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20XX/07/07(木)
a.m.6:55「環音螺島の儀式」
しおりを挟む七月七日。
世間一般では七夕とされる日だ。笹に願いを書いた短冊を吊るして、紙の輪っかで飾り付けるのがポピュラーで、子供であれば『織姫と彦星の物語』を聞いたりするのだろう。重要なのは願いが叶うかどうかではない。子供を除き、誰も願いが本当に叶うだなんて信じていないのが普通だ。ただ笹を飾り、短冊に願いを書き、天の川を探したり、織姫と彦星の存在を思い出したりして、イベントとして楽しむ。七夕とはそんなもので、その程度で充分、価値がある。
午前六時五十五分、月島一風は霊峰の中腹付近――昨日下見に訪れた、檜舞台の前にいた。
儀式が始まる前に、会場の袖にある幕に覆われたスペースで、慣例に従って黒の着物に着替えた。着物姿で登山レベルの石段上りなんてできるはずもない。着物の上から背に家紋が描かれた白の羽織を纏う。それが、島民の先頭――檜舞台に一番近い場所に並ぶことを許された、四家の人間の正装だ。
(帯、締めすぎたかもしれない)
朝食を少なめにして正解だったと、そんなことを考えるくらいの余裕はある。嫌悪感が勝っているからか、神々廻が言うところの清浄な空気や厳かな雰囲気に飲まれてはいないし、緊張もしてはいない。
神々廻は一緒ではなかった。彼は熱中症の後遺症のせいで今朝も本調子ではなかったようで、家で留守番をしてもらっている……とはいえ、学校に忍び込むような真似をした彼のことだ。儀式に参加するために島の人間がほとんど出払っている状況で、おとなしくしているとは思えない。
一風が月島家を出発した時、母の彩乃はまだ起きていなかった。だから母のことは神々廻に任せてきたのだ。心配はしていない。おとなしく家で待機はしていないだろうが、母のことは見てくれると、短い付き合いではあるが分かっている。
儀式の開始は七時ちょうどだ。
遅れもしないし、早まりもしない。
すでに島民のほとんどは集まってきている。会場となっているスペースに入りきらない人間は、苔生した石段に並んでいるようだ。
地方の田舎に漏れず、環音螺島も年寄りが多く、当然、足の悪い人もいる。それでも儀式には自主的に、かつ、意欲的に参加していた。ここまでは辿りつけなくとも、行けるところまで、せめて観伏寺までは……と。そのため今日の観伏寺は忙しいに違いない。事実、夏目弥生の姿はこの場になかった。今現在、寺で島民の応対を任されているのだろう。
(それもそれで面倒そう)
つい溜め息をつきそうになるが、右隣に火河倫一郎(りんいちろう)がいるのを思い出して寸でのところで飲み込んだ。島長の興梠や医者の鷲頭と違い、厳格な老人だというのは島の共通認識だった。
四家に上下はない。
檜舞台と向き合う形で右から、月島一風、火河倫一郎、水海千天(せんてん)、木守鳴弓(めいきゅう)と並んでいる。一風以外の三人は全員、七十歳以上だ。名家の当主とだけあって風格のある人物ばかりで、正直、一風は浮いていた。ここに並んでいたのが八雲でも浮いていただろう。身体は大きいが、姉の贔屓目だったとしても、風格や威厳があるようには見えない。
(お母さんなら――)
彼女なら、堂々とこの場にいたはずだ。隣の厳格な老人など意に介さず、それどころか意識すらしないのかもしれない。月島彩乃は揺るがないのだ。凛として、自分というものを持っている。しかも並大抵の自我ではない、いっそ頑固と呼んだほうがいいような、確固たる自分を。
やがて――一風がぼんやり前を向いていると、檜舞台に夏目大寿が姿を現した。
舞台上に飾られた弓や刀などの武器や鎧兜の前を進み、中央に立った彼は白の狩衣姿で扇を手にしている。背を真っ直ぐ伸ばし、足音なく進んできた姿は島民の目には特別なものに映ったのだろう。後ろで少なくない数の人が、ほぅ……と感嘆の息を漏らすのが聞こえた。
夏目家の祖先は公家の人間だというのは有名な話だ。そこからどうして九州に浮かぶ孤島の住職を担う家系になったのか。環音螺島では小学生の時に郷土の歴史を学ぶ授業で履修する。
夏目がどれだけ偉大な家系か。島のために尽くしてくれているのか。夏目家以上に頼りになる存在はいないのだ、と。それはまるで美辞麗句を並べた冒険活劇とでも言うべきか……歴史は権力者の手によって、都合のいいように改変することが可能だと知るまでは、そうなのだと信じていた。
「っ……」
ハッと、目の前の舞台へ意識を戻した。
鼓と鐘の音を皮切りに、夏目大寿による舞がはじまる。笙と龍笛の音が続いた。大寿が深く、轟くような声で祝詞事を唱える。
風が、吹いた。
夏の朝の爽やかな風が木々を揺らし、その場に集まった島民の間を吹き抜ける。背後でざわめく声が聞こえたが、一風はもちろん、他の三家の当主たちも振り返りはしなかった。風が檜舞台を囲む幕と幟をはためかせ、大寿の狩衣の袖にも集まって大きく膨れる。
(六根清浄の……)
子供の頃に真剣に学んだことは、頭の中から消えてくれない。夏目大寿の声が紡ぐのがそれだということは、すぐに分かった。人間に備わった六根――目、耳、鼻、舌、身、意識の六つの感覚器官――を清浄にする祝詞事だ。生きる中で負った罪を雪ぎ、心身を清らかにすることで、神と繋がる準備ができる。
和楽器の音色の中でも、夏目大寿の声はよく聞こえた。彼に対していろいろ疑いを抱く前の自分であれば、ずっと聞いていたくなる声だと思っていたことだろう。今となっては、そんな気持ちも湧いてこない。
(何年も大事にしていた想いが、数日で消えることもあるのね)
恋慕の情を込めた目では見つめられない。
けれど祝詞事を唱え終わり、和楽器の音色に合わせて優雅に舞う、夏目大寿の姿には素直に驚いた。流れるような繊細で優美な動きは、一朝一夕で身につくものではないはずだ。研鑽を積んできた成果なのだと、感心する――とはいえ。
彼女にとって、微塵も興味のない儀式だ。
長い一日がはじまったなあ、と。今朝四時半に起きた月島一風は、高校生の時に習得した特技、誰にもバレないように欠伸をすること、を実行する。人知れず欠伸を噛み殺しながら、檜舞台を眺めていたのだった――。
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