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渡辺津
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その後、通信たちは宿に入った。
景季は馬を繋ぐと郎等たちに世話を任せ、すぐに出ていってしまった。景高いわく、義経と仲が良いので父親のことを謝りに行ったのではないか、ということだが本当のところはわからなかった。
景季と入れ違いに女が一人訪ねてきた。浮夏である。よく見ると尼のように髪を切り、それを頭の後ろのほうで一つに束ねていた。
「梶原殿はおられますか」
「梶原は、たくさんおりますが」
応対した景高がふて腐れた。景高は浮夏と面識があるのだろう。その上で、あまり良い印象がないのだろうか。通信は、浮夏と景高を交互に見た。
「おいおい次男くん、そんな甲斐性無しじゃ、女にもてないんだぜ」
「女の癖に偉そうにすんなっつの」
「しゃあしいわ。まあ、お父さん譲りってことで、許してやんよ。ぼくちゃん」
「なんだと」
「平次、まってまってまって」
通信は手を上げようとした景高を羽交い締めにした。怒り狂う景高を見ても、浮夏に怯える様子はなかった。むしろ、けらけらと笑っている。豪快な女だと通信は思った。
ひとしきり腹を抱えて笑い転げると、浮夏はおもむろに通信の顔をのぞきこんできた。そして少し首をかしげる。はじめて会ったときにもしていた仕草だ。
「おれの顔になにか」
「あんた、河野のところのせがれ倅でしょう」
「そうです」
「やっぱり」
自分から浮夏の興味が逸れたとたん、羽交い締めにしていた景高がぐったりとおとなしくなった。彼女の天真爛漫な様子に、さすがの景高も反撃を諦めたのだろう。
「あのねぇ、淡路国の南のほうに小さい島があるんだけど」
「沼島?」
「そうそう、よく知ってるね。あたしはその沼島のもんでさ。あの島では女も男も関係ない。潜って獲物が捕れたら一人前」
自分を斜め下から見あげている景高の、平べったい視線に通信は気づいていた。おそらく、うんざりしているから早く切りあげてくれという訴えだろう。
「いまは淡路国の阿万の所に嫁いでるけど、あんたの父親とは何度か会ったことがあるよ」
父の話を他人から聞くのは、本当に久しぶりだった。忠員は通信を気遣って触れないでいるし、七郎にいたっては通信の父、通清のことを知らない。腹のうちがむず痒く、ほんのりと、こそばゆい。通信は視線を落とした。
「ちゃあんと面影、あるんだなぁ。なんだか懐かしいよ。そうか、あんたも海賊か」
源氏方に属しているのであれば、あなたもおれも、いまは官軍ですけど――という言葉を、通信は飲みこんだ。少し前までは賊と罵られてもしかたがない立場だったのは事実である。
「あ、そんなことどうでもよかった。坊ちゃんたち、悪いんだけど火ぃかしてくれん?」
「飯なら土間にでも行けよ。飯炊き女に頼めばいいだろ」
憮然とした表情の景高が、土間の方角を顎で示した。
「貝とってきたから焼こうかなって」
なるほどあま海女でもあるのか――海に潜って魚や貝を獲る女たちはいる。しかし、武士の妾が海女だなんて聞いたことがない。聞いたことはないが、詮索をするのはやめておこうと通信は思った。おそらく話が長くなる。
「食べてもらおうかと」
浮夏は言って、抱えていたたらい盥の中身を景高に見せた。
「だれに」
「君のお父さま」
「なんで」
「え、かわいくない?」
「寝言は寝て言え」
「次男くんもかわいいけど」
「ころす」
「平次!」
通信は、ふたたび浮夏につっかかろうとする景高の腰をつかんだ。暴れる景高を担ぎあげた通信に、浮夏は上機嫌そうにひらひらと手を振ってみせた。
「ありえねぇ」
