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五月です。指輪争奪戦の始まりです。
35話:噂と急報:Sideクルト
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騎士科の一年生の間で、ある噂が流れている。
狂犬――ティリー=フェッツナーは襲撃によって仲間を失い、戦力と気力を削がれた。盾も剣もなくして怯んだ、野蛮で愚かな『雌犬』は尻尾を巻いて逃げ出した――という噂である。
(『百鬼の団』が『狂犬』を潰した、かぁ……)
襲撃があったとされるのは先週の木曜日で、その翌日の金曜日、ティリー=フェッツナーをはじめとする『篝火の団』の生き残りは学園を休んだ。その後、土曜日、日曜日を挟んで、今日――月曜日。ティリー、チャールズ、ファルコの三人は学園に来なかった。そのせいか噂は加速度的に広がっている。
だが彼女と同じ一年七組の生徒の共通認識としては、ティリー=フェッツナーはそんなに繊細でか弱い精神の女ではない。尻尾を巻いて逃げ出すくらいなら、首を落とされるまで戦うし、もっと言えば、その落ちた首で敵の喉笛を噛みちぎるような、そんな人物だ。
百鬼の団に属する一年生や彼らに近い一年生は、今日一日、得意気な顔で過ごしていた。そんな彼らを見て、噂を聞いていたのであろう。放課後に顔を合わせた友人――コンラート=フォン=ルーカスは明らかに不機嫌そうにしていた。
(表情が乏しいのに、案外わかりやすい人なんだよな。まあ、噂の中心がティリー=フェッツナーだからしかたないんだろうけど)
詳細は教えてもらっていないが、コンラートはティリーに――フェッツナー男爵家に釣り書きを送っているらしい。婚約は結ばれていないが、両家は共に東部にあり、同じ派閥に属すため、有力な候補に挙がっているそうだ。
最低条件は帝国学園の騎士科を卒業すること。当然と言えば当然だ。あの『赤狼騎士団』を率いる一族へ婿入りする男が『戦えません』というのは話にならない。ゆえにそれまでは正式な婚約を結べないのだと、以前コンラートが話してくれた。
コンラートが演習場に追い込んだ敵を倒し、気絶した青年の指から指輪を奪う。クルトは彼が獲得した指輪を受け取ってポケットにしまった。
「怪我してない?」
「ああ」
「本当に? 少しも?」
「ああ……やめろ。その目。嘘じゃない」
「だったらいいんだけどね。コンラートは自分の怪我とかに無頓着だから、よく見ておけって団長に言われてるんだ」
クルト=レッシュは肩を竦めた。
副団長のアクセル=アッカーマンにはティリー=フェッツナーの監視を命じられ、団長のマティアス=フォン=ハルティングからはコンラート=フォン=ルーカスを見守るように頼まれている。なかなか荷が重い任務だ。
「俺のことは気にしなくていい」
「いやいや。そういうわけにはいかないでしょ」
「俺よりもフェッツナーのことを調べてくれ」
「え? なんで?」
「噂はあてにならない。アイツは東の狼の後継者だぞ」
堂々と言ってのける友人をクルトは半目で見た。
今はまだ婚約者候補に過ぎないのに、随分とティリー=フェッツナーに入れ込んでいる。だがそれも仕方のないことかもしれない。東部におけるフェッツナー男爵家は爵位こそ低いが、剣を扱う者にとって憧憬と畏敬の念を抱く存在だ。圧倒的な強さに心酔する者は少なくない。
だからこそ東の辺境伯領を支配するハルティング辺境伯家の孫である、マティアスの将来の展望を聞いた時には目をひん剥いてしまった。フェッツナー男爵家――赤狼騎士団の排除だなんて……そんな未来は想像もつかない。
「何かするはずだ」
「ティリー=フェッツナーが?」
「追い込まれているだのなんだのと言われているが、指輪狩りという行事だけを見ればそんなことはない。篝火の団はすでに決勝ラウンドへの進出を決めている」
「あー、そっか。あそこはかなり集めてるんだよね」
「規定によれば、理由なく学園を三日休めば自身の持つ指輪を返納しなければならない。フェッツナーたちはまだ二日だ」
確かに、とクルトは漏らした。
間に土曜日と日曜日が挟まっているせいで、長く身を隠しているように見えたが、実際は指輪を失うまでにあと一日ある。もっと言えば自身の指輪を失ったところで痛くも痒くもないのだ。
