神の居る島〜逃げた女子大生は見えないものを信じない〜

(旧32)光延ミトジ

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20XX/07/05(火)

a.m.7:30「容疑者扱い」

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 夏目弥生から受け取った重箱は三段で、和、洋、中の料理がそれぞれの段に詰まっていた。居間のテーブルに広ければ圧巻で、正月のお節料理を前にした気分だ。見た目だけでなく、味も文句のつけようのない出来だった。中華料理の重に詰められたエビチリは絶品で、分厚い衣で海老の大きさを誤魔化すような真似もしていない。一風は絶妙な辛みとプリプリの海老を噛み締めて、感嘆の声を漏らした。

 正面に座る神々廻は、和の重に箸を伸ばし、牛蒡の肉巻きを小皿に取っている。一風が弥生との会話の内容を包み隠さず伝えれば、彼は眉を顰めた。

「えー、何それ。その話を聞いて、僕はますます夏目大寿への不信感が高まったよ。想定以上に性格悪くない? やっぱり島ひとつ牛耳るには、そのくらいのふてぶてしさと自己愛精神が必要なのかなあ」
「夏目弥生さんの話をしたのに、なんで大寿さんが出てくるんです?」

 首を傾げると、神々廻は牛蒡の肉巻きを箸で掴む。

「だってさー、自分の好きな人への料理を妻に作らせて、しかも持って行かせるなんて、いい性格してると思わない? 言ってしまえば、妻と愛人候補にキャットファイトさせる気マンマンだよねえ」
「……猫? キャットファイトってなんですか?」
「えっ、知らない?」
「なんとなく、いい意味じゃないのは分かります」
「ニュアンスとしては、ひとりの男を巡る女同士の戦いとか、そういう感じかな。妻と愛人候補に自分を巡って争わせる嗜好……うーん、好きになれないね。しかも妻は好戦的な肉食系でしょ? 料理に毒でも仕込まれてたらどうする?」
「……え。もうエビチリ食べたんですけど……」

 相対した夏目弥生の挑発を思い出してみれば、絶対に仕込まれていないとは断言できない。まさか殺されはしないだろうが、少しお腹を壊す程度になら毒を持っている可能性もある。顔を引きつらせながら神々廻を見れば、彼はフッと笑って牛蒡の肉巻きを口に入れた。黙って咀嚼し飲み込むと、神々廻はおかしそうに目を細める。

「冗談だよ。変なにおいはしないし、毒を仕込むには手が込みすぎてる。ニンジンの飾り切りにしたって、フキの筋取りにしたって、ね。それに料理マウントを取りたいんだったら、変な細工はしないでしょ。目的は『わたくしはこんなに料理上手な良妻なの。あなたは逆立ちしたって無理でしょう?』って突きつけることなんだから」
「くだらない考えですね。そもそも料理が得意でないと自覚している人間が、料理勝負の土俵になんて立つわけないのに。勝ちも負けもない。朝早くから手間をおかけしました、美味しくいただきましたよ、で終わる話なんですが……」
「それで終わらないのが好戦的な人間さ。どうしても勝負事に持ち込みたいんだよ」

 勝負などしなくてもいいのに。夏目大寿の妻は弥生で、一風には初恋を成就させようなんて気はさらさらない。美しく、周囲に慕われていて、料理も上手……それを自覚しているであろうに、マウントを取ってこようとする思考は理解できない。攻撃を仕掛けねばならないと思うほど、弥生には一風が強敵に見えているのか。だとすれば思い違いもいいところだし、妻を不安にさせている大寿への評価も下がるというものだ。

(もしかしたら、それが狙い?)

 洋の重のローストビーフに舌鼓を打ちながら、一風は裏を読んでそんなことを考える……が、いくら考えても正解が分かるはずもない。それが分かるのは弥生本人だけだ。余計なことを考えず、今は食事に集中しよう……と、その時――

「んー?」

 神々廻が首を捻った。

「……なんだろう。表が騒がしいね」
「え? そうですか?」

 まさかまた夏目弥生が来たのだろうか。一風が耳を澄ませるのと同時に、玄関の引き戸が開く音がした。そして聞こえてきたのは――

「一風、おるか~?」

 興梠鳥座の声だった。

「島長さん?」
「ええ、そうみたいです。なんだろう……」

 首を傾げていると、再び「返事ばせんかー!」という声が聞こえてくる。一風は「今行くから!」と玄関に向かって声を上げ、箸を置いて立ち上がった。

 玄関へ行くと、興梠が上がり框に腰を下ろしている。今日も派手な色のアロハシャツを着て、大きな麦わら帽子をかぶっていた。開けっぱなしの引き戸の向こう――顔が判別できないほど離れた場所に、何人もの人影が見える。どうやら複数人でやって来て、代表で興梠鳥座が仲間で訪問したらしい。

「……どうしたの? 島民の、遠巻きにしてくるあの感じを見ると、あんまりいい話じゃなさそうだけど」
「八雲が沈んだち聞いたぞ」
「お見舞い?」
「……八雲は自分で飛び込んだとや?」

 質問に答えずそう問うた興梠に一風は眉を寄せる。

「なんで?」
「あいつの傍におるとは、魚たい。魚のおる限り水に溺れたりはせん」
「なんの話を――」
「力ば持っとる魚だけん、簡単に消されることもなか。溺れたとなら、それは八雲の意思たい。あいつが自分で飛び込んだとしか思えん」

 興梠の言葉は頭に入ってくるが、理解はできない。

 傍に魚がいる?

