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建久十年の万馬券
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武士たるもの、鞍上に死するは本懐なり――そういってはばからなかった御家人たちが、みな一斉に馬の背からおりた。
かれらの脳裏には偉大なる鎌倉殿の最期の様子が、あまりにも鮮明に残っていたのだ。
鎌倉殿、源頼朝の死。
あの日、坂東の英雄は鞍上から滑り落ちて死んだ。そのあまりにも呆気のない最期を、かれを囲む大勢の武士たちがながめていた。
雲ひとつなく晴れわたり、正月にしては穏やかな日差しが降りそそぐ、そんな日だった。
元服したばかりの三浦九郎胤義も、倒れ伏す鎌倉殿をとりかこむ人垣のなかにいた。
こんなにも簡単にひとは死んでしまうものなのか、合戦場ならばいざしらず。
そう思うと背筋がぞっとして、おもわず手綱を握る指がこわばった。ちらりとあたりを見回せば、同じように感じたのだろう。歴戦の猛者である父や兄までもが、愛馬からそっと距離をとっていた。
落馬による死――それは、その場にいたものたちにとって、とても恐ろしいことのように思えたのだ。
すぐに二代目として、頼朝の長男である頼家が立った。
頼家が鎌倉殿として朝廷に認められたというのに、大倉御所ではだれもかれもが神妙な顔をしてうつむいていた。その腹のうちでは、みな忸怩たる思いを抱いている。京都の公卿どもが、さきの鎌倉殿の死に様をせせら笑っているという噂が、まことしやかに囁かれていたからだ。
武士のくせに馬から落ちた――そうあざけり笑われることは末代までの恥である。
以来、武士たちは馬の背に跨がることを、忌避するようになった。
馬の背で死ぬくらいなら、愛妾の腹のうえのほうがましだと公言するものまであらわれたくらいである。
また時を同じくして鎌倉では奇妙な噂が飛び交った。
すなわち、「馬とは畜生道に落ちた罪人のなれの果て、穢れた生き物である。その背に乗ることは縁起が悪い」というものである。
すると、それまで人馬一体を究め、馬をこよなく愛した武士どもが、てのひらをかえしたように馬に跨がることをやめてしまった。
かつて、ひとよりも馬のほうが多いとうたわれた鎌倉の街からは、馬糞の匂いが消えた。往来ではひとびとが忙しなく早足で歩き、厩では使役をまぬがれた馬たちがまるまると肥えた。
京都への飛脚はくじ引きで決まり、任命されたものは泣く泣く馬に跨がった。馬も駆けたくないと首をふって鳴いた。
こうして歩行での移動が習慣となりつつあったある日のことだ。
三浦の屋敷にいた胤義は、父に呼びだされた。鎌倉の別邸に、すぐに来いとのことである。はて……と、胤義は首をかしげた。合戦でもないというのに、なにごとだろう。
しかし、ここで考えていても埒があかない。急いで支度をすませると、鎌倉を目指して走りだした。
こういうときは馬での移動が便利だ……頭の片隅に湧いた考えをふりはらう。三浦など近いほうだ。秩父や宇都宮から鎌倉に呼びだされるものたちに比べれば。
胤義は従者とともに走った。胤義は、年齢のわりに大柄でがっしりとした体つきであった。当然、歩幅も大きい。胤義のはやさについて来ることができず、従者がひとり、ふたりと減っていったが、そんなことは意に介さなかった。
ようやく春の兆しがおとずれたといえども、まだ朝晩は底冷えするような寒さが残っている。花の蜜をもとめるひよどりのさえずり。湿った土や、木々の芽吹きの匂い。そういったものを肌で感じながら、おのれの脚で走るのも悪くない。
鎌倉に着くころには直垂が汗や泥にまみれていた。胤義は無頓着に額に浮かんだ汗を袖でぬぐった。最初は十人ばかり引き連れていた従者どもは、気がつけば三人だけとなっている。
胤義の到着を待ちかまえていた下女たちが、かいがいしく汚れた足をぬぐい、直垂を着替えさせる。されるがままになっていると、どこからともなくあらわれた家人に手をひかれ、あれよというまに父、義澄の御前に座らされた。
「おお、来たか九郎。また背が伸びたんじゃないのか。まったく筍のようなやつだなおまえは、わっはっは」
義澄は胤義の姿をみるなり豪快に笑った。そうこうしているうちに酒と肴が運ばれてくる。高坏のうえにはすずきの朴葉焼と蒸した蛤。そこに気持ちばかりの青菜が添えられている。
「今年でいくつになる」
「十六です」
「おれも若いころよく図体がでかいといわれたものだが、おまえほどではなかったかもしれんな」
義澄は目を細め満足そうに膝を叩いた。酒器を手にとり酒器を満たす。
胤義は、義澄が還暦近くに成した子であった。そのため兄たちよりも可愛がられている自覚はあったが、まさか、ただ杯を酌み交わしたいというだけで呼びつけたわけではあるまい。
「父上、本日はどのような」
胤義は早々に切りだした。
「せっかちな。まあ、若いということかもしれんが」
そういって義澄が鬚を撫でる。父が鬚を撫でるときは、なにかいいにくいことがあるときだということを胤義は知っていた。箸もとらずに睨めつけていると、ばつが悪くなったのだろう。義澄は杯をかたむけながら、こういった。
「おまえは騎手に選ばれた」
「はあ?」
胤義は、すっとんきょうな声をあげた。騎手に選ばれたとは、まさか、この時勢に流鏑馬でもやろうというのだろうか。すこし前であれば家をあげての名誉であったとはいえ、いまや、ひとまえで馬に乗るなど名家である三浦のものがやる必要はないはずだ。それくらいしか取り柄のない、下々のものどもに花をもたせてやればいい。
眉間に皺をよせる胤義をみて、思うところがあったのだろう。義澄は一度咳払いをすると、ゆるゆると語りだした。
頼朝のあとを継ぎ十八歳という若さで鎌倉殿となった羽林――源頼家は、父を尊敬し、父が築きあげた鎌倉と民を愛していた。しかし、父の最期を気にして武士たちが馬に乗らなくなったということを知り、これを由々しき事態だととらえたようだ。
頼家は、知恵者であり政所の別当でもある大江広元を呼びだして、開口一番こういったのだそうだ。
「人馬一体でこそ、われら武士ではないのか」
広元は白髪まじりの眉をひそめた。目の前の若者がなにをいっているのかわからなかったのである。広元にとって、武士が好んで馬に乗ろうが乗るまいが、そんなことはどうでもよかった。京からの飛脚が適切に届けば、それでよかった。
「しかし、それもこれもお父上である亡き鎌倉殿が、多くの武士たちに愛されていたという証でしょう」
そう濁して答えると、心中を見透かしたのだろう。頼家は広元をじっと睨めつけた。
「愛あればこそ、坂東の武士として奮わずになんとする」
「はあ」
広元は武士ではない。まして坂東の民ですらない。したがって、頼家のいわんとすることがいまひとつ掴めなかった。困った広元は曖昧に笑顔をつくり、はにかんでみせる。お得意の京仕草だ。
「父は生前、将たるものはだれよりも雄々しくあれといっていた。とくに馬をこよなく愛していた。流鏑馬を神事とし、ことあるごとに巻狩りをおこなっていたのは知っているだろう」
まだ幼さを残す顔立ちとはいえ、大柄の頼家が身を乗りだすと、それなりに迫力がある。広元は萎縮した。頼家には、軽くいなしていると斬り捨てるぞというような、尖った気配があった。
「馬は宝だ。そして馬を自在に操る武者もまた、この鎌倉の宝であると、父がそういっていたにもかかわらずだ。いまの鎌倉をみよ。武士はみな馬からおり歩行立ちだ。春ともなれば鶯のさえずりに負けず劣らず聞こえていた嘶きも、この春はまだ一度も聞いてないぞ」
はて、この殿は和歌の才能もあるのではないか。鋭い言葉のなかに、ときたまぽつりと風流がある。広元は言葉の面影に頼朝をみた気分になった。それが無性に懐かしく、こころがじんわりと熱くなる。
「父の死に様が、御家人たちをそうさせたのだとしたら、たまらない」
そう呟くと、頼家は悲しそうに眉根をよせた。それがまた、広元のこころをくすぐった。元服したとはいえまだ遊びたい盛りの若者が、真剣に御家人たちのことを考えようとしている――そう思うと、そのいじらしさに目頭をおさえざるをえなかった。
「それでは父は浮かばれない。なんとかしなければならぬよなぁ」
「そうですね」
流れでしんみりと相槌をうってしまってから、しまったと気がついた。頼家にしてやられたと歯がみするがもう遅い。
「やはり京都でも知恵者と知られた広元もそう思うか」
自分の息子とさして変わらない年頃の若者が、父親顔負けの駆けひきをするものだ。広元は素直に感心してしまった。
「武士の誇りを忘れてしまったものたちを、いかにして奮わせよう」
頼家がにやりと笑う。そういう表情をしていると本当に父親にそっくりである。広元は腹をくくった。無理難題をふっかけるとき、いつも頼朝は凄んで笑ってみせたものだ。
「鎌倉殿を喪失したという印象を凌駕するほどのなにかが必要でございましょう」
苦し紛れにいうと、頼家が顎をかたむける。
「なるほど。深き闇を払拭するのは、それよりも眩しい光というわけか」
「え」
「ようは、人馬一体というものが、いかに素晴らしいかを思いださせればよいのだろう」
広元は沈思した。この殿は思考の飛躍がすぎるのではないか――しかし、それを口でいってしまうと、それこそ本当に斬り捨てられかねない。歴戦の猛者どもならばいざしらず、自身は非力な初老の小男でしかない。
「であれば、おれに考えがある」
押し黙っていると頼家が眉を片方つりあげた。
「鶴岡八幡宮にて流鏑馬や草鹿をおこないますか」
「いや。駿馬と一体となり、風がごとく駆けることこそが真の人馬一体よ」
「はあ」
「つまりな、純粋に駆けるはやさを競うのよ」
「なるほど、競べ馬のようなものでしょうか」
広元は、なんとか食らいつこうと言葉を捻りだす。
「競べ馬――まあ、そうだな。そうだ! 競馬だ」
「け、い、ば」
軽いめまいを感じて、広元は額に手をあてた。とくに熱はないようだ。ということは、聞き間違いではないらしい。けいば……そんなもの、古今東西有識故実、聞いたこともみたこともない。おそらく唐にも宋にもないだろう。自分の知らないことを当然のようにいう頼家に、広元は愕然とした。眉間に深く皺を刻んだ広元をみて、頼家がきょとんと首をかしげる。
「競べ馬は、赤と白の馬を競わせて、勝ち馬の色から神意を問うものじゃないか。だが、これは亡き父への手向けではあるのかもしれないが、神の意をはかる神事ではない。神を冒涜することはできないからな。名前は変えるべきだろう?」
「あ、ああ。羽林殿下がお考えになったのですね」
広元は平静を装ってうなずいた。鎌倉有数の識者といわれている自分が知らなくてもしかたがないことだということに安堵する。そして、この殿は意外と潔癖なのだなあと思った。神仏に対して清くあることは、為政者としては正しい。なにより頼朝がそうであった。
「まあしかし、八幡神に捧げる催しであることは変わりない。ゆえに八頭立ての競馬としたい」
八頭立てとは、八頭の馬で競わせるということだ。それになにか意味があるのだろうか。広元には頼家の考えていることが微塵も伝わってこなかった。八つの頭、まさか八岐大蛇でもあるまい……と思い至ってはっとする。
その昔、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したとき、その尾から取りだされた剣が草薙剣であるという。この剣は三種の神器として代々朝廷に受け継がれ、熱田神宮に祀られていた。しかし壇ノ浦の合戦で、神器を京都から持ちだした平家一族とともに海に沈んでしまい、ついにみつけることが叶わなかった。ゆえに貴族たちは熱田神宮大宮司の娘を母にもつ頼朝を「草薙剣の現身」といって持て囃した。
つまり、八頭立ての「八」の意は、八幡神の「八」でもあり、八岐大蛇にかけたものでもあり、それを主催……つまり統べることによって、日ノ本におのれが後継者であるということを知らしめようとしているのではないだろうか。みずからこそが現世における草薙剣であると。
否、ひょっとすると頼家は亡き父の思いも汲みつつ、鎌倉全体の権威をより高めるために行動をおこそうとしているのではないか。
頼朝の急死をうけて将軍職を引き継いだものの、頼家はまだ若い。京都では公卿たちが鎌倉の武力をわがものにしようと、あれやこれやと画策しているにちがいない。
しかし、これをおこなうことにより、鎌倉が依然として一体であり、鎌倉殿のもと盤石であると思い至らせることができるのであれば――広元は膝を打った。これは、なにがなんでも成功させなければなるまい。
広元の決心を見透かしたように、頼家が口角をつりあげる。
「ただちに駿馬八頭と、それを操る騎手を選べ」
「かしこまりました。馬は羽林殿下の厩からだしても」
「かまわない。宿老たちがいい馬をもっていれば、それをださせてもよいだろう」
「騎手八名も宿老たちに選ばせましょうか」
「まかせる。それと、騎手は七名でいい」
「馬を八頭、競わせるのですよね?」
「おれがでる」
「は?」
頼家の宣言に、広元は耳を疑った。つい先日、落馬で父が死んだばかりだというのに、なぜみずから危険を冒すのだろうか。もし万が一にでも頼家が落馬しようものならば、武者たちの馬離れはもっと深刻なものとなり、京都と鎌倉の連絡もままならなくなるだろう。
