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第11話

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 右眼の網膜剥離を抑えるため、佐藤准教授に網膜の70%近くを入念にレーザーで焼いてもらっていた。
 それは眼科医にとって緻密な点描画を描くようなもので、高い技術と集中力を必要とした。
 レーザー照射のほんのちょっとしたミスで、失明を招く危険もあるからだ。

 初期の段階であれば数回の照射で痛みもないが、私のように一度に数百発のレーザーを当てる場合には脂汗が出るほどの痛みを伴う。
 そして照射が終わるとまるでピンクのサングラスを掛けたように、周りがすべて薔薇色に見えるのだから皮肉なものだ。
 失明の恐怖に怯える私に、人生がバラ色に見えることの矛盾。

 当初は両目を手術する予定だったが、左目を手術してみると網膜の状態がかなり脆弱になっていることが判明し、右眼は「ラスト・アイ」ということもあり、ギリギリまで温存することになった。

 最初の手術で左目の硝子体を生理食塩水に置換したが改善せず、激しい頭痛と吐き気にみまわれたので、今度はそれをシリコンオイルに交換する手術を受けた。

 信じられないかもしれないが、眼球自体の手術は局部麻酔で行う。
 それを椅子に座ったまま行うので、まるで歯の治療のようだった。
 つまり手術がどういう状態で行われているのかが、患者である私にも分かり、会話も出来るのだ。

 執刀医の好みの音楽をかけて、最初の手術は4時間半を要した。
 目の手術としてはかなり異例なことだろう。

 手術が予定よりも長時間に及んだため、麻酔が少し切れ始めて来たので私は佐藤医師にそれを伝えた。

 「先生、麻酔が切れて来たようですけど」
 「わかりました」

 麻酔が追加された。


 珍しいオペだったので、見習いの看護師や研修医たちも見学に訪れていた。
 経験を積ませないとスタッフのスキルが上がらない。

 (いくらでも俺の体を練習台に使ってくれ)

 と、私は思った。


 手術の準備が行われていた時、

 「有村さん、抗生物質を入れますからね?」

 という若いナースの声が聞こえ、右腕に点滴針を刺そうとするが中々うまく刺せず、苦労しているようだった。
 ようやく点滴針を刺すことが出来たようだが、その若い看護師はスタスタと無言で出て行ってしまい、その後、手術室に戻って来ることはなかった。
 どうやら何かミスを犯し、パニックになって逃げて行ったようだった。
 すると右腕全体に冷たい液が広がっていくのを感じた。

 「すみません、点滴液が漏れている気がするんですが?」
 「あれ? ホントだ、点滴が漏れているなあ? あのナース、どこに行っちゃったんだろう?」

 という、まるでコントみたいなハプニングもあった。

 初めての目の手術という緊張で、私の血圧はかなり上昇してしまい、助手の医師が佐藤医師にそれを伝えた。

 「先生、血圧が220です、筋弛緩剤を入れますか?」
 「そうだね? 頼むよ」

 オペをしながら佐藤医師はそれを許可した。

 (なるほど、これが筋弛緩剤なのか?)

 意識がふわーっとなり、体が急にラクになった。

 致死量になるとこのまま眠るように死ねるのだろうか?
 呼吸困難になると聞いたこともあるが、どうなのだろう?
 いずれにせよ、これを自殺に利用するのは困難だ。
 医療関係者による嘱託殺人でも依頼しない限りは。
 私はその光景を想像して少し口元が綻んだ。



 シリコンオイルを入れたことで頭痛と吐き気は収まったが、網膜を安定させるための一週間の24時間うつ伏せ寝は拷問だった。
 佐藤医師はそんな私のために休日を返上し、包帯まで自分で交換して励ましてくれた。


 そして遂に包帯が取れる日がやって来た。
 それは曇りガラスで見るような世界だった。

 それから3カ月後、私の左目は完全に光を失った。




 ここのところ集中して原稿を書いていたせいか、少し見え方が暗くなって来た気がした。
 心臓も気になるが、目が見えなくなってしまった場合、おそらく私はその事実を受け入れることは出来ないだろう。
 私は小説を書くことでしか、生きる希望が持てなかったからだ。
 小説を書くことが私の生き甲斐だった。
 視力がなくなるくらいならいっそ・・・。

 私が富山に来た本当の目的は、麻里子との思い出の場所を辿り、ここで自らの命を絶つことだった。
 私はすでに生きることに絶望していた。
 この富山で、麻里子との思い出の地で、私は死ぬつもりだったのだ。

