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第1話

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 牧草の匂いと風にあおられて揺れる草の波間。
 僕と花音かのんはそこへレジャーシートを広げて大の字になり、コットン・キャンディのような積乱雲を眺めていた。

 「空ってこんなに広かったんだねー?」
 「そうだよ、このまま吸い込まれてしまいそうだな?
 普通の生活ではこんな贅沢な空の鑑賞は出来ない、まるで昼間のプラネタリウムを見ているみたいだ」
 「いつも当たり前のように見ている空も、こんな風に見ると何だかとても素敵よね?」
 「ああ、夏空っていいよなあ」
 「うん、好き。夏空も竜馬も」

 花音は僕の手を探り、僕と手を繋いだ。

 「こうして空を見ていると、ふたりで空を飛んでいるみたい」

 僕は上体を起こし、花音を見詰めた。
 眼を閉じる花音。
 僕は花音にやさしくキスをした。

 その時、遠くで放牧されているホルスタインの鳴き声が聞こえた。
 その牛の鳴き声を聞いて、僕と花音は大きな声で笑った。
 つむじ風が吹いて、彼女の薄いグリーンのスカートがめくれた。
 慌ててスカートを抑える花音。

 「見たでしょう?」
 「見てないよ」
 「うそ、絶対に見た!」
 「白いパンツなんて絶対に見てないよ」
 「ほらやっぱり。うふっ」

 僕たちはまた、楽しそうに笑った。
 真夏の高原に、ふたりの笑い声が響いた。
 そして今度は花音も起き上がり、私をじっと見つめて言った。

 「私のこと、好き?」
 「凄く好きだよ、愛している」
 「私のどこが好き? 具体的に言って」
 「かわいいところ」
 「それから?」
 「字がきれいなところ」
 「それからそれから?」
 「そういう、質問攻めにするところもみんな好きだよ、花音」
 「私はね、あなたのことがもっともっとずっーと好き。大好き!
 この大きな空よりも好き。ねえ、キスして」

 僕は花音を強く抱き締め、花音と口づけを交わした。



 それが8年前の夏のことだった。
 花音は永遠の旅に出掛け、僕は独りぼっちになってしまった。
 そして今年も、8度目の夏がやって来た。


 「どうしたの? 田中係長。黄昏ちゃって。
 もうお昼休みは終わったわよ」
 「すみません課長。社食で少し、食べ過ぎました」
 「前田さんが亡くなってから、もうすぐ8年ね?
 短いような、長いような・・・」
 
 花音とは同じ職場の同期だった。
 私たちが付き合っていることは周知の事実だったので、柴田課長もそれを知っていた。


 「ねえ係長。今夜、ふたりで「前田さんを偲ぶ会」をしない? デパートの屋上ビアガーデンで」
 「柴田課長とですか?」
 「私じゃイヤ?」
 「そうじゃありません。課長は家でも忙しいと思ったからです」
 「大丈夫よ。それに今日は何だか飲みたい気分なの。
 じゃあ後でLINEしておくわね?
 さあ、それじゃ夜のビールが美味しくなるように、さっさと仕事を片付けましょうか?」
 「はい」



 僕たちは別々に会社を出て、銀座のデパートの屋上ビアガーデンで待ち合わせをした。

 僕が課長を探していると、課長が手招きをしていた。
 すらりと伸びた長い脚。会社では髪をアップにして留めているので忘れていたが、会社での飲み会の時のように、美しい黒髪を下ろした柴田課長は、まるで女優のように輝いていて、周囲の客たちも振り返るほどだった。


 「まずは大ジョッキで乾杯しましょう。おツマミはやっぱり枝豆と熱々の唐揚げよね?
 すみませーん! ナマ大2つに枝豆と唐揚げを下さい」


 僕と課長は大ジョッキを両手で持ち、花音に献杯をした。

 「天国の前田さんに、献杯」
 「ありがとうございます」

 私たちはゴクゴクと喉をならしてビールを喉へ流し込んだ。
 都会のぬるい夏の夜風が、より一層ビールを美味しく感じさせた。
 ビールを飲む度、課長の白くて細い喉が上下し、それがとてもなまめかしく思えた。


