絵描き令嬢は元辺境伯の愛に包まれスローライフを謳歌する

(旧32)光延ミトジ

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幕章 ︎︎オリオン青年物語

70:過去編①:辺境伯家の次男坊:Sideオリオン

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 この季節の日暮れは早い。

 飛竜に乗って広い空を駆ると、季節の移り変わりがよくわかる。全身で浴びる冷たい風が冬の訪れを告げていた――

 メルクロニアの地に聳え立つホワイトディア家の居城に、若い女性の怒声が響き渡った。初めて耳にした者は『何事だ?』と動かしていた手を止め、常日頃から聞き慣れている者は『また始まったか』と、特段気にすることなく仕事を続ける。

「聞いているのですか、オリオン殿!!」

 厄介な相手に捕まってしまった。ホワイトディア家の次男坊――オリオンは漏れそうになる溜め息を堪えながら、短い白銀の髪を掻く。

 怒気を含んだ顔で睨み据えてくるのは、彼の兄の妻、リューディアである。

 ホワイトディア家の忠臣アスタラ伯爵家の長女だった彼女は、二年前、嫡男のアルタイル=ホワイトディアに嫁いできた。すでに次の次の後継者となる長男を生んでおり、ホワイトディア家内において、盤石の地位を固めている。

 オリオンよりもふたつ年上の彼女は、北の貴族の女性らしい気の強さと、真っ直ぐさを兼ね備えた人物だ。後継者でこそないものの、ホワイトディア家の息子であるオリオンに遠慮なく苦言を呈すことができる人間は少ない。その数少ない人間のひとりが、義姉となったリューディアである。

「どこを見ているのです。わたくしのほうをお向きなさい」
「義姉上殿、そう怒らずに落ち着いてください」

 怒りを隠さない義姉を宥めようと言葉を発するが、どうやら言葉選びを間違ってしまったらしい。彼女の涼しげな目の上で柳眉がぴくりと跳ねた。

「なんですって? わたくしに頭を冷やせと言っているのですか?」
「いえ、そういうわけでは――」
「あなたがそのようなことを言える立場ですか!」

 場所はメルクロニア城の玄関ホール。使用人たちの目もある中で、再びの怒声が響き渡った。

 叱られたオリオンはつい小さく肩を竦めて――はたと止まる。この仕草は完全に火に油を注ぐようなものだろう。すべきではない。そう思ったが時すでに遅し、だ。上げてしまった肩をそのままにはしておけず、ゆっくりと下ろす。

 結局、火に油を注ぐ仕草を完遂してしまった。

 リューディアの形相が恐ろしいものへと歪む。

「オリオン=デイヴィス=ホワイトディア! あなたという人は、まったく反省していないようですね? なんです? その面倒だとでも言いたげなお顔は!? 反省どころか、自分の行いが悪だとすら思っていないのですか!」
「いえ、さすがに多少の申しわけなさはありますが――」
「反省はしていないのでしょう?」

 確かに反省はしていないが、ここで是と答えるわけにもいかない。

 オリオンが沈黙を選ぶと、返事を待つかのようにリューディアも口を閉じる。

 沈黙が流れる間に、激昂していた彼女も冷静になってきたのだろう。顔から怒気がわずかに消える。そしてオリオンから返事が返ってこないことを悟ったようで、リューディアが溜め息をついた。

「オリオン殿、もうこれで何度目です? お義父上様とお義母上様が調えてくださった見合いの席を放り出すなど……それが成人した貴族令息のすることですか?」

 義姉が怒るのも無理はない。

 オリオン青年は本日、もう何度目かもわからない見合いの席をすっぽかしたのである。指定された場所へは行かず、申しわけ程度に、侍従に丁寧なお断りの手紙と花束を届けさせた。

 その時間、本人が何をしていたかといえば、相棒の白竜――クィーンと一日中、山狩りをしていたのだ。賊を追いつめたり、戦線からはぐれた敵を倒したりと、遊んでいたわけではないが、そこに楽しみとやりがいを見出していたことは否めない。

「父上……はともかく、精力的に婚約者を据えようとなさっている母上には、そういった席は用意してくれずともいいと言っています。もう、何度も」
「何をおっしゃっているのです。そういう席でもなければ、オリオン殿はお相手を決めないでしょう」
「そんなに焦って結婚しなければいけないわけではありません。父は健在、次代には兄上がいますし、義姉上殿のおかげでアークトゥルスも生まれました。ホワイトディア家は安泰です。放蕩息子のひとりくらいいてもいいでしょう」

 ホワイトディア家を継ぐ六つ年上の兄はすでに結婚し、子供もいる。辺境伯家の直系の息子である以上、いずれは結婚しなければならないだろう。だが二十歳やそこらで慌てる必要もないと、オリオンは思っていた。

 これまでに何度も両親――主に母親が率先して、オリオンと北の貴族令嬢との縁を繋げようとしてきた。

 十三歳から十八歳の間は王都の寄宿学校にいたため、長期休暇で戻った時に申しわけ程度に引き合わされる程度だった。しかし卒業して二年が経つ今では、母が本腰を入れてオリオンの伴侶を探している。