「あたりまえだろう。おれ自身が馬に乗らねばだれも乗ろうとしないだろう。そして、まあみていろ。おれがいっとう、勝ってやる」
なるほど、なるほど。みずからが騎手となることで、選ばれた御家人たちは逃げられなくなるだろう。さらにかれらに勝って一着となれば、まことに強き鎌倉殿であるという印象をより強くあたえることができる。
広元は武者でもないのに武者震いした。そうであれば、騎手は鎌倉で権勢誇る大名家から選ぶべきだろう。そのほうが箔がつく。
「羽林殿下、すべて広元におまかせください」
平伏して御前から引きさがると、広元はすぐに幕府の宿老たちを招集した。
侍所別当の梶原景時や問注所執事の三善康信らを筆頭に、和田義盛、三浦義澄、八田知家、安達盛長、中原親能、二階堂行政、足立遠元、比企能員、北条時政という、鎌倉のご意見番ともいうべきそうそうたるものたちだ。そしてかれらを補佐すべく、頼朝の近侍筆頭であった北条義時にも声をかけた。
翌日、広元を含め十三名の宿老が大倉御所の西侍に集った。
「そういうわけで、羽林殿下と背格好が同じくらいのおまえが選ばれたのだ」
義澄の話には妙な臨場感があった。しかし、あの老獪な大江広元が自分の心情をあけすけに語ったとは思えない。おそらく大部分は父の妄想なのだろうと胤義は思った。
一気にまくし立てながら、口を酒で湿らせていた義澄は、すでにほろ酔いの状態だ。どこまで真実を語っているかは疑わしかったが、わざわざ三浦から鎌倉に呼びつけているのだ。騎手として選ばれたというのは本当なのだろう。
胤義は父の語りの途中から、理解することを諦めた。どうせ政のことはよくわからない。であれば、もとめられたことをするしかない。そんなやさぐれた気持ちもあった。
「なるほど、どうりで。馬でのはやさ競べならば、鞍上は小柄なもののほうが有利だろうに、大柄なおれが選ばれたのはそういう理由でしたか」
胤義は曖昧に相槌をうちながら、頼家の姿を思い浮かべた。がっしりとして背が高く、いかにも頑丈そうな頼家と並ぶ体格の武者は、武士の都である鎌倉といえども、そうそういないだろう。自分に白羽の矢が立ったのもうなずける。
「まったく、親子というものは。此度の羽林殿下の話、佐殿と血の繋がりを感じるわ」
佐殿とは先代鎌倉殿である源頼朝のことである。胤義には馴染みのない呼び名だが、義澄は鎌倉殿と自分との繋がりが深いということを示すように、好んでこの呼称を使っていた。懐かしそうに目を細める義澄の頬は、すでに上気して、耳は真っ赤に染まっている。
胤義は鱸を一口頬張った。すでに冷めてしまっており、ぼぞぼぞとして皮も固い。
「その昔、佐殿が那須で巻狩りをした帰り道、同じようなことをされたことがあったわ。おまえがまだ乳母の乳房を恋しがっているころよ」
頼朝の思い出話を語らせると、義澄は饒舌になる。自分と頼朝との繋がりを誇らしく感じているのだろう。しかし胤義にとっては、それは退屈な昔話でしかなかった。胤義からすれば、頼朝は雲のうえの存在でしかない。なによりその人となりをよく知らない。偉大なひとだということは理解できても、それが自分と結びつくものではない。
「競い馬ですか。なにか神に問いたいことがあったのでしょうか」
いいながら、またおもしろくない話がはじまるのだろうとしらけていた。
「いや、手にいれた馬を自慢したいという無邪気さだな。そのとき帯同していたおれも駆けさせられた。おれたちが追い抜こうとすると、佐殿はむきになって馬の腹を蹴って」
「それで、どうなりました」
「むちゃくちゃにやった結果、佐殿の馬がつぶれた」
胤義は、鱸の身を箸で割った。
「慌てた梶原が、近くの泉で清水を汲んできて馬にかけてやってな。それで息をいれた馬の脚がよみがえって、佐殿は見事に勝利なさったのだ」
義澄が手を叩く。瓶子をもった下女がどこからともなくあらわれて、酒を置いていった。
「佐殿の馬がつぶれているあいだ、ほかの馬はどうしていたのです」
「みなその場で待っていたに決まっているだろう。佐殿に満足していただくことに意義があるのだ」
それって忖度ですよねぇ、という言葉をなんとか腹のうちにとどめて、胤義はうなずいた。
「おまえも御家人ならば、主人に花をもたせねばならん」
「つまり、負けろと」
「わざとらしく負けろとはいっていない。うまくやれといっているのだ」
そういうことかと胤義は曖昧にうなずいてみせた。おまえには多くをもとめない。おまえは兄を支えていればいい――と言外に諭されているようで不快だった。胤義は臍を噛む。鱸の身が朴葉のうえで粉々に砕けていた。
「明日、鶴岡八幡宮寺にて駿馬の抽選がおこなわれる。まあ、とにかく今日はこの屋敷で休め」
そういって、ゆらゆらと上体を揺らしながら笑う義澄に、胤義は小さく頭をさげた。ほんのすこしの苛立ちと寂しさを感じていた。
翌朝、胤義が鶴岡八幡宮寺へ赴くと、すでに人だかりができていた。集められた若者は、みな胤義と同様に大柄だった。そのなかに見知った顔をみつけ、ほっと胸をなでおろす。相手もこちらに気がついたようで、軽く手をあげながら近づいてきた。
「やはり三浦殿も選ばれたのか」
「では、畠山殿も」
「そうだ。騎手になれと」
そういって、勘弁してくれといわんばかりに肩をすくめてみせたのは畠山重保である。無双の勇士と名高い畠山重忠(はたけやましげただ)の嫡男だ。歳も近く背格好も同じようなふたりは、御所に呼びつけられては、しばしば相撲を組まされることもあった。
重保は文武両道でみためもよい。それを羨ましく思いながらも、胤義はこざっぱりとした重保のことを友人として慕っていた。
「みてみろよ。馬がきたぞ」
重保の指さすほうをみる。若宮大路から大鳥居をくぐり、次々と馬がひかれてくるところだった。
「ほら、三浦殿。先頭を歩くあの青毛の馬は、もしや『深黒』ではないか」
「まさか。あの馬をだしたっていうんですか。梶原殿が」
たしか『深黒』といえば、梶原景時がとくに大事にしている馬だったはずだ。京都の公卿がゆずれといっても、かたくなに首を縦にふらなかったという。その名馬をこのためにだしてきたということは、この催事に入れこむ思いも強いということなのではないだろうか。馬に乗るのは気がすすまないが、しかしあの名馬にだったら跨がってみたい……胤義は頬の内側の肉を噛んだ。そうしていないと、だらしのない顔をしてしまいそうだった。
「あの栗毛は『紅大和』――小山殿の自慢の愛馬だ。そしてあの芦毛、『金海波』は佐々木殿のところからだな。なんでも気性が荒くて扱いにくいと聞くが、しかしこうしてみると、なんとも惚れ惚れするような馬体ではないか」
重保が目を輝かせながら馬の名を明かしていく。そういえば重保の父親は嘶きを聞くだけで馬の名前をあてられるということだから、息子の重保もそれ相応に馬のことが好きなのだろう。
普段はおっとりとしていて、丁寧な物腰の重保がはしゃいでいる姿は新鮮だった。もしかすると重保は騎手に選ばれて内心喜んでいたのかもしれない。なんでもできる大人びた重保にも年相応の一面があることを知って、胤義は嬉しくなった。
さらに御所の厩からは青鹿毛の『北山畔』、尾花栗毛の『相馬桜』は父義澄の愛馬だ。黒鹿毛の『鏑矢王』はたしか京都にいたはずだが、わざわざこのために連れてこられたのだろう。
「やっと来たぞ。あの月毛は『新山』だ」
「えっ、新山は畠山殿の秘蔵の馬では」
そういうと重保が、ふふん、と得意気に笑った。いずれも劣らない名馬たちのなかでも、美しい月毛はよく目立っている。
最後にひかれてきた馬をみて、それまで饒舌だった重保が首を捻った。
「あの粕毛はなんだろう」
「畠山殿も知らない馬とは」
「知らんなあ。しかし他が立派な馬だからというのもあるが」
「なんというか、見劣りするような」
その馬は集められた馬たちに比べると一回り小さく、脚も細かった。首がさがりぎみで覇気はなく、戦場で勇猛果敢に走りそうにはみえない。ほかの馬がどれもこれも名馬と呼ばれるに相応しい馬たちである。並べられてしまうと、ぼさぼさとした白のまじったまだらの毛色のせいで、よりいっそうみすぼらしく、惨めだった。
「おまえたち、よく集まってくれた!」
声におどろきふりむくと、本宮のほうから男がひとり歩いてくるのが目にはいる。
「羽林殿下」
だれかの声に、一同あわて膝をつこうと腰をかがめた。
「まて、そのままでよい」
頼家が制止するべく手をかざす。
「集いし勇士たちよ。おまえたちは鎌倉の武士であろう」
唐突な頼家の言葉に、一同は耳をかたむけた。
「鎌倉武士であれば、このような名馬たちを前にして、その背に跨がり駆けたいと思うはずだ。なぜならば、鎌倉武士にとって馬で駆けたいという欲求は、本能そのものだからだ!」
父から話は聞いていたものの、正直なにをいっているのかいまいちわからない――胤義は目を細めた。
「だがどうしたことか。最近では馬離れがおこっているというが、そんなことをしてなにになる。おまえたちはこの名馬たちに跨がってみたいとは思わないのか、思うだろう。そうだ、ときめいたにちがいない」
拳をふりあげて朗々と語る頼家は、集ったものたちのこころを掴んだようだった。あるものは大きくうなずき、あるものは賛同の意を示して胸の前で拳を握っている。
いや待て。おれがおかしいのだろうか。胤義は周囲の熱狂にとまどった。そもそも鎌倉武士の本能ってなんだ。
「すでに聞いていると思うが、ひと月後、若宮大路で騎馬八頭による勝負をおこなう。当然おれも騎手のひとりとして参加するつもりだ。おれたちの姿をみれば、いままで怖じけづいていた御家人たちも、ふたたび鞍上にもどることだろう」
つまり見世物になれということじゃないか。そう思ってしまうおのれは、他人よりもすこし、ひねくれているのかもしれない。
「いまより、くじ引きでそれぞれの騎乗する馬を決める。神前でのくじ引きだ。それは神の裁定なのだと受け入れよ」
頼家の力強い言葉に、みな一同沸き立った。
「おれは不正をする気もないし、おまえたちに勝ちをゆずってもらおうとも思っていない。おれはおれの実力で勝ってやるといっている」
となりでは重保が、正々堂々とした頼家の態度に歓喜している。胤義は短く息を吐いた。
「まずはおれからくじをひく。坊主が順番にくじのはいった箱をもってまわるから、一枚だけ選んでひけよ――なるほど、おれは『深黒』だ」
瞬間、どよめきが境内に満ちた。
「さすが羽林殿下。天運をも掴まれた」
「これはもう、羽林殿下の勝ちは決まったようなものだな」
その場に集ったものどのが口々にいう。
つぎにくじをひいたのは重保だった。
「おれは、『新山』だ、これは嬉しいな」
『新山』は畠山の家の馬だから、相性は良いだろう。なにより馬固有の癖も把握しているはずだ。
となりにいた胤義は、流れでくじをひくようにうながされる。目を瞑り、折りたたまれた紙片をひとつ、つかみとる。
「これは……なんて読むんだろう、おおたつ号?」
「三浦殿は『大辰』ですね」
僧侶の指さすさきにいたのは、あの見劣りする粕毛の馬だった。
これは、走るまえから勝負が決まっているようなものだ。胤義はほっと胸をなでおろす。あの馬であれば勝てなくて当然だろう。どんな着順だとしても、周囲に責められることはない。
しかし『大辰』とは、名前負けも甚だしい。あんなみすぼらしい竜がいてたまるかよ。
すべての騎手がくじをひきおわると、それぞれに馬がひきわたされた。
「ここにいる七人の騎手は、常陸国の美浦牧を自由に使っていい。おれは政務があるので鎌倉からは離れられん。よって、おれは個別に調教も訓練もやらせてもらう。もし、自分の家の牧でそうしたいものがいれば、そうすればいい。ただし勝負のあとは、きちんと馬を馬主に返すように。雌馬に種付けさせるのも禁止だ。ましてや逃がしたり殺したりするなど言語道断。これに違反したものは謀反とみなす」
ずいぶんと厳しいことをいう。しかし、そうでもしなければ、馬を返したくないというものがでてきそうな雰囲気はあった。いずれも日ノ本屈指の名馬たちだ。一度乗れば手放したくなくなるかもしれない。
かつて、名馬『池月』をめぐって佐々木高綱と梶原景季が争ったように、馬離れがすすんでいるからといって、馬の価値そのものがさがったわけではない。ましてここにいるような名馬ともなれば、みているだけでも目が楽しいというものだ。
まあ、おれには関係ないことだ――胤義はふっと鼻で笑った。かたわらでは『大辰』が尻尾をもちあげ糞をしている。
「おのおの馬をひいて帰るがいい。そら、散った散った」
頼家の従者たちにうながされ、その場にいたものたちは、それぞれの屋敷へとさがっていった。
この日を境に、鎌倉は老若男女貴賤を問わず競馬の話題で持ちきりとなった。
世のひとびとはこういった勝負事があると、どうしても賭けをしなければ気がすまないらしい。当然のように鎌倉中の辻という辻で、勝手に賭場をたてる輩がでてきた。
主催者である頼家はこの状況をよく思っていなかった。不正がでては斬り合いになりかねないのが鎌倉武士の性である。
