神の居る島〜逃げた女子大生は見えないものを信じない〜

(旧32)光延ミトジ

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20XX/07/02(土)

a.m.8:15「溺れた子供たち」

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 家を出てニ十分ほど歩いた。

 向かっているのは島の西側だ。その付近は南の方角――港側に向けて段々畑になっており、米などの農作物が作られている。潮風を浴びた土や雨のおかげか、できる米は有名なブランド米にも負けていない……というのは、昨日の夕飯、今日の朝食と米を食べた神々廻の感想だ。

 眩い日差しの中、車一台しか通れないような道をふたりは並んで進む。コンクリートで舗装されていない道も少なくない。傍らを田畑に水を引く水路が流れており、物珍しいのか、時折、神々廻が興味深そうに覗き込んでいた。

「この水路は島中に張り巡らされているの?」

 神々廻の唐突な問いに、一風は目をまたたかせる。そして記憶を辿るように少しだけ考えて、質問に答えるために口を開いた。

「島中というより、アルファベットのTを逆さにしたような形で引かれています。水源が北の山にあって、そこから引いた水を東と西にそれぞれ流しているんです」
「ふーん……東西っていうと、食物と居住区かあ……」
「それがどうかしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ。それよりこの先に、例の池があるの?」
「はい。島の人間は『青池』って呼んでいます。底が透けて見えるほど透明で、光の加減によって青く見えるので」
「なるほどねえ……底が透けて見える分、深さが分かりにくそうだ。想像していたよりも深くて……子供が溺れる」

 青池は神々廻の大学時代の後輩、旧姓、花籤花枝の娘――木守翠子(みどりこ)が溺れて亡くなった場所だ。木守家を訪ねる前に、実際に現場を見ておきたいらしい。見知らぬ子とはいえ、子供が死んだ場所へ行くのは、気が重かった。

 神々廻は道にしゃがみ込み、水路を見ている。

(知り合いの子供なら、なおさら……)

 今、彼は何を考えているのだろう。水を見つめる神々廻を見下ろせば、不意に彼が顔を上げた。そして道の向こう――青池への進行方向を見て立ち上がる。

「神々廻さん?」
「嫌な臭いがすると思えば……」
「え?」

 神々廻が見据える先を見ていると、やがて人影が見えた。性別すら判別できないほど小さなシルエットは、近付いてくるにつれてだんだん大きくなり、それが誰か分かるほどの大きさになった。

 カラン、コロンと下駄の音が聞こえる。地味な色の着物に、派手な色の羽織を肩にかけた男は、昨日出会った人物だ。

「鬼石堂安……」

 彼女の呟いた声が聞こえたのか、堂安が口の端を吊り上げる。

「おいおい、人生の先達を呼び捨てか? 最近の若い奴は距離感がバグってるって聞くが、どうやら間違いではないらしいな」
「……失礼しました。聞こえるとは思わず」

 気に食わない相手だ。お歳の割りに地獄耳ですね!くらいの嫌味を言っても大丈夫だろうか。口では謝罪しながら内心でそんなことを考えていると、一風と堂安の間に神々廻が立った。まるで一風を背に庇うようなポジションだ。

「感心しないなあ。若い子をイジメるなんて。そういうの全国のおじさんのイメージ悪くするからやめてくれないかな? 僕の可愛い可愛い婚約者が、これだからおじさんは嫌なんだ、とか言い出したらどうしてくれるわけ?」
「婚約者? なんだ、お前、おじ専門か。ということはあれだな。俺も恋愛対象ってことか」
「……は?」

 一風は神々廻の後ろで眉間に皺を刻む。

「道理で噛みついてくると思った。アプローチか。俺はそこのロリコンと違って、小娘には興味ないぞ」
「……は?」

 眉間の皺は消えない。

 咄嗟に言い返そうとした。けれどどこか冷静な自分がいて、反論すれば相手の思う壺だと制止してくる。開きかけた口を閉じた時、上等な生地に包まれた神々廻の長い腕が一風の腰を抱き寄せた。

