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20XX/07/03(日)
p.m.2:15「文豪曰く」
しおりを挟むドイツの文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは云った。
初恋が唯一の恋愛だ、といわれるのは至言である。というのは、第二の恋愛では、また第二の恋愛によって、最高の恋愛の意味が失われるからである――と。
最初の恋には比べる対象がない。余計な感情もない。ただただ純粋な好意だけなのだ。しかし二回目の恋は違う。どう足掻いても最初の恋を経て成り立つものでしかなく、そこには最初の恋で感じた素晴らしさと、反面、最初の恋を終えて受けた痛みや悲しみすら内包している。二回目以降の恋は純粋な好意だけではなく、余分なものも含まれているため、唯一の恋愛と称せるのは初恋だけ……で、あるらしい。
月島一風の初恋の相手は、夏目大寿だった。淡い気持ちを抱いたのは思春期を迎えた頃で、自覚したのは父が亡くなったあと――彼女が中学生の頃だ。異常な場所だと理解してしまった故郷で、唯一、気が抜ける場所が彼の傍だった。彼の傍では恐怖を忘れられた。そして彼は、彼女のその『逃避」を受け入れてくれたのだ。だから頼り、信じ、想いを寄せ……夏目大寿に与えられる温もりに縋った。
その温もりを綺麗さっぱり忘れることなどできない。例え、彼が他の女性と結婚し、自分を愛人に誘った事実があったとしても――ふたりの過去は、過去に抱いた感情は、決してなくなりはしないのだ。
北の霊峰に足を踏み入れてしばらく歩くと、深い渓谷に着く。吊り橋の下には河原があり、苔生した大きな岩がゴロゴロ転がっていた。激しい水流の音と甲高い鳥の鳴き声が、渓谷に反響している。
「来てくれないかと思いました」
「行くって、言いましたよ」
夏目大寿から連絡があったのは、昼を過ぎた頃のことだ。月島家の電話が鳴って、八雲が昼食の準備中だったため一風が出た。電話の相手は夏目大寿だ。出たのが一風だと気付くと、彼は『切らないでください』と口にし、会って話したいことがあると言った。
不思議と答えはすぐに出た。それほど受話器の向こうから聞こえた大寿の声は切羽詰まっていて、必死だったのだ。それに彼女自身、もう一度会いたいと思っていた。果たして顔を合わせて、どんな感情を抱くのか。まだ恋焦がれているのか、怒りか、あるいは何も感じないのか。自分の気持ちを確認したかった。
河原に佇む彼は略装用の黒い法衣を身に纏い、ぼんやりと山を見ている。その後ろ姿を見つめながら近付くと、彼が振り返った。生真面目そうな顔をした大寿は嬉しそうに目を細めて、口を開き――
「一風さん、来てくれてありがとうございます。一昨日はあんな別れになってしまったので、一度会って話がしたかったんです」
「わたしも、聞きたいことがあります」
「聞きたいこと?」
感情を確認すること以外に、呼び出しに応じた理由がある。
「なんですか?」
「大寿さんは、昨日、意識不明の状態で見つかった女の子――伊蔵くるみちゃんのことを知っていますか?」
「ええ、もちろんです。島民のことはみんな知っています」
……そうだろう。観音螺島にある唯一の寺で、代々住職を務めている夏目家には、島民全員の名前や出生、島に根付いた人間の情報が記された莫大な資料がある。そして夏目家の当主――住職はその全ての情報を頭に入れていた。
だが一風が聞きたいのはそういうことではない。
彼女の頭にあるのは、神々廻から植え付けられた疑念だ。その疑念が芽を出している。もしかすると、今日ここへ来たのは、その芽を摘んで欲しかったからなのかもしれない。他でもない、夏目大寿、本人に。
「そういう意味ではありません。大寿さんは、その子のことを特別、目にかけていたのではないんですか? 在りし日の、わたしにしてくれたように」
「それは……私が、くるみさんに特別な感情を抱いていると思っているのなら、それは大きな誤解です。今も昔も、私の胸の中にいるのは一風さんだけ……信じてください」
真摯な目だ。大寿は昔から視線を逸らさずに目を合わせて話をする。一風本人は他人と目を合わせて話すのは苦手だ。けれど昔から彼が覗き込むように見てくるものだから、大寿と話す時は自然とそうしてしまう。
「結婚をしたのに、まだわたしに気持ちがあるって言うんですか? 何年も前の約束を守るつもりがある、と?」
「亡き父の決めた結婚です」
「違います。先代が決めて、あなたが受け入れた結婚です」
一風は眉間に皺を寄せる。
「家族のために、島のために、大寿さんは彼女と結婚した。島民の誰もが喜び、彼女を余所者だと言わず歓迎し、次代に期待する婚姻だと聞いています」
閉鎖的で排他的な土地で、それがどれだけ珍しいことか、ふたりはよく理解していた。大寿が小さく息を吐き、首を横に振る。
「彼女もまた、神を頂く場所から来た人です。環音螺島を受け入れるのも、受け入れられるのも早かった。一風さんが嫌う言い方になりますが、強い霊力を持つ巫女でもあります。次代を望む島民が多いのは、そのためです」