クルトは彼女が尻尾を巻いて逃げたりしないと思っている。では、今日を含めた四日間、ティリー=フェッツナーたちはいったい何をしていたのか。そんな疑問と同時に、獰猛な赤い獣の咆哮が頭に浮かんだ。
(……とんでもないこと、してそうだ……)
何をしでかすにしても、まったく知りませんでしたという言い訳は、我らが副団長には通用しないだろう。何せクルトは監視を命じられているのだから。
「コンラート、調べてみるよ」
「ああ。頼む。俺と違ってお前は顔が広いから助かる」
「まあ、レッシュ家はそういう家柄だから」
彼の生家であるレッシュ男爵家は、東部における物流の一角を担う商売人の家系である。商売人にとって情報は剣よりも槌よりも強い武器だ。貴族や平民などの身分を問わずに接触し、情勢を見極め、将来を予測する。
四月、ティリー=フェッツナーを『暁の団』の団室まで呼ぶ役目を任されたのは、同じクラスだからという理由だけでなく、クルトなら上手くやれると判断されたからだろう。もっとも入学式当日の乱闘事件を目撃していたクルトは、ビビり倒してしまい、決して『上手くできた!』という自負はないのだが。
(とりあえず邸宅にいるか調べてみるかな。出入りの商人か、使用人に接触してみれば――)
そんなことを考えていると、コンラートがふと演習場の出入口を見た。
「外が騒がしいな」
「え? そう?」
首を傾げながら耳を澄ませば、なんとなくそんな気もする。演習場はその使用目的上、壁が分厚く作られていた。人がぶつかることもあれば、武器が飛んでくることもあるのだ。その度に破損していては話にならない。
「んー……そう言われたら、何か言ってるような?」
「ああ」
「って、ちょっと待ってって!」
コンラートは外で何が起きているのか、その様子を窺うこともしなかった。平均よりも遥かに長い足を動かして演習場を出て行こうとしている。
何も確認せずに突っ込んで行けるのは強者だけだ。問題が起きても解決、あるいは突破できる自信があるのだろう。否、もしかすると自信なんて傲慢なものではなく、彼らにとっては自然で当然なことなのかもしれない。クルトにはわからないが、問題を自力で解決できることを疑わない人間が、確かにいるのだ。
演習場を出ると、慌ただしく走って行く生徒たちがいた。
顔見知りを見つけ、クルトは「なあ!」と声をかける。知人はクルトの隣に立つコンラートを視界に入れてギョッとしたが、足を止めてくれた。
「騒がしいけど、何があったんだ?」
「二年で問題が起きたらしい」
「え、どんな問題?」
「それがさ……」
その知人は周囲の様子を窺うと、声を潜めて話し出す。
「課外演習に出た班のひとつと連絡が取れなくなったらしい」
「えっ!?」
思わず大声を上げてしまった。
騎士科では二年生になると学園の外に出る実習――課外演習がはじまる。外部から委託を受けて良心的な金額で仕事を請け負うのだ。貧しい村や町から依頼を請け、無法者を討伐する――帝国貴族の子息令嬢が在籍する学園だからこその、高貴なる者の義務、である。
「盗賊の根城を制圧しに行ったグループから連絡がないんだとさ。作戦通りなら、今日には任務完了の鳥が飛んでくるはずだったって……」
「でも課外演習には教師が一名以上同行するんじゃなかったっけ?」
騎士科の教師の腕は確かだ。戦場で腕を鳴らした者、皇帝直属の騎士団に所属していた者、帝国騎士団から派遣された現役の騎士など、武勇に優れた人材が多く揃っている。
その手の人材が課外演習に同行するのだ。高貴なる者の義務とはいえ、学園側は貴族の子供だけで危険な現場へ向かわせたりはしない。有能な教師が作戦の立案の段階から見守り、現地へ同行した上で、学園との繋ぎをつけるのが常だった。
それにも関わらず、連絡が取れないとなると大問題だ。
「ま、まずいんじゃないの? それ……」
「そう、まずい。だからバタバタしてるんだ」
クルトが知人と顔を見合わせていると、隣でフッと笑う声が聞こえた。
「あのさ、コンラート……この話を聞いて、なんで笑ってるの?」
精悍な顔つきだが無表情で感情を表に出さない男は、珍しく唇の端を持ち上げている。実に楽しげな顔だ。
「笑いもするだろ。笑えないくらいまずい話なら、こんなにも早く広まったりはしない。緘口令が布かれるからな」
「あ……」
「確かに……」
言われてみればその通りかもしれない。話が広まる速度が速く、二年生だけでなく一年生まで知ることになっているのだ。普通ではない。自然ではない。目をまたたかせるクルトたちをよそに、コンラートが笑みを深める。