そのあとも景高はずっと文句を言い続けた。通信に担がれて部屋に投げ入れられたことよりも、浮夏にからかわれたことのほうが、よっぽど腹に据えかねただろう。
「とはいえ、手を上げるのは負けでしょう」
「なんでだよ。男だとか女だとか関係ねぇんだろ」
「そういって、女のくせにって、先に言ったの平次じゃん」
通信の指摘に、景高は口をへの字に曲げた。
「なんなんだよあの糞婆」
「まあ、阿万の妻だしね」
「馬鹿じゃねぇの」
「海女だしね」
「掛てんじゃねぇ、和歌かよ」
「おれ、平次の癇癪に慣れてきたかもしんない。あっはっは」
「うるせぇ四郎。四郎のくせに生意気なんだよ」
言いながら気が紛れたのか、景高がにまっと笑った。
「気分わりぃ。あの女の顔見たくねぇ。ちょっと四郎、呑みに行こうぜ」
「呑みに?」
「おう、江口の女で口直し」
江口の里は淀川河口の宿場町にある。通信たちのいる宿も里の外れに位置していた。宿に来る途中、道すがら見てきたが、家々が軒を連ねており様々な職種のひとが溢れ賑わっていた。
港町、それも国衙に近い町である。賑わいは当然といえば当然だが、その規模が大きいといえるだろう。いまの情勢では飢饉にあえぐ京都よりもはるかに活気があった。渡辺津は西海の、もっとも大きな港のうちの一つである。港にはひとも物資も集まってくる。
通信は景高が知っているという店について行くことにした。たいして距離も離れていないため徒歩である。郎等も連れず二人だけで歩いた。
「ああ、ここだ」
立ち並ぶ館のうちでも一番大きな建物の前で、景高は足をとめた。立派な門柱には、『加賀屋』と屋号が掲げられている。
「お高いんじゃないですか?」
「別にいいっしょ。毎日来るわけでもねぇし。ま、たまには」
景高は軽やかな足どりで館のなかに入った。盥で足を洗っていると、薹が立つか立たないかといった年齢の女が姿を現した。
「お兄さんがた、すみませんけど、ほかにもお客さんが」
「かまわねぇよ、一緒でも。あちらさんが良ければ」
「なら、かまわないと言うてくださってますんで」
ほの暗い廊を通り、几帳をずらして部屋へと招き入れられる。
「げぇ、兄貴」
部屋に入って早々、景高が叫んだ。化粧と酒の匂いに満ちた部屋のなかには、上機嫌そうに頬をゆるませた景季がいた。
「あれ、平次!」
景季が、ぱぁっと花弁がほころぶように笑う。
「雪衣です」
女たちのなかで一番品の良い小袿を来た女が、手をついて頭をさげた。その隣には、くつくつと笑いながら酒を口に含ませている男がいる。
「く……」
「九郎でいい、九郎と言ってくれよ。いまはとくに」
「九郎殿。さきほどは」
通信と景高は頭をさげた。
「いいじゃない、人数多いほうが楽しいよ」
義経がゆるり襟元をくつろげる。ほんのりと上気した頬と首筋に、なんとも言えない艶があった。
「あなたのお兄さんの横にいるのが浮草。で、そっちの背の高いお兄さんの横にいるのが小桜。それから……薄紅、緑野、おいで」
雪衣が呼ぶと奥から女が二人出てきた。薄紅が景高の横に、緑野が通信の横に座る。女たちはみなそれぞれ楽器を手にし、白粉を塗り、作り眉をしていた。
「あれ?」
「お久しぶりですね、梶原平次殿」
場にはもう一人男がいた。田代冠者信綱というそうだ。ほかの二人があまりにも華やかなので目立ちはしないが、人懐っこい笑顔の爽やかな若武者だった。
「田代殿には良く働いてもらったのでな。褒美みたいなものかな」
「いえ、やめてください。九郎殿に褒められると照れてしまいます」
「ふぅん」
景高が口の右端を吊りあげた。
「四郎殿、まさかこんなに早く、あなたとお話しできるとは思ってませんでした」
「あ、いえいえ、こちらこそ」
義経が瓶子をさしだす。通信は一度断ってから杯をとった。
「四郎殿にとって、海とはどういったものですか」