「本当に、嫌いな言い方ですね」
力を受け継いだ子供を儲けるための結婚……そんなわけのわからない理屈が、この島では当然のように語られる。あの家の男は怪異を祓う強い力があるとか、その家の女は澄んだ霊力の持ち主だとか、どこそこの家は代々強大な式神を受け継いでいるだとか、そんな話は腐るほどあった。そして婚姻における好条件のひとつとして数えられているのだから、いっそ笑えてくる。
大寿の手が伸びてきた。
一風は後ろに足を引いて、その手を避ける。誰よりも信じ、縋り、頼りにしていた彼の腕の中は、すでに聖域ではなくなっていた。腕を広げられたところで、もうそこへ飛び込むことはできない。
(どうして、あなたが傷付いた顔をするの)
傷付いたのは、こちらのほうだ。
美しい初恋を、唯一の恋愛を、穢されたのだから。
「まだ会ったことはありませんが、この島の基準で言えば、きっと素敵な女性なんでしょう。改めて、ご結婚おめでとうございます」
「……まるで皮肉のように聞こえますよ。一風さんは彼女に嫉妬して、そう言ってくれている……わけではなさそうですね」
大寿が広げた手を下ろした。そして悲しげに表情を曇らせる。彼のその顔を見ていると、時間が経って、結婚してもなお、大寿が一風との約束を胸に抱いてくれていたのだと、察することができた。
とはいえ、もうどうにもならない。
「顔を見ればわかります。あの頃の、私だけを見てくれていたあなたは、もういないのでしょう? ……本気で、彼のことを?」
彼女はその問いに答えなかった。
「そんなことよりも、わたしの質問に答えてください」
「そんなこと、ですか。いいでしょう。質問というのは?」
「伊蔵くるみちゃんとは親しくしていたんですか?」
「ですから、くるみさんとは――」
おそらく否定しようとしていたのだろう。けれど一風は彼の言葉を遮るように、首を横に振った。
「そういう意味ではありません。学校が終わって、友人と遊ぶでもなく、観伏寺に来るくらい親しい関係ですかって、聞いているんです」
「彼女の家は……伊蔵家は仕事で外に出ることが多いのはご存知ですよね。祓い屋として優秀な一族です。年がら年中、怪異やあやかしに関する問題に対処していて、島の外へ出ることが多い。ある程度、成長した子供なら鍛錬も兼ねて面倒を見ますが、小学生の間は、なかなか目が届きません」
「だから、お寺に?」
「孤独を抱えた子ほど、私の元へ来るんです。あなたにしてみれば不可思議なことかもしれません。けれど、そういうものなのです。孤独な心の闇を祓うことが、夏目の人間にはできます。それが閉ざされた島という中で、夏目に与えられた役割のひとつなのです」
当然のように、本当のことのように、彼は言う。目に見えないものを、島の外で口にすれば一笑されてしまうことを、何故こうも堂々と話せるのだろう。一風にはわからない。
けれどここでその点に噛みついたところで、話が進まないことはわかっていた。常識が違うのだ。昔は気付かなかったけれど、たぶん、生きる世界も違う。
「伊蔵くるみちゃん、片桐慎くん、木守翠子ちゃん」
大寿の目がわずかに開かれた。
「日本は、子供がひとり行方不明になったら、連日連夜、報道が続く国です。ねえ、大寿さん。島の人たちがどう思っているのかは知りませんが、短い期間で子供がふたりも死んで、ひとりが死にかけるなんて、普通じゃないんですよ」
「八雲くんに聞いたのですか?」
「いいえ。鬼石堂安という人が親切に話してくれましたよ」
「っ、そう、彼が……」
情報提供者の名前を隠す気はない。島の内情をペラペラ喋る男だと、これから肩身が狭くなるかもしれないが、その点を考慮してやらなければならないほどの好感は持っていなかった。
「そのふたりとも、親しくしていたんですか? 大寿さんの言葉を借りるなら、片桐家や木守家も、伊蔵家と似たような家柄だったと記憶しています」
この島では家業や風習に精を出すあまり、子供は二の次になることが多い。虐待や放置ではないが、子供は子供同士で関わり、同世代の絆を深めて大人になる……という流れが、島の長い歴史の中でできあがっている。そして子供たちがハメを外しすぎないように見張る大人――例えば、現役をとっくに引退した興梠鳥座のような老人がいるのだ。
その仕組みの中から、時折、漏れる者がいる。それが夏目大寿の言う、孤独な闇を抱えた子供たち、だ。
「片桐慎くんや木守翠子ちゃんも、あなたの元を訪れていたんですか?」
目が、合う。理知的であったはずの彼の目が揺らいだように見えた。それはほんの一瞬のできごとで、ただの見間違いだったのかもしれない。けれど一風の問いに返ってきた答えは、半ば予想していたものだった。
静かな声音で紡がれる、答え。
(それが、わたしが聞きたかった答えなのか、聞きたくなかった答えなのか……自分でもわからない)
激しい水流の音も、甲高い鳥の鳴き声も、彼の肯定の言葉を掻き消してはくれなかった。
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