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第6話
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その老婆には見覚えがあった。
麻里子のお母さんに間違いない。
あの美しく、上品だった人はすっかり白髪になってしまい、シワも増え、ほうれい線が目立っていた。
歳月の流れを、私は彼女を見て知った。
(あれからもう35年が過ぎたのか?)
「おばさん、ジュン君よ、有村純一君。
覚えてる?」
「ジュン君? あの、有村君なの? ううううう
マリが、麻里子が・・・、呼び寄せたのね?
娘に、麻里子に会ってあげて頂戴」
「ジュン君ね、病気で声が出せないんですって」
「声が出せない? それは辛いわね?」
私は深々と頭を下げた。
二間続きの和室には、たくさんの花に囲まれた麻里子の遺影と遺骨が置かれていた。
麻里子の遺影は笑っていた。
何がそんなに楽しいんだ? もう死んでしまったというのに。
麻里子はどんな人生を送って来たのだろうか?
それはあまりにも短い人生だった。
歳を重ねたその顔には、落ち着いた円熟さが見て取れた。
ロウソクの炎に線香を翳したが、手が震えて中々火が点かない。
ようやく線香に火が点き、火を消して線香を立て、鐘を鳴らし手を合わせた。
後から後から止めどなく零れ落ちる涙と鼻水を、私は隠すことなく懸命にハンカチで拭った。
私は思わず、両手で遺骨に触れた。
「麻里子、どうして? どうして・・・、俺よりも、先に・・・」
その時突然、失われていた声が出た。
声が出るようになった。
「ジュン! 声が! 声が出るようになったのね!
よかった! マリが、マリが治してくれたのよ! うううううっ
話せるようになって、本当によかった・・・」
私は自分を責めた。
どうしてもっと早く、麻里子に会いに来てやれなかったのだろう。
今の時代なら麻里子を探し出し、消息を知ることなど容易いことだった筈なのに。
それなのに私は「終わった恋」だと諦めてしまっていた。
どうせ会ってはくれはしないだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
麻里子のことを忘れたことは一度もなかった。
麻里子の好きだったフリージアの香りを嗅ぐ度、彼女が好きだった桃や葡萄を見る度に心が軋んだ。
富山のある、遠く西の空を眺め、
「麻里子は今、しあわせなのだろうか?」
そんなことをぼんやりと考えたりもした。
私が結婚に失敗した本当の理由は、麻里子の面影を女房に重ねていたからだった。
女房はそれに気づいていたのだった。
「私はあなたの別れた恋人じゃないわ!」
私が今まで再婚をしなかったのは、麻里子と、別れた妻への贖罪だった。
女の愛を求めないことで、私は自分の罪を贖おうとした。
だがそれも、麻里子が死んだ今となってはなんの意味もなくなってしまった。
それは麻里子と、別れた妻がしあわせであることが大前提だからだ。
麻里子は独身のまま死んだ。
一体私の人生は何だったのだろう?
麻里子の人生を私は台無しにしてしまった。
私はかけがえのない愛を失い、会社も辞め、先の見えない小説家になった。
そして左目を失い、残された右眼を酷使している。
遂には心筋梗塞にもなり、今は30%しか心臓が動いていない。
いつ死んでもおかしくない体になってしまった。
目が見えなくなるのが先か? それとも心臓が停止するのが先なのか?
せめて麻里子の最期を看取ってから死にたかった。
私はもっと悲しみ、苦しむべき男なのに。
お母さんが遺影を見ながらポツリと言った。
「有村君のことは時々あの子が懐かしそうに話していました。
やっぱり有村君のことが好きだったんでしょうねえ?」
お母さんはそう言って目頭を押さえた。
「マリ、ジュンに会えて良かったね?
