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20XX/12/24(土)
a.m.0:40「クリスマスイブ①」
しおりを挟むアルバイトを終えた月島一風は、服を着替えてコンビニを出た。日付が変わって今日はクリスマスイブだ。寒い空気を避けるように、コートの襟に口元まで埋めながら駐車場を見渡せば、端に見覚えのある車があった。
スカイブルーのインプレッサに近付き、運転席の窓を叩く。するとガチャッと鍵の開く音がした。彼女は助手席側に回ってドアを開けると、なんの躊躇もなく中に乗り込んだ。
助手席のシートに身体を預ける。外の刺すような寒さが遮断され、暖房の利いた車内は暖かい。小さく息を漏らしてようやく、一風は運転席を見た。コートを脱ぎ、キャラメル色のスリーピーススーツ姿の神々廻慈郎が、呆れた顔でこちらを見ている。
「なんですか?」
一風は首を傾げた。
「いやー、乗ってくれるんだなあと思って。少し無防備すぎるんじゃない? もっと警戒したほうがいいよ。世の中にはロクでもない人間がいくらでもいるんだから。女子大生なんて、加害者よりも被害者になる可能性が高い生き物だよ?」
「それ、神々廻さんの言うことじゃないですね」
「ははっ、それはそうだ。でも言わせてよ。おじさんって生き物はね、知っている女の子があんまり無防備にしていると、心配でたまらなくなるんだ」
「知っている女の子、ですか」
確かに、神々廻と顔を合わせていた時間はそれほど長くない。一緒に行動していた時間に至ってはわずか一週間程度だ。
それでも一風にとって、五か月前の――二十歳の夏の一週間は、忘れることのできない時間だった。きっとこれから先の人生、記憶の中でも色褪せることはない。そう断言できるほど衝撃的で、自分自身の醜さを知り、衝動に身を任せた日々だった。
その時間を共に過ごした彼にとって、自分が『知っている女の子』でしかないという事実は、彼女が自嘲を浮かべるには充分すぎる理由だ。
「神々廻さんを警戒しても、しかたないでしょう。家の場所も、大学も、実家も、バイト先も全部バレていて、なんなら交友関係まで調べられているのに、今さら警戒したってどうしようもありません」
つい、皮肉めいたことを言ってしまう。
真っ直ぐ見てくる彼から顔をそらして、前を向いた。
久しぶりに見たが、記憶と違わぬ貌だ。コンビニの明かりが辛うじて届いているだけで、車内は暗い。そのせいか整った男らしい美貌の中には艶やかさもあった。四十代のおじさんを捕まえて、色気を感じるなんて。
突然の再会の動揺も、自嘲混じりの皮肉も、どこかへ行ってしまうかのようだ。退廃的な雰囲気の美形だった父が大好きな、いわゆるファザコンだった自覚はある。綺麗な顔が好きな、今の面食いな自分は、その延長線上にいるのだろう。
「一風ちゃん、怒ってる?」
「……怒ってはいません」
「本当に?」
「ええ、まあ……」
顔は前に向けたまま、チラリと隣を見る。
神々廻と視線が絡んだ。
ずっとこちらを見ていたのだろうか。
彼の眉尻は下がり、申しわけなさそうな顔をしていた。その表情を見て、一風はもしかして、とある考えに思い至る。神々廻が『怒っているのか』と聞いたのは、今のやり取りのことではないのかもしれない。たぶん、彼の言葉が差しているのは、もっと前のこと――
「島に置いて行かれたこと、当時はともかく、今はあまり怒っていません。何も話してもらえなかったことも。バタバタしていたから、ずっと怒りを抱いておく余裕なんてありませんでした。怒るのって、泣いたり笑ったりするより疲れるんです」
「お母さんのこと……ごめんね」
「なんで神々廻さんが謝るんですか?」
「そうだね……八雲くんといてあげられなかったから、かな。まったくの他人でも、大人が傍にいれば不安は少し軽くなる。それを知っていて、彼をひとりにして島を出たから」
「それをどうして、わたしに謝るんです?」
彼女は神々廻へ背けていた顔を向けた。その表情は何故そんなことを言うのか解せないとばかりに歪められている。神々廻がそのことを謝るのなら、相手は一風ではなく、月島八雲だ。ここで言われても、彼女に返せる言葉はない。
「うーん……もしもだよ、八雲くんが辛い時に独りにしてしまったって、一風ちゃんが思っているのなら、それは違うって言いたくて」
「……え」
