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1巻
1-2
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「マーガレットとプリシアには、会わないつもりか?」
義母と異母妹の名前が出て、アメリアは首を傾げる。
「会ったほうが、いいですか?」
「……いや、いい……」
少し考えたあと、父は力なく首を振る。
アメリアは、話は終わったとばかりに席を立った。レオルは何か言いたげに口を開くが、結局、何も言わずに口を閉じた。
(ラファエルさんが言っていたのは、きっとこのことね)
何をどうしても受け入れるしかない話。これはまさしくそうだ。彼がどういう伝手で、辺境伯家に婚姻の話を出させたのかはわからない。だが、アメリアにとってそれは重要ではなかった。
大事なのは環境だ。
(彼の伝手なら、結婚したとしても絵を描けるはずだわ)
父にはああ言ったが、辺境伯家ほどの名家が、男爵家の小娘を甚振るとは思わない。人間が足元の蟻を気にしないように、北の支配者が自分を気にすることはないだろう。離れに追いやられるとか、妻扱いされないとか、そういった類いの冷遇になるはずだ。
それはそれで、彼女の望む環境である。
応接室を出るアメリアの足は、軽かった。
婚姻の打診からひと月半――秋も半ばの頃、アメリア・ローズハートをのせた小さな馬車は、整備された街道を進んでいた。花嫁が乗る馬車にしては貧相だ。しかし特別裕福ではない男爵家が急遽あつらえた馬車としては充分と言えるだろう。
男爵領を発って十日余り。馬車はホワイトディア辺境伯領に入った。
辺境とは名ばかりだ。有事の際に物資を円滑に運搬するためか、街道は広く、綺麗に整備されている。城壁や関所、砦も点在し、北部が軍事に力を入れているのが窺える。
最低限の荷物が積まれた馬車には、若い侍女が同乗していた。名前はリサ。十三歳の小柄な少女だ。
侍女ひとりつけずに嫁に出すのは、さすがに問題だと考えたのだろう。ローズハート男爵は領の孤児院にいた子をつれて来て、礼儀作法や貴族令嬢の身の回りの世話のやり方を急遽詰め込んだらしい。地頭がいいのか、ひと月程度でそれなりの形になっている。
外から馬の蹄の音が聞こえた。
馬車の隣を並走するのは、辺境伯家から来た護衛兼案内役の騎士だ。彼はホワイトディア辺境伯家の騎士団を表す黒い制服とマントを身に纏い、ピンと背筋が伸びた姿勢を崩すことなく馬を走らせている。
その若き騎士――エリック・ハルドが男爵領を訪れたのは、出発の直前だった。あらかじめ発つ日取りを伝えていたこともあり、アメリアの夫になる人物が、好意で遣わしてくれたそうだ。
真面目で堅物な印象の青年は、最低限の荷物しか積んでいない馬車を見て顔を顰めた。
「失礼ながら、こちらで全てでしょうか?」
「はい。持参金は不要とのことでしたので、お言葉に甘えさせていただきました」
なんでもないように言うアメリアの隣で、父のレオルが青い顔をする。騎士は表情を変えないまま「持参金の話ではありません」と静かに言った。
「目的地までは長期間の移動になります。これだけでは道中で足りない物も出てくるかと」
「そうなのですか?」
「はい。辺境伯領はこちらより寒いので厚手の着替え、いざという時の携帯食、長距離の移動に慣れていらっしゃらないのなら、クッションや毛布もあったほうがいいでしょう」
「なるほど……では、追加の旅支度をお手伝いいただけますか?」
「……はい? 私が、ですか?」
「見ながら教えていただくほうが、間違いないでしょう。お父様、ハルド卿を屋敷の中にお招きしてもかまいませんか?」
「え? あ、ああ……」
男爵は辺境伯家の騎士に荷造りを頼むことに気が引けている様子だ。
一方のエリックも「俺が令嬢の荷造りの手伝い……」と、一人称がおそらく本来のものに戻ってしまうほどには混乱しているようだった。
アメリアは前日に顔を合わせたばかりのリサと、半ば呆然とする騎士をつれて部屋へ行き、追加分の荷物をまとめていく。狼狽えていたエリックだが、持ち前の真面目さを発揮し、途中からは率先して本物の旅支度を教えてくれた。
そんなこともあり、彼女たちは予定より少し遅れてローズハート男爵領を発った。父娘の別れはあっさりしたものである。アメリアは後ろ髪を引かれることなく、馬車に乗り込んだ。
その後の道中は天候にも恵まれたこともあり、順調に進んでいる。
エリック・ハルドが無理のない行程を組んでくれたおかげで、野宿などはなく、いざという時の携帯食の出番は今のところない。街道にいくつかあった関所は、ホワイトディア辺境伯家が発行した許可証を見せればすぐに通行させてくれた。
朝に出発して日暮れ前に宿を取るといった日程で、十日。こうしてアメリアが乗る馬車は無事に辺境伯領に入ったのである。