 「あー、仕事の後のビールは最高ねー。
 お風呂上りだともっといいんだけど。うふっ」

 柴田課長は悪戯っぽく笑ってみせた。

 「今日は誘っていただいて、ありがとうございました」
 「ううん、今日は私が飲みたかっただけ。独りで飲む気分じゃなくてね。
 ごめんなさいね? 前田さんを出汁にしたみたいで」
 「いえ、わざわざすみません」
 「まだ彼女のこと、忘れられない?」
 「はい」

 私は素直に頷いた。

 「前田さんはしあわせよね? 8年経っても忘れないでいてくれる恋人がいるなんて。
 でもそれってどうなのかしら? ずっと思われていられるのって。
 私ならイヤだけどなあ。ちょっと重いかも。私のせいでしあわせを放棄している彼って。
 私が恋人だったらの話だけどね?」

 そう言って課長はまたビールを飲んだ。
 私の時間はあの時から今もずっと止まったままだった。

 「僕、他の女性には興味が湧かないんです。花音の時のように心がときめかないんです」
 「そう。係長はまだ若いしね? じっくりと描けばいいんじゃない? これからの未来予想図を。未来予想図Ⅱをね?」

 課長は枝豆を口にした。
 ハワイアンの生演奏とビル風が心地いい。

 「私もね? 北海道での学生時代に好きだった人がいてね? 山の好きなひとだった。
 もう死んじゃったんだけどね? 冬山で」
 「初めて聞きました、そんな話」
 「だから立場は違ってもわかるの、係長の気持ちが。
 私は彼を忘れるまでに7年かかったわ。新しい恋を始められるようになるまで。
 でもね、今でも彼のことは忘れられない・・・」
 「その時の新しい恋人が今のご主人ですか?」
 「ううん、今の主人はその次、二番目。
 彼が死んでから付き合った人とはやっぱり駄目だった。どうしても死んだ彼と比べてしまうのよ。彼ならこう言う筈だとかね? だって、寂しくて付き合った人だったから。
 そしてその後、冷静になって結婚したのが今の夫。
 でも結婚して10年も経つと、ひとりでもよかったかなあ、なんて考えることもあるわ」
 「そうだったんですか? 恋人が死ぬって辛いですよね?
 自分はどんどん年を取って行くのに、彼女は年を取らずに僕の思い出の中で、美しいまま生き続けているんですから。それが辛いです」
 「私なんか女だから特にそう思うわよ。こんな仕事と家庭でボロボロの私なんか、絶対に彼には見せたくはないもの」
 「最近なんです、テレビを見て笑えるようになったのは」
 「人間って不思議よね? ここにいるみんなもいつかは必ず死ぬのよ。
 あのかわいいバイトちゃんも、あそこの禿げたオジサンも。そしてその隣のイケメン・サラリーマンたちもみんな死ぬのよ。そして私も係長も。
 人間ってどうせ死んじゃうのに、どうしてこんな辛い人生を生きているのかしら?」
 「どうしてなんでしょうね?」
 「私にもわからない。生きなければいけないのは何となくわかるわよ、寿命が来るまで死んじゃ駄目だってことも。
 でもそれが何故そうなのか、その理由が私にはわからない。
 すみませーん、お替りくださーい! ナマ大ふたつ!
 ほら、もう温くなったでしょ? 係長も早く飲んで飲んで! 今日は無礼講なんだから!」

 花音が死んだ時、僕は無意識に死のうとした。
 でも出来なかった。
 そしてそれが出来ない自分を僕は責めた。


 その日、課長はかなり気持ち良さそうに飲み続けていた。

 「じゃあそろそろ帰りましょうか?」
 「はい」

 テーブルを立ち、課長と私は屋上のすみから銀座の街を見下ろした。
 頬を夜風が撫でてゆく。


 「田中君、いえ竜馬。ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
 「何でしょうか?」
 「あなた、その死んだ私の彼に似ているの。
 今まで黙っていたけど、もう限界・・・。
 私の名前を呼んでくれない? 私の下の名前を」
 「景子・・・、さん」
 「そうじゃなくて! 「さん」はいらない!」
 「景子」
 「慎也!」

 課長は僕に抱き付き、キスをして泣いた。
 そして僕も課長を抱き締め、思わず叫んでしまった。

 「花音!」

 デリカシーのないクラクションの音が、夜の銀座四丁目の交差点に響いて虚しく消えた。

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