 だがそれはいつの間にか忘れてしまった。


     死にたくない


 梢、花音、純子、麻里子のお母さんたちとの出会い、麻里子との止まった時間が私をそういう気持ちから遠ざけ、「生きたい」と願うようになっていた。

 所詮、私はただの弱い人間だったのだ。




 その頃、花音は彼氏の竜司との行為を終え、別れ話の最中だった。

 「ねえ竜司、私たち、もう今日で終わりにしようよ」
 「なんだよ、いきなり!」
 「私と付き合っていると、竜司がダメになるからだよ」
 「それってどういう意味だよ?」
 「竜司は私に甘えてばかりだもん、竜司は私といるとラクチンでしょう?
 なんでも私がしてあげちゃうから。お金もそう。
 それがあなたをダメにするのよ」
 「他に好きな奴でも出来たのか!」

 花音の頭に一瞬、有村の顔が浮かんだ。

 「いないよ、今は」
 「俺は絶対に別れないからな! 俺には花音が必要なんだよ!」
 「そういうところなんだよ、 竜司のダメなところって。
 女から別れ話を言われたら、「そうか」、で終わりにするのが男でしょ?」

 そう言って、シャワーを浴びた花音はショーツを履き、ブラのホックを留めた。

 するといきなり竜司が花音に抱き着いて来た。

 「やめてよ! もうそんな気になれないんだってばあっ!」
 「俺には花音が必要なんだ! 絶対に諦めねえからな! 花音は誰にも渡さねえ!」
 「いいかげんにして! 本当にイヤなんだってばあ!」
 「絶対に諦めねえぞ! 俺は別れねえからな!」

 花音は有村と暮らしているうちに、竜司が物足りなく感じるようになっていた。

 (どうしてこんなお子ちゃまみたいな子と付き合っていたんだろう?)

 花音はいつの間にかそう考えるようになっていた。
 有村といると、とてもやさしい穏やかな気持ちでいられる自分が不思議だった。

 (もしかしてファザコンなの? 私)

 花音は大人の男の包容力に心地良さを感じていた。




 午前零時になり、スナック『鈴蘭』の営業が終わろうとしていた。

 「山ちゃん、今日はどうもありがとう。
 また、来週も待ってるからね?」
 「ママ、週末には会社の飲み会があるから、ウチの課の仲良し5人組でまた来るからよろしくー。
 おやすみママ、花音ちゃーん」
 「はーい、待ってまーす!」
 「おやすみなさい、気を付けて帰ってねー」

 常連さんの山崎さんを送り出し、梢と花音は置き看板を店の中に入れ、表の看板の灯りを消した。


 「花音、お疲れー。
 さあ、さっさと片付けてパパと味噌ラーメンを食べて帰ろうね?」
 「うん、寒い夜にはやっぱり味噌だよね?」
 「冷たいビールにあったかい味噌ラーメン。
 そうだ、餃子も付つけないと」
 「いいねー、じゃあママ、早く片付けちゃおうよ」
 「お店の方はお願いね? ママは洗い物をやるから」
 「はーい」

 その時、店のドアが開いた。


 「すみません、今日はもう閉店なん・・・」

 花音が振り返ると、そこに竜司が立っていた。

 「花音、なんで着拒にすんだよ! 俺は別れねえって言っただろう!」
 「もうしつこいなあ! 竜司とはもう会わないって言ったでしょ!」
 「俺は別れねえぞ!」
 「ちょっとアンタ、ウチの娘に何してくれてんのよ!
 そんなんだから愛想尽かされんでしょ! 男ならいさぎよく別れなさいよ!」
 「うるせえ! ババアは黙ってろ!」
 「もう、帰って!」

 竜司はポケットからナイフを取り出して見せた。

 「どうしても別れるって言うのなら、お前らを殺して俺も死んでやる!」


 カラン 


 ドアが開き、そこへ有村がやって来た。
 有村はナイフを持った竜司を一瞥すると、

 「さあ帰ろうか? 早くしないと味噌ラーメンが延びちゃうぞ」

 有村はそう静かに言った。

 「何だテメエは!」
 「花音の父親だよ、君は誰だね? そんな物騒な物を持って、穏やかじゃないなあ?」
 「うるせえ! すっこんでろ! クソジジイ!」
 「そうはいかないよ、私は大切な家族を迎えに来たんだから」
 「お前も一緒に殺されてえのか? コラッ!」

 竜司はナイフを左手に持ち替えると、右手で有村の左頬を一発殴った。
 有村の言葉遣いが変わった。

 「酷えなあ、いきなり殴るなんて。
 殴らないでそれで刺せばよかったのによお」

 竜司がナイフを右手に握り締めた。

 「あんちゃん? それで刺すつもりか?
 それじゃお前、自分の手を切るぜ。
 お前、人を刺したことがねえだろう?
 ねえよなあ? ブルブル震えてやがるもんなあ? 生まれたての子鹿みてえに?
 教えてやろうか? 本当のナイフの使い方を? まず刃を上向きにする。
 そしてナイフの柄は手で持っちゃダメだ、軽く添えるだけ。
 お前みたいな持ち方じゃあ、刺した時の反動と血糊で手が滑り、自分の手を切っちまう。
 ナイフの柄は腰骨に当てて、そのまま体ごとぶつかるんだ。
 ほら、ここが心臓だ、ここを狙え、ほらココだよ」

