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蛇足:Sideガーラン
しおりを挟む十年前――。
雨が降っている。執務室の窓の向こうには分厚い鼠色の雲が広がり、青白い雷が轟音を響かせながら走っていた。もうじき、短く、激しい雨期に突入する。そうなる前に問題を解決しなければならない。先代侯爵が病没し、爵位を継いだばかりのガーラン・シャレードはローズクォーツの目に憤怒の炎を宿らせていた。
妻が――妻だった女が出て行った。その辺の貴族と同じく政略に基づく結婚をした相手で、女との間には八年前に嫡男が誕生している。恋慕の情は薄かったが、侯爵家の女主人として信用し、家のことは全て任せていた。
だから、油断していたのだ。
女は持てるだけのものを持って、男と駆け落ちした。金貨はもちろん、亡き先代侯爵夫人の宝石類など、金目のものはあらかたなくなっている。盗みを働き、息子を捨て、責任を放り出して消えた……そのこと自体は、どうでもよかった。女に惚れ込んでいたわけでもないし、財産を再び築く程度のことは容易い。
彼が怒りに震えているのは、彼女が『形ある物』以外にも持ち出しているからだ。それはありとあらゆる『情報』だ。商売の流通経路、今後の展望、領地の公共事業の計画、要人、家の秘密……挙げればキリがない。しかも女が持ち出したのは、シャレード侯爵家の領地の情報だけでなく、隣の領地――キリシア侯爵家の情報も、だった。
「ウール!」
「はい」
「騎士団を出せ。あの女を捕らえるのだ」
「……生死は?」
「問わん」
「かしこまりました。騎士団長に伝えましょう」
頭を下げて老執事が執務室を出て行く。
ガーランは崩れ落ちるように椅子に腰を下ろし、烏の濡れ羽色の髪を乱暴に掻き乱す。なんて失態だ。これではキリシア侯爵家の盾としても矛としても失格だ。守るどころか損害を与えかねない。苛立つ気持ちのまま、彼は机に拳を叩きつけた。
過去、子爵家でしかなかったシャレード家は、キリシア侯爵家の犬だった。
シャレード家の祖先は貴族とは名ばかりの貧しい一族で、ある年に起こった飢饉で、領民の三分の一が死に絶えた。財産も食料も、打開策すらもなく……追いつめられた祖先は、ついに非合法的な方法で金を稼ぐようになる。まずは一族の美しい女たちを、貴族や金持ちの平民に売った。その金で子爵家は一族の男を鍛え、暗殺業や盗賊業など、裏の仕事をはじめたのだ。当時の当主は女たちを売り払った罪を生涯背負い続け、自身の亡骸は決してシャレード家の墓に埋葬しないようにと厳命して死んだという。
少しずつではあるが、シャレード家は着々と暗殺業の腕を磨いていった。数えきれないほどの依頼をこなし続け、ある時、舞い込んできたのがキリシア侯爵の暗殺だ。躊躇いはあったが、どんな仕事でも意地汚く引き受けることで、今のシャレード家がある。莫大な報酬と引き換えに依頼を受けた。とはいえ、思うところがなかったわけではない。建国以来の大貴族で、その名を知らぬ者はいないほどの名家――それがキリシア家だ。念には念を入れ、慎重を喫して仕事に臨み――失敗した。
下手人は捕らえられ、シャレード家全体が関与していると暴かれ、何故か、まったく関与していない領民もグルであるという証拠が出てきた。何をどうやったのか、領地ごと潰されても仕方のない状況が仕立て上げられていたのだ。
しかし、シャレード家は許された。
『まあ、結果的に今、生きているしね』
家に残された記録によると、侯爵はのほほんとした様子でそう言ったらしい。シャレード家は侯爵の寛大さに報いるため、依頼人の首を持ってきて頭を下げた。するとキリシア家は、売り払われたシャレード家の女たちの中で生き残っていた者、全員を救い出してくれたのだ。それをきっかけにシャレード家はキリシア家に絶対の忠誠を誓い、自ら、犬と名乗るようになった。
