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第9話

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 最近、背中の痛みも強くなって来た。
 心臓が悪くなると心臓自体にではなく、その周辺部位に痛みが現れると聞く。
 そして心臓に激しい痛みを感じた時、その時が私の人生が終わる時だ。
 
 だがその前に目が見えなくなってしまうかもしれない。
 日中はレイバンのサングラスを手放すことが出来なくなっていた。
 目の障害もかなり進んでしまっていた。
 先日は眼底出血も発症し、執筆もペースダウンしていた。
 焦る毎日である。


 朝の掃除を終え、パソコンで小説を書いていると、梢が二階からパジャマにフリースを着て降りて来た。

 「おはようー、寒いわね?」
 「珈琲でも淹れようか?」
 「いいよ、お仕事中でしょう? 自分でやるから大丈夫。
 なんだか夢見て疲れちゃった」

 私はキーボードを叩きながら気のない返事をした。

 「どんな夢?」
 「ジュンがこの家からいなくなる夢。
 そして家の中を花音と泣きながら探し回っているとね? それをマリが見て笑っているの。「あの人はそういう人だから」って。
 でも夢で良かった」
 「それはすまなかったな? 俺を探してくれて」


 梢はコーヒーメーカーにコーヒー豆をセットし、自分のカップと私のカップを用意した。
 私のカップは先日、花音が私にプレゼントしてくれた物だった。


 「パパのコーヒーカップ、買って来たんだ。
 この前、看病してくれたからそのお礼」

 それはスターバックスの珈琲カップだった。

 「ありがとう花音、スタバのカップなんて随分おしゃれだね?
 大切に使わせてもらうよ」
 「いつもこのカップで飲んでね?」
 「ほうじ茶もコーラも、みんなこれで飲ませてもらうよ」

 私はカップの包装を解き、そのカップを両手で愛おしく包み込んだ。

 「素敵なカップをありがとう、凄く気に入ったよ」

 泣きそうだった。
 まるで父の日に初めて娘からプレゼントをもらった気分だった。

 「あはは、そのカップはコーヒーを入れるカップだよパパ」

 花音はあの日以来、よく私を「パパ」と連呼するようになっていた。
 彼女にとって父親は、失くしたもう片方のピアスなのかもしれない。

 「花音のプレゼントだから、なんでもこれで飲みたいんだよ」

 花音はうれしそうに笑った。



 私はいつもソファーテーブルの上でパソコンを開き、ソファーを背凭れにして原稿を打っていた。
 梢が零さぬようにと静かに珈琲をテーブルに置いた。

 「ありがとう」
 「どんな小説を書いているの?」

 梢は片手でカップを持ってそれを啜りながらディスプレイを覗き込んだ。

 「北陸の小さな漁港で食堂をやっている、バツイチの中年オヤジと、そこにやって来たワケアリの若い女との、ああでもない、こうでもないという、そんなどうでもいい話だ」
 「書いてる本人が自分の小説を「どうでもいい話」なんて言っちゃダメじゃないの」
 「アハハ、それもそうだな?」
 「完成したら私にも読ませてね?」
 「いいけど梢にはつまらない小説だと思うよ。身勝手な男が主人公の話だから」
 「どんなタイトルなの?」
 「まだ決めていない」
 「主人公の店主はジュンね?」
 「さあ、どうだろう?」
 「プロットとかも作るんでしょう?」
 「俺は作らないんだ、ただ思いつくままに書いてしまう。
 まず主人公を含めた登場人物の名前が浮かぶ。
 するとそのキャラクターたちが勝手に喋り、動き出す。
 俺はそれをただ書き写すだけなんだ。
 プロットを作ると、なんだかリアリティが無くなる気がしてね?
 工場で作る冷凍食品みたいで嫌なんだよ。
 結末のわかっている小説を書いていてもつまらないからな?
 俺も自分の小説の読者のひとりだから、自分で書いていて感心することもあるんだ。
 「へえー、そういう展開になるんだあ」ってね?
 自分がワクワクしたり、ドキドキしたりしない小説は、誰も買ってはくれないし、読んでもくれない」
 「小説ってそういう物なのね?」
 「結局小説家なんて、売れなければただの「オナニー小説家」だよ」
 「何それ?」
 「自分だけ満足していい気になっているって話だよ」
 「それはわかっているわよ、でもね? 私は自分がいいと思える小説なら、たとえ売れなくても立派なジュンの作品だと思う。
 たとえそれが1000人に1人の評価だとしても」


 私は原稿を保存し、パソコンを閉じた。

 「そろそろお昼だね? 今日は外で食べないか?
 おすすめの定食屋とかはある?」
 「あるわよ、すごく美味しい食堂があるんだけど行ってみる?
 ジュンの今書いている小説の参考になるかどうかはわからないけど」
 「別にならなくてもいいよ、メシが旨いならそれで。
 それならクルマじゃなくて、タクシーで行こう」
 「どうして?」
 「だって梢も飲みたいだろう? 定食屋のビール」
 「定食屋さんじゃなくても、いつでも飲みたいけどねー」
 「俺もだ」