義経の酌を飲みほして、今度は通信が義経の杯に酒を注いだ。
「最近思ったんですけど、潮と馬は似てますね」
「というと」
「まあ、潮はなにしてもこっちの言うこと聞いてくれませんけど。でも、潮は流れがありますから、それさえ読めればいいわけです」
「四郎、ちょっとなに言ってんのかわかんねぇよ」
景高が呆れたようにのけぞって膝を立てた。
「いえ、興味深いですね。わたしは陸上での戦はともかく、舟戦は慣れてませんし」
「逆におれはおか陸のほうはてんでだめです。噂にはよく聞いてましたが、一ノ谷の合戦の話なんかも、おうかがいしてみたいです。あの猛将能登守とやりあったんでしょう」
「まあ、その話はまたいずれにしましょう。にょしょう女性のいる前でせっしょう殺生の話など、怖がられてしまいます」
「まあ、本当にお上手ですこと。京都でもそうやって遊んでらっしゃるのね」
「ははは、参ったな」
雪衣に袖を引かれて、義経は眉をはの字に寄せた。
「そうだ平次、踊ってみせたら」
「いや、なんで急に」
唐突な景季の提案に、景高が首をひねる。
「踊るの、得意じゃない。寒川一之宮では神楽を舞ったこともあるでしょう」
景季の表情を見るに、だいぶ酔いが回っているようだった。
「そうなんですか、平次殿」
義経のおっとりとした声に、景高はむっと黙りこむ。
「はい。平次は、わたしとは違って芸事が得意なんですよ。母親ゆずりですかね」
「ははっ」
景季の応答に、景高が上ずったような笑い声をあげた。そのくせ目がまったく笑っていない。
「あ、おれも母親に似てるって言われるんですよ」
「えっ、失礼ですがどのあたりが」
景高の怒気を察して、通信は咄嗟に横やりを入れた。それに気づいた田代冠者がすかさず拾ってくれる。
「そうねぇ、なんかごつごつしていて厳ついですものねぇ」
田代冠者の横に座る小桜という女が、自らの頬をさす。それを見た薄紅と緑野がくすりと笑った。
田代冠者は非常に気が利くたちなのだろう。さきほどから忙しなく杯に酒を注いだりしている。そういう田代冠者を気遣ってか、小桜という女もまめまめしく働いていた。
「そうか。あなたたち兄弟は、母親がちがうのですか」
「そうですよ。まあ、見たままですけど」
「いや、単純に平次殿はお父様そっくりなだけかと思ってましたよ」
「ああたしかに。わたしは父にはあまり似ていませんものね」
義経が手にした杯を一気に煽る。
「九郎殿はお母様似なのですかね」
「なぜ」
「お美しいと評判だったのでしょう、常磐御前は」
「さあね。よく、覚えてない」
背筋が凍るような声だった。通信は息が詰まるような感覚を覚えた。横を見れば、景高も、景高の隣に座る薄紅の顔からも笑みが消えている。
場が、しんと静まりかえった。しかし殺気を向けられた張本人は、まったく気にもとめず、一人、上機嫌そうに浮草の肩を抱いている。
「小桜、九郎殿に酌を」
気を利かせた田代冠者の声に、小桜が義経の杯に酒をそそいだ。それでも場の空気はどこかひんやりと冷たいものになっていた。
義経の表情はあいかわらず柔和なものだ。酌をした小桜を愛想良く労っている。ただ、景季が虎の尾を踏んだと、だれもが感じていた。
「わたしら楽でも奏でましょうか」
雪衣が澄んだ声で言うと、女たちがそれぞれの膝元に置かれていた楽器を手にした。
ほろり、ほろりと雪衣が爪弾く琴の音に合わせて、小桜と緑野は鼓を、薄紅は鈴を。浮草は笛を奏でる。
音に合わせ、雪衣がいまよう今様を口ずさんだ。ほかの女たちも、くすくすと袖で口元を抑えながら、調子を合わせて歌いだす。
「扇、貸せ」
景高が、すっくと立ちあがった。薄紅から受け取った扇を、そっと胸の前で開く。まるで頭のてっぺんから爪先までが、一本の糸で吊られているようだった。
