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20XX/06/26(日)
p.m.9:30「契約」
しおりを挟む一風はスマホを置くと、のろのろとした足取りで、浴室へ向かった。今日は疲れたから、普段は溜めない浴槽にお湯を張る。自動の湯沸かし器なんてついていない。浴槽を洗い、肌感覚で調節したお湯を蛇口から出す。そして再び重い足取りで浴室を出ると、元いたリビングへ戻った。
リビングの大きな窓の傍へ歩みを進める。カーテンを少し開けて外を見ようとしたら、部屋の中が明るいせいで、窓に自分の姿が映った。黒い髪に黒い目、どこにでもいそうなぼんやりとした顔――両親のどちらにも、あまり似ていない。母は凛とした空気を纏う美しい人で、亡き父は廃退的な空気を漂わせながらも人の目を惹く見た目の人だった。
(上手い具合に遺伝子が混ざらなかったみたい)
と、面白いとも思わない冗談を内心でこぼしながら、一風は、神々廻慈郎と名乗った例の男のことを思い出す――。
――午後八時を過ぎて、アルバイト先の喫茶店『黒小鷺の巣』を出た時、昼から降り続いていた雨はやんでいた。一風は、彼女が隠していることをどうやら知っているらしい男と共に、近くの公園へと向かう。
周りを低い生垣に囲まれたそこは、遊具らしい遊具は何もない、公園とは名ばかりの場所だ。いくつかのベンチが置かれ、半分に切ったタイヤが地面に並べられているだけで、どちらかといえば空地と呼んだほうがいいかもしれない。それでも出入口には『藤公園』と書かれており、分類上は公園なのだそうだ。
今はやんでいるが、雨が降っていたせいで地面はぬかるんでいる。スニーカーの一風はともかく、男はブランド物の革靴だ。けれど彼にはなんの気負いもないようで、長い足で悠々と水溜まりを越えて、ぬかるんだ地面を踏んでいた。
「男女の逢引の場所としては、あんまりって感じだねえ」
周囲をぐるりと見渡して、男が一風のほうを振り返る。
「生垣も低くて道から丸見えだし、ベンチもそんなに大きくないし……って、逢引って分かる?」
「……なんとなくは……」
「ああ、良かった。最近の若い子と話してると、言葉が通じてるのかどうか怪しい時があるんだよ。うちの新人と話してても『あ、今、ニュアンスを読み取ってなんとなく返事をしてくれてるんだろうな』って分かる瞬間が多々あってね。そういう気を遣われると申しわけなくてさあ」
男は軽い口調で言葉を発した。飄々とした態度だ。秘密を握られているのかと緊張する一風をよそに、男はペラペラと喋り続ける。
「若者が言葉を知らないとは思わないよ。新しい情報や文化がたくさん入ってきて、育っていく中で、言語が取捨選択されていくのは当然だ。本一冊取ったって、明治大正昭和に生まれた本の文章や文体は、現代で使われることはほとんどない。もちろん素晴らしい文学であるのは変わらないけどねえ」
話の内容に興味はない。
「ほら、死語って言葉があるでしょ。最近の日本語はすぐ死ぬんだよ。若い子はその死臭を敏感に察知できるけど、四十五にもなってくると鼻も利かなくてねえ。おじさん、ついて行くのが大変で大変で。こういうの『つらたん』って言うんでしょ?」
「たぶん、それもう死んでます」
「えっ!? じゃあ『やばたん』も!?」
一風は頷く。興味のない話題に乗ったわけではない。いつまで続くか分からない話を切り上げ、さっさと本題に入りたかった。だから男の話を止めるために口を挟んだのである。
「おじさんの苦悩みたいな話はもういいです。それよりも、あなたはどこの誰で、どうしてわたしの……出身について、知っているんですか?」
「それねえ、気になるよね」