 母曰く、自分たちは十代ですでに子を成しており、二十歳で婚約者もいないのは遅すぎるとのことだ。母上たちの時とは時代が違うのです、と面と向かって言ってはいるが、聞き入れてもらえる様子はない。近頃では義姉までも両親の味方につき、オリオンへ大声の小言を言ってくるようになった。

 ふ、と――近付いて来た音と気配を察知する。オリオンはしまったとばかりに表情を歪め、逃げられないことを悟ると、深い息を吐いた。

「大きな声で、何を甘えたことを言っているのです」

 ヒールが床を打つ音に、杖をつく音が混じっていた。ふたつの異なる音と共に現れたのは、オリオンの母――イェレナである。片足が不自由だとは思わせない凛とした空気を纏った彼女は、杖を持つ姿からは想像もつかないほど真っ直ぐした足取りで、彼らの傍へ近付いた。

 自然とオリオンの背筋が伸びる。実母の力強い眼光に睨み据えられ、二十歳の青年は居心地悪そうに目を逸らした。

「風来坊を気取るのもいい加減になさい」
「気取ってなど、いません」
「寄宿舎から戻って以来、戦場とメルクロニアを行ったり来たり。決まった戦地で軍を率いるでもなく、点々としている貴方を風来坊と呼ぶのでなければ、なんと呼べば良いと?」
「愚息でも穀潰しでも放蕩息子でもご自由に」
「お黙りなさい」

 空気を変えようとした冗談は一刀両断される。生真面目で、気が強く、言いたいことをハッキリと言うのは北部の女性の特徴だ。

 長く戦争が続くホワイトディア領では、貴族や平民問わず、女子供は守られているだけの対象ではない。男たちが前線で戦う間、物資などを用意するのも、家と土地を守るのも、女たちの役割だった。男たちが不在の間、自ら武器を持ち、戦うこともある北の女の胆力は生半可なものではない。

 今でこそ、長年の仇敵である北の蛮族が、居住地まで攻め込んで来ることはなくなった。だが脈々と受け継がれてきた、戦いと共に生きる北部の人間の、生来の気質が消えることはない。

 領を背負う、ホワイトディアの人間であれば、なおさらだ。

 イェレナやリューディアは元々ホワイトディアに生まれたのではない。どちらも嫁いできて、北の王家の人間になった。その重圧と責任感、栄光を糧に、彼女らが己を厳しく律した、より北部の女らしい女性に成ったのも自然なことだ。

「婚約や結婚を早い遅いの話で語るのであれば、オリオン、二十歳で決まったお相手がいないのは、遅いと言わざるを得ません」
「母上が俺の歳の頃には兄上を産んでいたという話なら、飽きるほど聞きましたよ」
「ならばおとなしく結婚なさい。北の守護者たるホワイトディアに、直系の血を継ぐ子供は何人いてもいいのです」

 母の言わんとしていることは、わかる。

 ホワイトディアの名を冠する者たちは、領地に点在する戦地へ将として赴く。そして軍を率い、誰よりも勇猛果敢に戦うことが宿命付けられていた。

 オリオンがそこに疑問を持ったことはない。

 兄や父、叔父たちや祖父、血を辿った先にいる祖先も、きっとそうなのだろう。地位のある人間が命をかけて戦い、血を流すからこそ、兵士も騎士も、戦闘訓練をしていない武器を持っただけの民たちも、死地へ向かうことができるのだ。

 ホワイトディア家の人間は、幼い頃から武芸や戦術の習得に励み、下地がしっかりしている。そして戦いの才能が秀でている者が多いことは事実だ。

 しかしそれは、敵なしの最強であるだとか、不死身であるだとか、そういうことではない。ホワイトディアの男たちの多くは、老いてベッドで看取られるのではなく、壮年期に戦場で散っていく。歴史を見れば、十代や二十代で子を残して逝った一族の人間も少なくない。

 ゆえに、早く結婚して、ひとりでも多くの子を残せと訴えてくる母の気持ちもわかる。それにも関わらず、オリオンは自らの我欲を押し通していた。我欲の自覚があるからこそ、彼には強く言い返す、反論する……という選択肢がない。

 穏便に、この場から逃げ切る方法を考え――

「ああ!」

 と、オリオンはわざとらしく声を上げた。

「申しわけありません、母上、義姉上。不肖オリオン、父上に呼ばれているのをすっかり失念していました。当主からの呼び出し。何を置いても駆けつけなければ。そうです、急がなければなりません。ええ、はい。失礼します」

 逃走も立派な戦術だ。オリオンはふたりの横を通り抜け、そそくさとその場から退散する。

 後ろから彼の名を呼ぶ女性たちの声がした。たくましいとはいえ、北の女性の手本たる淑女のふたりだ。さすがに走って追いかけては来ない。だが、後ろめたい気持ちのあるオリオンは急かされ、追われている気分だった。足は自然と歩みを速める。