 私たちは笑った。




 お昼は混むということなので、少し時間をずらすため、私と梢は「世界一美しいスターバックス」と誉れの高い、富山環水公園にあるスターバックスで時間を潰すことにした。


 オーダーカウンターでメニューを見ながら梢が私に訊いた。

 「ジュンは何がいいの?」
 「ダークモカチップクリームフラペチーノ」
 「これね? なんだか名前が長くて舌を噛んじゃいそう」

 店員さんが笑っている。

 「じゃあ、それ1つと、私は・・・、エスプレッソアフォガードフラペチーノを頂戴」
 「かしこまりました」

 この手のテイクアウトの店は苦手だった。
 目が見え難い私は、躓いて人にぶつかったり、飲み物などを床に落とす心配もあるからだ。
 そして私の場合、外見からは目が悪いようには見えない。
 梢がいてくれて助かった。
 私はカードを出して支払いを済ませると、窓際の席に向かって歩いて行った。


 水面みなもに映る秋の気配。目の不自由な私にも、ぼんやりと秋を感じることが出来た。


 「いい眺めでしょう? ここのスタバは「世界で一番美しいスタバ」って言われているのよ」

 梢は私にフラペチーノを手渡ししてくれた。


 「一度、来てみたいと思っていたんだ。このスターバックスに。
 でもメニューは見えないし、虫メガネを出すのもちょっとね?
 梢が一緒にいてくれて、本当に助かったよ」
 「大丈夫よ、私がジュンの目になってあげるから。
 オムツ替えだってしてあげるから安心して富山にいてね?」

 そう言って梢は笑っていた。

 「でもよくそのフラペチーノを覚えていたわね?」
 「前にラジオ番組でパーソナリティーの女性が言っていたんだ、それが耳に残っていてね?
 ダーク、モカチップ、クリーム、フラペチーノって、分割してひとつひとつをイメージして記憶していたんだ。
 やっと飲むことが出来たよ、ありがとう梢」


 梢がストローでそれを飲みながら、溜息を吐いた。

 「もう、秋も終わりなのねー。
 歳を取ると時間がどんどん早く感じるわ」
 「もうすぐあの、北陸の長い冬が始まるんだな?」



 店を出て、少し公園内を梢と散策した。
 私は事前にダウンロードしておいた、イブモンタンの『枯葉』をスマホで聴くことにした。
 片方のイヤホンを梢に勧めた。

 「秋にピッタリの曲なんだ、聴いてごらんよ」

 私たちは片方ずつのイヤホンで『枯葉』を聴いた。
 木々の味気ないモノクロームの景色が、次々と鮮やかな紅葉へと変化してゆく。


 梢が私の手を握った。

 「ジュンが転ぶといけないから、こうしていてあげるね?」


 梢の手はとても冷たかった。
 私は繋いだその手を、私のコートのポケットの中に入れた。

 「ありがとう梢」
 「ジュンのポッケの中、あったかい。
 私がずっとあなたを守ってあげる」

 梢の手が私の手を強く握った。


 おそらく私の人生も、この落葉のように冬を越すことはないだろう。
 私は梢のやさしさに触れ、そう感じた。
 なぜなら、いいことはあまり長くは続かないことを私はよく知っていたからだ。




 定食屋に着くと、もう13時半を過ぎているというのに数人のお客がまだ外に並んでいた。

 「人気がある食堂なんだね? まだこんなに並んでいるよ」
 「いつも11時からやっているんだけど、それでも20人近くはいつも並んでいるのよ」


 店内に入いることが出来たのは、14時を過ぎた頃だった。

 「ここのお勧めは?」
 「何でもおいしいよ、お肉でもお魚でもみんな」
 「ブリの刺身はある?」
 「あるみたいよ、「氷見の寒ブリ」って書いてある」
 「じゃあ俺はそれで」
 「私はアジフライにしようかなー? ビールにもよく合うし」


 私たちはお互いの料理をシェアしてビールを飲んだ。

 「おかずがなくなっちゃうね?」
 「本当にここはいい店だね? 追加でカキフライも頼んでくれるかな?」
 「ここのカキフライも絶品だよ。じゃあ、私は「今日のお刺身盛り」にしようかしら?
 それから生ビールのお替りも」

 うれしそうにビールを飲む梢を見ていると、心が揺らいだ。

 (梢に私は何をしてあげることが出来るだろう? もう別れは近いというのに・・・)



 運ばれて来たカキフライにタルタルソースをつけながら、梢が言った。

 「来週の火曜日、マリの納骨なんですって、一緒に行くわよね?」
 「ああ、悪いな?」
 「気にしないで、麻里子は私の親友でもあるんだから」

 梢は残ったビールを飲み干した。




 納骨式の火曜日は朝から小雨が降っていた。
 住職の読経の中、麻里子の遺骨が冷たい墓石の下に収められてゆく。
 周囲からはすすり泣く声が聞こえた。

 墓に供える線香の束に、中々ライターの火が点かない。
 私が傘を置いて再度、火を点けようとすると、純子が私を自分の傘の中に入れてくれた。

 「御線香、中々火が点きませんね?」
 「ありがとうございます、でもそれでは純子さんが濡れてしまう」
 「私は大丈夫です、母の為に御線香を点けてあげて下さい」
 「すみません」

 ようやく線香に火が点き、それを手で消して墓に供えた。
 雨の中を線香の煙がゆったりと流れて行く。
 再びみんなが手を合わせた。

 麻里子との思い出が、後から後から蘇って来る。
 それはみんな、麻里子が笑っているものばかりだった。
 私は自分が泣いていることを悟られないように、傘を斜めに深く差した。

 (マリ、俺も間もなくそっちに行くよ)

 心の中でそう呟いた。

 その日は一日、さめざめと泣く、女の涙のような雨が降っていた。

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