さっそく大江広元に相談したところ、「しらみつぶしに取り締まっても埒があきません。いっそ幕府が公式に賭場をたて、仕切ってしまえばいいのでは」という妙案を得る。
頼家は十三人の宿老たちに命じて、「幕府として公正に賭け事を取り仕切るように」と加えて通達した。
ここに「十三人の胴元」という組織がつくられた。
辻での怪しげな賭博をするよりはと、ひとびとはこぞって幕府に銭を持ち寄ってきた。
しかしそうなると胴元たちは、幕府に集まってくる莫大な銭と情報をさばくことに追われるようになる。
なかでも算術の得意な二階堂行政や三善康信は、朝から晩まで払戻金の倍率を計算しつづけるという事態になった。
あまりの激務に二階堂行政は腰痛をこじらせ、三善康信は泣いた。
こうして割りだされた払戻金の倍率は中原親能が書きうつし、朝の決められた時間に足立遠元によって鶴岡八幡宮寺に掲示された。
さて、銭を賭けるひとの心理は単純だ。すこしでも他人をだし抜いて、確実に儲けたいというものだ。ひとびとは騎手や馬主からより正確な情報を得ようと、ところかまわずかれらにつきまとうようになった。
当然、頼家のもとにもぶしつけな連中が押し寄せるようになったため、頼家はしばしば政務を邪魔されるようになった。
そこで、頼家やその馬に関することについては、厩務をこなす中野能成、馬の調教をおこなっている小笠原長経、鞍や鐙などを奉行する役を仰せつかった比企時員、頼家の近侍である比企宗員、そして宗員の補佐役の一名の、あわせて五名をとおして聞くようにと定めた。
十三人の胴元のなかでも、安達盛長は馬の出自をよく知っていた。そのため、一歩御所の外にでれば、この賭け事に夢中になっているひとびとに囲まれた。話を聞きたいと願うひとびとを引きつけると、盛長は決まってこういった。
「馬もひとも血統がなにより大事さ。たとえば『新山』は母父が『三日月』だろう。『三日月』っていうのは、あれだ。一ノ谷の合戦で鵯越の逆落としのときに怖じけづいて、馬のくせに畠山殿に背負われたっていう――だからちょいとばかし臆病かもしれない。逆にいえば慎重で従順でもあるのかもしれんよ。一方で『深黒』の母父は『磨墨』だ。これはもう文句がない。名馬中の名馬。まずは走るでしょう。対する『金海波』の父父は『池月』だ。因縁の対決、宇治川の先陣争いふたたびだ、滾るだろう。つまり『金海波』は宇治川を渡りきった『池月』の力強さと体力を受け継いでいると考えられる。しかし同時に、『池月』の荒々しさや神経質なところも継いでいるようだから、もしかしたら操作性に難ありかもしれないねぇ」
和田義盛は馬の目利きとして有名であった。ひとびとに囲まれると、義盛は決まってこういった。
「走りそうな馬っていうのは、もうみためがちがうからよ。たとえば羽林殿下の騎乗する『深黒』だ。ありゃあ良い馬だって、だれがみたってわかるだろ。そういう勘が重要なのよ。とはいえ、いざ当日の毛並み、発汗もみて……なによりトモの張りが重要だ。トモっつうのは、まあ尻だな、尻。いい馬もいい女も尻でみわけろよ。ばぁんと張って、でかいのが良い尻ってね!」
義盛のわかりやすい馬体診断はたちまち評判となり人気を博した。義盛が良いといえば、その馬の払戻金の倍率が変動するほどだった。一方で御所女房たちからの好感度はさがった。
競馬の催される道は、梶原景時が選定し整備をすすめていた。その特徴を聞きだそうとしたひとびとに囲まれると、景時は決まってこういった。
「すべての馬がもてる力をだし切れるように、また事故など起こさぬように、現在細心の注意を払い、周辺民家の立ち退き要請および地ならし工事をおこなっております。一の鳥居から駆けだした馬たちは、海を左手にみながら大倉御所のほうへと曲がります。武庫山の麓をすぎて鶴岡八幡宮寺で右折、左手に大銀杏がみえてきたら最終の曲がり角です。そこからが勝負どころとなるでしょう。一の鳥居を一番はやく駆けぬけたものを勝者とします。若宮大路の直線は案外長いぞ」
父義澄が催事終了後の垸飯をまかされ、毎日のように市に出向いては、食材の目利きをしている最中――胤義は『大辰』とともに美浦牧に来ていた。『大辰』を乗りこなすために、しずかなところで向き合いたかったということもあるが、単純に鎌倉の民の熱狂に怖じけづいたのである。
美浦牧には、騎手と馬が続々と集まってきていた。最初は「常陸国まで行くなんて手間だ」といっていたものたちも、ひとびとに追い回されることに辟易したのだろう。『新山』にとって負担の少ない秩父の牧で調整をおこなうといっていた重保ですら、数日前に美浦牧に逃れてきていた。
さすがに鎌倉からここまで追いかけてくるものは少数である。さらに、妨害をしようとするものたちは、警護役をまかされた常陸国守護であり胴元にも名を連ねる八田知家の郎等たちが追い払ってくれるときたものだ。宿老たちの入れ知恵あってのことかもしれないが、頼家も考えたものである。
はじめは騎乗することをためらっていた胤義だったが、仲間たちと競いあっているうちに馬を操る楽しさを思いだしてきていた。
その背に一度跨がれば、ぐんと視界は高くなり、一足蹴って駆けさせれば、まるで獲物を狙う隼の気分を味わうことができる。馬と一体となることは、大地とも空とも一体となることなのだ。
ときおり騎手たちとともに併(あわ)せ馬をおこなうこともあった。いってしまえば模擬戦である。そうすると馬たちは奮い立ったようによく走るのだ。胤義を背に乗せた『大辰』をのぞいては。
『大辰』はとくにでだしで突きはなされた。距離をあけられると、みるみるやる気を失う。腹を蹴っても鞭を打っても、これ以上やっても負けて当然なのだから、もうなにもしたくないというように脚を緩めた。
「その馬では負けてもしかたがないだろう。三浦殿の腕が悪いわけではないよ」
重保の慰めが唯一の救いだった。本番、せめて走ってくれさえすればめっけもの……その程度に考えようと胤義はうつむいた。
『大辰』の首は他の馬に比べて長く、いつも低い位置にある。『新山』のように堂々としておらず、その姿は卑屈ですらあった。粕毛のみすぼらしい馬。こんな馬がなぜ名馬たちにまざっていたのか。この馬を八頭のなかにねじ込んだ馬主に、激しい怒りすらおぼえた。
おれだって、『金海波』に跨がっていれば。いや、『相馬桜』に跨がっていれば。仲間たちからよせられる同情にへらへらとした作り笑いを浮かべながらも、こころに澱がたまっていく。
それも、乗ることすら忌避していた馬に、こころを揺さぶられている――胤義は苛立った。『大辰』はわれ関せずとでもいうように、草を食んでは唇を鳴らし遊んでいる。
「おい、おまえたち知っているか?」
ある日、八田知家がやってきて胤義たちに一枚の紙をみせた。
「払戻金の倍率だよ。倍率が低ければ低いほど、注目されているということだ」
なんだ、どうした、自分にもみせろ、と騎手たちが集まってくる。
「やはり羽林殿下は圧倒的人気だな。これでは羽林殿下の『深黒』に賭けても、ほとんど儲けはないんじゃねぇか」
中途半端に顎髭をたくわえた騎手が、ため息をついた。
「そういうことになるな。つぎからはほぼ団子だ『新山』と『北山畦』が行ったり来たりで、『金海波』はそれを追うかたちだな。わざわざ京都から呼び寄せた『鏑矢王』も期待値が高そうだ。『相馬桜』、『紅大和』も横並び。しかし」
その場に集った全員が胤義をみる。
「か、考えようによっては、おもしろいじゃないか三浦殿。大穴だぞ、大穴」
取り繕う重保の優しさが、むしろ痛い。けれども予想できていたことだ。こんなみすぼらしい馬、だれが賭けようと思うだろうか。
その日の夜、胤義は厩舎へと足を運んだ。やり場のない、くさくさとした気持ちを『大辰』にぶつけたかった。体も小さく、毛並みも悪い。走ろうという気配も感じさせず、ともすれば怠けようとする。最初から諦めている。おまえなんて場違いな馬なのだ。
宵闇のなかで罵ると、『大辰』が舌をだした。馬鹿にされているようで、おもわず手をあげそうになるが、それをぐっと堪えた。
しかたがない、負けてもしかたがないのだ。だれもがそう思っているし、おれの面子はつぶれない――胤義は直垂の袖を握りしめた。
そんな日々を送っていたころ、胤義のもとに頼家の使者があらわれた。使者がいうには、頼家が「胤義と話がしてみたいから連れてこい」といったとのことだ。
あまりの人気のなさに哀れんだのか、それとも単なる興味本位なのか、晒しものにしようとしているのか……その真意は定かではなかったが、鎌倉殿の命に逆らえるわけがない。 胤義はしぶしぶ『大辰』の背に乗ると、鎌倉へと向かった。
大倉御所に着くとすぐに、比企宗員が出迎えてくれた。宗員は『大辰』の手綱を手際よく厩に繋ぎ、胤義を坪庭のある部屋へとおすと、なにもいわずに去っていった。
庭から吹きこんでくる風が、そよりとして気持ちがいい。茜色の空にうつろう雲が、ゆったりと流されていく。皐月の夕刻。気がつけば、ずいぶん日が長くなってきている。明日も晴れるといいなぁ……ぼんやりと考えていると、御所女房が燭台に火を入れてくれた。遠くにちらちらとみえる篝火は、西侍のものだろうか。きっといまも父たちが、忙しなく働いているにちがいない。
「おう、よく来たな。胤義」
はっとしてふりむくと、いつのまにか頼家が着座していた。あわてて居住まいを正すと、頼家は満足げにうなずいて、ひとつ、ふたつ、手を叩く。
「牧の様子はどうだ」
「はい。馬も騎手も、みな切磋琢磨しております」
頼家が目を細めた。この若き権力者がなにを考えているのかわからずに、胤義は怖じけづいた。
「しかしながら、きっと勝利をお収めになるのは、羽林殿下と思いますれば」
そういって平伏する胤義をみて、頼家がなんともいえない表情を浮かべた。
「ほんとうにそう思っているのか」
「え、それはもちろん。自分は勝ちを狙おうとは」
「おもしろくないことをいう。おまえ、それでも三浦のおとこかよ」
胤義はおもわずむっとした。ぴくりと眉をつりあげた胤義のことを気にもとめずに、頼家がさらに言葉を重ねる。
「重保をみろ。あいつは本気で勝ちを狙ってるぞ」
おれだって、『新山』に跨がっていたらそう思ったでしょう。けれど、『大辰』ではだめだと思います。弱音を吐きそうになって唇を噛んだ。
「そうでなければおもしろくない。おれはおれに本気で向き合うやつのほうが好きだ。かつて父が那須で巻き狩りをした帰り道、その場にいた者どもと競い馬をしたという。父も御家人どもも本気で駆け、そして父は勝ったのだ。父はおれによくその時の話をしたものだ」
それは、そういう話じゃなかったと思うのですが――胤義は、喉まで迫りあがってきた言葉をのみこむ。
「人馬一体。それでこそわれら武者というものではないか」
ふしぎと、その言葉だけは胸に響いた。
馬に乗ることで、おれたちは自然と、神と一体となるのだという感覚は、わからなくもない。馬とともに生きる、それを忘れてはならないという頼家の考えを、いまではよく理解できている。
目の前で頼家が首をふった。ばつの悪そうな顔をして、ちらりと胤義の表情をのぞきこむ。
「ああ、いや、すまん。今日おまえを呼び寄せたのは、実をいうとおれではないのだ」
頼家の背後。おろされていた御簾がふわりと揺れる。衣擦れの音とともに、部屋に白梅の香りが満ちた。
「わざわざごめんなさいね、わたくしが殿下にわがままをいいました」
御簾の隙間からこぼれでた、襲の色目は花菖蒲。やわらかく透きとおる声が、女の若さを物語っている。姿こそみえないが、胤義のこころを掴むには十分すぎるものだった。たじろぐ胤義をみて、頼家がにやにやとしている。
「三浦殿、『大辰』はよく駆けておりますか」
しゃらんと、神事で鳴らされる鈴のような声に聞き惚れて、咄嗟に言葉がでてこない。どくりと、こころが波打った。みるみる顔が熱くなっていく。
「ええっと」
「あの子は走ると思うのですけれど。馬体は小柄ですが、太腿のあたりがすっとしていて、後ろ脚の関節のところがまっすぐで。顔も穏やかで可愛くて、たしかに覇気のある子ではないのだけれど、合戦場ならばいざ知らず、走るだけならばああいう子のほうが」
頬をかく。この姫に併せ馬での『大辰』の様子を伝えていいものだろうか。おずおずと頼家をみる。頼家は口元を手で覆い、小刻みに肩を震わせていた。
「いえ、もうしあげにくいのですが、『大辰』ははやくありません。とくに初速がありません」
そう、素直に伝えた。
「そうでしょうね。だってそういう脚よ、あれは。けれど今回、梶原殿が整備した道ですが、思いのほか長いと思うのです。ですから初速が乗らなくても、ゆるゆると伸びてくるような走りかたの子のほうがむいていると思うのです」
それまで口をとざしていた頼家が、顎をさすりながら口角をもちあげる。
「なるほど。たしかに一理あるかもしれないが、そういう意味では『金海波』も走りそうだと思うがね。しかし、『大辰』の首が良くないとおれは思う。馬の頭はぐっとあがっていたほうが好ましい」
「戦場ではそうでしょう。けれど、此度ははやさを競うのです。鼻差で勝敗がつくということもありましょうから、首を雄々しく立ちあげるように訓練されている合戦場むけの馬はむしろ不利ではないでしょうか」
姫にそういい返された頼家は、「ふうん」とおもしろくなさそうに相槌をうって、脇息にもたれた。