天国でゆっくり休んでね? 私たちもいずれそっちに行くから。
そしてやろうよ3人で、天国の同窓会」
梢も泣いていた。
人は死なないために生きている。
死ねばそこで人生の物語は終わってしまう。
私の人生の物語の終わりも近い。
だが、よく死ぬためには「良く生きなければならない」のだ。
生きるとは、死へ向かう旅なのだから。
しばらくの間、私は遺骨の前から離れることが出来なかった。
「何もないけど、ご飯でも食べていって下さいね?」
「ありがとうございます」
「富山にはいつまでいらっしゃるの?」
「少し、ゆっくりしようと思っています。自由業なので」
「おばさん、ジュン君ね? 小説家さんなんだって」
「あら、そうだったの? たいへんなお仕事ね?」
「売れない小説家です」
私がそう言って自嘲していると、花音くらいの女の子が入って来た。
怪訝そうに私を見ると、私に軽く会釈をした。
「お婆ちゃん、アキおじちゃんが帰るって」
「あらそう? ご挨拶しないと。じゃあちょっと失礼しますね? よっこらしょっと」
「純子ちゃん、この人、ママの昔の彼氏さんの有村さん。今はおじさんだけどね?」
すると純子というその娘は私を一瞥し、不機嫌そうに部屋を出て行った。
目元と顔の輪郭、後ろ姿、そして歩き方までもが麻里子にそっくりだった。
「マリの娘さん、純子ちゃんって言うのよ。ウチの花音と同じ22歳。
文学部の4年生。マリにそっくりで驚いたでしょう?」
「よく似ている」
「悲しいくらいによく似ているわよね?」
それは丁度、別れた頃の麻里子と瓜二つだった。
私は自分の犯した過ちも忘れ、麻里子との楽しかった日々を思い出していた。
そしてまた、涙が零れた。
食事をご馳走になっている時も、純子ちゃんは2階から降りて来ることはなかった。
どうやら私は彼女に嫌われたらしい。
帰りのタクシーの中から見える街の景色は切なく、セピア色になっていた。
「よかったね? 声が出せるようになって」
「ああ、もう諦めていたからな?
梢には本当に世話になった。ありがとう」
「どうせゆっくり出来るならウチに下宿すれば?
ホテルとか勿体ないでしょう?」
「いつまでも梢に甘えるわけにはいかないよ」
「甘える? 何言ってんの、泊めてあげる代わりに家政夫として働いてもらうってことよ。
番犬としてもね?
女の二人暮らしでしょう? 結構狙われるのよ、下着ドロボーとか。
この前も私と花音のお気に入りのパンティ、盗まれちゃったんだから」
梢の嘘は見え見えだったが嬉しかった。
私はその好意を素直に受けることにした。
その日から私と梢、そして花音の家族ごっこが始まった。
麻里子のお母さんに間違いない。
あの美しく、上品だった人はすっかり白髪になってしまい、シワも増え、ほうれい線が目立っていた。
歳月の流れを、私は彼女を見て知った。
(あれからもう35年が過ぎたのか?)
「おばさん、ジュン君よ、有村純一君。
覚えてる?」
「ジュン君? あの、有村君なの? ううううう
マリが、麻里子が・・・、呼び寄せたのね?
娘に、麻里子に会ってあげて頂戴」
「ジュン君ね、病気で声が出せないんですって」
「声が出せない? それは辛いわね?」
私は深々と頭を下げた。
二間続きの和室には、たくさんの花に囲まれた麻里子の遺影と遺骨が置かれていた。
麻里子の遺影は笑っていた。
何がそんなに楽しいんだ? もう死んでしまったというのに。
麻里子はどんな人生を送って来たのだろうか?
それはあまりにも短い人生だった。
歳を重ねたその顔には、落ち着いた円熟さが見て取れた。
ロウソクの炎に線香を翳したが、手が震えて中々火が点かない。
ようやく線香に火が点き、火を消して線香を立て、鐘を鳴らし手を合わせた。
後から後から止めどなく零れ落ちる涙と鼻水を、私は隠すことなく懸命にハンカチで拭った。
私は思わず、両手で遺骨に触れた。
「麻里子、どうして? どうして・・・、俺よりも、先に・・・」
その時突然、失われていた声が出た。
声が出るようになった。
「ジュン! 声が! 声が出るようになったのね!