「動いたか」
主語はなくとも、彼が何を言おうとしたかわかった。
クルトの脳裏で赤い獣が舌なめずりをしていた――
狂犬――ティリー=フェッツナーは襲撃によって仲間を失い、戦力と気力を削がれた。盾も剣もなくして怯んだ、野蛮で愚かな『雌犬』は尻尾を巻いて逃げ出した――という噂である。
(『百鬼の団』が『狂犬』を潰した、かぁ……)
襲撃があったとされるのは先週の木曜日で、その翌日の金曜日、ティリー=フェッツナーをはじめとする『篝火の団』の生き残りは学園を休んだ。その後、土曜日、日曜日を挟んで、今日――月曜日。ティリー、チャールズ、ファルコの三人は学園に来なかった。そのせいか噂は加速度的に広がっている。
だが彼女と同じ一年七組の生徒の共通認識としては、ティリー=フェッツナーはそんなに繊細でか弱い精神の女ではない。尻尾を巻いて逃げ出すくらいなら、首を落とされるまで戦うし、もっと言えば、その落ちた首で敵の喉笛を噛みちぎるような、そんな人物だ。
百鬼の団に属する一年生や彼らに近い一年生は、今日一日、得意気な顔で過ごしていた。そんな彼らを見て、噂を聞いていたのであろう。放課後に顔を合わせた友人――コンラート=フォン=ルーカスは明らかに不機嫌そうにしていた。
(表情が乏しいのに、案外わかりやすい人なんだよな。まあ、噂の中心がティリー=フェッツナーだからしかたないんだろうけど)
詳細は教えてもらっていないが、コンラートはティリーに――フェッツナー男爵家に釣り書きを送っているらしい。婚約は結ばれていないが、両家は共に東部にあり、同じ派閥に属すため、有力な候補に挙がっているそうだ。
最低条件は帝国学園の騎士科を卒業すること。当然と言えば当然だ。あの『赤狼騎士団』を率いる一族へ婿入りする男が『戦えません』というのは話にならない。ゆえにそれまでは正式な婚約を結べないのだと、以前コンラートが話してくれた。
コンラートが演習場に追い込んだ敵を倒し、気絶した青年の指から指輪を奪う。クルトは彼が獲得した指輪を受け取ってポケットにしまった。
「怪我してない?」
「ああ」
「本当に? 少しも?」
「ああ……やめろ。その目。嘘じゃない」
「だったらいいんだけどね。コンラートは自分の怪我とかに無頓着だから、よく見ておけって団長に言われてるんだ」
クルト=レッシュは肩を竦めた。
副団長のアクセル=アッカーマンにはティリー=フェッツナーの監視を命じられ、団長のマティアス=フォン=ハルティングからはコンラート=フォン=ルーカスを見守るように頼まれている。なかなか荷が重い任務だ。
「俺のことは気にしなくていい」
「いやいや。そういうわけにはいかないでしょ」
「俺よりもフェッツナーのことを調べてくれ」
「え? なんで?」
「噂はあてにならない。アイツは東の狼の後継者だぞ」
堂々と言ってのける友人をクルトは半目で見た。
今はまだ婚約者候補に過ぎないのに、随分とティリー=フェッツナーに入れ込んでいる。だがそれも仕方のないことかもしれない。東部におけるフェッツナー男爵家は爵位こそ低いが、剣を扱う者にとって憧憬と畏敬の念を抱く存在だ。圧倒的な強さに心酔する者は少なくない。
だからこそ東の辺境伯領を支配するハルティング辺境伯家の孫である、マティアスの将来の展望を聞いた時には目をひん剥いてしまった。フェッツナー男爵家――赤狼騎士団の排除だなんて……そんな未来は想像もつかない。
「何かするはずだ」
「ティリー=フェッツナーが?」
「追い込まれているだのなんだのと言われているが、指輪狩りという行事だけを見ればそんなことはない。篝火の団はすでに決勝ラウンドへの進出を決めている」
「あー、そっか。あそこはかなり集めてるんだよね」
「規定によれば、理由なく学園を三日休めば自身の持つ指輪を返納しなければならない。フェッツナーたちはまだ二日だ」
確かに、とクルトは漏らした。
間に土曜日と日曜日が挟まっているせいで、長く身を隠しているように見えたが、実際は指輪を失うまでにあと一日ある。もっと言えば自身の指輪を失ったところで痛くも痒くもないのだ。
クルトは彼女が尻尾を巻いて逃げたりしないと思っている。では、今日を含めた四日間、ティリー=フェッツナーたちはいったい何をしていたのか。そんな疑問と同時に、獰猛な赤い獣の咆哮が頭に浮かんだ。
(……とんでもないこと、してそうだ……)
何をしでかすにしても、まったく知りませんでしたという言い訳は、我らが副団長には通用しないだろう。何せクルトは監視を命じられているのだから。