(風と、光が変わったわ)
アメリアは馬車の窓から外を見る。男爵領はまだ秋だったが、この辺りはもう冬の匂いがしていた。
北への街道を進むにつれて空気がだんだん冷えてきていたが、辺境伯領に入った途端、気温が急激に下がった。さすがと言うべきか、馬車と並走する騎士は冷たい風など意に介さず、平然とした様子だ。
「くちゅん!」
馬車に同乗している侍女が毛布にくるまってくしゃみを漏らす。
揺れる馬車に身を任せながら、アメリアは窓の外の風景を目に焼きつける。綺麗に整備された街道と、冬の色に変わり始めた木々の対比には、妙な寒々しさを感じるが、同時に静謐な美しさがある。
少し視線を上げれば空が曇り始めていた。ひと雨きそうだ。予定とはずれてしまうが、今夜は次の村か町に泊まることになるかもしれない。
馬車の外を行くエリックと目が合った。どうやら彼も同じ結論に至ったらしい。
一行は次の町で一泊することになった。街道沿いの宿場町のため、宿はすぐ取れた。降り出した雨は夜が近づくにつれ、雨脚を強めていく。このまま明日も雨がひどければ、滞在が延びるだろう。
宿の隣に併設された食堂で夕食を摂る。肉と野菜の煮込み料理、堅焼きのパン、じゃがいもがゴロゴロ入ったサラダ、香辛料が利いたソーセージと、腹に溜まるメニューだ。
アメリアはあまり食に関心がない。飢えを満たせれば充分だと思っている。サラダのじゃがいもを口に運ぶ。見た目よりも濃い味のソースがかかっていた。
(これだけでお腹いっぱいになるわね……)
食に興味がないだけでなく、彼女は小食だ。馬車にのっているだけでは腹も空かず食が進まない。注文した料理のほとんどをエリックとリサが食べるのが、道中の日常となっていた。
食事が終わると、アメリアが宿泊する部屋に三人で集まることになった。エリックに今後の旅の道程を説明してもらうためだ。当然ドアは半分開いており、アメリアの傍にはリサが立つ。アメリアは丸いテーブルに広げられた地図に視線を落とした。
「辺境伯領に入ったので、改めて今後の道程を説明させていただきます。ひと言に辺境伯領と言っても領地は広大です。そのため領を東西南北と中央の五つに区分し、ホワイトディア家のお血筋の方が中心となって統治されております」
地図を見る。
「北は前線です。辺境伯家が有する兵の中でも精鋭と呼ばれる者たちが、日々、蛮族との戦闘に明け暮れています。辺境伯の後継者が兵を率いるのが代々のならわしで、現在常駐なさっているのは嫡男のアケルナル様です」
「一番危険な場所に嫡男がいるのですか?」
貴族の嫡男といえば、当主を除き、何をおいても守られるべき立場だ。
「辺境伯領以外ではあまりないかもしれませんが、辺境伯領には兵士、騎士、傭兵……あるいは賊まで多くの腕自慢が集まります。その頂点に君臨するのが辺境伯であり、逆を言えば、力がなければ北の王として認めらません」
アメリアにはあまりピンとこない価値観だが、納得はできた。北の人間が求めているのは強い支配者なのだろう。心酔でき、熱狂でき、生活の全てを預けられるほど屈強な王に率いてほしいのだ。
王国自体の大きな戦争は四十年前に終結した。だが、北は今でも戦地なのだ。だからこそ上の人間に求める資質も、王都とは違うのかもしれない。
ホワイトディア辺境伯領の北部には雪と氷に覆われた険しい山があり、その向こうには領地を虎視眈々と狙う蛮族がいる。山の先は辺境伯領よりもさらに寒さが厳しく、人が生きにくい土地だ。圧倒的な戦力差があるとわかっていても、蛮族は土地を奪いに来ざるを得ない。侵略を防ぎ、撃破することが次代の辺境伯に課された試練なのだろう。
「今、私たちがいるのは辺境伯領の南部地域です。ここは他領や王都との交易や商売を主としています」
「交易……あ、だから街道が整備されていて宿場町も多いんですね」
「はい。北でもっとも栄えている地域と言っても過言ではありません。西部は冷害に強い作物が開発されて以来、農耕が盛んで、ホワイトディアの食糧庫と言われています。とにかく土地が広いので、飛竜の育成、訓練をする施設があるのもそこです」
「中央には、ホワイトディア辺境伯家の居城があるのですよね?」
「ああ、ご存じでしたか」
「ええ。朝陽を浴びて輝く城――ホワイトディアの黄金城は有名です。とても美しいと聞いて、一度見てみたいと思っていました」
「そうでしたか。アメリア様もホワイトディア家の一員になられるので、今後足を運ぶ機会はいくらでもありますよ」
だといいですけど、という言葉は出てこない。辺境伯家の一員になると言われても実感は薄かった。笑顔で迎えられる可能性が低いことを思えば、あまり期待しないでおくべきだろう。
(実物を見ながら、時間をかけて描くのは難しそうね。見る機会があれば、目に焼きつけておかないと……スケッチくらいなら、できるかしら?)
