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第3話

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 秋になると日暮れは早い。
 17時を過ぎた総曲輪のアーケードには、たくさんの人たちが行き交っていた。
 学生の時、私がアルバイトをしていた喫茶店はビルごと消え、コインパーキングになっていた。

 あの頃、土曜の夜には私がバイトを終わるのを待って、麻里子はカウンターで珈琲を飲みながらマスターと談笑するのがお決まりだった。


 「はいマリちゃん、レアチーズケーキのお裾分け」
 「マスターいつもありがとう。美味しそー」
 「今日の出来は中々いいカンジに出来たからね? 味見してみてよ」
 「いただきまーす」

 美味しそうにそれを食べる麻里子の横顔が目に浮かんだ。



 歩き疲れたので久しぶりに富山の旨い酒と肴で落ち着こうと、近くの鮨割烹の店に入った。


 「いらっしゃいませー!」

 威勢のいい職人たちに迎えられ、私はカウンターに座った。
 私はスマホのメモに「声が出せないのでよろしくお願いします」と打って、仲居さんと正面の板さんにそれを見せた。

 「かしこまりました。ではコースはいかがでしょう? 3,000円、5,000円、8,000円とございます」

 私は左手の指を全部広げ、右手で3つの指を立て、「8」を表現して見せた。


 「では8,000円のコースでよろしいですか?」

 私は微笑んで頷いて見せた。
 35年前にはなかった、落ち着いた高級感のある店だった。
 先付けは越中ばい貝の和え物と紅ズワイガニとイクラ、そしてウニがたらの白子のペーストの上に乗せられた小皿だった。

 酒は『満寿泉』という日本酒の銘柄で、様々な料理に合わせたその酒のシリーズが供され、ワインのように酒の特色に合わせてグラスを変えて出す心づくしが見られた。
 広口の香りを堪能出来るワイングラスに入れられた物や枡に入ったグラス酒、そしてお猪口などに入れられていた物もあった。
 中にはオーク樽で熟成させたという、ウイスキーのような古酒もあった。
 もちろんそれはウイスキーグラスにオンザロックで供された。

 酒に料理を合わせているのか? 料理に酒を合わせるようにも誂える。 それは完璧なまでの料理と酒のマリアージュとなっていた。
 どちらが上で、どちらが下というものではなく、対等にお互いを引き立てあっている。
 そもそも酒と料理はそんな夫婦のように一体であるべき物なのだ。
 それはフランスの名だたるレストランにも優るとも劣らない物だった。

 甘酢梅の餡掛け茶碗蒸し、白えびと甘エビ、ぶり、アオリイカなどが次々と供された。
 アオリイカの隠し包丁は驚くほど繊細で見事な物だった。

 酢飯には赤酢を使い、上品に口の中で解れた。
 ネタにあわせて酢飯の量と握り加減を微妙に変えている。
 素材の下ごしらえは入念に吟味され、平目の昆布〆などは芸術品とも言える代物だった。
 中でも驚かされたのはガリの完成度の高さだ。
 次の鮨へ向かう前に、さっき食べた鮨の記憶を完全にリセットしてくれる。

 その後も本マグロの大トロやウニ、あわびと続き、箸休めにクエやノドグロなどでじっくりと出汁を取った味噌汁は絶品だった。
 最後の締めにはアナゴ、そしてカワハギの肝合えの海苔巻き。そしてデザートには「塩ジェラート」でコースが締めくくられた。


 カウンターから調理場を見ていると、ここの店主であろう板長が、千手観音のように手を操り、それぞれのお客の食べるスピードに合わせて握りを提供していた。
 顧客とのコミュニケーションを取りながら、従業員たちにも的確な細かい指示を与えていた。
 見事だった。

 
 「本日は誠にありがとうございました。
 ご満足いただけましたでしょうか?」

 私は笑って深く頭を下げ、口パクで「とても美味しかったです」とやって見せた。

 「またのご来店を心よりお待ち申し上げております」

 店のスタッフ全員も私に深々と頭を下げて見送ってくれた。
 素敵な店だった。
 ただ旨いだけでなく、この店には客をもてなす温かい心があった。

   
     食べていただく
     食べさせていただく
     

 ここにはお客と料理人のフィフティ・フィフティの信頼関係があった。
 私はとても晴れやかな気持ちになった。



 腹ごしらえを終え、ほろ酔いになった私は以前、麻里子の親友だった梢が大学を辞め、バイトしていたスナックがあったことを思い出し、訪ねてみることにした。

 
 何となく勘を頼りに杖をついて歩いて行くと、見覚えのある通りに辿り着いた。


    スナック『鈴蘭』


 確か前の店の名前は『アカシア』だった筈だ。
 35年も前の話だ、当時60近かったママも生きていれば95になっている。
 店の名前もオーナーも、変わっていてもおかしくはない。
 私は引き寄せられるように店のドアを開けた。


 「いらっしゃいませー」

 そこにいたのは20代前半と思われる、アッシュ・グレーのボブヘアーをした、人懐っこいホステスだった。
 私はスマホを取り出し、


     病気で声が出ません
     ビールを下さい


 と打ってスマホを見せた。


 「そうなんだあ、大変ですね? どうぞお掛け下さい」

 お通しには茄子とミョウガ、オクラの酢の物。そして富山の名産「黒作り(イカ墨を入れた塩辛)」が出て来た。

 「さあどうぞ、お通しになります」

 私はすっかり変わってしまった店内を見渡し、コップに注がれたビールを一息で飲み干した。
 ここにはまだ、私たちの青春が染み付いていた。
 空いたコップにビールが注がれ、私は少しカウンターを撫でた。
 カウンターはあの頃のままだった。


 「お客さん、このお店初めてですよね? どうしてここへ?」


     35年ぶりに来てみました
     昔は『アカシア』という店でしたがオーナーが変わったのですね?


 「35年前かあ、まだ私は生まれてないなあ。
 じゃあ、私のママがこの店でバイトしていた頃かも?
 この店、私たち親子でやってるんです」


     ママの名前は?


 「梢、雪村梢」

 その名前を聞いた時、私はこの娘の顔をまじまじと見た。


 (似ている、確かに口元と目の辺りが梢にそっくりだった)


 「ママ、もうすぐ来るから話してみたらどうですか?
 覚えてるかもしれませんよ、お客さんのこと。
 あっ、ごめんなさい、「書いてみたら」ですよね?」

 その時、店のドアが開き、取り付けられたカウベルが鳴った。


 「いらっしゃい。今、美味しいおつまみを作るわね?」

 レジ袋を提げたその女は、紛れもなく梢だった。


 「ママ、このお客さん、35年ぶりにここに来たんだって。
 覚えてる?」
 「そうなの? 35年ぶり・・・」

 振り向く梢、間違いなく梢だった。
 梢は目を大きく見開き私を見て驚いていた。
 それは懐かしさではなく、悲しい目をしていた。


 「もしかしてジュン君? ジュン君なの!」
 「ママ、お客さん、病気で声が出せないんだって」
 「声が出せない?」


     病気で声が出なくなった
     梢なんだね? 久しぶり
     すぐにわかったよ 相変わらず美人だから
     こんな大きな娘さんがいたなんて驚いたよ


 私は携帯のメモを梢に見せて笑った。
 だが梢に笑顔はなかった。


 「一週間前、麻里子が亡くなったの、病気で・・・」


 私は一瞬、耳もおかしくなってしまったのかと思った。
 梢はそれ以上何も言えず、時間は35年前に遡り、停止した。

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