「はたしてそうだろうか。首を高くあげる馬は、馬体が大きくみえるし、他の馬を威圧するような気迫も備えている。比べて首をさげて歩く馬は牧などでもいじけたようにしているではないか」
「それはそうかもしれませんが、馬が好きでみていて思うに、馬は駆けるときには首をさげるものでしょう」
「おまえはわかっていない。馬というものは本来、群れているものなのだ。強いものがいれば、弱いものはそれになびき怖じけづく」
頼家と姫の論争についていくことができずに、胤義は焦った。額を床にこすりつけ、なんとか言葉を絞りだす。
「お言葉はありがたいのですが、それでも難しいと思います。羽林殿下の『深黒』にはおよびません」
こんなことしがいえない自分が惨めで、悔しかった。御簾のうちの姫はそれを聞くと、「そうですか」とだけ短くいった。
幻滅されてしまっただろうか。弱虫だと軽蔑されただろうか。急にずきりと胸が痛んだ。理由はよくわからない。腹の底から苦く重たい、それでいて熱いものが迫りあがってくるような、奇妙な感覚におそわれる。
「殿下にわがままをいったかいがありました」
するりと襲が御簾のうちにひっこんだ。ふたたび衣擦れの音がして、姫がこの場を去ろうとしていることがわかった。 もうすこし、話を続けていたい。もっと、あなたのことが知りたい。けれど、これ以上嫌われるのもいやだ。
「われながら、ふがいなく」
その一言しかでてこなかった。鼻の頭がじわりと痛む。
「いいえ。むしろわたくし、とても気に入りました、三浦殿。わたくし、『大辰』とあなたに全財産を賭けさせていただきます」
ほら、やっぱり嫌われた。平伏したままで、姫の言葉を反芻する。そう、おれにそんな価値はない。全財産を賭ける価値なんて……賭けると決めた。もしかして、そういったのか、このおれと『大辰』に。
あまりのことにおもわず跳びはねた。目の前では頼家が、腹を抱えて笑っている。
「おれに賭けずにほかの男に賭けるというのだから、まったくこの女は」
「いま一番の人気は『深黒』です。つまり殿下に賭けたとしても、わたくしの取り分は微々たるものとなりましょう。比べてて『大辰』と三浦殿はどうです。それに、三浦殿には奮起していただかなければ。そうでないと、殿下もおもしろくないでしょう」
「鎌倉中の富と羨望、そして怨嗟をも手にしたいと」
「欲深い女と蔑みますか」
「いいや。それでこそ鎌倉一のいい女だ」
姫は去ったが、白梅の香りがかすかに残っている。その残り香を胸いっぱいに吸いこんだ。
「惚れたか?」
いたずらそうな、人懐っこい笑みを浮かべて頼家がいった。
「い、いえっ、まさか」
「馬鹿か。耳まで赤くしてやんの。鬚もはえていないような子供にゃまだはえぇよ」
そう仰いますが、おれと殿下はそれほど年の差、ありませんよね――と、むきになってむくれてみせると、頼家が心底楽しそうに笑った。
女心なんて知ったことではないし、好いた惚れたも正直よくわからない。
ただ嬉しかった。だれかにみていてもらえるということが、こんなにも力になる。
「なんのために、と思っているか」
頼家に顔をのぞきこまれる。
「いや、まあ」
「あいつがおまえを気に入っているから、じゃあだめなのか」
「羽林殿下、おれは」
とりとめのない言葉が、かたちにならずに砕け散る。
「あいつが入れこむ馬と男だ。そういうやつが戦士にならずに朽ちるなんていうことは、ゆるさないといっている。わかるか」
「わかりません」
きっぱりと胤義がいうと頼家は「これだから子供は」と舌打ちをする。
「いいか。おれはおれが勝つつもりでいるが、同時におれの女を泣かせるようなことはしたくないわけだ。おまえがそうやっていじけていたら、おれの女が泣くことになる。それは絶対、だめだろ」
いったい、なにをどうしろというのか。しかし、あまりに欲深いことをいう頼家が、素直すぎて憎めない。
「だから、おまえ。おれに勝つ気で、死に物狂いでやれ」
「まさかとは思いますが、そのためだけに……おれをたきつけるためだけに、姫にも会わせたというのですか」
「そうさ。あいつは鎌倉一の女だ。役得と思え」
「横暴だ」
胤義は今度こそ本当に泣きそうになった。さきほど感じていた喜びが、夢幻であったかのように、気持ちがしおしおととしぼんでいく。
「じゃあなにか。どうすれば本気になるんだ。おまえが勝ったらあいつをくれてやるとでもいえばいいのか」
「それはちがう!」
あまりの言葉に、かっとなって声を荒げる。しかし頼家は胤義のそういう反応を予想していたようだった。
「ハハハ、うぶなやつ」
軽くあしらわれて途方にくれる。恥ずかしさのあまり、いますぐ逃げ帰ってしまいたい。
「殿下、これ以上は耐えられません。姫君ともども、からかわないでください」
「からかってなんかいない。おれもあいつも本気だと、さっきからいっているだろう」
白梅の香りが、頼家の直垂の袖からも香ってくる。それに気がついたとき、こころが締めつけられた。そんなこといわれたって、勝てるはずもないという諦めの気持ちとは裏腹に、どうしようもなく想ってしまう。滾ってしまう。
あのひとに、失望されたくないのだと。
本当は、勝ちたいのだと。
頼家の御前からさがり、『大辰』を連れて帰ろうと厩をおとずれたときだ。夜もふけているというのに、ひとの姿をみつけた。そのひとは『大辰』になにか話しかけながら、たてがみを梳いているようだった。
「あの」
声をかける。ふりむいた人物の顔をみて、胤義は硬直した。
「北条殿」
「おう、六郎の弟。調子はどうよ」
北条義時。胴元に名を連ねるこの男と、胤義の兄は朋友だった。兄絡みで顔をあわせることも多かったが、胤義はこの男が苦手だった。どこかぼんやりとしていて、なにを考えているのか掴みづらい。
「調子もなにも。馬がこれでなければ……いったい馬主はどこのどいつなんでしょう」
「おれだが」
「そうでしたか。えっ」
背筋を冷たい汗が流れおちる。これは、まずいことをいってしまった。ちらりと義時の表情を盗みみる。義時は、怒るでもなく呆れるでもなく、胤義の瞳をまっすぐにみつめ、そして薄い唇をいびつにもちあげた。
「この『大辰』は、いざというときにだれよりもはやく、どこまでも遠くに逃げおおせるために手にいれた最高の馬だぞ」
「そうなんですか……ええ、いまなんて」
義時は『大辰』を最高の馬だといったのか。それは、馬主としてそう思いたいという心理が働いているのかもしれない。しかしながら、逃げるとは。なぜ戦うでなく逃げる前提なんだろうか。ぐるぐると考えていると、それを察したのか義時がひとつ咳払いをした。
「それよりも、こんな夜中になにしてるんだ、おまえ」
「それが」
胤義は、いまあったことをすべて、あらいざらい義時に話した。
「へぇ。あの女、みる目があるじゃねえか」
おまえとちがって――とつけたして、義時が満足そうに『大辰』の首筋を撫でる。
「こいつは、もとはといえば成田山新勝寺の奉納神馬だったのさ。たまたまおれが参詣した日、こいつはそこの馬房を脱走してよ。捕まえてくれって坊主どもに頼まれたから、追いかけたんだが、まぁ捕まらない。追いついたと思うとするっと脚が伸びやがる。気にいったんでな。数人で追いこんで、捕まえて、そのままうちに連れて帰ってきた」
「罰が当たればいいのに」
「おれはきちんと捕まえただろ」
義時が、むくれて口をへの字に曲げる。
「たしかに、こんなに首がさがっていちゃあ、矢避けの盾にもならねぇよ。見栄えも悪いし、合戦には向かねぇだろう。それにちょいと駆けるだけならそんなにはやくもねぇ。ただ、粘り強さはどの馬よりもある。戦じゃねぇんだ。果敢さなんていらねぇよ。おれだって胴元になんざ指名されなかったらおまえとこいつに賭けてるよ」
そう呟いて肩をすくめると、義時はくるりと背をむけた。
「まあなんだ。騎手のおまえが諦めたら、そいつは走ろうとしている馬に対する裏切りってもんだからな」
そういって去っていく義時の背中には、蓄積された疲労がみてとれた。頼家の思いつきとはいえ、自分たちのために遅くまで働いている大人たちに忍びない。胤義は、御所をでた。
今日は十六夜だろうか。青白い月の光が照らす若宮大路をながめる。
辻に焚かれた篝火。武者どもの喧噪。道端に座りこむ乞食。好色家の乱痴気。甘い化粧と酒の匂い。食い物をあさる野良犬。浜にうち捨てられた屍体。この世の洞のように暗い海。
そのすべてを抱く、都市鎌倉。
胤義は、由比ヶ浜へと向かった。『大辰』の蹄が砂をかいた。気持ちを汲んだかのように、自然と駆け脚になる。
おれは、いままで間違っていたのだろうか。
景色がこすれた。はやく、はやく、ただはやく。軽やかに馳せる。
薄闇のなかで、さざなみよりも軽やかに、風を飛び越えた。
親父は負けろというし、仲間たちにはその馬では勝てないといわれ、勝てなくてもいいと思っていた。否、おれはおまえからも、逃げていただけなのだろうよ。
ああ、おまえ、走れるじゃないか――たてがみにしがみつく。いにしえから絶えまなく続いているだろう潮騒が心地よかった。はかなげな月の光をまとった泡が、よせ集まっては膨らんで、はじけては渦のなかに消える。
湿った生臭い風と砂。すぐそばにある、相棒の息づかい。そのすべてとひとつになって。
ふいに涙が頬をつたった。乱暴に袖でぬぐう。
叫びたかった。吠えたかった。衝動が、体中を駆けぬける。
義時は、『大辰』は走る馬だといった。
けれど、それはちがう。きっと『大辰』は、乗り手の感情に敏感なのだろう。負けてもいい、勝てなくともかまわない。そういう胤義の弱さが、『大辰』の脚を止めていたのだ。
ひょっとすると天命だったのかもしれない。おれと、おまえ、似たものどうしの半端もの。もうじき鎌倉(ここ)を駆けぬけ、そして飛びだすのだ。
もとめられることも、もとめることも、怖いことだと思う。どうあがいても傷ついて、痛みを抱えなければならない。
けれども、それでも。
「もうおれは諦めないよ、相棒」
そういって首筋を叩くと、『大辰』はかすかに首をふった。
美浦牧にもどると、すぐに騎手たちに囲まれた。頼家になにをいわれたのか、その日なにがあったのか。そういうことをみなが口々に聞いてきた。
しかし、胤義はただ相槌をうつだけで、なにも言葉にしなかった。言葉にしてしまったら、決心が逃げていってしまうような気がしたのだ。
そして、それまで以上に、『大辰』の手綱をとって駆けつづけた。『大辰』と呼吸をあわせるように。『大辰』にみずからの鼓動をおぼえさせるように。繰りかえし繰りかえし牧を駆けた。
もう他の馬のことはどうでもよかった。ただ、ひとりと一頭が折り重なるように、より通じあうようにと、それだけに専念した。
そういう胤義をみて気が狂ったという騎手もいたが、重保だけが、「いい競争相手になりそうだ」といってくれた。その言葉が、なによりも胤義を勇気づけたのはいうまでもない。
ふと夜、澄んだ星空をみあげるとき。朝、草々のまとう翡翠のような露をみたとき。胤義は白梅の香りを想った。
きっとはかなく褪せていくだろう自分の気持ちを、こころのうちに無理矢理刻みつけるように、馬蹄で土を蹴りあげた。
そんなことしかできない自分がはがゆい。けれど誇らしく思いたかった。
後悔だけは、したくなかったのだ。
決戦の日。
八頭の馬と八人の騎手が鶴岡八幡宮寺で、ふたたび相まみえる。その日の空はどこまでも青く澄み渡っていた。
このハレの日を、鎌倉中の民という民が待ちわびていたのだろう。若宮大路をはさむようにして、大観衆が詰めかけていた。その熱気が歓声となってうねり立ちのぼっている。それが、まるで昇り竜のように胤義には感じられた。
「さあ、行こう『大辰』おれとおまえは、あの歓声をすべて喰らって、本当に、天を駆ける竜になってやろうじゃないか」
北条時政が赤い旗をかざす。準備が整ったということだ。
一番内側に『紅大和』そのとなりに並ぶは『金海波』続いて『北山畦』『深黒』は落ち着きがないか『相馬桜』それを横目に『新山』『鏑矢王』そして大外に『大辰』とすべての馬が一の鳥居に並んだ。
比企能員が綱をひく。それを合図に、一斉に馬たちが駆けだした。
出遅れたのは『金海波』観衆から悲鳴があがる。颯爽と先頭に躍りでたのは『紅大和』列は縦に大きく伸びて、一番人気の『深黒』は三番手につけている。そのすぐうしろにぴたりとはりついた『新山』騎手の重保の手綱さばきは、やはり巧みだ。
大銀杏が左手にみえてくる。この時点で『大辰』は六番手の位置をとっていた。
地響きのように轟く馬蹄。鞍を並べるのは、いずれも劣らぬ名馬どもである。馬の荒い息遣い。飛び散る汗。声を荒げる騎手たちの駆けひき。
目の前を行く馬の蹄が土を蹴りあげる。砂利が胤義の額をかすめた。まだだ、焦るな、まだはやい。掛かりそうになる相棒の手綱をひく。
斜め前を馳せる頼家をみる。視線に気がついたのか、頼家もまた胤義をみた。まだ余裕がありそうだ。相棒に息をいれさせる。
削りとられていくような景色。耳を引きちぎるような風。心の臓に響きわたる振動。ああ、とてもいい。額からしたたる汗をぬぐった。否、血がでているのかもしれない。そんなことはどうでもいい。
大銀杏を過ぎ去って。さあ、ここからが勝負だろう!