「コンラート、調べてみるよ」
「ああ。頼む。俺と違ってお前は顔が広いから助かる」
「まあ、レッシュ家はそういう家柄だから」
彼の生家であるレッシュ男爵家は、東部における物流の一角を担う商売人の家系である。商売人にとって情報は剣よりも槌よりも強い武器だ。貴族や平民などの身分を問わずに接触し、情勢を見極め、将来を予測する。
四月、ティリー=フェッツナーを『暁の団』の団室まで呼ぶ役目を任されたのは、同じクラスだからという理由だけでなく、クルトなら上手くやれると判断されたからだろう。もっとも入学式当日の乱闘事件を目撃していたクルトは、ビビり倒してしまい、決して『上手くできた!』という自負はないのだが。
(とりあえず邸宅にいるか調べてみるかな。出入りの商人か、使用人に接触してみれば――)
そんなことを考えていると、コンラートがふと演習場の出入口を見た。
「外が騒がしいな」
「え? そう?」
首を傾げながら耳を澄ませば、なんとなくそんな気もする。演習場はその使用目的上、壁が分厚く作られていた。人がぶつかることもあれば、武器が飛んでくることもあるのだ。その度に破損していては話にならない。
「んー……そう言われたら、何か言ってるような?」
「ああ」
「って、ちょっと待ってって!」
コンラートは外で何が起きているのか、その様子を窺うこともしなかった。平均よりも遥かに長い足を動かして演習場を出て行こうとしている。
何も確認せずに突っ込んで行けるのは強者だけだ。問題が起きても解決、あるいは突破できる自信があるのだろう。否、もしかすると自信なんて傲慢なものではなく、彼らにとっては自然で当然なことなのかもしれない。クルトにはわからないが、問題を自力で解決できることを疑わない人間が、確かにいるのだ。
演習場を出ると、慌ただしく走って行く生徒たちがいた。
顔見知りを見つけ、クルトは「なあ!」と声をかける。知人はクルトの隣に立つコンラートを視界に入れてギョッとしたが、足を止めてくれた。
「騒がしいけど、何があったんだ?」
「二年で問題が起きたらしい」
「え、どんな問題?」
「それがさ……」
その知人は周囲の様子を窺うと、声を潜めて話し出す。
「課外演習に出た班のひとつと連絡が取れなくなったらしい」
「えっ!?」
思わず大声を上げてしまった。
騎士科では二年生になると学園の外に出る実習――課外演習がはじまる。外部から委託を受けて良心的な金額で仕事を請け負うのだ。貧しい村や町から依頼を請け、無法者を討伐する――帝国貴族の子息令嬢が在籍する学園だからこその、高貴なる者の義務、である。
「盗賊の根城を制圧しに行ったグループから連絡がないんだとさ。作戦通りなら、今日には任務完了の鳥が飛んでくるはずだったって……」
「でも課外演習には教師が一名以上同行するんじゃなかったっけ?」
騎士科の教師の腕は確かだ。戦場で腕を鳴らした者、皇帝直属の騎士団に所属していた者、帝国騎士団から派遣された現役の騎士など、武勇に優れた人材が多く揃っている。
その手の人材が課外演習に同行するのだ。高貴なる者の義務とはいえ、学園側は貴族の子供だけで危険な現場へ向かわせたりはしない。有能な教師が作戦の立案の段階から見守り、現地へ同行した上で、学園との繋ぎをつけるのが常だった。
それにも関わらず、連絡が取れないとなると大問題だ。
「ま、まずいんじゃないの? それ……」
「そう、まずい。だからバタバタしてるんだ」
クルトが知人と顔を見合わせていると、隣でフッと笑う声が聞こえた。
「あのさ、コンラート……この話を聞いて、なんで笑ってるの?」
精悍な顔つきだが無表情で感情を表に出さない男は、珍しく唇の端を持ち上げている。実に楽しげな顔だ。
「笑いもするだろ。笑えないくらいまずい話なら、こんなにも早く広まったりはしない。緘口令が布かれるからな」
「あ……」
「確かに……」
言われてみればその通りかもしれない。話が広まる速度が速く、二年生だけでなく一年生まで知ることになっているのだ。普通ではない。自然ではない。目をまたたかせるクルトたちをよそに、コンラートが笑みを深める。
「動いたか」
主語はなくとも、彼が何を言おうとしたかわかった。
クルトの脳裏で赤い獣が舌なめずりをしていた――
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