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第六章

9.

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  どのぐらいの間佇んでいただろうか。
  自分がもし母に会えたとしても、言葉を交わせなくても構わないのかもしれない──。
 月乃さんの満たされた顔を見ていると、美里もそんなふうに思えてきた。
「帰りは悪いけど……この子と二人で帰してもらおうかしら」
 月乃さんは窓から目を離し、類と美里の顔を一人ずつ見た。月乃さんの顔には迷いがなかった。
「え、でも……私も一緒に送りますよ」
 変な台詞だと思ったが、美里は慌てて制した。以前よりも類を疑う気持ちは薄れていたが、また変ないたずら心を起こして月乃さんを危ない目に遭わせないとも言い切れない。
「美里ちゃん、僕に託すのを心配してる?」
 美里の心を見透かしたように、類が先回りした。返答に迷っていると、月乃さんが類の肩にそっと触れた。
「この人は、信頼できるわ。ちゃんと私を──元のところに戻してくれる。それに、美里ちゃんも本来は行き来するべきじゃないんでしょう?」
──類を「この人」と言った。
 美里は月乃さんの心眼の鋭さにしばらく言葉を失った。月乃さんは詳しい事情を知らないまでも、本能的に事態を察している。そして類の本質も見抜いているようだった。
「もちろん、ちゃんと元の……夢の中に送り届けるよ」
 誇らしげに類は言ったが、それは子供っぽい声色ではなく、落ち着いていた。
「彼女が心配してくれているように、美里ちゃんが行ったり来たりするのは体力的にもあまりいいことじゃないかな」
 類が説明すると、月乃さんも浅く頷いた。美里は頭では理解できていても、もどかしさを感じていた。
──このガラス窓一枚を隔てて向こうにいるのに。
「……もう、いいんですか? 本当に話さなくても……?」
 美里の問いに、月乃さんはたっぷりとした笑顔で頷いた。
「本当はね、怖いの。これ以上近付いたら、帰りたくなくなってしまいそうでね」
 月乃さんは一息に言った後、少し呼吸を整えて続きを口にする。
「もう十分に歳は重ねたけれど、私は天命を待つって決めたから……こちらに来るのを急がない」
 凛とした月乃さんの声だった。美里は改めて彼女の強さを、美しいとも感じる。
「さよなら、星地」
 はっきりと月乃さんはガラス越しに告げた。
「今度こそ本当に」
 そう言って、ほんの少し口の端を持ち上げた月乃さんは見とれてしまうほど綺麗だった。
 じゃあね、と月乃さんは類と手をつないで霧の中へ消えて行ってしまった。霧を通り抜けて、また夏の夢の断片の中へ──。

 取り残された美里は、心の整理がつくまで洋館の前に佇み、心を決めてドアを開く。
「おかえり」
 ハツミ叔母さん、影、そして星地さんが気づかわし気な表情で美里に声をかけてくれた。「逆だ」と美里は考える。星地さんを気遣う言葉を、美里がかけるほうだと思っていた。
「あの、星地さん……」
「私は大丈夫です」
 言いかけた美里の言葉を星地さんは遮った。美里は口をぽかんと開けてしまった。星地さんはさっぱりした表情をしていたので、それ以上何も言えなくなってしまった。
「母らしいと思って、むしろ嬉しかったです。もし中に入って来られたら、私は……平静ではいられなかったと思いますから」
 星地さんは静かに微笑み、美里に椅子を勧めた。
「一仕事してくださって疲れたでしょう。温かい紅茶を淹れますね」
 言われて初めて美里はひどく喉が渇いていたことを思い出した。ハツミ叔母さんと影がさっと手を挙げ「あたしたちも欲しいです」と言うので、美里は笑ってしまった。
──戻って来られたんだな、またこの二人のいる場所へ。

 整えられた心地よいベッドで眠った後は、朝が来るはずだった。しかし、洋館の周りは霧が立ち込め続けていた。
 朝食を食べながら、星地さんがこれから混み合うであろうカフェ利用のお客さんを見越して焼き菓子を仕込んでいるのを見る。
「皆さん、本当にありがとうございました。どうかまた立ち寄ってください」
 私はずっと、ここで霧を作っていますから。
 星地さんが手を洋館の前で手を振ると、霧の中をうごめくいくつもの影が見える。
「ありがとうね。癒されたくなったら、またここに来るわ」
 美里たちは手を振って、すっかりお馴染みになった軽自動車に乗り込もうとした。
「それじゃあ、帰ろうか」
 ハツミ叔母さんは、どっしりとした声で言う。助手席の影がちらりと美里を見た。
「出発地点の、美里の住む町へ」
「え──?」
 美里が絶句していると、ハツミ叔母さんはバックミラー越しに美里の目を覗きこんだ。
「そこに答えがある」
 ハツミ叔母さんの口調はとても穏やかで、美里はこれまでのような胸の痛みも、悲しみも感じなかった。
──今なら受け止められる。
 微かな自信が心に芽生え、美里はまっすぐに前を見つめた。
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