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第34話

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 「美味しくないか? この店?」
 「ううん、美味しいわよ」
 「さっきから上の空だけど? 俺の話、聞いてる?」
 「何だっけ?」
 「クリスマスにハワイに行かないかって話だよ」
 「ハワイかあ、お正月前は混んでるんじゃないの?」
 「雪のない常夏のハワイのクリスマスって好きなんだけどなあ」
 「私は雪の降るホワイトクリスマスが好き。
 アンディー・ウイリアムズの『White Christmas』を聴きながら」

 明美は去年の祐一とのイブの夜を思い出し、遠い目をした。
 それを見透かしたように中谷は言った。

 「今年のイブは俺と過ごして欲しい」 
 
 明美は小鳥がついばむように箸を気怠く動かしながら、金目鯛の煮付けを口にした。
 食欲はなかった。

 そしてついに明美は意を決し、中谷を真っすぐに見詰めて言った。

 「私、やっぱり中谷さんとは結婚出来ない」

 中谷は冷静だった。
 中谷には想定内の出来事だったからだ。
 
 「4人で飲んだあの日から、君は笑わなくなった。
 まだ東野君のことが忘れられないんだね?」

 そう言うと中谷は中トロの刺身を食べ、冷酒を飲んだ。
 
 (別れ話を切り出しても動じることがない。これが優秀なパイロットなの?
 どんなピンチにも冷静に自分を俯瞰し、あらゆる可能性を導き出す・・・)

 「中谷さんはすべてにおいてパーフェクトな人。私には勿体ないくらい。
 一緒に居るととても安心する。
 あなたの操縦するSHIPなら絶対に安全。
 でも、あの人はいつもどこか頼りなげで優柔不断。子供みたいでとっても手が掛かる人。
 どうしても気になってしまうの、彼のことが。
 こんな気持ちのまま、中谷さんとは結婚出来ない」
 「東野君には母性本能が湧くというわけかい?
 でもそれは恋じゃなく、姉や母親としての愛情ではないのかなあ。
 俺は言ったはずだよ、君の気持ちの整理がつくまでいつまでも君を待つと。
 8年も付き合ったんだ、「ハイそうですか?」なんてわけにはいかないはずだ。
 そうだろう?」
 「恋愛って・・・、人を好きになるって常識じゃないのよ、理屈じゃないの。
 自分ではどうしようも出来ない「感性」なのよ。
 自分の心の命じるままに愛するしかないの。
 だからごめんなさい」

 明美はバッグから指輪のケースを取り出し、薬指からエンゲージドリングを外すとそれをケースに収めて中谷の前に置いた。

 「取り敢えずこれは預かっておくよ。
 君にあげた物だしね?
 どうやら明美が彼を忘れるにはまだ時間が掛かりそうだ。
 いつか君が俺と素直な気持ちで向き合ってくれるまで、これは俺が持っていることにするよ」

 普通の女ならその言葉を喜ぶかもしれないが、今の明美には響かなかった。
 誰もが憧れるパイロットの中谷、しかし今の明美には色褪せたセピア色の写真のように、すでに過去の思い出になってしまっていた。



 中谷と別れて山手線に乗ると、再び甦る祐一への想い。
 
 あの日の夜、小雨降るレストランの前で祐一と抱き合い、山手線に乗って祐一の肩に凭れ掛かり、彼の手に自分の手を重ねた。

 明美は祐一の耳元で囁いた。

 「帰りたくない・・・」
 「もう会うのは止めよう、僕たちはもう会ってはいけないんだ」
 「私には祐一しかいないの」
 「中谷さんは明美のことを大切に想ってくれているよ」
 「結婚式のこと、本当はまだ何も決まってはいないの。3月に式を挙げるなんて嘘、ごめんなさい。
 どうしても祐一のことが忘れられない・・・。
 あの人は私じゃなくても平気、でも私にはあなたしかいないの。
 あなたたちがロンドンに行くと彼女から聞いた時、気付いたの。やっぱり私は祐一のことが好きなんだって。
 優子には渡したくない、あなたを・・・」
 「明美・・・」

 電車はネオンの海をぐるぐると回り続けた。
 雨に滲む都会の灯り。

 「愛しているからこそ、君と別れたいんだ。
 君はもっと輝くべきだ、僕ではそれが出来ない。
 カビ臭い研究室で、数式にまみれている僕では君をしあわせには出来ないんだ」
 「愛しているのに別れるなんておかしい。愛していたら一緒にいるのが当然でしょう?
 だったらもっと早く別れてよ! もう私のカラダには祐一が沁みついてしまっているのに!」
 「ごめん、僕にはその勇気がなかったんだ。
 男と女は常識じゃないんだ。永遠に解けない方程式なんだよ、パラメーターは刻一刻と変化して行き、その言葉や態度で好きになったり嫌いになったり・・・。その繰り返しなんだ」
 「不安になったり、また好きになったり?
 でも本当は優子と出会ったからじゃないの? 優子の方が綺麗でやさしくて、おしとやかでお料理も上手だもんね?
 でもあなたを、祐一を想う気持ちは絶対に負けない」
 「恋愛は自分から降りなければいつまでも終わらない回転木馬なんだ。
 この山手線のように、いつまでも同じ場所を走り続けることになる」
 「どうして私たち、別れなくちゃいけないの?」
 「・・・、それは決めたことだから」
 「祐一が勝手に決めたことでしょう?」
 「君は素敵な女性だ、そして中谷さんは君を守ると約束してくれた」
 「彼とはときめかないの、あの人じゃ駄目なの」
 「ときめかない?」
 「女にとって恋愛には「ときめき」が必要なのよ」
 「結婚に必要なものは「ときめき」ではなく「覚悟」だ。
 恋愛には「ときめき」が必要かもしれないが、結婚生活はどちらかが死ぬまで続くものだ。
 いいことばかりじゃない。いや寧ろ辛い事の方が多いだろう、見えない未来にお互いの人生を委ねるんだ。
 だからそれを乗り越えて行く「覚悟」が要るんだよ」
 「私は恋愛の延長線上にあるのが結婚だと思う」
 「僕はそうは思わない。たとえ恋愛で盛り上がったとしても、そこに「縁」がなければ結婚は成立しない。
 結婚する相手は生まれた時から決められているとしか思えない。
 僕たちは「縁」がなかったんだよ」
 「そんなのわからないじゃない? 結婚してみなければ」
 「これ以上、僕を困らせないでくれ。
 僕もこれがギリギリなんだ。わかってくれ明美。
 そうでなければ僕たちはいつまでも恋愛の迷宮を彷徨うことになる。
 出口のない迷宮の中を」

 そう言って祐一は明美の手を握り返した。
 結論が出ないまま、祐一はマンションまで私を送ってくれた。

 「泊まっていかない?」
 「それは出来ない、おやすみ」

 祐一のキスは短く、やわらかな新雪のように冷たかった。

 明美は去って行く祐一の背中を黙って見送った。



 電車に揺られながら、私は指輪の痕が残る薬指に触れた。
 中谷の元へ戻るつもりはもうなかった。
 
 電車の窓から見えるマンションの灯り、そこに若い夫婦と小さな子供の姿が見えた。
 小さな部屋に暮らす家族の笑顔。

 (華やかな暮らしなんて望まない、私が望むのはあんな普通の暮らしなのに)

 溢れる涙を指先で拭った。
 今年もまたイブがやって来る。

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