 有村は丁度そこが心臓に来るように、ステッキを捨てて体を屈めた。

 「しくじるなよ、しくじったら今度は俺がお前を殺す。確実にな?」

 消し忘れた有線放送から、柏原芳恵の『春なのに』が流れていた。
 

 「どうした? ただのハッタリか? ほら、やれよ早く」

 竜司は震えていた。
 有村はゆっくりと立ち上がり、竜司に近づいて行った。

 「あんちゃん、そんなに花音のことが好きなら、花音の方から惚れられるような男になって出直して来い。
 女に付き纏うようなゲスな男にはなるな。
 折角のイケメンが台無しじゃねえか?
 こんなことをして、自分の人生を無駄にするな。
 お前の人生はこれからじゃねえか?」

 「ううううう、ああー!」

 竜司は泣き出してしまった。

 「このナイフは俺が記念に貰っておくからな? 林檎を剥くのには丁度良さそうだ」

 竜司は黙ってナイフを有村に差し出した。

 「これから俺たち、ラーメンを食いに行くんだけど、お前も一緒に来るか?」
 「いえ、どうもすみませんでした」
 「二度とこんなくだらねえことはするなよ」
 「はい・・・」

 竜司は背中を丸めて店を出て行った。
 有村はいつもの穏やかな有村に戻っていた。


 「さあ、味噌ラーメンを食べに行こうか?」
 「ジュン!」
 「パパーッ!」

 梢と花音は緊張が解けたのか、有村に抱き付いて泣いた。ふたりとも震えていた。

 「花音、ジャニーズみたいなイケメン君じゃないか? まだガキだけどな?
 いい勉強になったな? 恋愛する相手はちゃんと選ばないと。 
 花音は頭もいいし、ママに似て美人でやさしい子だ。だから花音に甘える男はダメになる。
 簡単な男選びの方法を教えてあげるよ。
 そいつがいい男かどうかは、まずそいつの母親を見ることだ。
 その母親がそいつの正体だからだ。
 それから胸板の薄い奴も駄目だ、残忍な奴が多い。
 そして一度は泥酔させてみることだ、本性が出るからな? 酒乱の男は意外に多いもんだ。 
 特に父親が酒乱の場合はその傾向が強くなる。 
 クルマの運転が荒かったり、ヘタなやつも駄目だ。
 そいつの付き合っている友だちも・・・」
 「いいよ、その時はパパとママに紹介するから。
 そして「アイツはダメだ」って言われたら諦めるよ」
 「それが一番だ。あはははは」
 「さあ、早く片付けて味噌ラーメン、食べに行きましょう!」
 「うん!」



 そのラーメン屋は北海道の有名な味噌ラーメン屋の暖簾分けの店だった。

 「大将、生3つと餃子3枚、あと味噌3つね」
 「うちは味噌しかねえよ、味噌ラーメン屋だからよお」
 「あははは、それもそうだね?」
 「ママ、私はバター追加で」
 「俺はビールだけでいい」
 「どうして?」
 「さっき殴られて口が切れたんだ」
 「大丈夫? パパ?」
 「大丈夫だ、あんなへなちょこパンチ、俺には効かないよ」
 「ごめんなさい、私のせいで・・・」
 「何も花音が謝ることはない、別れを決めた花音は偉い。
 あんな男と結婚しなくて良かったな?」
 「でもびっくりしちゃった、いつのも穏やかなジュンじゃないんだもん。
 高倉健さんみたいだったよ、しびれちゃった」

 そう言って梢はタバコに火を点けた。

 「さっきのパパ、すごくカッコ良かったよ。
 私、パパみたいな人と結婚したい!」
 「それは一番ダメな選択だな?
 俺みたいな男がいちばん結婚には向いていない」

 有村はタバコの煙を静かに吐いた。

 「どうりでマリが惚れるわけだ」
 「ナイフはただの脅しだと思ったんだ。
 アイツ、目が怯えていたから。
 最初から刺す気なんてなかったんだよ、そんな度胸のある奴じゃない。
 少しスープ、飲んでもいいか?」
 「うん、どうぞ」
 「痛っ! やっぱり沁みるな? 旨いけど」

 有村たちは楽しそうに笑った。

 有村は花音と梢を守れたことに満足していた。
 梢と花音を守るためならこの命、惜しくはない。
 どうせ短い命だ。

 (残り少ない時間の中で、私はこの母娘に何をしてやることが出来るのだろう?)

 有村は目の前で笑いながらラーメンを啜る、梢と花音を見て、胸が締め付けられる想いだった。


 (死にたくない)


 深夜のラーメン屋で、有村は改めてそう思った。

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