大きく弧を描くように腕を動かす。頭から首、肩、指先までが、なめらかな線になった。それが、扇の描く円弧で躍動感のある放射に変わる。
雪衣が景高にあわせて歌詞を変えた。指先は淀みなく琴をかき鳴らしている。
鼓の音。
景高は、とんと腰を落とし、爪先で床を踏み、大きく足を払う。
舞う景高は、思いのほか絵になった。たしかに普段から景高は、跳んだり跳ねたりと動きが忙しない。体を動かすことが好きなのだろうとは思っていたのだが、これほどまでの舞手とは想像もつかなかった。
今様はくり返す。鈴の音が、さざ波のように揺れた。
景季が調子をあわせて歌いだす。こちらもなかなか美声だった。
通信はちらり、と義経のほうを盗み見た。さきほどまでのように尖った様子はなく、隣に座る景季とともに歌を口遊んでいるようだ。
そのかたわらで、胸に手を当てている田代冠者と目があった。田代冠者がほっとしたように通信に笑いかけたので、通信も笑みを返した。
「やっぱり平次の舞は綺麗だね」
そう言って、景季が手を叩いていた。
「そりゃどうも」
景季の賞賛を、景高はぶっきらぼうに斬って捨てる。
「すみません」
ほろり、と義経が言った。
「いえ、こちらこそっすよ」
腰をおろすと景高は一気に酒をあおった。もしかしたら二人のあいだには、なにか通じるものがあったのかもしれない。
「大変良いものを見せていただきました。お見事です」
続いた義経の言葉に、景高は耳まで赤くなった。
「照れてる」
「照れてねぇわ」
通信の冷やかしをむきになって否定する景高の様子が面白く、みな腹を抱えて笑った。
そうしてしばらくは和やかな時がおとずれた。今様を歌ったり、連歌をしたり――驚いたのは、義経や景季ならばともかく、景高も和歌に精通しているようだということだった。他人を外見で判断してはいけないということを、通信は深く心に刻んだ。
そのうちに弾みから、各々の幼い頃の話となった。酔いもまわっていたのだろう。景季と景高、そして田代冠者が懐かしそうに同じ話題で盛りあがっていた。
「ずいぶんと親しいのですね」
ほほえましく感じたのか義経が言う。
「はい、従兄弟ですから」
「あ」
「わ」
景季の無邪気な言葉に、景高と田代冠者が声をあげた。
「へぇ、そうなんですか。ふぅん、初耳です」
義経は、微笑を浮かべたまま静かに言った。ただ、その視線が田代冠者を刺している。
「それは梶原殿の動きが、全部おれよりも早いわけだね」
「いえ、その」
「いいんだ。ようやっと納得がいった。君を責めたりはしないし、おれが悪い」
田代冠者は肩をすくめてうなだれた。
「兄貴、馬鹿なんじゃねぇの」
「え? なに、平次」
景高が杯を投げ捨てる。荒っぽく薄紅の手を払いのけると、立ちあがった。
「帰るぜ、四郎」
「あ、ちょっと」
景高の勢いに脅されるように、通信はその背を追った。
一度だけ、振りかえる。
わけもわからず、きょとんとする女たちと、肩を震わせてほとんど泣いているのではないかというような田代冠者の姿が目に映った。
景季は馬を繋ぐと郎等たちに世話を任せ、すぐに出ていってしまった。景高いわく、義経と仲が良いので父親のことを謝りに行ったのではないか、ということだが本当のところはわからなかった。
景季と入れ違いに女が一人訪ねてきた。浮夏である。よく見ると尼のように髪を切り、それを頭の後ろのほうで一つに束ねていた。
「梶原殿はおられますか」
「梶原は、たくさんおりますが」
応対した景高がふて腐れた。景高は浮夏と面識があるのだろう。その上で、あまり良い印象がないのだろうか。通信は、浮夏と景高を交互に見た。
「おいおい次男くん、そんな甲斐性無しじゃ、女にもてないんだぜ」
「女の癖に偉そうにすんなっつの」
「しゃあしいわ。まあ、お父さん譲りってことで、許してやんよ。ぼくちゃん」