鞭を打つ。瞬間、ぐんっと視界が広くなる。遠くのほうに、きらきらと輝く海がみえた。一気に馬群を押しのけて、いま、先頭にたったのだ。
「おもしろい、そうこなくては」
そう叫んだのだろうか。頼家が漆黒の馬体に鞭を打った。 二頭の獣がぶつかりあう。潮風をまとい、歓声すらも置き去りにした。勝ちたい。その意地だけで駆けぬける。
ふたりのあいだには、ただどうしようもない昂揚しかなかった。この時が、いつまでも続けばいいのに――。
大外から一気にまくってやろう。胤義は馬首を押し、鞭をいれた。どっと勢いをつけて、一馬身、二馬身。脚がするすると伸びた。一気に抜いて、先頭にたつ。しかし、そうそう甘い相手ではない。視界の端に黒い塊をとらえた。墨のように美しい青毛の馬が、疲れなどお構いなしに、とんでもない勢いでつっこんでくる。
いままでだれもみてくれなかった。いつだって一族の期待の中心には兄がいて、末子の自分は愛されてはいたものの、見向きもされなかった。へたに目立つくらいなら、二番手以下であるように。たとえ力があったとしても、頭数でいるように。ただ兵士であればいい。
それをもとめられてきたのだから、それが当然だと思ってきた。すこしの悔しさを飲み干せば、そういう生きかたは楽でもあった。そこにあぐらをかいていたのは事実だ。
でも、それじゃあだめなんだ。
そんなんだから、負けるんだ。
だから、おまえ。こんなところで負けるたまじゃねぇだろう。おれとおまえで鎌倉中を裏切るんだ。
首を押す。頼家が詰め寄ってくる。その顔は、笑っていた。勝たせるものかと互いに競りあう。歓声に包まれて、鳥居はもう目の前で――
駆けぬけて、ふりかえる。
頼家が空を仰いで、それから、日の光に負けず劣らずの眩しい笑顔を胤義にむけた。その表情には一点の陰りもなく、こころからの賞賛があった。
ああ、勝ったんだ。
けれどもその澄んだ笑顔に、自分は勝てないのだと悟ってしまった。
鞍上の胤義は、たてがみに顔をうずめた。馬蹄の振動が、胤義に容赦のない現実を叩きつける。気を抜くとこぼれ落ちそうになる涙を、風がひゅるりとさらっていった。
賞賛も罵倒も、すべての音を潮騒がかき消して。さんざめく喧噪が、ずっとずっと遠くのほうに聞こえる。
あのひとはほほえんでいるのだろうか。
喜んでいるだろうか。
おれは、やりました。精一杯つくしました。
そうまでしたって、この手はあなた届かないのです。
けれども、これであなたがおれを忘れることはないでしょう。
ああ、そうさ。それで十分だ。
あなたの愛するひとに、おれはどうにも敵いそうにありません。
白砂のはるかむこうで海のはてが空とまじる。そのどこまでも深い青に包まれていると、胤義はどこかふっきれたような、さわやかな気持ちになった。
蹄が由比ヶ浜を踏みにじる。砂はとりとめもなく崩れて、散って、けれど消えてなくなるわけではない。きっとこの気持ちも、たとえかたちを変えたとしても、消えてなくなることはない。
おまえは本当によくやったよ――胤義は荒く息を吐く相棒の首筋を叩いた。
その日、鎌倉中の富を、ひとりの女が独占したという。
かれらの脳裏には偉大なる鎌倉殿の最期の様子が、あまりにも鮮明に残っていたのだ。
鎌倉殿、源頼朝の死。
あの日、坂東の英雄は鞍上から滑り落ちて死んだ。そのあまりにも呆気のない最期を、かれを囲む大勢の武士たちがながめていた。
雲ひとつなく晴れわたり、正月にしては穏やかな日差しが降りそそぐ、そんな日だった。
元服したばかりの三浦九郎胤義も、倒れ伏す鎌倉殿をとりかこむ人垣のなかにいた。
こんなにも簡単にひとは死んでしまうものなのか、合戦場ならばいざしらず。
そう思うと背筋がぞっとして、おもわず手綱を握る指がこわばった。ちらりとあたりを見回せば、同じように感じたのだろう。歴戦の猛者である父や兄までもが、愛馬からそっと距離をとっていた。
落馬による死――それは、その場にいたものたちにとって、とても恐ろしいことのように思えたのだ。
すぐに二代目として、頼朝の長男である頼家が立った。
頼家が鎌倉殿として朝廷に認められたというのに、大倉御所ではだれもかれもが神妙な顔をしてうつむいていた。その腹のうちでは、みな忸怩たる思いを抱いている。京都の公卿どもが、さきの鎌倉殿の死に様をせせら笑っているという噂が、まことしやかに囁かれていたからだ。
武士のくせに馬から落ちた――そうあざけり笑われることは末代までの恥である。
以来、武士たちは馬の背に跨がることを、忌避するようになった。
馬の背で死ぬくらいなら、愛妾の腹のうえのほうがましだと公言するものまであらわれたくらいである。
また時を同じくして鎌倉では奇妙な噂が飛び交った。
すなわち、「馬とは畜生道に落ちた罪人のなれの果て、穢れた生き物である。その背に乗ることは縁起が悪い」というものである。
すると、それまで人馬一体を究め、馬をこよなく愛した武士どもが、てのひらをかえしたように馬に跨がることをやめてしまった。
かつて、ひとよりも馬のほうが多いとうたわれた鎌倉の街からは、馬糞の匂いが消えた。往来ではひとびとが忙しなく早足で歩き、厩では使役をまぬがれた馬たちがまるまると肥えた。
京都への飛脚はくじ引きで決まり、任命されたものは泣く泣く馬に跨がった。馬も駆けたくないと首をふって鳴いた。
こうして歩行での移動が習慣となりつつあったある日のことだ。
三浦の屋敷にいた胤義は、父に呼びだされた。鎌倉の別邸に、すぐに来いとのことである。はて……と、胤義は首をかしげた。合戦でもないというのに、なにごとだろう。
しかし、ここで考えていても埒があかない。急いで支度をすませると、鎌倉を目指して走りだした。
こういうときは馬での移動が便利だ……頭の片隅に湧いた考えをふりはらう。三浦など近いほうだ。秩父や宇都宮から鎌倉に呼びだされるものたちに比べれば。
胤義は従者とともに走った。胤義は、年齢のわりに大柄でがっしりとした体つきであった。当然、歩幅も大きい。胤義のはやさについて来ることができず、従者がひとり、ふたりと減っていったが、そんなことは意に介さなかった。
ようやく春の兆しがおとずれたといえども、まだ朝晩は底冷えするような寒さが残っている。花の蜜をもとめるひよどりのさえずり。湿った土や、木々の芽吹きの匂い。そういったものを肌で感じながら、おのれの脚で走るのも悪くない。
鎌倉に着くころには直垂が汗や泥にまみれていた。胤義は無頓着に額に浮かんだ汗を袖でぬぐった。最初は十人ばかり引き連れていた従者どもは、気がつけば三人だけとなっている。
胤義の到着を待ちかまえていた下女たちが、かいがいしく汚れた足をぬぐい、直垂を着替えさせる。されるがままになっていると、どこからともなくあらわれた家人に手をひかれ、あれよというまに父、義澄の御前に座らされた。
「おお、来たか九郎。また背が伸びたんじゃないのか。まったく筍のようなやつだなおまえは、わっはっは」
義澄は胤義の姿をみるなり豪快に笑った。そうこうしているうちに酒と肴が運ばれてくる。高坏のうえにはすずきの朴葉焼と蒸した蛤。そこに気持ちばかりの青菜が添えられている。
「今年でいくつになる」
「十六です」
「おれも若いころよく図体がでかいといわれたものだが、おまえほどではなかったかもしれんな」
義澄は目を細め満足そうに膝を叩いた。酒器を手にとり酒器を満たす。
胤義は、義澄が還暦近くに成した子であった。そのため兄たちよりも可愛がられている自覚はあったが、まさか、ただ杯を酌み交わしたいというだけで呼びつけたわけではあるまい。
「父上、本日はどのような」
胤義は早々に切りだした。
「せっかちな。まあ、若いということかもしれんが」
そういって義澄が鬚を撫でる。父が鬚を撫でるときは、なにかいいにくいことがあるときだということを胤義は知っていた。箸もとらずに睨めつけていると、ばつが悪くなったのだろう。義澄は杯をかたむけながら、こういった。
「おまえは騎手に選ばれた」
「はあ?」
胤義は、すっとんきょうな声をあげた。騎手に選ばれたとは、まさか、この時勢に流鏑馬でもやろうというのだろうか。すこし前であれば家をあげての名誉であったとはいえ、いまや、ひとまえで馬に乗るなど名家である三浦のものがやる必要はないはずだ。それくらいしか取り柄のない、下々のものどもに花をもたせてやればいい。
眉間に皺をよせる胤義をみて、思うところがあったのだろう。義澄は一度咳払いをすると、ゆるゆると語りだした。
頼朝のあとを継ぎ十八歳という若さで鎌倉殿となった羽林――源頼家は、父を尊敬し、父が築きあげた鎌倉と民を愛していた。しかし、父の最期を気にして武士たちが馬に乗らなくなったということを知り、これを由々しき事態だととらえたようだ。
頼家は、知恵者であり政所の別当でもある大江広元を呼びだして、開口一番こういったのだそうだ。
「人馬一体でこそ、われら武士ではないのか」
広元は白髪まじりの眉をひそめた。目の前の若者がなにをいっているのかわからなかったのである。広元にとって、武士が好んで馬に乗ろうが乗るまいが、そんなことはどうでもよかった。京からの飛脚が適切に届けば、それでよかった。
「しかし、それもこれもお父上である亡き鎌倉殿が、多くの武士たちに愛されていたという証でしょう」
そう濁して答えると、心中を見透かしたのだろう。頼家は広元をじっと睨めつけた。
「愛あればこそ、坂東の武士として奮わずになんとする」
「はあ」
広元は武士ではない。まして坂東の民ですらない。したがって、頼家のいわんとすることがいまひとつ掴めなかった。困った広元は曖昧に笑顔をつくり、はにかんでみせる。お得意の京仕草だ。
「父は生前、将たるものはだれよりも雄々しくあれといっていた。とくに馬をこよなく愛していた。流鏑馬を神事とし、ことあるごとに巻狩りをおこなっていたのは知っているだろう」
まだ幼さを残す顔立ちとはいえ、大柄の頼家が身を乗りだすと、それなりに迫力がある。広元は萎縮した。頼家には、軽くいなしていると斬り捨てるぞというような、尖った気配があった。
「馬は宝だ。そして馬を自在に操る武者もまた、この鎌倉の宝であると、父がそういっていたにもかかわらずだ。いまの鎌倉をみよ。武士はみな馬からおり歩行立ちだ。春ともなれば鶯のさえずりに負けず劣らず聞こえていた嘶きも、この春はまだ一度も聞いてないぞ」
はて、この殿は和歌の才能もあるのではないか。鋭い言葉のなかに、ときたまぽつりと風流がある。広元は言葉の面影に頼朝をみた気分になった。それが無性に懐かしく、こころがじんわりと熱くなる。
「父の死に様が、御家人たちをそうさせたのだとしたら、たまらない」
そう呟くと、頼家は悲しそうに眉根をよせた。それがまた、広元のこころをくすぐった。元服したとはいえまだ遊びたい盛りの若者が、真剣に御家人たちのことを考えようとしている――そう思うと、そのいじらしさに目頭をおさえざるをえなかった。
「それでは父は浮かばれない。なんとかしなければならぬよなぁ」
「そうですね」
流れでしんみりと相槌をうってしまってから、しまったと気がついた。頼家にしてやられたと歯がみするがもう遅い。
「やはり京都でも知恵者と知られた広元もそう思うか」
自分の息子とさして変わらない年頃の若者が、父親顔負けの駆けひきをするものだ。広元は素直に感心してしまった。
「武士の誇りを忘れてしまったものたちを、いかにして奮わせよう」
頼家がにやりと笑う。そういう表情をしていると本当に父親にそっくりである。広元は腹をくくった。無理難題をふっかけるとき、いつも頼朝は凄んで笑ってみせたものだ。
「鎌倉殿を喪失したという印象を凌駕するほどのなにかが必要でございましょう」
苦し紛れにいうと、頼家が顎をかたむける。
「なるほど。深き闇を払拭するのは、それよりも眩しい光というわけか」
「え」
「ようは、人馬一体というものが、いかに素晴らしいかを思いださせればよいのだろう」
広元は沈思した。この殿は思考の飛躍がすぎるのではないか――しかし、それを口でいってしまうと、それこそ本当に斬り捨てられかねない。歴戦の猛者どもならばいざしらず、自身は非力な初老の小男でしかない。
「であれば、おれに考えがある」
押し黙っていると頼家が眉を片方つりあげた。
「鶴岡八幡宮にて流鏑馬や草鹿をおこないますか」
「いや。駿馬と一体となり、風がごとく駆けることこそが真の人馬一体よ」
「はあ」
「つまりな、純粋に駆けるはやさを競うのよ」
「なるほど、競べ馬のようなものでしょうか」
広元は、なんとか食らいつこうと言葉を捻りだす。
「競べ馬――まあ、そうだな。そうだ! 競馬だ」
「け、い、ば」
軽いめまいを感じて、広元は額に手をあてた。とくに熱はないようだ。ということは、聞き間違いではないらしい。けいば……そんなもの、古今東西有識故実、聞いたこともみたこともない。おそらく唐にも宋にもないだろう。自分の知らないことを当然のようにいう頼家に、広元は愕然とした。眉間に深く皺を刻んだ広元をみて、頼家がきょとんと首をかしげる。
「競べ馬は、赤と白の馬を競わせて、勝ち馬の色から神意を問うものじゃないか。だが、これは亡き父への手向けではあるのかもしれないが、神の意をはかる神事ではない。神を冒涜することはできないからな。名前は変えるべきだろう?」
「あ、ああ。羽林殿下がお考えになったのですね」
広元は平静を装ってうなずいた。鎌倉有数の識者といわれている自分が知らなくてもしかたがないことだということに安堵する。そして、この殿は意外と潔癖なのだなあと思った。神仏に対して清くあることは、為政者としては正しい。なにより頼朝がそうであった。
「まあしかし、八幡神に捧げる催しであることは変わりない。ゆえに八頭立ての競馬としたい」
八頭立てとは、八頭の馬で競わせるということだ。それになにか意味があるのだろうか。広元には頼家の考えていることが微塵も伝わってこなかった。八つの頭、まさか八岐大蛇でもあるまい……と思い至ってはっとする。
その昔、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したとき、その尾から取りだされた剣が草薙剣であるという。この剣は三種の神器として代々朝廷に受け継がれ、熱田神宮に祀られていた。しかし壇ノ浦の合戦で、神器を京都から持ちだした平家一族とともに海に沈んでしまい、ついにみつけることが叶わなかった。ゆえに貴族たちは熱田神宮大宮司の娘を母にもつ頼朝を「草薙剣の現身」といって持て囃した。
つまり、八頭立ての「八」の意は、八幡神の「八」でもあり、八岐大蛇にかけたものでもあり、それを主催……つまり統べることによって、日ノ本におのれが後継者であるということを知らしめようとしているのではないだろうか。みずからこそが現世における草薙剣であると。