それから時が流れる中で、国の名門キリシア侯爵領は拡大を続け、いつしかシャレード家は隣の領地になっていた。しかし侯爵家はシャレードを吸収したりせず、それどことか庇護し、商売などの非合法でない仕事を任せ、時には手を差し伸べて育て上げ……結果、シャレード家も爵位を上げ続けた。そして現在の侯爵家へと成ったのである――。
キリシア侯爵家への恩を忘れてはならない。
己が犬だということを忘れてはならない。
己の力も財産も名誉も歴史も命も、己が手にある全てのものは、真に己のものではないのだということを努々忘れてはならない。
シャレード家の当主に代々受け継がれている家訓だ。爵位が同等となり、同年代の当主が続いていることから、ここ十数代ほどは光栄にも竹馬の友として、キリシア家と関係を持つことができている。現にガーランもキリシア家当主のルゥロォとは、幼い頃からの仲だ。だがそれでも、血によって受け継がれている、犬としての矜持が、今回の失態を犯した自分自身を責め立てていた。
豪雨の中、シャレード侯爵家の騎士団は、領内外を問わず徹底的に元侯爵夫人を捜索した。すでに離縁届は国に提出し、認可されている。異例な早さで離縁が認められたのは、シャレード侯爵家の政治手腕における部分が大きい。女の実家の伯爵家は平身低頭で謝罪し、娘が戻ったらすぐに連絡をすると言っていたが、すでに信用は失われている。ガーランは伯爵家に見張りをつけた。
打てる手は打った。しかしなんの音沙汰がないまま、二週間が過ぎ、ガーランが焦燥に駆られていた頃……キリシア家から一通の手紙が届いた。問題が起きてすぐ、謝罪と説明を行っている。なんの要件か疑問に思いながら読み進めると、次第にガーランの目が驚愕で見開かれていった。
「ウール! 馬を出せ!」
老執事に端的な指示を出す。そして彼は外の天候など気にする余裕もなく、雷鳴が轟く中、馬を走らせてキリシア侯爵家へと向かった。互いに広大な領地を有しているが、緊急時のことを考えて、シャレード侯爵家の屋敷は領地の端に構えている。馬を全力で走らせれば、雨期の豪雨の中であっても数時間でかの屋敷へ到着することができた。
雨や泥で汚れ、濡れ鼠の様相を呈したガーランを、ルゥロォは嫌がるでもなく、ただただきょとんとした顔で出迎えた。ミルクティ色のふわふわした髪と、秋の空を思わせる澄んだ青の目が印象的な彼は、同い歳だとは思えないほど幼い顔つきだ。
「ガーラン? どうしたの?」
「手紙を、受け取った……それで、あの女は……っ!」
必死の形相で詰め寄るガーランを宥めるように、ルゥロォは両手を胸の前に上げてへらりと笑った。
「まあまあ。それよりもまずお風呂が先だよ。そんなに濡れちゃってさぁ……風邪でもひいて、こじらせたら大変だろう?」
「っ……だが――」
「それに、君が来てるってキュニィが知ったら、きっと会いたがるよ。その格好でハグやキスをしてほしくないなぁ……」
「……知られなければ――」
ガーランの言葉を遮るように、屋敷の中から「おじさまがきているの!?」と、少女の明るく元気な声が聞こえた。ルゥロォが肩をすくめる。
「知られちゃってるみたい」
「………………」
「じゃあ奥の浴室を使ってね。お湯は張ってあるし、着替えも置いてあるから、ゆっくりしてくるといいよ。話は……そのあとにね」
幼い頃から何度も足を運んでいた、勝手知ったる屋敷だ。渋々と指定された浴室へ向かい、汚れた服を脱ぐ。改めて見ると酷い格好だ。ここに至るまでの廊下も汚してしまったことだろう。入浴係の使用人の手伝いは断った。任せると香油を塗り込む按摩まで行われるのは経験則で分かっている。乳白色の湯が張られた風呂で身体を温めた。そして用意されていた服に着替える。濡れて黒さを増した髪を軽く拭き、そのまま後ろに撫でつけて、ルゥロォがいるであろう応接室へ向かった。
