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第5話

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 梢の家は郊外の住宅地にあった。
 総二階建の小さな家だが母娘で暮らすには丁度良いだろう。


 「15年前に中古で買ったの。
 花音がお嫁に行っても、私ひとりで住んでもいいと思って。
 狭くてボロ家だけど、さあ上がって」

 玄関から犬の鳴き声がした。犬を飼っているようだった。
 梢が玄関を開けると、トイプードルが梢に猛ダッシュで飛び掛かって来た。
 梢の帰りをずっと待っていたのだろう、その喜び様はたいへんなものだった。
 尻尾をちぎれんばかりに振っている。
 梢は犬を抱き上げた。


 「ハイハイ、ただいまベルちゃん。お利口さんにしてましたかー?
 どう? かわいいでしょう? 私のもう一人の娘」

 ベルというそのトイプードルは、私に向き直ると梢から逃れて私の元へ来ようと暴れた。

 「ベルちゃん、ジュンのことが好きなの?
 ほら、おじさんに抱っこしてもらいなさい」

 梢がベルを私に抱かせると、ベルは急に大人しくなった。

 「そうなのー? ベルちゃんはジュンが好きなのー? 良かったわねー、ジュンおじさんに抱っこされて。
 ママもジュンに抱っこされたいなー。あはははは」



 几帳面な梢らしく、突然の訪問にも拘らず、家の中は掃除が行き届き、よく整理整頓がされていた。
 玄関には余分な靴など1足も出ていなかった。


 「ちょっと待っててね? 今、お風呂の用意をして来るから」

 かなり飲んだはずだが、頭は冴えていた。
 今日、私は麻里子が死んだ事実を自分で確かめに行くのかと思うと、やはり心は沈んだ。
 その時、私は麻里子とどう向き合えばいいのだろう?
 果たして私は冷静でいることが出来るのだろうか?


 10分ほどすると、梢が着替えとバスタオルを持ってやって来た。

 「お風呂の支度が出来たわよ。
 下着は前の彼氏の忘れ物だけど、新品だからいいよね?
 私も一緒に入ろうかな? あはははは」

 梢はお道化て見せた。
 私は笑ってバスルームへと向かった。
 脱衣場には梢たち親子の下着が干したままになっており、それはおそらく、梢の悪戯心だったはずだ。

 下着はベージュのおばさんパンツではなく、若い娘の履くような、小さくてかわいらしい物だった。
 私のために用意してくれた着替えの下着は男性物のTシャツと、チェックのトランクスが包装されたまま入れられていた。
 私は湯舟にカラダを深く沈めた。

 乳白色の入浴剤に、久しぶりの長旅の疲れが癒された。
 病気になってからは取材旅行も控えるようになっていた。
 35年ぶりの富山で、麻里子の友人の梢の家に泊まるなど、夢にも思わなかった。

 麻里子のことは今まで一度も忘れたことはなかった。
 私たちは学部こそ違ったが、同じ映画サークルで仲良くなり、大学2年の時から私と麻里子は付き合い始めた。
 それはごく自然なもので、口にはしなかったが将来、私たちが結婚するのが当然だと思っていた。

 麻里子は実家通いだったが、私がアパートのひとり住まいだったこともあり、大学が終わると毎日のように私のところにやって来て、掃除や洗濯、食事の用意までしてくれた。
 かわいいエプロンをして料理を作る麻里子は、まるで新婚の新妻のようだった。
 その頃だった、突然、梢が大学を辞めたのは。
 父親が経営していた会社が倒産し、大学に残ることを梢は断念したのだった。


 「梢、何とか大学を続けられないのかしら?
 あの子も私同様、地元で中学の先生になるのが夢だったのに・・・」


 そして梢はスナックでバイトを始めたので、私のバイト代が入ると、私と麻里子は梢のいるスナック、『アカシア』へ出掛けた。
 最初、しあわせそうな私たちが梢と会うことに躊躇いはあったが、幸いなことに、梢にも当時付きあっていた彼氏がおり、私たちはよく一緒に遊んだりもした。
 そんな梢がある時、ポツリと言った。


 「大学には残りたかったけど、パパもママ、そして弟も頑張っているしね?
 私だけが我儘を言うわけにはいかないわ」

 その時の梢はとても寂しそうだった。


 
 大学を卒業すると私は横浜の貿易会社へ就職が決まり、麻里子は教員採用試験に合格し、中学の数学教諭となった。
 私たちは遠距離恋愛になってしまったが、3年後には麻里子は横浜の中学へ異動し、結婚して横浜で暮らすことになっていた。
 最初の1年は離れていることでより愛は深まり、私たちは毎日のように手紙を書き、長電話をした。
 私たちは慣れない社会人生活に疲れ、受話器を握ったまま眠ってしまうこともあった。


 そして遠距離生活も2年目になった時、事件は起きた。
 会社での飲み会の帰り、2年先輩の立花裕子から、「有村君、もう少し飲んでいかない?」と誘われ、私は酔っていたこともあり、その誘いを気軽に快諾してしまった。

 色んな店を回り、沢山カラオケも歌った。
 色っぽくボディタッチを繰り返す彼女に私は耐えた。
 そのうち気分も良くなりかけた時、彼女は言った。

 「お金ももったいないし、ジュン君の家で飲み直そうよ」

 麻里子に会えない寂しさに性欲を持て余していた私は、彼女の策略にまんまと嵌められてしまった。


 「随分と溜まっているんでしょう? 彼女、富山だもんね?」

 私は何も考えず、先輩を抱いた。


 朝起きて、また行為を続けていると、急に玄関のドアが開いた。

 「ジュン! 驚いたで・・・」

 麻里子だった。
 両手には地元の紙袋を持ち、言葉を失い呆然と立ち尽くす麻里子。
 どうやら麻里子は私を驚かせようと連絡もせず、有給を取って横浜に突然やって来たのだった。


 「もしかして富山の彼女さん?」


 裕子は悪びれることもなく、更にカラダを私に押し付けて来た。
 それからのことは覚えてはいない。
 麻里子は何も言わず、泣きながら富山へ帰って行った。
 こうして私たちの永すぎた春は終わりを告げた。



 梢が脱衣場から声を掛けた。

 「ジュン、大丈夫? のぼせてない?
 ちょっと開けるね?」

 浴槽のドアが開いた。

 「あんまり静かだから溺れちゃったのかと思ったわよ。
 お布団、和室に敷いて置いたから、ゆっくり休んでね? 今日は色々と疲れたでしょうから」

 私は「ありがとう」と口パクで答えた。

 「うふっ 背中、流してあげようか?」

 私は手を左右に振った。

 「冗談よ、じゃあ午後、マリに御線香を上げに行きましょうね?
 おやすみなさい」

 私は深く頷いた。
 それは物言わなくなってしまった麻里子と対峙する覚悟でもあった。

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