否、ひょっとすると頼家は亡き父の思いも汲みつつ、鎌倉全体の権威をより高めるために行動をおこそうとしているのではないか。
頼朝の急死をうけて将軍職を引き継いだものの、頼家はまだ若い。京都では公卿たちが鎌倉の武力をわがものにしようと、あれやこれやと画策しているにちがいない。
しかし、これをおこなうことにより、鎌倉が依然として一体であり、鎌倉殿のもと盤石であると思い至らせることができるのであれば――広元は膝を打った。これは、なにがなんでも成功させなければなるまい。
広元の決心を見透かしたように、頼家が口角をつりあげる。
「ただちに駿馬八頭と、それを操る騎手を選べ」
「かしこまりました。馬は羽林殿下の厩からだしても」
「かまわない。宿老たちがいい馬をもっていれば、それをださせてもよいだろう」
「騎手八名も宿老たちに選ばせましょうか」
「まかせる。それと、騎手は七名でいい」
「馬を八頭、競わせるのですよね?」
「おれがでる」
「は?」
頼家の宣言に、広元は耳を疑った。つい先日、落馬で父が死んだばかりだというのに、なぜみずから危険を冒すのだろうか。もし万が一にでも頼家が落馬しようものならば、武者たちの馬離れはもっと深刻なものとなり、京都と鎌倉の連絡もままならなくなるだろう。
「あたりまえだろう。おれ自身が馬に乗らねばだれも乗ろうとしないだろう。そして、まあみていろ。おれがいっとう、勝ってやる」
なるほど、なるほど。みずからが騎手となることで、選ばれた御家人たちは逃げられなくなるだろう。さらにかれらに勝って一着となれば、まことに強き鎌倉殿であるという印象をより強くあたえることができる。
広元は武者でもないのに武者震いした。そうであれば、騎手は鎌倉で権勢誇る大名家から選ぶべきだろう。そのほうが箔がつく。
「羽林殿下、すべて広元におまかせください」
平伏して御前から引きさがると、広元はすぐに幕府の宿老たちを招集した。
侍所別当の梶原景時や問注所執事の三善康信らを筆頭に、和田義盛、三浦義澄、八田知家、安達盛長、中原親能、二階堂行政、足立遠元、比企能員、北条時政という、鎌倉のご意見番ともいうべきそうそうたるものたちだ。そしてかれらを補佐すべく、頼朝の近侍筆頭であった北条義時にも声をかけた。
翌日、広元を含め十三名の宿老が大倉御所の西侍に集った。
「そういうわけで、羽林殿下と背格好が同じくらいのおまえが選ばれたのだ」
義澄の話には妙な臨場感があった。しかし、あの老獪な大江広元が自分の心情をあけすけに語ったとは思えない。おそらく大部分は父の妄想なのだろうと胤義は思った。
一気にまくし立てながら、口を酒で湿らせていた義澄は、すでにほろ酔いの状態だ。どこまで真実を語っているかは疑わしかったが、わざわざ三浦から鎌倉に呼びつけているのだ。騎手として選ばれたというのは本当なのだろう。
胤義は父の語りの途中から、理解することを諦めた。どうせ政のことはよくわからない。であれば、もとめられたことをするしかない。そんなやさぐれた気持ちもあった。
「なるほど、どうりで。馬でのはやさ競べならば、鞍上は小柄なもののほうが有利だろうに、大柄なおれが選ばれたのはそういう理由でしたか」
胤義は曖昧に相槌をうちながら、頼家の姿を思い浮かべた。がっしりとして背が高く、いかにも頑丈そうな頼家と並ぶ体格の武者は、武士の都である鎌倉といえども、そうそういないだろう。自分に白羽の矢が立ったのもうなずける。
「まったく、親子というものは。此度の羽林殿下の話、佐殿と血の繋がりを感じるわ」
佐殿とは先代鎌倉殿である源頼朝のことである。胤義には馴染みのない呼び名だが、義澄は鎌倉殿と自分との繋がりが深いということを示すように、好んでこの呼称を使っていた。懐かしそうに目を細める義澄の頬は、すでに上気して、耳は真っ赤に染まっている。
胤義は鱸を一口頬張った。すでに冷めてしまっており、ぼぞぼぞとして皮も固い。
「その昔、佐殿が那須で巻狩りをした帰り道、同じようなことをされたことがあったわ。おまえがまだ乳母の乳房を恋しがっているころよ」
頼朝の思い出話を語らせると、義澄は饒舌になる。自分と頼朝との繋がりを誇らしく感じているのだろう。しかし胤義にとっては、それは退屈な昔話でしかなかった。胤義からすれば、頼朝は雲のうえの存在でしかない。なによりその人となりをよく知らない。偉大なひとだということは理解できても、それが自分と結びつくものではない。
「競い馬ですか。なにか神に問いたいことがあったのでしょうか」
いいながら、またおもしろくない話がはじまるのだろうとしらけていた。
「いや、手にいれた馬を自慢したいという無邪気さだな。そのとき帯同していたおれも駆けさせられた。おれたちが追い抜こうとすると、佐殿はむきになって馬の腹を蹴って」
「それで、どうなりました」
「むちゃくちゃにやった結果、佐殿の馬がつぶれた」
胤義は、鱸の身を箸で割った。
「慌てた梶原が、近くの泉で清水を汲んできて馬にかけてやってな。それで息をいれた馬の脚がよみがえって、佐殿は見事に勝利なさったのだ」
義澄が手を叩く。瓶子をもった下女がどこからともなくあらわれて、酒を置いていった。
「佐殿の馬がつぶれているあいだ、ほかの馬はどうしていたのです」
「みなその場で待っていたに決まっているだろう。佐殿に満足していただくことに意義があるのだ」
それって忖度ですよねぇ、という言葉をなんとか腹のうちにとどめて、胤義はうなずいた。
「おまえも御家人ならば、主人に花をもたせねばならん」
「つまり、負けろと」
「わざとらしく負けろとはいっていない。うまくやれといっているのだ」
そういうことかと胤義は曖昧にうなずいてみせた。おまえには多くをもとめない。おまえは兄を支えていればいい――と言外に諭されているようで不快だった。胤義は臍を噛む。鱸の身が朴葉のうえで粉々に砕けていた。
「明日、鶴岡八幡宮寺にて駿馬の抽選がおこなわれる。まあ、とにかく今日はこの屋敷で休め」
そういって、ゆらゆらと上体を揺らしながら笑う義澄に、胤義は小さく頭をさげた。ほんのすこしの苛立ちと寂しさを感じていた。
翌朝、胤義が鶴岡八幡宮寺へ赴くと、すでに人だかりができていた。集められた若者は、みな胤義と同様に大柄だった。そのなかに見知った顔をみつけ、ほっと胸をなでおろす。相手もこちらに気がついたようで、軽く手をあげながら近づいてきた。
「やはり三浦殿も選ばれたのか」
「では、畠山殿も」
「そうだ。騎手になれと」
そういって、勘弁してくれといわんばかりに肩をすくめてみせたのは畠山重保である。無双の勇士と名高い畠山重忠(はたけやましげただ)の嫡男だ。歳も近く背格好も同じようなふたりは、御所に呼びつけられては、しばしば相撲を組まされることもあった。
重保は文武両道でみためもよい。それを羨ましく思いながらも、胤義はこざっぱりとした重保のことを友人として慕っていた。
「みてみろよ。馬がきたぞ」
重保の指さすほうをみる。若宮大路から大鳥居をくぐり、次々と馬がひかれてくるところだった。
「ほら、三浦殿。先頭を歩くあの青毛の馬は、もしや『深黒』ではないか」
「まさか。あの馬をだしたっていうんですか。梶原殿が」
たしか『深黒』といえば、梶原景時がとくに大事にしている馬だったはずだ。京都の公卿がゆずれといっても、かたくなに首を縦にふらなかったという。その名馬をこのためにだしてきたということは、この催事に入れこむ思いも強いということなのではないだろうか。馬に乗るのは気がすすまないが、しかしあの名馬にだったら跨がってみたい……胤義は頬の内側の肉を噛んだ。そうしていないと、だらしのない顔をしてしまいそうだった。
「あの栗毛は『紅大和』――小山殿の自慢の愛馬だ。そしてあの芦毛、『金海波』は佐々木殿のところからだな。なんでも気性が荒くて扱いにくいと聞くが、しかしこうしてみると、なんとも惚れ惚れするような馬体ではないか」
重保が目を輝かせながら馬の名を明かしていく。そういえば重保の父親は嘶きを聞くだけで馬の名前をあてられるということだから、息子の重保もそれ相応に馬のことが好きなのだろう。
普段はおっとりとしていて、丁寧な物腰の重保がはしゃいでいる姿は新鮮だった。もしかすると重保は騎手に選ばれて内心喜んでいたのかもしれない。なんでもできる大人びた重保にも年相応の一面があることを知って、胤義は嬉しくなった。
さらに御所の厩からは青鹿毛の『北山畔』、尾花栗毛の『相馬桜』は父義澄の愛馬だ。黒鹿毛の『鏑矢王』はたしか京都にいたはずだが、わざわざこのために連れてこられたのだろう。
「やっと来たぞ。あの月毛は『新山』だ」
「えっ、新山は畠山殿の秘蔵の馬では」
そういうと重保が、ふふん、と得意気に笑った。いずれも劣らない名馬たちのなかでも、美しい月毛はよく目立っている。
最後にひかれてきた馬をみて、それまで饒舌だった重保が首を捻った。
「あの粕毛はなんだろう」
「畠山殿も知らない馬とは」
「知らんなあ。しかし他が立派な馬だからというのもあるが」
「なんというか、見劣りするような」
その馬は集められた馬たちに比べると一回り小さく、脚も細かった。首がさがりぎみで覇気はなく、戦場で勇猛果敢に走りそうにはみえない。ほかの馬がどれもこれも名馬と呼ばれるに相応しい馬たちである。並べられてしまうと、ぼさぼさとした白のまじったまだらの毛色のせいで、よりいっそうみすぼらしく、惨めだった。
「おまえたち、よく集まってくれた!」
声におどろきふりむくと、本宮のほうから男がひとり歩いてくるのが目にはいる。
「羽林殿下」
だれかの声に、一同あわて膝をつこうと腰をかがめた。
「まて、そのままでよい」
頼家が制止するべく手をかざす。
「集いし勇士たちよ。おまえたちは鎌倉の武士であろう」
唐突な頼家の言葉に、一同は耳をかたむけた。
「鎌倉武士であれば、このような名馬たちを前にして、その背に跨がり駆けたいと思うはずだ。なぜならば、鎌倉武士にとって馬で駆けたいという欲求は、本能そのものだからだ!」
父から話は聞いていたものの、正直なにをいっているのかいまいちわからない――胤義は目を細めた。
「だがどうしたことか。最近では馬離れがおこっているというが、そんなことをしてなにになる。おまえたちはこの名馬たちに跨がってみたいとは思わないのか、思うだろう。そうだ、ときめいたにちがいない」
拳をふりあげて朗々と語る頼家は、集ったものたちのこころを掴んだようだった。あるものは大きくうなずき、あるものは賛同の意を示して胸の前で拳を握っている。
いや待て。おれがおかしいのだろうか。胤義は周囲の熱狂にとまどった。そもそも鎌倉武士の本能ってなんだ。
「すでに聞いていると思うが、ひと月後、若宮大路で騎馬八頭による勝負をおこなう。当然おれも騎手のひとりとして参加するつもりだ。おれたちの姿をみれば、いままで怖じけづいていた御家人たちも、ふたたび鞍上にもどることだろう」
つまり見世物になれということじゃないか。そう思ってしまうおのれは、他人よりもすこし、ひねくれているのかもしれない。
「いまより、くじ引きでそれぞれの騎乗する馬を決める。神前でのくじ引きだ。それは神の裁定なのだと受け入れよ」
頼家の力強い言葉に、みな一同沸き立った。
「おれは不正をする気もないし、おまえたちに勝ちをゆずってもらおうとも思っていない。おれはおれの実力で勝ってやるといっている」
となりでは重保が、正々堂々とした頼家の態度に歓喜している。胤義は短く息を吐いた。
「まずはおれからくじをひく。坊主が順番にくじのはいった箱をもってまわるから、一枚だけ選んでひけよ――なるほど、おれは『深黒』だ」
瞬間、どよめきが境内に満ちた。
「さすが羽林殿下。天運をも掴まれた」
「これはもう、羽林殿下の勝ちは決まったようなものだな」
その場に集ったものどのが口々にいう。
つぎにくじをひいたのは重保だった。
「おれは、『新山』だ、これは嬉しいな」
『新山』は畠山の家の馬だから、相性は良いだろう。なにより馬固有の癖も把握しているはずだ。
となりにいた胤義は、流れでくじをひくようにうながされる。目を瞑り、折りたたまれた紙片をひとつ、つかみとる。
「これは……なんて読むんだろう、おおたつ号?」
「三浦殿は『大辰』ですね」
僧侶の指さすさきにいたのは、あの見劣りする粕毛の馬だった。
これは、走るまえから勝負が決まっているようなものだ。胤義はほっと胸をなでおろす。あの馬であれば勝てなくて当然だろう。どんな着順だとしても、周囲に責められることはない。
しかし『大辰』とは、名前負けも甚だしい。あんなみすぼらしい竜がいてたまるかよ。
すべての騎手がくじをひきおわると、それぞれに馬がひきわたされた。
「ここにいる七人の騎手は、常陸国の美浦牧を自由に使っていい。おれは政務があるので鎌倉からは離れられん。よって、おれは個別に調教も訓練もやらせてもらう。もし、自分の家の牧でそうしたいものがいれば、そうすればいい。ただし勝負のあとは、きちんと馬を馬主に返すように。雌馬に種付けさせるのも禁止だ。ましてや逃がしたり殺したりするなど言語道断。これに違反したものは謀反とみなす」
ずいぶんと厳しいことをいう。しかし、そうでもしなければ、馬を返したくないというものがでてきそうな雰囲気はあった。いずれも日ノ本屈指の名馬たちだ。一度乗れば手放したくなくなるかもしれない。
かつて、名馬『池月』をめぐって佐々木高綱と梶原景季が争ったように、馬離れがすすんでいるからといって、馬の価値そのものがさがったわけではない。ましてここにいるような名馬ともなれば、みているだけでも目が楽しいというものだ。
まあ、おれには関係ないことだ――胤義はふっと鼻で笑った。かたわらでは『大辰』が尻尾をもちあげ糞をしている。
「おのおの馬をひいて帰るがいい。そら、散った散った」
頼家の従者たちにうながされ、その場にいたものたちは、それぞれの屋敷へとさがっていった。
この日を境に、鎌倉は老若男女貴賤を問わず競馬の話題で持ちきりとなった。
世のひとびとはこういった勝負事があると、どうしても賭けをしなければ気がすまないらしい。当然のように鎌倉中の辻という辻で、勝手に賭場をたてる輩がでてきた。
主催者である頼家はこの状況をよく思っていなかった。不正がでては斬り合いになりかねないのが鎌倉武士の性である。
さっそく大江広元に相談したところ、「しらみつぶしに取り締まっても埒があきません。いっそ幕府が公式に賭場をたて、仕切ってしまえばいいのでは」という妙案を得る。
頼家は十三人の宿老たちに命じて、「幕府として公正に賭け事を取り仕切るように」と加えて通達した。