「なんだと」
「平次、まってまってまって」
通信は手を上げようとした景高を羽交い締めにした。怒り狂う景高を見ても、浮夏に怯える様子はなかった。むしろ、けらけらと笑っている。豪快な女だと通信は思った。
ひとしきり腹を抱えて笑い転げると、浮夏はおもむろに通信の顔をのぞきこんできた。そして少し首をかしげる。はじめて会ったときにもしていた仕草だ。
「おれの顔になにか」
「あんた、河野のところのせがれ倅でしょう」
「そうです」
「やっぱり」
自分から浮夏の興味が逸れたとたん、羽交い締めにしていた景高がぐったりとおとなしくなった。彼女の天真爛漫な様子に、さすがの景高も反撃を諦めたのだろう。
「あのねぇ、淡路国の南のほうに小さい島があるんだけど」
「沼島?」
「そうそう、よく知ってるね。あたしはその沼島のもんでさ。あの島では女も男も関係ない。潜って獲物が捕れたら一人前」
自分を斜め下から見あげている景高の、平べったい視線に通信は気づいていた。おそらく、うんざりしているから早く切りあげてくれという訴えだろう。
「いまは淡路国の阿万の所に嫁いでるけど、あんたの父親とは何度か会ったことがあるよ」
父の話を他人から聞くのは、本当に久しぶりだった。忠員は通信を気遣って触れないでいるし、七郎にいたっては通信の父、通清のことを知らない。腹のうちがむず痒く、ほんのりと、こそばゆい。通信は視線を落とした。
「ちゃあんと面影、あるんだなぁ。なんだか懐かしいよ。そうか、あんたも海賊か」
源氏方に属しているのであれば、あなたもおれも、いまは官軍ですけど――という言葉を、通信は飲みこんだ。少し前までは賊と罵られてもしかたがない立場だったのは事実である。
「あ、そんなことどうでもよかった。坊ちゃんたち、悪いんだけど火ぃかしてくれん?」
「飯なら土間にでも行けよ。飯炊き女に頼めばいいだろ」
憮然とした表情の景高が、土間の方角を顎で示した。
「貝とってきたから焼こうかなって」
なるほどあま海女でもあるのか――海に潜って魚や貝を獲る女たちはいる。しかし、武士の妾が海女だなんて聞いたことがない。聞いたことはないが、詮索をするのはやめておこうと通信は思った。おそらく話が長くなる。
「食べてもらおうかと」
浮夏は言って、抱えていたたらい盥の中身を景高に見せた。
「だれに」
「君のお父さま」
「なんで」
「え、かわいくない?」
「寝言は寝て言え」
「次男くんもかわいいけど」
「ころす」
「平次!」
通信は、ふたたび浮夏につっかかろうとする景高の腰をつかんだ。暴れる景高を担ぎあげた通信に、浮夏は上機嫌そうにひらひらと手を振ってみせた。
「ありえねぇ」
そのあとも景高はずっと文句を言い続けた。通信に担がれて部屋に投げ入れられたことよりも、浮夏にからかわれたことのほうが、よっぽど腹に据えかねただろう。
「とはいえ、手を上げるのは負けでしょう」
「なんでだよ。男だとか女だとか関係ねぇんだろ」
「そういって、女のくせにって、先に言ったの平次じゃん」
通信の指摘に、景高は口をへの字に曲げた。
「なんなんだよあの糞婆」
「まあ、阿万の妻だしね」
「馬鹿じゃねぇの」
「海女だしね」
「掛てんじゃねぇ、和歌かよ」
「おれ、平次の癇癪に慣れてきたかもしんない。あっはっは」
「うるせぇ四郎。四郎のくせに生意気なんだよ」
言いながら気が紛れたのか、景高がにまっと笑った。
「気分わりぃ。あの女の顔見たくねぇ。ちょっと四郎、呑みに行こうぜ」
「呑みに?」
「おう、江口の女で口直し」
江口の里は淀川河口の宿場町にある。通信たちのいる宿も里の外れに位置していた。宿に来る途中、道すがら見てきたが、家々が軒を連ねており様々な職種のひとが溢れ賑わっていた。