彼はスーツの上着の内側に手を入れると、名刺入れを取り出した。そこから一枚抜いて差し出された名刺を、一風は警戒しながら受け取る。
「『ハッピー探偵事務所』……かみ……じん……?」
「ああ、難しいでしょ。日常で頻繁に目にする苗字じゃないからねえ。ししば、ね、ししば。神が二回と廻るで、ししばって読むんだよ。では、改めて」
神々廻は一風のほうへ長い足で進むと、ふっと笑って首を傾けた。垂れがちの目が緩く細められ――
「中州にあるハッピー探偵事務所で探偵をしています、神々廻慈郎です。以後、どうぞよろしく」
パチン、とウインクが飛んできた。
やり慣れているのだろう。彼は顔立ちが整っていることもあり、妙にサマになっていた。外見の美醜にこだわりすぎると批判されがちな昨今ではあるが、やはり見た目の良さは得だ。自己紹介の流れでウインクをする四十五歳の自称探偵なんて、ある程度の見目の良さがなければ、それこそ見れたものではない。
「探偵さんが、どうしてわたしのことを調べたんですか? 浮気調査か何かで、わたしの名前でも出てきましたか?」
調べなければ、出身なんて分かるはずがない。
「それに、接触してきた理由は? よく分かりませんが、普通こういうのって依頼人としか会わなくないですか?」
「そうだねえ……でも、そんな警戒しないでよ。一風ちゃんに直接関係のある依頼ってわけじゃない。君が浮気相手だと思われてるとか、そんなことじゃなくて……聞いたでしょう? 運命を信じるかって」
「信じないって、答えたと思いますが」
一風が言うと、彼が首を横に振った。
「最初は偶然だった。三か月くらい前かな。僕のところに依頼人が来たんだよ。大学の時の後輩の女性でね……環音螺島に嫁いでいたけど、本渡に戻ってきたそうだ」
「え……」
「彼女の地元が福岡なんだって。ああ、出身大学は東京だよ。名前を出すと嫌味になっちゃうような、国立の凄いとこ。ハッピー探偵事務所は全国に支社があるからね。僕、今は出向でこっちに来てるんだ」
不意に挟まれる、脇道に逸れた話の内容には、やはり興味がない。
彼女が引っかかったのは、環音螺島に嫁いだ女性が、島を出れたということだ。基本的に一度足を踏み入れたら、あの島から出るのは難しい。それこそ離婚なんて、島ぐるみで阻止してくるだろう。
「その人、よく島を出れましたね」
「本渡から物資を運ぶ定期船に密航したらしいよ。離婚はできてない。ただ島から出て、距離を取ったんだ」
「密航ですか。行動派ですね」
「それだけ強い意志があったんだよ」
「強い意志……?」
「去年の七夕の日に、十歳になったばかりの娘さんが亡くなったんだって」
唐突に告げられた少女の死に、一風は息を呑み、目を見開いた。
「単純な水の事故で片付けられたけど、彼女は納得できなかった。水が苦手で、自分から水場に近付く子じゃない、ってね。親族に何度もそう訴えたけど聞き入れてもらえず、彼女は自分で真相を探ろうとしたけど……まあ、結果は分かるだろう?」
「あの島で余所者ができることは限られています」
「うん、そういうこと。なんの情報も得られず、それどころか、夫や義理の両親に責められたそうだ。強く罵倒されたって。でも、彼女はどうしても諦めきれず、納得もできず、密航してまで島を出て……僕を頼ってきた。自分で言うのもなんだけど、僕って、昔から頼り甲斐のある先輩だったからねえ」
頼り甲斐なんてあるのかと、その点に関しては懐疑的にならざるを得なかったが、話の内容はおおむね納得のいくものだ。
「調査を頼まれたんだ」
「……環音螺島の?」
「そう。でも、話を聞く限り、随分と閉鎖的な島のようだからね。調査は簡単にはできないだろう。悩んだ末に、どうにか入り込む方法はないかと考えて、その手のプロに相談したんだよ」
「密航のプロですか?」