ここに「十三人の胴元」という組織がつくられた。
辻での怪しげな賭博をするよりはと、ひとびとはこぞって幕府に銭を持ち寄ってきた。
しかしそうなると胴元たちは、幕府に集まってくる莫大な銭と情報をさばくことに追われるようになる。
なかでも算術の得意な二階堂行政や三善康信は、朝から晩まで払戻金の倍率を計算しつづけるという事態になった。
あまりの激務に二階堂行政は腰痛をこじらせ、三善康信は泣いた。
こうして割りだされた払戻金の倍率は中原親能が書きうつし、朝の決められた時間に足立遠元によって鶴岡八幡宮寺に掲示された。
さて、銭を賭けるひとの心理は単純だ。すこしでも他人をだし抜いて、確実に儲けたいというものだ。ひとびとは騎手や馬主からより正確な情報を得ようと、ところかまわずかれらにつきまとうようになった。
当然、頼家のもとにもぶしつけな連中が押し寄せるようになったため、頼家はしばしば政務を邪魔されるようになった。
そこで、頼家やその馬に関することについては、厩務をこなす中野能成、馬の調教をおこなっている小笠原長経、鞍や鐙などを奉行する役を仰せつかった比企時員、頼家の近侍である比企宗員、そして宗員の補佐役の一名の、あわせて五名をとおして聞くようにと定めた。
十三人の胴元のなかでも、安達盛長は馬の出自をよく知っていた。そのため、一歩御所の外にでれば、この賭け事に夢中になっているひとびとに囲まれた。話を聞きたいと願うひとびとを引きつけると、盛長は決まってこういった。
「馬もひとも血統がなにより大事さ。たとえば『新山』は母父が『三日月』だろう。『三日月』っていうのは、あれだ。一ノ谷の合戦で鵯越の逆落としのときに怖じけづいて、馬のくせに畠山殿に背負われたっていう――だからちょいとばかし臆病かもしれない。逆にいえば慎重で従順でもあるのかもしれんよ。一方で『深黒』の母父は『磨墨』だ。これはもう文句がない。名馬中の名馬。まずは走るでしょう。対する『金海波』の父父は『池月』だ。因縁の対決、宇治川の先陣争いふたたびだ、滾るだろう。つまり『金海波』は宇治川を渡りきった『池月』の力強さと体力を受け継いでいると考えられる。しかし同時に、『池月』の荒々しさや神経質なところも継いでいるようだから、もしかしたら操作性に難ありかもしれないねぇ」
和田義盛は馬の目利きとして有名であった。ひとびとに囲まれると、義盛は決まってこういった。
「走りそうな馬っていうのは、もうみためがちがうからよ。たとえば羽林殿下の騎乗する『深黒』だ。ありゃあ良い馬だって、だれがみたってわかるだろ。そういう勘が重要なのよ。とはいえ、いざ当日の毛並み、発汗もみて……なによりトモの張りが重要だ。トモっつうのは、まあ尻だな、尻。いい馬もいい女も尻でみわけろよ。ばぁんと張って、でかいのが良い尻ってね!」
義盛のわかりやすい馬体診断はたちまち評判となり人気を博した。義盛が良いといえば、その馬の払戻金の倍率が変動するほどだった。一方で御所女房たちからの好感度はさがった。
競馬の催される道は、梶原景時が選定し整備をすすめていた。その特徴を聞きだそうとしたひとびとに囲まれると、景時は決まってこういった。
「すべての馬がもてる力をだし切れるように、また事故など起こさぬように、現在細心の注意を払い、周辺民家の立ち退き要請および地ならし工事をおこなっております。一の鳥居から駆けだした馬たちは、海を左手にみながら大倉御所のほうへと曲がります。武庫山の麓をすぎて鶴岡八幡宮寺で右折、左手に大銀杏がみえてきたら最終の曲がり角です。そこからが勝負どころとなるでしょう。一の鳥居を一番はやく駆けぬけたものを勝者とします。若宮大路の直線は案外長いぞ」
父義澄が催事終了後の垸飯をまかされ、毎日のように市に出向いては、食材の目利きをしている最中――胤義は『大辰』とともに美浦牧に来ていた。『大辰』を乗りこなすために、しずかなところで向き合いたかったということもあるが、単純に鎌倉の民の熱狂に怖じけづいたのである。
美浦牧には、騎手と馬が続々と集まってきていた。最初は「常陸国まで行くなんて手間だ」といっていたものたちも、ひとびとに追い回されることに辟易したのだろう。『新山』にとって負担の少ない秩父の牧で調整をおこなうといっていた重保ですら、数日前に美浦牧に逃れてきていた。
さすがに鎌倉からここまで追いかけてくるものは少数である。さらに、妨害をしようとするものたちは、警護役をまかされた常陸国守護であり胴元にも名を連ねる八田知家の郎等たちが追い払ってくれるときたものだ。宿老たちの入れ知恵あってのことかもしれないが、頼家も考えたものである。
はじめは騎乗することをためらっていた胤義だったが、仲間たちと競いあっているうちに馬を操る楽しさを思いだしてきていた。
その背に一度跨がれば、ぐんと視界は高くなり、一足蹴って駆けさせれば、まるで獲物を狙う隼の気分を味わうことができる。馬と一体となることは、大地とも空とも一体となることなのだ。
ときおり騎手たちとともに併(あわ)せ馬をおこなうこともあった。いってしまえば模擬戦である。そうすると馬たちは奮い立ったようによく走るのだ。胤義を背に乗せた『大辰』をのぞいては。
『大辰』はとくにでだしで突きはなされた。距離をあけられると、みるみるやる気を失う。腹を蹴っても鞭を打っても、これ以上やっても負けて当然なのだから、もうなにもしたくないというように脚を緩めた。
「その馬では負けてもしかたがないだろう。三浦殿の腕が悪いわけではないよ」
重保の慰めが唯一の救いだった。本番、せめて走ってくれさえすればめっけもの……その程度に考えようと胤義はうつむいた。
『大辰』の首は他の馬に比べて長く、いつも低い位置にある。『新山』のように堂々としておらず、その姿は卑屈ですらあった。粕毛のみすぼらしい馬。こんな馬がなぜ名馬たちにまざっていたのか。この馬を八頭のなかにねじ込んだ馬主に、激しい怒りすらおぼえた。
おれだって、『金海波』に跨がっていれば。いや、『相馬桜』に跨がっていれば。仲間たちからよせられる同情にへらへらとした作り笑いを浮かべながらも、こころに澱がたまっていく。
それも、乗ることすら忌避していた馬に、こころを揺さぶられている――胤義は苛立った。『大辰』はわれ関せずとでもいうように、草を食んでは唇を鳴らし遊んでいる。
「おい、おまえたち知っているか?」
ある日、八田知家がやってきて胤義たちに一枚の紙をみせた。
「払戻金の倍率だよ。倍率が低ければ低いほど、注目されているということだ」
なんだ、どうした、自分にもみせろ、と騎手たちが集まってくる。
「やはり羽林殿下は圧倒的人気だな。これでは羽林殿下の『深黒』に賭けても、ほとんど儲けはないんじゃねぇか」
中途半端に顎髭をたくわえた騎手が、ため息をついた。
「そういうことになるな。つぎからはほぼ団子だ『新山』と『北山畦』が行ったり来たりで、『金海波』はそれを追うかたちだな。わざわざ京都から呼び寄せた『鏑矢王』も期待値が高そうだ。『相馬桜』、『紅大和』も横並び。しかし」
その場に集った全員が胤義をみる。
「か、考えようによっては、おもしろいじゃないか三浦殿。大穴だぞ、大穴」
取り繕う重保の優しさが、むしろ痛い。けれども予想できていたことだ。こんなみすぼらしい馬、だれが賭けようと思うだろうか。
その日の夜、胤義は厩舎へと足を運んだ。やり場のない、くさくさとした気持ちを『大辰』にぶつけたかった。体も小さく、毛並みも悪い。走ろうという気配も感じさせず、ともすれば怠けようとする。最初から諦めている。おまえなんて場違いな馬なのだ。
宵闇のなかで罵ると、『大辰』が舌をだした。馬鹿にされているようで、おもわず手をあげそうになるが、それをぐっと堪えた。
しかたがない、負けてもしかたがないのだ。だれもがそう思っているし、おれの面子はつぶれない――胤義は直垂の袖を握りしめた。
そんな日々を送っていたころ、胤義のもとに頼家の使者があらわれた。使者がいうには、頼家が「胤義と話がしてみたいから連れてこい」といったとのことだ。
あまりの人気のなさに哀れんだのか、それとも単なる興味本位なのか、晒しものにしようとしているのか……その真意は定かではなかったが、鎌倉殿の命に逆らえるわけがない。 胤義はしぶしぶ『大辰』の背に乗ると、鎌倉へと向かった。
大倉御所に着くとすぐに、比企宗員が出迎えてくれた。宗員は『大辰』の手綱を手際よく厩に繋ぎ、胤義を坪庭のある部屋へとおすと、なにもいわずに去っていった。
庭から吹きこんでくる風が、そよりとして気持ちがいい。茜色の空にうつろう雲が、ゆったりと流されていく。皐月の夕刻。気がつけば、ずいぶん日が長くなってきている。明日も晴れるといいなぁ……ぼんやりと考えていると、御所女房が燭台に火を入れてくれた。遠くにちらちらとみえる篝火は、西侍のものだろうか。きっといまも父たちが、忙しなく働いているにちがいない。
「おう、よく来たな。胤義」
はっとしてふりむくと、いつのまにか頼家が着座していた。あわてて居住まいを正すと、頼家は満足げにうなずいて、ひとつ、ふたつ、手を叩く。
「牧の様子はどうだ」
「はい。馬も騎手も、みな切磋琢磨しております」
頼家が目を細めた。この若き権力者がなにを考えているのかわからずに、胤義は怖じけづいた。
「しかしながら、きっと勝利をお収めになるのは、羽林殿下と思いますれば」
そういって平伏する胤義をみて、頼家がなんともいえない表情を浮かべた。
「ほんとうにそう思っているのか」
「え、それはもちろん。自分は勝ちを狙おうとは」
「おもしろくないことをいう。おまえ、それでも三浦のおとこかよ」
胤義はおもわずむっとした。ぴくりと眉をつりあげた胤義のことを気にもとめずに、頼家がさらに言葉を重ねる。
「重保をみろ。あいつは本気で勝ちを狙ってるぞ」
おれだって、『新山』に跨がっていたらそう思ったでしょう。けれど、『大辰』ではだめだと思います。弱音を吐きそうになって唇を噛んだ。
「そうでなければおもしろくない。おれはおれに本気で向き合うやつのほうが好きだ。かつて父が那須で巻き狩りをした帰り道、その場にいた者どもと競い馬をしたという。父も御家人どもも本気で駆け、そして父は勝ったのだ。父はおれによくその時の話をしたものだ」
それは、そういう話じゃなかったと思うのですが――胤義は、喉まで迫りあがってきた言葉をのみこむ。
「人馬一体。それでこそわれら武者というものではないか」
ふしぎと、その言葉だけは胸に響いた。
馬に乗ることで、おれたちは自然と、神と一体となるのだという感覚は、わからなくもない。馬とともに生きる、それを忘れてはならないという頼家の考えを、いまではよく理解できている。
目の前で頼家が首をふった。ばつの悪そうな顔をして、ちらりと胤義の表情をのぞきこむ。
「ああ、いや、すまん。今日おまえを呼び寄せたのは、実をいうとおれではないのだ」
頼家の背後。おろされていた御簾がふわりと揺れる。衣擦れの音とともに、部屋に白梅の香りが満ちた。
「わざわざごめんなさいね、わたくしが殿下にわがままをいいました」
御簾の隙間からこぼれでた、襲の色目は花菖蒲。やわらかく透きとおる声が、女の若さを物語っている。姿こそみえないが、胤義のこころを掴むには十分すぎるものだった。たじろぐ胤義をみて、頼家がにやにやとしている。
「三浦殿、『大辰』はよく駆けておりますか」
しゃらんと、神事で鳴らされる鈴のような声に聞き惚れて、咄嗟に言葉がでてこない。どくりと、こころが波打った。みるみる顔が熱くなっていく。
「ええっと」
「あの子は走ると思うのですけれど。馬体は小柄ですが、太腿のあたりがすっとしていて、後ろ脚の関節のところがまっすぐで。顔も穏やかで可愛くて、たしかに覇気のある子ではないのだけれど、合戦場ならばいざ知らず、走るだけならばああいう子のほうが」
頬をかく。この姫に併せ馬での『大辰』の様子を伝えていいものだろうか。おずおずと頼家をみる。頼家は口元を手で覆い、小刻みに肩を震わせていた。
「いえ、もうしあげにくいのですが、『大辰』ははやくありません。とくに初速がありません」
そう、素直に伝えた。
「そうでしょうね。だってそういう脚よ、あれは。けれど今回、梶原殿が整備した道ですが、思いのほか長いと思うのです。ですから初速が乗らなくても、ゆるゆると伸びてくるような走りかたの子のほうがむいていると思うのです」
それまで口をとざしていた頼家が、顎をさすりながら口角をもちあげる。
「なるほど。たしかに一理あるかもしれないが、そういう意味では『金海波』も走りそうだと思うがね。しかし、『大辰』の首が良くないとおれは思う。馬の頭はぐっとあがっていたほうが好ましい」
「戦場ではそうでしょう。けれど、此度ははやさを競うのです。鼻差で勝敗がつくということもありましょうから、首を雄々しく立ちあげるように訓練されている合戦場むけの馬はむしろ不利ではないでしょうか」
姫にそういい返された頼家は、「ふうん」とおもしろくなさそうに相槌をうって、脇息にもたれた。
「はたしてそうだろうか。首を高くあげる馬は、馬体が大きくみえるし、他の馬を威圧するような気迫も備えている。比べて首をさげて歩く馬は牧などでもいじけたようにしているではないか」
「それはそうかもしれませんが、馬が好きでみていて思うに、馬は駆けるときには首をさげるものでしょう」
「おまえはわかっていない。馬というものは本来、群れているものなのだ。強いものがいれば、弱いものはそれになびき怖じけづく」
頼家と姫の論争についていくことができずに、胤義は焦った。額を床にこすりつけ、なんとか言葉を絞りだす。
「お言葉はありがたいのですが、それでも難しいと思います。羽林殿下の『深黒』にはおよびません」
こんなことしがいえない自分が惨めで、悔しかった。御簾のうちの姫はそれを聞くと、「そうですか」とだけ短くいった。
幻滅されてしまっただろうか。弱虫だと軽蔑されただろうか。急にずきりと胸が痛んだ。理由はよくわからない。腹の底から苦く重たい、それでいて熱いものが迫りあがってくるような、奇妙な感覚におそわれる。
「殿下にわがままをいったかいがありました」
するりと襲が御簾のうちにひっこんだ。ふたたび衣擦れの音がして、姫がこの場を去ろうとしていることがわかった。 もうすこし、話を続けていたい。もっと、あなたのことが知りたい。けれど、これ以上嫌われるのもいやだ。
「われながら、ふがいなく」
その一言しかでてこなかった。鼻の頭がじわりと痛む。
「いいえ。むしろわたくし、とても気に入りました、三浦殿。わたくし、『大辰』とあなたに全財産を賭けさせていただきます」