港町、それも国衙に近い町である。賑わいは当然といえば当然だが、その規模が大きいといえるだろう。いまの情勢では飢饉にあえぐ京都よりもはるかに活気があった。渡辺津は西海の、もっとも大きな港のうちの一つである。港にはひとも物資も集まってくる。
通信は景高が知っているという店について行くことにした。たいして距離も離れていないため徒歩である。郎等も連れず二人だけで歩いた。
「ああ、ここだ」
立ち並ぶ館のうちでも一番大きな建物の前で、景高は足をとめた。立派な門柱には、『加賀屋』と屋号が掲げられている。
「お高いんじゃないですか?」
「別にいいっしょ。毎日来るわけでもねぇし。ま、たまには」
景高は軽やかな足どりで館のなかに入った。盥で足を洗っていると、薹が立つか立たないかといった年齢の女が姿を現した。
「お兄さんがた、すみませんけど、ほかにもお客さんが」
「かまわねぇよ、一緒でも。あちらさんが良ければ」
「なら、かまわないと言うてくださってますんで」
ほの暗い廊を通り、几帳をずらして部屋へと招き入れられる。
「げぇ、兄貴」
部屋に入って早々、景高が叫んだ。化粧と酒の匂いに満ちた部屋のなかには、上機嫌そうに頬をゆるませた景季がいた。
「あれ、平次!」
景季が、ぱぁっと花弁がほころぶように笑う。
「雪衣です」
女たちのなかで一番品の良い小袿を来た女が、手をついて頭をさげた。その隣には、くつくつと笑いながら酒を口に含ませている男がいる。
「く……」
「九郎でいい、九郎と言ってくれよ。いまはとくに」
「九郎殿。さきほどは」
通信と景高は頭をさげた。
「いいじゃない、人数多いほうが楽しいよ」
義経がゆるり襟元をくつろげる。ほんのりと上気した頬と首筋に、なんとも言えない艶があった。
「あなたのお兄さんの横にいるのが浮草。で、そっちの背の高いお兄さんの横にいるのが小桜。それから……薄紅、緑野、おいで」
雪衣が呼ぶと奥から女が二人出てきた。薄紅が景高の横に、緑野が通信の横に座る。女たちはみなそれぞれ楽器を手にし、白粉を塗り、作り眉をしていた。
「あれ?」
「お久しぶりですね、梶原平次殿」
場にはもう一人男がいた。田代冠者信綱というそうだ。ほかの二人があまりにも華やかなので目立ちはしないが、人懐っこい笑顔の爽やかな若武者だった。
「田代殿には良く働いてもらったのでな。褒美みたいなものかな」
「いえ、やめてください。九郎殿に褒められると照れてしまいます」
「ふぅん」
景高が口の右端を吊りあげた。
「四郎殿、まさかこんなに早く、あなたとお話しできるとは思ってませんでした」
「あ、いえいえ、こちらこそ」
義経が瓶子をさしだす。通信は一度断ってから杯をとった。
「四郎殿にとって、海とはどういったものですか」
義経の酌を飲みほして、今度は通信が義経の杯に酒を注いだ。
「最近思ったんですけど、潮と馬は似てますね」
「というと」
「まあ、潮はなにしてもこっちの言うこと聞いてくれませんけど。でも、潮は流れがありますから、それさえ読めればいいわけです」
「四郎、ちょっとなに言ってんのかわかんねぇよ」
景高が呆れたようにのけぞって膝を立てた。
「いえ、興味深いですね。わたしは陸上での戦はともかく、舟戦は慣れてませんし」
「逆におれはおか陸のほうはてんでだめです。噂にはよく聞いてましたが、一ノ谷の合戦の話なんかも、おうかがいしてみたいです。あの猛将能登守とやりあったんでしょう」
「まあ、その話はまたいずれにしましょう。にょしょう女性のいる前でせっしょう殺生の話など、怖がられてしまいます」
「まあ、本当にお上手ですこと。京都でもそうやって遊んでらっしゃるのね」
「ははは、参ったな」
雪衣に袖を引かれて、義経は眉をはの字に寄せた。
「そうだ平次、踊ってみせたら」
「いや、なんで急に」
