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 ふと目を覚ますと、少女が目の前でじっとこちらを見つめていた。少女は姉の幼い頃にそっくりな姿で、これは夢だなと思うのはそう遅くなく。
「ゆうくん、おうちにかえろ」
 まだ幼い声の姉が、にっこりと笑って僕の右手をそっとひいた。
「きょうはね、ゆうくんのすきなおかずだよっておかあさんいってたよ」
 姉はこんなふうに話しただろうか、と考えながらも僕はついてくしかなかった。
 姉は大人になってからも、僕のことをゆうくんと呼んだ。20歳を過ぎた僕をゆうくん、と言うのは姉くらい。呼ばれるたび、恥ずかしいような嬉しいような、そんな複雑で照れくさい気持ちになっていた。でも間違いなく、嫌じゃなかった。
「このまえのよる、たいへんだったでしょ? おかあさん、ゆうくんのことしんぱいしてたよ。だからきょう、ゆうくんのすきなからあげつくって、すこしでもげんきになれーって」
 嬉しそうにニコニコしながら、姉は歩く。今夜はからあげだったんだなあ、とぼんやり考えながら僕はついていく。夢の中のことなのに姉の姿だけはやけにリアルで、本当に夕飯はからあげなんだと思ってしまう。
「ゆうくんもわたしも、からあげがすきなのいっしょ! ね、げんきでた?」
 振り返った姉が手をぎゅっと握った。振り返るのに合わせてきれいな髪が揺れる。
 小さな頃は頼もしかった姉の手は、今はとても小さくて弱々しくて。幼い頃の手なんだからそりゃそうかと、納得したつもりだった。それでも体は思い通りにならない。心臓が胸が目が、じんわりと確実に熱くなってきた。ぽたり、と涙が落ちる。
「ゆうくん? どうしたの、どこかいたいの?」
 気づいた姉が、優しく問いかけてくれても、涙があふれてうまく返事ができない。左手で涙を軽くぬぐってから、姉をぎゅっと抱きしめた。
「ゆうくん?」
「ごめん、姉さん。もう、1人でも大丈夫。僕は大丈夫だから」
 声が震える。視界がぼやける。
 ようやく絞り出した返事に、姉は驚いたのか言葉に詰まったあと、小さな手で優しく頭を撫でてくれた。子どもの頃はもちろん、大人になっても姉はいつもこうしてくれていた。優しくあたたかい、安心する手。
「ちゃあんとおにいさんになってたんだね」
 ああ、姉さん。優しかった姉さん。花が咲くように笑った姉さん。長い黒髪が似合っていた姉さん。ずっと大好きだった姉さん。
 ──僕を置いていってしまった姉さん。
 母さんがからあげをつくったのは、僕のためじゃない。きっと姉さんのためだ。

「祐司!」
 体を揺さぶられる感覚と、僕の名前を呼ぶ声で目が覚めた。ぼんやりとした頭で辺りを見る。白い天井、白いカーテン、白いベッド。母がくしゃくしゃになった顔で僕を見つめている。
「祐司おねがい、あなただけは……!」
 そこで僕の計画は失敗に終わったんだと気づいた。
 小さな姉さんは、優しく家に帰ろうと言ってくれた。最後まで姉さんは僕を助けてくれた。姉さんの所に行きたかった。行けなかった。行っちゃいけないって言われた気がした。
「ごめん、母さん」
 ──ごめん、姉さん。わがままで、情けなくて、弱っちい僕。間違った道に進もうとしたとき、いつもそっと戻してくれたね。
「ありがとう」
 小さく呟いた感謝の言葉は、姉さんに届いただろうか。

 1週間ほど入院していたときも、退院してからも、母がずっと僕のことを気にかけているのがわかっていた。やけに優しく、心配していて、大学に行くと言っても何か言いたげな不安そうな顔をする。
「もうバカなことはしないって、姉さんに怒られちゃうし」
 と、笑って言うと、母は少し安心したような、まだ何か言い足りないような顔で「分かった。行ってらっしゃい」と送り出してくれた。
 実際に大学に行く訳では無い。今日はしばらく会えなかった姉に会いに行くと、ずっとそう決めていた。母に正直に伝えてしまえばまた心配されると思って、嘘をついてしまった。少しばかりの罪悪感が僕にのしかかる。
 ──花を、買わなきゃ。
 本当は専用の花でいいんだろうけど、今日は違った花をと思っていた。花屋の店内をぐるりと見回していい花がないかと見る。色とりどりのきれいな花の中、淡い紫色の花に目が止まった。
 姉のピアスの色。誕生日にプレゼントした揺れるピアス。姉はとても喜んで、いつでもどこにでも付けてくれていた。姉の表情が変わるたび、風が吹くたび、キラキラとピアスが揺れていた。
 店員さんにこれをください、とお願いする。小さい花びらがかわいらしい、シオンの花だった。

 姉が眠る場所に来たのは初めてではなかった。1人で来たのは初めてだったけど。
 冷たい石の下で、姉は寝ている。そう思うと、また目頭が熱くなった。
 1人なのをいいことに、姉との思い出や胸にある想いなどをすべて言葉にした。面と向かって話しているわけじゃないからか、いつもよりスムーズに言葉が出る。あの夢も頭に思い浮かんで、姉に話した。姉に助けられたと、姉が好きだったと。
 話せるだけ話したあと、そっと花を添えて笑ってみせた。
「僕はもう、大丈夫。ちゃあんと、お兄さんになるから」
 ありがとう、と感謝の言葉をまたつぶやくと、優しい風がさらりと肌を撫でた。
 姉が微笑んでいるように、きれいなシオンの花が風に揺れていた。
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