よかった! マリが、マリが治してくれたのよ! うううううっ
話せるようになって、本当によかった・・・」
私は自分を責めた。
どうしてもっと早く、麻里子に会いに来てやれなかったのだろう。
今の時代なら麻里子を探し出し、消息を知ることなど容易いことだった筈なのに。
それなのに私は「終わった恋」だと諦めてしまっていた。
どうせ会ってはくれはしないだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
麻里子のことを忘れたことは一度もなかった。
麻里子の好きだったフリージアの香りを嗅ぐ度、彼女が好きだった桃や葡萄を見る度に心が軋んだ。
富山のある、遠く西の空を眺め、
「麻里子は今、しあわせなのだろうか?」
そんなことをぼんやりと考えたりもした。
私が結婚に失敗した本当の理由は、麻里子の面影を女房に重ねていたからだった。
女房はそれに気づいていたのだった。
「私はあなたの別れた恋人じゃないわ!」
私が今まで再婚をしなかったのは、麻里子と、別れた妻への贖罪だった。
女の愛を求めないことで、私は自分の罪を贖おうとした。
だがそれも、麻里子が死んだ今となってはなんの意味もなくなってしまった。
それは麻里子と、別れた妻がしあわせであることが大前提だからだ。
麻里子は独身のまま死んだ。
一体私の人生は何だったのだろう?
麻里子の人生を私は台無しにしてしまった。
私はかけがえのない愛を失い、会社も辞め、先の見えない小説家になった。
そして左目を失い、残された右眼を酷使している。
遂には心筋梗塞にもなり、今は30%しか心臓が動いていない。
いつ死んでもおかしくない体になってしまった。
目が見えなくなるのが先か? それとも心臓が停止するのが先なのか?
せめて麻里子の最期を看取ってから死にたかった。
私はもっと悲しみ、苦しむべき男なのに。
お母さんが遺影を見ながらポツリと言った。
「有村君のことは時々あの子が懐かしそうに話していました。
やっぱり有村君のことが好きだったんでしょうねえ?」
お母さんはそう言って目頭を押さえた。
「マリ、ジュンに会えて良かったね?
天国でゆっくり休んでね? 私たちもいずれそっちに行くから。
そしてやろうよ3人で、天国の同窓会」
梢も泣いていた。
人は死なないために生きている。
死ねばそこで人生の物語は終わってしまう。
私の人生の物語の終わりも近い。
だが、よく死ぬためには「良く生きなければならない」のだ。
生きるとは、死へ向かう旅なのだから。
しばらくの間、私は遺骨の前から離れることが出来なかった。
「何もないけど、ご飯でも食べていって下さいね?」
「ありがとうございます」
「富山にはいつまでいらっしゃるの?」
「少し、ゆっくりしようと思っています。自由業なので」
「おばさん、ジュン君ね? 小説家さんなんだって」
「あら、そうだったの? たいへんなお仕事ね?」
「売れない小説家です」
私がそう言って自嘲していると、花音くらいの女の子が入って来た。
怪訝そうに私を見ると、私に軽く会釈をした。
「お婆ちゃん、アキおじちゃんが帰るって」
「あらそう? ご挨拶しないと。じゃあちょっと失礼しますね? よっこらしょっと」
「純子ちゃん、この人、ママの昔の彼氏さんの有村さん。今はおじさんだけどね?」
すると純子というその娘は私を一瞥し、不機嫌そうに部屋を出て行った。
目元と顔の輪郭、後ろ姿、そして歩き方までもが麻里子にそっくりだった。
「マリの娘さん、純子ちゃんって言うのよ。ウチの花音と同じ22歳。
文学部の4年生。マリにそっくりで驚いたでしょう?」
「よく似ている」
「悲しいくらいによく似ているわよね?」
それは丁度、別れた頃の麻里子と瓜二つだった。
私は自分の犯した過ちも忘れ、麻里子との楽しかった日々を思い出していた。
そしてまた、涙が零れた。
食事をご馳走になっている時も、純子ちゃんは2階から降りて来ることはなかった。
どうやら私は彼女に嫌われたらしい。
帰りのタクシーの中から見える街の景色は切なく、セピア色になっていた。
「よかったね? 声が出せるようになって」
「ああ、もう諦めていたからな?
梢には本当に世話になった。ありがとう」
「どうせゆっくり出来るならウチに下宿すれば?
ホテルとか勿体ないでしょう?」
「いつまでも梢に甘えるわけにはいかないよ」
「甘える? 何言ってんの、泊めてあげる代わりに家政夫として働いてもらうってことよ。
番犬としてもね?
女の二人暮らしでしょう? 結構狙われるのよ、下着ドロボーとか。
この前も私と花音のお気に入りのパンティ、盗まれちゃったんだから」
梢の嘘は見え見えだったが嬉しかった。
私はその好意を素直に受けることにした。
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