「あの時、一風ちゃんはどうしようもなかった。もし、あの時の彼に何かしてあげられる大人がいたとすれば、それは僕だ。仮初だったけれど、姉の婚約者として八雲くんに寄り添えた。でも、そうしなかった……だから、君が自分自身に怒りを抱えているのなら、それは全部、僕に向けていい」
「っ、そんなの、今さら――」
「五か月経った。今さらだと言われれば、そうかもしれないけれど……君の中からはまだ、消えていないだろ? 一風ちゃんはそういう子だから」
福岡へ戻って来てからの日々は、慌ただしく過ぎて行った。
それまで一緒に暮らしていなかった弟との生活は、最初は互いに気を遣ってぎこちなかったし、生活リズムの違いは決して小さくないストレスにもなった。一風にとっても、おそらく八雲にとっても。
慌ただしい毎日の中で、ふとした瞬間――例えば弟と些細な口喧嘩をしてしまった時、胸の中で忘れようとしていた罪悪感に火が灯り、先に謝ることが何度かあった。忘れられない、消えてくれない、罪悪感。自分自身への怒り。
それを引き取ってくれると、言うのか。
「……ただの、知っている女の子に、気を遣いすぎですよ。そこまでしてもらわなくても、本当に……神々廻さんへの怒りなんて、ありません」
向けられているのは、子供を庇護しようとする優しさか。温かいその感情に縋ってしまえば、気が楽になるだろう。気持ちに余裕が生まれるかもしれない。激しい感情の捌け口があれば、生きることが少しだけ、軽くなる。
それでも、受け取ることはできない。
一風が子供であったなら、背負うものが何もない――夏以前の自分であったなら、縋っていたのかもしれない。故郷から逃げ、嫌いなものを嫌いだと言い張り、受け入れられないものは即座にはねのける、そんな子供のままではいられなかった。
学生のアルバイトではあるが、働いて金銭を得ている。学費と生活費を捻出し、未成年の弟の庇護者でもある。年齢だけでなく、本当の意味での大人にならなければならないのだ。もちろん、周りの人に支えられて、ようやく大人の第一歩目に立てているのだと、重々承知している。
「島から戻って少しした頃、数回に分けて荷物が届きました。ダンボールに現金を入れて送ってくるなんて、何を考えているんでしょうね。それも、全部合わせたら、大学の学費を一括で支払えてしまうくらいの額……神々廻さん、ですよね?」
「最初に約束したからね。経費は僕持ち、お給料も出すって」
「それにしては多すぎますよ」
一風はそう言うと、小さく息を吐く。そして身体ごと神々廻のほうを向くと、頭を下げた。
「一風ちゃん?」
「ありがとうございました。正直に言うと、すごく助かりました」
弟とふたりで暮らすのは簡単ではないと分かっていた。それでも、住むところは変わらず、貯金も少しあったため、大きな買い物をしなければ、なんとかなると思っていたところがある。もしお金が足りなくなればバイトを増やせば大丈夫だと、算段を立てていた。
しかし実際に人がひとり生活に加わると、単純な電気や水道料金などの増加から、こまごまとした出費が重なったり、思いがけない出費があったりと、想定していた以上のお金がなくなっていく。
そんな中でも荒まず、弟にあたらず、大学の講義をサボることもなく、これまで生活できていたのは、差出人不明の――本当は神々廻からだと分かっていたが――現金があったからだ。
「本当に、ありがとうございました」
「一風ちゃん、頭上げて。そんな風にしてもらおうと思って、渡したわけじゃないんだよ。君たちの助けになったなら、良かったけど……こんな形でしか、責任を果たせないのは、情けない大人の証拠なんだから……」
肩に、手が触れる。
一風がゆっくり頭を上げれば、神々廻の自嘲混じりの顔が、すぐ傍にあった。笑みを作っているつもりなのであろう口元は歪み、細められた目には、罪悪感が滲んでいるかのようだ。
(そんな顔しなくても、いいのに)
彼女の手は自然と伸びていた。
彼の頬に指先が触れる。神々廻が目を見開いた。けれど手が振り払われることも、彼が貌を背けることもない。そのまま触れる面積を少しずつ広げていき、そっと彼の頬を撫でた。
「急に、弱音を吐くなんて、ズルい人ですね」
彼が何を思い、胸を痛めているのかは、分からない。それでも、自分を情けないと嗤う顔は見たくなくて、でも、どうすればいいのかも分からなくて……彼女はただ冗談めかしたように言って、やわく頬を何度も撫でるのだった――。
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