「一風ちゃんのアプローチはこんなもんじゃないよ。すっごく可愛くて、キュンキュンしちゃうんだから。まあ、あんたは知る必要も、知るチャンスもないけどね。何せ彼女には僕がいるわけだから! ねえ?」

 夏の日差しの中で密着するのは、好きじゃない。第三者に対して、自分が神々廻にキュンキュンするような可愛らしいアプローチを仕掛けていた、と思われるのも面白くない。言いたいことは山ほどあった。けれど天秤が傾いたのだ。

 天秤の皿の片方には『山ほどある言いたいこと』が乗っている。反対の皿に乗っているのは鬼石堂安への嫌悪感、反感だ。秤がそちらへ傾くのは一瞬だった。眠る母の傍らで怪しげな術をこれ見よがしにパフォーマンスしていたのも、弟の信頼を勝ち得ていることも、気に食わない。

 一風は神々廻にすり寄るように、身体を預けた。

 彼女はにっこり笑う。

「そうですよ。わたしはおじ専なんじゃなくて、好きになった人が、たまたま年上の彼だったってだけです。鬼石堂安さんにはこれっぽちも興味ありませんので、無駄な心配はしなくても大丈夫ですよ!」
「一風ちゃん……! 僕も同じだよ。好きになった相手が、たまたま年下の一風ちゃんだったってだけ。若い女の子だから興味があるとか、他の女の子にもそうだなんて思われるのは心外だ。ロリコンなんて貶されるのもね。でも……そんな言葉で貶められて馬鹿にされても構わないくらい、僕は君を愛しているんだよ」
「っ、神々廻さん……!」

 気に食わない相手への攻防兼ね備えた手段としての演技だ。それでも抜群に顔のいい男の、甘くとろけるような声音で紡がれる愛の言葉は、胸に刺さった。ズキュンときた。彼女の脳裏にはアニメの推しを語りながら不意に『とおとい……!』と天を仰ぐ、コンビニのアルバイト仲間、李の姿が浮かんだ。

 人目も憚らずイチャつくバカップルを前に、鬼石堂安の顔が引きつる。爽快だ。いい気味だ。一風は内心で自称霊能者に舌を出しながら、年上の婚約者に甘える女子大生を演じていた。

「……付き合ってられんな……」

 嫌そうな顔で堂安が呟く。

(勝った)

 ニマニマ笑いそうになるのをこらえていると、堂安が派手な羽織の裾をはためかせながら近付いてくる。そのまま横を通り過ぎ――ようとして、ふと彼は足を止めた。

「ああ、そうだ。この先に行くのはやめておいたほうがいいぞ」
「……なんですか? 急に」
「池に子供が浮いていたんだと」
「!?」

 彼女の表情が凍った。笑いそうになっていたのも、訝しんでいたのも忘れて、一風は堂安を凝視する。なんでもないように告げられた言葉の内容が、あまりにも衝撃的だった。

「それは、伊蔵家の……?」
「ああ。昨日の夜、島民が騒いで探していた少女だ」
「……死んでいたんですか?」

 一風が問う。堂安は意外そうに「へえ」と漏らした。

「意外だな」
「なんです?」
「生きていたのかではなく、死んでいたのかと問うのか」
「……え」
「八雲だったら、子供は無事なのか、生きているのかと聞いてきただろう」

 面白い、と嗤う堂安に、彼女はひゅっと息を飲む。生きていることを願う問いではなく、死んでしまったのだろうと問うた。自然と。自分の本性を突き付けられたようで、背筋がざわつく。

「あのさ~、あんまり僕の婚約者をイジメないでくれる? いい歳して、いい歳したオジサンと殴り合いなんてしたくないわけ」
「ははっ、そりゃ嘘だろ。今にも殴りかかってきそうな顔しておいて、ちゃんちゃらおかしい。やり合いたいなら、いつでも仕掛けてこい。返り討ちにしてやる。もっとも、その前にお前は島民に袋叩きにされるかもしれないがな」