唐突な景季の提案に、景高が首をひねる。
「踊るの、得意じゃない。寒川一之宮では神楽を舞ったこともあるでしょう」
景季の表情を見るに、だいぶ酔いが回っているようだった。
「そうなんですか、平次殿」
義経のおっとりとした声に、景高はむっと黙りこむ。
「はい。平次は、わたしとは違って芸事が得意なんですよ。母親ゆずりですかね」
「ははっ」
景季の応答に、景高が上ずったような笑い声をあげた。そのくせ目がまったく笑っていない。
「あ、おれも母親に似てるって言われるんですよ」
「えっ、失礼ですがどのあたりが」
景高の怒気を察して、通信は咄嗟に横やりを入れた。それに気づいた田代冠者がすかさず拾ってくれる。
「そうねぇ、なんかごつごつしていて厳ついですものねぇ」
田代冠者の横に座る小桜という女が、自らの頬をさす。それを見た薄紅と緑野がくすりと笑った。
田代冠者は非常に気が利くたちなのだろう。さきほどから忙しなく杯に酒を注いだりしている。そういう田代冠者を気遣ってか、小桜という女もまめまめしく働いていた。
「そうか。あなたたち兄弟は、母親がちがうのですか」
「そうですよ。まあ、見たままですけど」
「いや、単純に平次殿はお父様そっくりなだけかと思ってましたよ」
「ああたしかに。わたしは父にはあまり似ていませんものね」
義経が手にした杯を一気に煽る。
「九郎殿はお母様似なのですかね」
「なぜ」
「お美しいと評判だったのでしょう、常磐御前は」
「さあね。よく、覚えてない」
背筋が凍るような声だった。通信は息が詰まるような感覚を覚えた。横を見れば、景高も、景高の隣に座る薄紅の顔からも笑みが消えている。
場が、しんと静まりかえった。しかし殺気を向けられた張本人は、まったく気にもとめず、一人、上機嫌そうに浮草の肩を抱いている。
「小桜、九郎殿に酌を」
気を利かせた田代冠者の声に、小桜が義経の杯に酒をそそいだ。それでも場の空気はどこかひんやりと冷たいものになっていた。
義経の表情はあいかわらず柔和なものだ。酌をした小桜を愛想良く労っている。ただ、景季が虎の尾を踏んだと、だれもが感じていた。
「わたしら楽でも奏でましょうか」
雪衣が澄んだ声で言うと、女たちがそれぞれの膝元に置かれていた楽器を手にした。
ほろり、ほろりと雪衣が爪弾く琴の音に合わせて、小桜と緑野は鼓を、薄紅は鈴を。浮草は笛を奏でる。
音に合わせ、雪衣がいまよう今様を口ずさんだ。ほかの女たちも、くすくすと袖で口元を抑えながら、調子を合わせて歌いだす。
「扇、貸せ」
景高が、すっくと立ちあがった。薄紅から受け取った扇を、そっと胸の前で開く。まるで頭のてっぺんから爪先までが、一本の糸で吊られているようだった。
大きく弧を描くように腕を動かす。頭から首、肩、指先までが、なめらかな線になった。それが、扇の描く円弧で躍動感のある放射に変わる。
雪衣が景高にあわせて歌詞を変えた。指先は淀みなく琴をかき鳴らしている。
鼓の音。
景高は、とんと腰を落とし、爪先で床を踏み、大きく足を払う。
舞う景高は、思いのほか絵になった。たしかに普段から景高は、跳んだり跳ねたりと動きが忙しない。体を動かすことが好きなのだろうとは思っていたのだが、これほどまでの舞手とは想像もつかなかった。
今様はくり返す。鈴の音が、さざ波のように揺れた。
景季が調子をあわせて歌いだす。こちらもなかなか美声だった。
通信はちらり、と義経のほうを盗み見た。さきほどまでのように尖った様子はなく、隣に座る景季とともに歌を口遊んでいるようだ。
そのかたわらで、胸に手を当てている田代冠者と目があった。田代冠者がほっとしたように通信に笑いかけたので、通信も笑みを返した。
「やっぱり平次の舞は綺麗だね」
そう言って、景季が手を叩いていた。