 弟が意識不明の重体の状況なのに、この老人は何をとち狂って、馬鹿馬鹿しいことを言っているのだろう。後ろに来ている島民も同じ意見で、ここに来ていない島民の中にも同意している者が多くいることは、簡単に予想がついた。何せ話をしているのが島を代表する人間だ。一定数の賛同や訴えがなければ、こうして島長が動きはしない。

 それが分かるからこそ、腹が立つ。

 興梠のじいちゃん、と呼びかけようとして、一風は言葉を飲み込む。代わりに小さく息をついて、静かに口を開いた。

「興梠さん」
「……なんか。じいちゃんて呼ばんとや?」
「呼べないでしょ。お前の弟は自殺しようとしたんじゃないか、なんて聞いてくる人を、身内みたいには」
「納得できんとかもしれんばってん、理由がある……良心の呵責た」
「は? 良心の呵責?」

 不快感を隠すこともせず、一風は顔を顰める。

「翠子、慎、くるみ……子供ば池に沈めたとは、八雲の魚やなかとかち……島の人間の中には、疑っとるモンのおる」
「何を馬鹿なことを……」

 怒鳴る気力も湧かないくらい、荒唐無稽な話だ。

「八雲のせいじゃなかとは分かっとる。異能者に憑いとるあやかしは、往々にして主人の精神状態に作用されるけんね……若か異能者は修行ばせんといかん。でも、八雲はそれができん。基礎は寺の客人に学んどるみたいばってん、神髄ば……月島の魚がどういうもんかち教えらるっとは、月島の人間だけた。唯一師匠になれる彩乃が寝たきりなんは、みんな知っとる。だけん、魚が暴れとるのは仕方んなかこつた」

 頭が痛い。耳鳴りがする。

「主人の心に負担が圧し掛かっと、あやかしは本来の気ば取り戻す。野生に帰るちでも言うとか……本能のまま好き勝手ばするとた」

 一風は手でひたいを押さえた。微かに開いた口から、嘲笑が吐き出される。真面目な顔で、悲哀と同情を孕んだ声で……長い時間をかけて島が作り出した『設定』を、オカルト染みた話をするのだ。

 環音螺島に住む人間が生きる世界を、自分が変えられるとは思っていない。だから立ち向かうのではなく、逃げる選択をした。いくら感情を向けたところで、どうにもならない……それが分かっているのに、今現在、母と弟が寝たきりになり、今後のことが何も見えない状況であちらの世界の話をされると、心臓が冷たくなっていく。

「八雲が母親の介護ばしだしたとは、一年と少し前……大変だったとやろ。心に負担ばかけて魚が暴れた……そして翠子ば池に沈めたとた。二か月ん慎の時は彩乃が寝たきりになった時期ばい。くるみは……お前が島に戻って来た時たい」
「……意味が分からない」
「自分が苦労しとる時に、身内の人間の幸せな姿を見るとは、辛かろう。よか婿、結婚を控えた姉の幸せ……妬むのとは違う。八雲は優しい男だけん……素直に祝福できん、自分に絶望したっだろ」

 分かったように、それが正解だと言わんばかりに語る興梠を前に、一風の中で膨らみ続けていた怒りの感情が弾けた。頭に血が昇る。一気に体温が上がって、気付けば興梠に掴みかかっていた。

「勝手なことばっか言うな!!」

 膝を着いて迫り、アロハシャツを掴んでグッと顔を近付ける。手に力がこもっていた。彼女の指先は白くなっている。

「この島のやり方は分かってるんだよ! 何か事件が起こっても、それらしい犯人を適当に作って、寺で祈祷しておけば万事解決! 神がいるからハイ安心って、それでおしまいにする!!」

 激高する一風に、興梠の目は見開かれていた。

「八雲の意識がないから犯人にしておこうって? ああ、ああ、そうだね! 都合がいいもんね!? 否定も自己弁護もできない状態だから!」
「一風、お前――」
「目覚めないならそれで良し、目覚めた時は目覚めた時で言うんでしょ!? お前のせいじゃないのは分かってる、あやかしのせいだって! 自分たちは寛大な心で許してやるんだって!! 集団で恩を着せて反論を封じる! 上手いやり方だ!!」

 はっ、はっと、彼女の口から短い息が漏れる。興奮しすぎているのか、上手く息が吸えない。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。苦しい。それでも一風は目の前にいる、環音螺島の島民を睨みつけたまま、目を逸らしはしなかった。

 頭が痛い。耳鳴りがする。

 頭に昇っていた血が、一気に下がる感覚があった。興梠のシャツを掴んでいた手から、力が抜ける。身体がふらついて――

「やっぱり毒でも仕込まれてたかもねえ」

 低い、耳心地のいい声が聞こえたのと同時、玄関に倒れ込みそうになった身体を後ろから支えられた。それが誰かなんて顔を確認しなくても分かる。

 軽薄で、調子が良くて、口数は多いくせに自分のことは話さない、よく分からない男。顔が良く、それなりにお金を稼いでいそうだが、探偵なんて胡散臭い職種の人間で、信用しきれるほどの材料はない。

 それでも、違う世界に生きる人間ばかりがいる、この島では……そんなよく分からない男でも、同じ世界を生きている彼の腕の中が、ひどく安心できる場所だった。一風の視界が揺らぎ、意識が落ちる――。




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