 トン、と。堂安の指が神々廻の胸を突いた。

「昨日少女が消えて、今朝池で発見された。そして時間を同じくして、島へやって来た余所者のロリコン野郎がいる……子供を池に投げ入れた犯人は、誰だろうな?」
「……それって、神々廻さんを疑っているんですか?」
「どう思う?」
「酷い男だねえ。僕を疑うってことは月島の姉弟を疑うってことだよ。何か追及された時はふたりに無実の証明をしてもらうからね。出会って二日目の一風ちゃんはともかく、八雲くんとの付き合いはそれなりにあるんでしょう? ああ、可哀想な八雲くん。信頼する師匠に疑われてしまうなんて!」

 神々廻が自分の胸を突く堂安の手を振り払う。仰々しい、演技がかった物言いに、堂安が一瞬顔を顰めた。けれどすぐ、余裕を取り繕うように口の端を持ち上げる。

「冗談だ。お前が犯人でないことは、過去の事件が証明してる。あの池に子供が浮かぶのは、伊蔵の孫娘で三人目だ」
「三人……?」

 一風は首を傾げた。神々廻も初めて聞いたのか、驚いた顔をしている。三人ということは、一年前に溺死した木守翠子と、今朝発見された伊蔵家の孫娘以外に、もうひとりいるということだ。

「知らないのか? 青池では直近で三人の子供が溺れている。ひとり目は一年前に水死した木守家の孫娘。ふたり目は二か月前に水死した片桐(かたぎり)家の孫息子。そして、伊蔵の孫娘だ」
「なるほどねえ。同じような状況で亡くなったふたりの時に、僕はいなかった。つまり今回も容疑者にはなりえないってことか」
「まあ、そうでなくても犯人扱いはされないさ。島民はこれが犯罪だとは考えてすらいない。これっぽちもな」

 神々廻は理解できていなさそうな顔をしていたが、一風は堂安の言葉の意味がよく分かっていた。あれから七年が経っても、島の人間は――

「……何も変わらないのね……」

 ショックではない。胸を占めているのは虚しさと諦観だ。

「島民は人の仕業だとは思っていない。全ては神の祟りだと考えている。だから奴らはさっそく夏目大寿に祈祷してもらおうと話していたぞ。まあ、犯人扱いされなくても余所者は疎んじられる。肩身が狭いんだ。せいぜい問題を起こしてくれるなよ」

 まったくそうは思っていなさそうな口振りで言い残し、鬼石堂安はふたりの横を通り過ぎた。カラン、コロンと下駄を転がす音が遠ざかっていく。完全に聞こえなくなった頃、ふと一風は未だに腰を抱かれたままだったことに気付いた。離れようとするが、彼の腕の力は緩まない。

「神々廻さん? もう離れてもいいと……」
「お父さんの時もこうだったの?」
「……ええ」

 一風は頷く。

「島民は水難事故は神の祟りだと言いました」
「……祈祷しておしまい? 警察や海上保安庁の捜査は入らなかったの?」
「入りませんよ。この島に国家権力の介入はないんです……駐在所のひとつもない島なんて、ありえないでしょう? 治外法権なのか、見捨てられているのか……どうしてなのか、その理由は今でも分かりませんが……」

 環音螺島はおかしい。

 子供の頃や島にいた頃は、漠然とした違和感だった。島の外に出て、違和感が少しずつ形どられていき、それが途方もなく大きなものだと気付いた。あまりにも大きすぎたから、素知らぬフリをして、島のことを過去として消すつもりでいたのだ。

「この島は、おかしい」

 鬼石堂安の忠告に従いたくはなかったが、ふたりは青池に行くのを取りやめた。そんな気力はもうない。そして彼女は神々廻に気遣われながら、すでに心が休まる場所ではなくなった実家――月島家へと引き返したのだった――。




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