ルゥロォはチョコチップクッキーをミルクに浸して食べているところだった。マナーとしてはありえない食べ方だが、侯爵家の当主が侯爵家の屋敷ですることにケチをつけられる人間など存在しない。
「ガーランも食べる?」
「いや、いい。それよりも本題に入りたい」
「君の奥さんの話だね」
「元、だ」
できれば婚姻した事実まで消し去りたいが、そうなれば息子のアレスの立場がなくなってしまう。半分、忌々しい女の血が流れているとはいえ、息子への気持ちは以前と何も変わっていない。
「あの女は今どこに?」
「フィグ村って知ってる?」
「キリシア領の北部にある農村だ。そこにいるのか?」
「あはは、さすがガーラン。よその領地の小さな農村の名前まで知ってるなんて、さすがだね。うちだけじゃなくて近隣の領地の地形も把握してるの? 見習わないとなぁ」
「茶化すな」
ガーランはひたいを押さえながら、テーブルを挟んで座る男を見る。見れば見るほど侯爵家の当主には見えない。幼い相貌の彼は、口元をチョコレートとクッキーの欠片で飾ったまま「ごめんごめん」と気の抜ける声で謝った。
「彼女だけどね、今はフィグ村の村長の家でおとなしくしているよ。ああ、もちろん監禁なんてしていないから安心して。わざわざそんなことをしなくても、あの村からは出れないからね」
「ああ……あの村は、自然要塞だ。北からの侵攻をいち早く察知し、いざという時の前線基地になるべき場所で……村長はもちろん、村民の多くは、過去に騎士団に所属していた戦闘経験者……」
話しながら、だんだんガーランの顔色が悪くなっていく。冷静になって話を整理する内に気付いてしまったのだ。
「あの女は、キリシア領の北部地域で捕まったのか?」
「そうだよ」
「北へ……行こうとしていたのだな……」
「そうだね」
情報を持って、敵地へ行く。その結果どうなるかは考えるまでもなかった。大規模な戦いにおける有益な情報の価値は金にも劣らない。キリシア侯爵家の盾で、矛で、金庫の役割を担うシャレード侯爵家の女主人が持つ情報は、値段をつけられないほどの価値になるだろう。
ガーランは椅子から崩れ落ちるように、床に膝を着いた。
「すまない……申しわけない……私が、あの女を御せずにいたせいで……」
「顔を上げてよ、ガーラン。元奥方の実家はまともな家で、シャレードはもちろんキリシアに敵対する意思は微塵もなかった。彼女にしたって君と結婚する以前も、出奔するまでの数年間も、怪しい動きはなかったでしょう?」
「……ああ……」
「今回のことは君の怠慢や力不足が原因なんじゃない。ただただ彼女が一枚上手だったんだよ。巧妙だねえ。駆け落ちしたことが露見するその時まで、愛人の存在をガーランほどの男に隠しておけたなんて。いっそ見事だよ」
「愛人の男は、北の人間だったのか」
「そうらしいね。君を騙しとおせるほど賢く、良き妻、良き母だった女性が、謀反人として捕らえられるなんて……愛は人を狂わせるものなのかな」
特に他意はないのだろう。ルゥロォはしみじみ言うと、再びチョコチップクッキーをミルクに浸した。
「彼女のことは君の好きにしたらいい」
「……随分と褒めていた。子飼いにしたいのではないのか?」
「賢くて優秀な女性であるのは認めるけど、シャレードと比べれば、たいしたことのない存在だよ。シャレードの矜持を踏み躙った。そんな相手に手を差し伸べるほど、僕らは寛大ではないからねぇ」
キリシア侯爵家の人間は、使える、使えないに関わらず、いろんな人間に手を差し伸べて容易く掬う。その中でも忠義に厚く、自分たちを慕ってくる者に対しては、あっさりと懐に入れ、大事にしてくれるのだ。キリシアには多くの子飼いがいる。誰もがキリシアにもっとも信頼され、もっとも有用だと思ってほしくて、どうこう指示されずともキリシアのために動いた。