「ははっ、面白いこと言うねえ。そうじゃなくて、閉鎖的な島や村によく足を運ぶやつがいるんだよ。土着信仰なんかを研究する民俗学の第一人者で、大学の教授をしてる……心当たりない?」
一風の頭に浮かんだのは、通っている大学の教授の顔だった。学部が違うため、話しをしたことはほとんどない。だが一度だけ、入学してすぐの頃、どこで聞きつけたのか、一風の出身を確認してきたことがあった。ノンフレームの眼鏡をかけた人の良さそうな教授の顔を思い浮かべる。個人情報が売られた事実に、彼女は眉間に皺を寄せた。
「環音螺島出身の学生がいるって聞いたら、まあ、どういう子なのか調べてみるよねえ。来月の中頃には夏休みもはじまるだろう? 一風ちゃん、しばらく故郷に帰ってないみたいだし、そろそろ帰省してみたら? ……渋くて格好いい、年上の恋人をつれて」
「笑えない冗談ですね」
「冗談じゃないんだけどなあ」
肩をすくめる神々廻を、一風は鋭い目で睨み据える。個人情報を勝手にやり取りされたことも気に入らないし、やっとの思いで出ることが叶った島へ、一時的にとはいえ戻るように促されるのも気に入らない。
「お断りします。あの島へ戻るなんてゴメンです」
「バイトだと思ってくれない? 経費は僕持ち、お給料も出すよ」
「お金の問題じゃありません。話がそれだけなら、失礼します」
一風は神々廻に背を向けて、公園の出入口へと歩きはじめる。彼は追いかけてこなかったが「一風ちゃん」と、彼女の名前を呼んだ。
「一緒に行ってくれるなら、君のお父さんの死の真相、教えてあげるよ」
背後からかけられたそのひと言に、一風の足が止まる。けれど振り返ることはしなかった。一風について調べたのなら、父親が亡くなっていることも知っているのは自然なことだ。ただ、自分を引き留めるために、死んだ父を引き合いに出されるのは、腹立たしい。
沸々と怒りが湧いてくる。心底嫌になった。喜怒哀楽の中で、怒りの感情が一番疲れるのだ。明日も朝から講義があるのに、日曜日の夜に精神的な疲労を与えてくる男が憎らしい。一風は早足で帰路につき、そのまま彼女は夜の街を駆けるように、アパートへ戻るのだった――。
――窓に、コツンとひたいをぶつける。ひんやりとした冷たさに、頭の中が少しだけスッキリしていく。
深い溜め息が漏れる。戻りたくもない島へ行かなければならない。体調が悪いのに医者に診せようとしない、医学を信じていない母を説得しに……行くと決めたのは自分自身だが、気が重すぎる。
しかも同行者は、見た目以外に好きになれる要素が見当たらない男だ。公園を出た時は、神々廻に連絡をして、提案を受けることになるとは夢にも思っていなかった。同行する以上、得体の知れない男が、自分の帰省中に島で勝手な真似をしないように見張っておく必要もある。閉鎖的な島で余所者に好き勝手させていたとなれば、島民に何を言われるか分からない。一風が言われる分には構わないが、島で生きる母や弟が何か言われるのは嫌だ。
それでも、ひとりで帰省するのではなく、彼の提案に乗った一番の理由……それは神々廻が最後にかけたひと言にあった。
神々廻慈郎は、死の真相を教えると言ったが、それが本当のことか、咄嗟の嘘だったのかは分からない。引き留めようと、ただ口にしただけかもしれないのだ。そう思うのに、聞かなかったフリはできなかった。
「……お父さん……」
一風は窓の向こうの、雨で水かさが増し、ごうごうと流れる川の音を聞きながら目を閉じる。そのまましばらく動かずにいたせいで、出しっぱなしにしていたお湯が浴槽から溢れ出ることになるのだが……今の彼女に、浴室の状況を想像するだけの余裕はなかった――。
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