ほら、やっぱり嫌われた。平伏したままで、姫の言葉を反芻する。そう、おれにそんな価値はない。全財産を賭ける価値なんて……賭けると決めた。もしかして、そういったのか、このおれと『大辰』に。
あまりのことにおもわず跳びはねた。目の前では頼家が、腹を抱えて笑っている。
「おれに賭けずにほかの男に賭けるというのだから、まったくこの女は」
「いま一番の人気は『深黒』です。つまり殿下に賭けたとしても、わたくしの取り分は微々たるものとなりましょう。比べてて『大辰』と三浦殿はどうです。それに、三浦殿には奮起していただかなければ。そうでないと、殿下もおもしろくないでしょう」
「鎌倉中の富と羨望、そして怨嗟をも手にしたいと」
「欲深い女と蔑みますか」
「いいや。それでこそ鎌倉一のいい女だ」
姫は去ったが、白梅の香りがかすかに残っている。その残り香を胸いっぱいに吸いこんだ。
「惚れたか?」
いたずらそうな、人懐っこい笑みを浮かべて頼家がいった。
「い、いえっ、まさか」
「馬鹿か。耳まで赤くしてやんの。鬚もはえていないような子供にゃまだはえぇよ」
そう仰いますが、おれと殿下はそれほど年の差、ありませんよね――と、むきになってむくれてみせると、頼家が心底楽しそうに笑った。
女心なんて知ったことではないし、好いた惚れたも正直よくわからない。
ただ嬉しかった。だれかにみていてもらえるということが、こんなにも力になる。
「なんのために、と思っているか」
頼家に顔をのぞきこまれる。
「いや、まあ」
「あいつがおまえを気に入っているから、じゃあだめなのか」
「羽林殿下、おれは」
とりとめのない言葉が、かたちにならずに砕け散る。
「あいつが入れこむ馬と男だ。そういうやつが戦士にならずに朽ちるなんていうことは、ゆるさないといっている。わかるか」
「わかりません」
きっぱりと胤義がいうと頼家は「これだから子供は」と舌打ちをする。
「いいか。おれはおれが勝つつもりでいるが、同時におれの女を泣かせるようなことはしたくないわけだ。おまえがそうやっていじけていたら、おれの女が泣くことになる。それは絶対、だめだろ」
いったい、なにをどうしろというのか。しかし、あまりに欲深いことをいう頼家が、素直すぎて憎めない。
「だから、おまえ。おれに勝つ気で、死に物狂いでやれ」
「まさかとは思いますが、そのためだけに……おれをたきつけるためだけに、姫にも会わせたというのですか」
「そうさ。あいつは鎌倉一の女だ。役得と思え」
「横暴だ」
胤義は今度こそ本当に泣きそうになった。さきほど感じていた喜びが、夢幻であったかのように、気持ちがしおしおととしぼんでいく。
「じゃあなにか。どうすれば本気になるんだ。おまえが勝ったらあいつをくれてやるとでもいえばいいのか」
「それはちがう!」
あまりの言葉に、かっとなって声を荒げる。しかし頼家は胤義のそういう反応を予想していたようだった。
「ハハハ、うぶなやつ」
軽くあしらわれて途方にくれる。恥ずかしさのあまり、いますぐ逃げ帰ってしまいたい。
「殿下、これ以上は耐えられません。姫君ともども、からかわないでください」
「からかってなんかいない。おれもあいつも本気だと、さっきからいっているだろう」
白梅の香りが、頼家の直垂の袖からも香ってくる。それに気がついたとき、こころが締めつけられた。そんなこといわれたって、勝てるはずもないという諦めの気持ちとは裏腹に、どうしようもなく想ってしまう。滾ってしまう。
あのひとに、失望されたくないのだと。
本当は、勝ちたいのだと。
頼家の御前からさがり、『大辰』を連れて帰ろうと厩をおとずれたときだ。夜もふけているというのに、ひとの姿をみつけた。そのひとは『大辰』になにか話しかけながら、たてがみを梳いているようだった。
「あの」
声をかける。ふりむいた人物の顔をみて、胤義は硬直した。
「北条殿」
「おう、六郎の弟。調子はどうよ」
北条義時。胴元に名を連ねるこの男と、胤義の兄は朋友だった。兄絡みで顔をあわせることも多かったが、胤義はこの男が苦手だった。どこかぼんやりとしていて、なにを考えているのか掴みづらい。
「調子もなにも。馬がこれでなければ……いったい馬主はどこのどいつなんでしょう」
「おれだが」
「そうでしたか。えっ」
背筋を冷たい汗が流れおちる。これは、まずいことをいってしまった。ちらりと義時の表情を盗みみる。義時は、怒るでもなく呆れるでもなく、胤義の瞳をまっすぐにみつめ、そして薄い唇をいびつにもちあげた。
「この『大辰』は、いざというときにだれよりもはやく、どこまでも遠くに逃げおおせるために手にいれた最高の馬だぞ」
「そうなんですか……ええ、いまなんて」
義時は『大辰』を最高の馬だといったのか。それは、馬主としてそう思いたいという心理が働いているのかもしれない。しかしながら、逃げるとは。なぜ戦うでなく逃げる前提なんだろうか。ぐるぐると考えていると、それを察したのか義時がひとつ咳払いをした。
「それよりも、こんな夜中になにしてるんだ、おまえ」
「それが」
胤義は、いまあったことをすべて、あらいざらい義時に話した。
「へぇ。あの女、みる目があるじゃねえか」
おまえとちがって――とつけたして、義時が満足そうに『大辰』の首筋を撫でる。
「こいつは、もとはといえば成田山新勝寺の奉納神馬だったのさ。たまたまおれが参詣した日、こいつはそこの馬房を脱走してよ。捕まえてくれって坊主どもに頼まれたから、追いかけたんだが、まぁ捕まらない。追いついたと思うとするっと脚が伸びやがる。気にいったんでな。数人で追いこんで、捕まえて、そのままうちに連れて帰ってきた」
「罰が当たればいいのに」
「おれはきちんと捕まえただろ」
義時が、むくれて口をへの字に曲げる。
「たしかに、こんなに首がさがっていちゃあ、矢避けの盾にもならねぇよ。見栄えも悪いし、合戦には向かねぇだろう。それにちょいと駆けるだけならそんなにはやくもねぇ。ただ、粘り強さはどの馬よりもある。戦じゃねぇんだ。果敢さなんていらねぇよ。おれだって胴元になんざ指名されなかったらおまえとこいつに賭けてるよ」
そう呟いて肩をすくめると、義時はくるりと背をむけた。
「まあなんだ。騎手のおまえが諦めたら、そいつは走ろうとしている馬に対する裏切りってもんだからな」
そういって去っていく義時の背中には、蓄積された疲労がみてとれた。頼家の思いつきとはいえ、自分たちのために遅くまで働いている大人たちに忍びない。胤義は、御所をでた。
今日は十六夜だろうか。青白い月の光が照らす若宮大路をながめる。
辻に焚かれた篝火。武者どもの喧噪。道端に座りこむ乞食。好色家の乱痴気。甘い化粧と酒の匂い。食い物をあさる野良犬。浜にうち捨てられた屍体。この世の洞のように暗い海。
そのすべてを抱く、都市鎌倉。
胤義は、由比ヶ浜へと向かった。『大辰』の蹄が砂をかいた。気持ちを汲んだかのように、自然と駆け脚になる。
おれは、いままで間違っていたのだろうか。
景色がこすれた。はやく、はやく、ただはやく。軽やかに馳せる。
薄闇のなかで、さざなみよりも軽やかに、風を飛び越えた。
親父は負けろというし、仲間たちにはその馬では勝てないといわれ、勝てなくてもいいと思っていた。否、おれはおまえからも、逃げていただけなのだろうよ。
ああ、おまえ、走れるじゃないか――たてがみにしがみつく。いにしえから絶えまなく続いているだろう潮騒が心地よかった。はかなげな月の光をまとった泡が、よせ集まっては膨らんで、はじけては渦のなかに消える。
湿った生臭い風と砂。すぐそばにある、相棒の息づかい。そのすべてとひとつになって。
ふいに涙が頬をつたった。乱暴に袖でぬぐう。
叫びたかった。吠えたかった。衝動が、体中を駆けぬける。
義時は、『大辰』は走る馬だといった。
けれど、それはちがう。きっと『大辰』は、乗り手の感情に敏感なのだろう。負けてもいい、勝てなくともかまわない。そういう胤義の弱さが、『大辰』の脚を止めていたのだ。
ひょっとすると天命だったのかもしれない。おれと、おまえ、似たものどうしの半端もの。もうじき鎌倉(ここ)を駆けぬけ、そして飛びだすのだ。
もとめられることも、もとめることも、怖いことだと思う。どうあがいても傷ついて、痛みを抱えなければならない。
けれども、それでも。
「もうおれは諦めないよ、相棒」
そういって首筋を叩くと、『大辰』はかすかに首をふった。
美浦牧にもどると、すぐに騎手たちに囲まれた。頼家になにをいわれたのか、その日なにがあったのか。そういうことをみなが口々に聞いてきた。
しかし、胤義はただ相槌をうつだけで、なにも言葉にしなかった。言葉にしてしまったら、決心が逃げていってしまうような気がしたのだ。
そして、それまで以上に、『大辰』の手綱をとって駆けつづけた。『大辰』と呼吸をあわせるように。『大辰』にみずからの鼓動をおぼえさせるように。繰りかえし繰りかえし牧を駆けた。
もう他の馬のことはどうでもよかった。ただ、ひとりと一頭が折り重なるように、より通じあうようにと、それだけに専念した。
そういう胤義をみて気が狂ったという騎手もいたが、重保だけが、「いい競争相手になりそうだ」といってくれた。その言葉が、なによりも胤義を勇気づけたのはいうまでもない。
ふと夜、澄んだ星空をみあげるとき。朝、草々のまとう翡翠のような露をみたとき。胤義は白梅の香りを想った。
きっとはかなく褪せていくだろう自分の気持ちを、こころのうちに無理矢理刻みつけるように、馬蹄で土を蹴りあげた。
そんなことしかできない自分がはがゆい。けれど誇らしく思いたかった。
後悔だけは、したくなかったのだ。
決戦の日。
八頭の馬と八人の騎手が鶴岡八幡宮寺で、ふたたび相まみえる。その日の空はどこまでも青く澄み渡っていた。
このハレの日を、鎌倉中の民という民が待ちわびていたのだろう。若宮大路をはさむようにして、大観衆が詰めかけていた。その熱気が歓声となってうねり立ちのぼっている。それが、まるで昇り竜のように胤義には感じられた。
「さあ、行こう『大辰』おれとおまえは、あの歓声をすべて喰らって、本当に、天を駆ける竜になってやろうじゃないか」
北条時政が赤い旗をかざす。準備が整ったということだ。
一番内側に『紅大和』そのとなりに並ぶは『金海波』続いて『北山畦』『深黒』は落ち着きがないか『相馬桜』それを横目に『新山』『鏑矢王』そして大外に『大辰』とすべての馬が一の鳥居に並んだ。
比企能員が綱をひく。それを合図に、一斉に馬たちが駆けだした。
出遅れたのは『金海波』観衆から悲鳴があがる。颯爽と先頭に躍りでたのは『紅大和』列は縦に大きく伸びて、一番人気の『深黒』は三番手につけている。そのすぐうしろにぴたりとはりついた『新山』騎手の重保の手綱さばきは、やはり巧みだ。
大銀杏が左手にみえてくる。この時点で『大辰』は六番手の位置をとっていた。
地響きのように轟く馬蹄。鞍を並べるのは、いずれも劣らぬ名馬どもである。馬の荒い息遣い。飛び散る汗。声を荒げる騎手たちの駆けひき。
目の前を行く馬の蹄が土を蹴りあげる。砂利が胤義の額をかすめた。まだだ、焦るな、まだはやい。掛かりそうになる相棒の手綱をひく。
斜め前を馳せる頼家をみる。視線に気がついたのか、頼家もまた胤義をみた。まだ余裕がありそうだ。相棒に息をいれさせる。
削りとられていくような景色。耳を引きちぎるような風。心の臓に響きわたる振動。ああ、とてもいい。額からしたたる汗をぬぐった。否、血がでているのかもしれない。そんなことはどうでもいい。
大銀杏を過ぎ去って。さあ、ここからが勝負だろう!
鞭を打つ。瞬間、ぐんっと視界が広くなる。遠くのほうに、きらきらと輝く海がみえた。一気に馬群を押しのけて、いま、先頭にたったのだ。
「おもしろい、そうこなくては」
そう叫んだのだろうか。頼家が漆黒の馬体に鞭を打った。 二頭の獣がぶつかりあう。潮風をまとい、歓声すらも置き去りにした。勝ちたい。その意地だけで駆けぬける。
ふたりのあいだには、ただどうしようもない昂揚しかなかった。この時が、いつまでも続けばいいのに――。
大外から一気にまくってやろう。胤義は馬首を押し、鞭をいれた。どっと勢いをつけて、一馬身、二馬身。脚がするすると伸びた。一気に抜いて、先頭にたつ。しかし、そうそう甘い相手ではない。視界の端に黒い塊をとらえた。墨のように美しい青毛の馬が、疲れなどお構いなしに、とんでもない勢いでつっこんでくる。
いままでだれもみてくれなかった。いつだって一族の期待の中心には兄がいて、末子の自分は愛されてはいたものの、見向きもされなかった。へたに目立つくらいなら、二番手以下であるように。たとえ力があったとしても、頭数でいるように。ただ兵士であればいい。
それをもとめられてきたのだから、それが当然だと思ってきた。すこしの悔しさを飲み干せば、そういう生きかたは楽でもあった。そこにあぐらをかいていたのは事実だ。
でも、それじゃあだめなんだ。
そんなんだから、負けるんだ。
だから、おまえ。こんなところで負けるたまじゃねぇだろう。おれとおまえで鎌倉中を裏切るんだ。
首を押す。頼家が詰め寄ってくる。その顔は、笑っていた。勝たせるものかと互いに競りあう。歓声に包まれて、鳥居はもう目の前で――
駆けぬけて、ふりかえる。
頼家が空を仰いで、それから、日の光に負けず劣らずの眩しい笑顔を胤義にむけた。その表情には一点の陰りもなく、こころからの賞賛があった。
ああ、勝ったんだ。
けれどもその澄んだ笑顔に、自分は勝てないのだと悟ってしまった。
鞍上の胤義は、たてがみに顔をうずめた。馬蹄の振動が、胤義に容赦のない現実を叩きつける。気を抜くとこぼれ落ちそうになる涙を、風がひゅるりとさらっていった。
賞賛も罵倒も、すべての音を潮騒がかき消して。さんざめく喧噪が、ずっとずっと遠くのほうに聞こえる。
あのひとはほほえんでいるのだろうか。
喜んでいるだろうか。
おれは、やりました。精一杯つくしました。
そうまでしたって、この手はあなた届かないのです。
けれども、これであなたがおれを忘れることはないでしょう。
ああ、そうさ。それで十分だ。
あなたの愛するひとに、おれはどうにも敵いそうにありません。
白砂のはるかむこうで海のはてが空とまじる。そのどこまでも深い青に包まれていると、胤義はどこかふっきれたような、さわやかな気持ちになった。
蹄が由比ヶ浜を踏みにじる。砂はとりとめもなく崩れて、散って、けれど消えてなくなるわけではない。きっとこの気持ちも、たとえかたちを変えたとしても、消えてなくなることはない。
おまえは本当によくやったよ――胤義は荒く息を吐く相棒の首筋を叩いた。
その日、鎌倉中の富を、ひとりの女が独占したという。
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