キリシア家の子飼いの全てをガーランは、シャレード家は把握していない。今回の件でもシャレード家が必死に捜索して見つけられなかった女を、キリシア家はあっと言う間に見つけ出し、捕縛してみせた。普段のほほんとしているキリシア家の人間は、いざという時にだけ、本領を発揮する。それ以外の時は全て、子飼いの者たちに任せて、有能さや異質さを潜ませているのだ。
ルゥロォはクッキーを頬いっぱいに詰め込みながら「いつまで床にいるの。話しにくいから座ってよ」と正面の椅子を指差して言った。ガーランは元いた場所へ戻る。ガーランが腰を下ろすと、ふとルゥロォが思い出したかのように「あ、そうだそうだ」と指についたチョコレートを舐めながら言った。
「ねえ、ガーラン」
「ああ」
「こんなことになって、これからシャレード侯爵家の内向きのことをする人間がいなくなるわけだけど、後添いを迎える気はあるの?」
「それを今聞くのか?」
「まあまあ、そんな嫌そうな顔しないで。これは僕からのアドバイス。次は最初から愛に狂った人を選ぶといいよ。もうそれ以上、狂いようがなければ、今回みたいなことは起きないからね」
「……馬鹿馬鹿しい」
呆れたように溜め息をつき、ガーランはルゥロォに頭を下げてから応接室を出た。
そのままの足で玄関ホールへ向かう。フィグ村までは少し距離がある。自分はこのまま先行し、シャレード家に手紙を出そう。ウールに命じて処理に秀でた人間を送ってもらわなければならない……などと、考えながら進んでいると――
「おじさま」
鈴を転がすような、甘えた声が聞こえた。玄関ホールにはキリシア家の姫である、キュニィ嬢だ。父親と同じ色味の少女はミルクティ色の柔らかそうな髪を揺らしながら、ガーランの元へ駆け寄ってくる。
口元を小さな手で隠しながら、くふくふ笑って見上げてくる彼女は、息子と同じ年齢とは思えないほど小さく、会う度に甘えてきてくれた。甘えん坊なのだろう。口元にあった手を、ガーランに向けて伸ばしてくる。抱っこをせがむ格好だ。急いでいたガーランではあるが、ついいつものようにキュニィを抱き上げてしまった。
「おじさま、今日はどうしたの? キュニィに会いにきてくれたのかしら?」
「今日はルゥロォに用事があって来たんだ」
「むぅ……ずるいわ、おとうさま。ひとりだけおじさまと遊ぶだなんて」
「遊び相手が欲しかったのか。アレスもここへつれて来れたら良かったのだが、時間がなくてな。次は一緒に来よう」
「アレス? アレスと遊ぶのもたのしいけれど、キュニィはおじさまと遊びたいの」
「私と?」
「そうよ。だからつぎは、キュニィに会いにきてね」
そう言うと、少女は小さな唇をガーランの頬へくっ付けた。キスというよりはあまりにも純粋で、幼い触れ合いだ。彼が目をまたたかせると、キュニィはくふくふ笑った。はにかむ彼女の頬っぺたはピンク色に染まっている。
「おじさま、だいすき。キュニィが大きくなったら、おじさまのおよめさんにしてね」
「……君が大人になったら、な」
大きくなったらパパと結婚する。
そんな子供の戯れ言と分かっていても、無下にできる男ではない。当たり障りのない、子供を傷付けないための言葉を紡ぐ。まさか大きくなった彼女に、押しに押され、社交界でも噂になるほど熱烈な愛を捧げられ、自身もうっかり絆されてしまうことなど、まだ、この時のガーラン・シャレードは微塵も思っていなかった――。
END
//一万字前後で終わると思っていましたが、予想に反して長くなってしまいました。当初は『乙女ゲームの悪役令嬢系の物語にしよう!』と考えていましたが、いろいろと長くなりそうなので割愛。転生ヒドイン系男爵令嬢や虐げられる義弟の設定もありましたが、これもまた割愛。コンパクトに仕上げて完結とさせていただきました。最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。
20221216 32
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