 父に呼ばれているのは嘘ではない。青年は長い足を軽やかに動かして、広いメルクロニア城を進み、当主の執務室へ向かった――

 ――歩みの勢いのまま、ホワイトディア家当主の執務室の扉を開ける。彼がノックをしなければと思い至ったのは、すでに扉が開いてからのことだ。母と義姉に遭遇した動揺を消しきれていないらしい。

 扉を開け、中にいた人物を視界に捉える。オリオンは赤い目をまたたかせた。

「兄上?」
「よ、オリオン」

 執務室にいたのは兄のアルタイルだ。

 オリオンよりも六つ年上の彼は、普段は北の最前線にいる。ホワイトディア家の後継者として激戦地で指揮を執り、極寒の中、蛮族と戦っていた。

 年に何度かメルクロニア城に戻るが、その時は必ず先触れがある。しかし今回、オリオンは兄の帰還を知らなかった。

「戻っていたのか?」
「ああ。ついさっきな」
「義姉上には?」
「まだ会ってない。お前、今日もまた絞られてたな」

 兄が肩を震わせ、笑いながら言う。どうやらリューディアの声は兄の耳にも届いていたらしい。

「アークトゥルスを産んでから、義姉上はますます強くなった」
「義姉弟の仲が良くて何よりだ」

 アルタイルはおかしそうに笑い、オリオンは不満げに鼻を鳴らした。

 快活な性格の兄は、自分の妻と弟が気兼ねなく接しているのが嬉しいようだ。基本的に義姉にやり込められてばかりのオリオンとしては、喜色満面で『仲良し義姉弟です!』とは言えない。

「近頃ことさら、義姉上は母上に似てきた」
「頭が上がらないか。お前も、父上も」
「ああ」

 父は愛妻に似てきた嫁を、実の娘のように可愛がっている。目に入れても痛くないほど愛らしい孫を産んだことで、感謝の念も抱いているようだ。そのためリューディアとオリオンならば、迷いなく前者の味方をする。

「肩身が狭いとは、こういうことなのかもしれない。友人の中に次男以下の者たちがいるが、彼らの言っていた『部屋住みは気まずい』の意味が身に染みてわかった。だから兄上、頼む。早いとこ俺を北に呼んでくれ」
「はは、そういうわけにもいかないだろ。お前には、メルクロニアで当主の補佐を務めてもらわないとな。俺がホワイトディアを継ぐまで――いや、継いでからも、ここにいてくれ」
「補佐と呼べるほどのことはしてない。将来については善処するが、俺は……」

 言葉尻を濁らせると、兄が少し困ったように笑った。眉が下がり、聞き分けのない子供を見る大人のような表情を、オリオンに向けてくる。

「戦場で死にたい、か?」
「……ベッドの上では、死にたくない。寄宿学校に行って、重々理解した」

 十三歳から十八歳までの五年間を、オリオンは王都の寄宿学校で過ごした。

 北部が王国に恭順の意を示し、国の一部として組み込まれて以来、北の有力な家の男児は王国貴族として青少年期を王都で過ごすのが慣例だ。名目や表向きの理由はあるが、実質的には人質である。

 オリオンは寄宿学校――王国で掛け替えのない友人ができもしたが、同時に、痛感したこともあった。

「俺はどうしたって北の人間だ。王国の貴族様にはなれない」
「ンなこと言っても仕方ねえだろ。ホワイトディアは王国の貴族になってんだ」
「っ、父上……」

 足音も気配も、まるでなかった。

 執務室に入ってきた来たのは、兄とよく似た男――ホワイトディア家当主で、彼らの父、カノープス=ホワイトディアだ。オリオンのように屈強な体躯ではなく、均整の取れた体格で、年齢を感じさせない若々しい風貌をしている。

「ダダ捏ねてんじゃねえぞ。オラ、さっさと座れ」

 粗雑な物言いをするところはまったく似ていない。カノープスは大きな音を立てて扉を閉めると、執務机の椅子に腰を下ろした。アルタイルは補佐官の机付きの椅子を引っ張り出して座り、オリオンは机自体に軽く腰を下ろす。

「お前らを呼んだのは他でもねえ。書状が届いた」
「書状? 誰から?」

 アルタイルが尋ねると、カノープスが筒状の手紙を投げ寄越した。兄が巻かれていたそれを広げて読むのを、オリオンも身を乗り出して覗き込む。

「ラスティ=メンドーサ……南の辺境伯から?」
「兄上、これ……援軍要請か?」

 兄弟が同時に父のほうを見れば、カノープスは「おう」と頷いた。

「ちっとばかし、南部がキナ臭ェことになってやがる。どうしたもんか、お前らの意見を聞かせろ」

 顎を撫でながら、そう軽く告げた父の顔を見て、オリオンはわずかに瞠目する。

 言葉の軽さに反し、父の――北の王、カノープス=ホワイトディアの顔は、剣呑で、物騒な色を醸し出していた。



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