の写真を持って北陸の旅にやって来ました。 どうして生きているうちにもっと親孝行しなかったのかと悔やまれます」
「親を見送ることで人は成長するものです。あなたはそれに気づいただけでも素晴らしいと思います。
私にも娘と息子がおりますが、もう何年も会ってはおりません、あなたのご尊父はしあわせだ」
老人は両手で湯を掬い顔を洗った。それは流した涙を隠すためのものだった。今は亡き奥様のことを思い出していたのかもしれない。
「ではお先に失礼します」
「つまらない話をしてすみませんでした」
私はまるで親父と話しているような気がした。
風呂から上がり、脱衣場に併設された休憩所で無料の生ビールをビール・サーバーから注いで一気に飲んだ。旨かった。私は備え付けのマッサージチェアに座り、全身を解した。
夕食は部屋で摂ることが出来た。
海の幸、山の幸が備前や九谷の器に並んだ。そしてその料理に合わせた、あるいは酒に合わせたと言った方がいいのだろうか、新潟の銘酒がそれを引き立てた。
食事を終え、私は部屋の露天風呂に入った。
明るい満月の夜だった。古代檜の香りが実にいい。
渚がいないことが残念だった。
風呂から上がり、ビールを飲んでいると内線電話が鳴った。
雪乃からだった。
「ねえ、少しラウンジで一緒に飲まない?」
俺は丹前を着て、ラウンジへ向った。
雪乃は和服に着替えていた。新幹線の中でイメージした以上に美しかった。そこだけほんのりと明るくなっているようだった。
「こんばんは。どう? いい旅館でしょ?」
「凄いな? まるで皇室にでもなったような気分だよ」
「本物の皇室の方もお泊りになるのよ。政財界の大物とかも」
「だろうな? 風呂も食事も言う事なしだよ」
「お褒めいただきありがとうございます。何を召し上がりますか?」
雪乃は銀座のチイママのように言った。
「それじゃあジントニックを」
「さっそくウチのバーテンダーの腕を確かめに来たわね? 佐竹、こちらのお客様にジントニックをお出しして」
「かしこまりました」
そのバーテンダーはキチンと髪をオールバックにした、40前後の男だった。胸にはソムリエバッチも着けていた。
俺はそっと目を閉じ、耳を澄ませた。
音を聞いているだけで、そのバーテンダーが只者ではないことがわかった。
まるで心地よいJAZZを聴いているかのようだった。シンプルな酒ほどバーテンダーの技量が出るものだ。
「お待ちどう様でした」
俺はこんなにも繊細で美味いジントニックを飲んだことがなかった。
「いかが?」
「すばらしいよ、こんなジントニックは飲んだことがない」
「佐竹はね? 日本の大会でも優勝歴があるのよ。私も彼のお酒は大好き」
雪乃はマルガリータを口にした。
「新潟の次はどこに行くか決めたの?」
「富山、金沢に行くことにしたよ」
「それはいいわね? 食べ物も美味しいし、東京と京都のいいとこ取りだもんね?」
「富山には少しだけ住んでいたことがあるんだ」
「そうなんだ? 素敵な旅になるといいわね? 私は明後日東京に帰るわ」
雪乃は紙のコースターの裏に携帯電話の番号と、店の名前を書いて私に渡した。
「東京に戻ったら一度お店にも来てね? それじゃあおやすみなさい。よい旅を」
「それじゃあまた、今度は東京で」
雪乃は去って行ったが、俺はバーテンダーと世間話を続けた。
いい夜だった。
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