「そりゃどうも」
景季の賞賛を、景高はぶっきらぼうに斬って捨てる。
「すみません」
ほろり、と義経が言った。
「いえ、こちらこそっすよ」
腰をおろすと景高は一気に酒をあおった。もしかしたら二人のあいだには、なにか通じるものがあったのかもしれない。
「大変良いものを見せていただきました。お見事です」
続いた義経の言葉に、景高は耳まで赤くなった。
「照れてる」
「照れてねぇわ」
通信の冷やかしをむきになって否定する景高の様子が面白く、みな腹を抱えて笑った。
そうしてしばらくは和やかな時がおとずれた。今様を歌ったり、連歌をしたり――驚いたのは、義経や景季ならばともかく、景高も和歌に精通しているようだということだった。他人を外見で判断してはいけないということを、通信は深く心に刻んだ。
そのうちに弾みから、各々の幼い頃の話となった。酔いもまわっていたのだろう。景季と景高、そして田代冠者が懐かしそうに同じ話題で盛りあがっていた。
「ずいぶんと親しいのですね」
ほほえましく感じたのか義経が言う。
「はい、従兄弟ですから」
「あ」
「わ」
景季の無邪気な言葉に、景高と田代冠者が声をあげた。
「へぇ、そうなんですか。ふぅん、初耳です」
義経は、微笑を浮かべたまま静かに言った。ただ、その視線が田代冠者を刺している。
「それは梶原殿の動きが、全部おれよりも早いわけだね」
「いえ、その」
「いいんだ。ようやっと納得がいった。君を責めたりはしないし、おれが悪い」
田代冠者は肩をすくめてうなだれた。
「兄貴、馬鹿なんじゃねぇの」
「え? なに、平次」
景高が杯を投げ捨てる。荒っぽく薄紅の手を払いのけると、立ちあがった。
「帰るぜ、四郎」
「あ、ちょっと」
景高の勢いに脅されるように、通信はその背を追った。
一度だけ、振りかえる。
わけもわからず、きょとんとする女たちと、肩を震わせてほとんど泣いているのではないかというような田代冠者の姿が目に映った。
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陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。
神造のヨシツネ
ワナリ
SF
これは、少女ウシワカの滅びの物語――。
神代の魔導と高度文明が共存する惑星、ヒノモト。そこは天使の魔導鎧を科学の力で蘇らせたロボット『機甲武者』で、源氏、平氏、朝廷が相争う戦乱の星。
混迷を深める戦局は、平氏が都落ちを目論み、源氏がそれを追って首都キョウトに進撃を開始。そんな中、少女ウシワカは朝廷のツクモ神ベンケイと出会い、神造の機甲武者シャナオウを授けられる。
育ての親を討たれ、平氏討滅を誓い戦士へと覚醒するウシワカ。そして戦地ゴジョウ大橋で、シャナオウの放つ千本の刃が、新たなる争乱の幕を切って落とす。
【illustration:タケひと】
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
三国志〜終焉の序曲〜
岡上 佑
歴史・時代
三国という時代の終焉。孫呉の首都、建業での三日間の攻防を細緻に描く。
咸寧六年(280年)の三月十四日。曹魏を乗っ取り、蜀漢を降した西晋は、最後に孫呉を併呑するべく、複数方面からの同時侵攻を進めていた。華々しい三国時代を飾った孫呉の首都建業は、三方から迫る晋軍に包囲されつつあった。命脈も遂に旦夕に迫り、その繁栄も終止符が打たれんとしているに見えたが。。。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
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