アメリアはほのかな希望を抱きながら、地図を指差した。
「東部は海沿いですね」
「ええ。過去、海を越えてきた敵との交戦拠点になっていた名残りで、各地に城塞が点在しています。これから私たちが向かうのは東部の中心――城塞都市バラリオスです」
「そこに……オリオン・ホワイトディア様がいらっしゃるのですか?」
「そうです。辺境伯位を甥御――現辺境伯アークトゥルス様にお譲りになって以来、東部の責任者として常駐なさっておられます。かれこれ十五年になりますね」
「甥御、ですか? 息子ではなくて……?」
「はい。ご存じありませんでしたか?」
エリックが目を丸くした。貴族社会にまったく興味がないアメリアは知らなかったが、どうやらその辺りの事情は有名らしい。彼は「説明いたしましょうか?」と言ってくれたが、アメリアは首を横に振る。よそのお家事情に興味はなかった。
「いえ、大丈夫です。それよりも、バラリオスまではどのくらいでつきますか?」
「通常であれば三日以内には到着できるかと。ただ雨のあとの道はぬかるみます。馬車で行くとなればもう少しかかるかもしれません」
「三日……」
早くて三日後には、自分の夫になる人物と顔を合わせることになる。まだどこか他人事のように思えるのは、あまりにもことが早く進んでいるからか――それとも、他人に興味や関心がない、ある種の、人間としての欠陥が表に出てきているからか。
自問の答えは、出ない。
それからいくつかの確認をして、エリックとリサは部屋を出て行った。
ひとりになったアメリアはトランクを開け、底からスケッチブックを取り出す。男爵領を出て以来、毎晩、その日馬車から見た景色を描くのが日課になっていた。今日もまた、白い紙を黒で埋めていく。没頭して、集中すれば、彼女の頭の中から余計な思考は全て消えてくれる。宿の外で降る雨の音も、聞こえない。
夜明け近い時間まで、アメリアの部屋の明かりが消えることはなかった。
翌朝――雨はやんだ。雲間から微かに日が差している。しかしエリック・ハルドが危惧した通り、雨上がりの道はひどくぬかるんでいた。
御者が苦戦しながら馬車を走らせること四日。通常よりも一日多くかかったが、アメリアの乗る馬車は無事、城塞都市バラリオスに到着した――
「わあっ、高い外壁ですね!」
馬車の窓から見える景色にリサがはしゃいだ声を上げる。出会ったばかりの頃のリサは、緊張のせいか大人びて見えていた。しかし半月余りを一緒に過ごしているうちに、彼女は年相応の子供らしさを見せるようになった。
アメリアは少女を横目で見たあと、自身も窓の外に目を向ける。
城塞都市と言うだけあって、まず目に飛び込んでくるのは石造りの高い外壁だ。壁がぐるりと街を囲んでいて、出入りできる場所は東西南北にある四か所の門だけらしい。アメリアたちは馬車が行き交う南門から、バラリオスに入ることになった。
通行証を確認する門番はエリックの知人のようだ。彼が馬を降りて帰還を伝えると、門付近の詰所から騎士たちが出てきた。精悍で屈強そうな男ばかりだ。
外の声が聞こえてくる。視線も感じた。挨拶をすべきだろうか。だが婚姻相手とも顔を合わせていない状況で、先に臣下の騎士に挨拶をするのも順序が違う気がした。とはいえ無視をするのもどうだろう。正解がわからず困っていると、エリックが馬車の窓を隠すように間に立ちはだかった。
「興味本位で覗き見しようとするな。紹介なく声をかけるのも無礼だ」
屈強な騎士たちはエリックの注意にハッとすると、馬車から少し離れて並んだ。そして胸に手を当て、一斉に頭を下げた。アメリアは目を丸くする。北の地を守る高潔な騎士が、たかだか男爵家の娘に対して敬意を表すなんて、想像もしていなかった。
エリックが馬車の窓越しにアメリアを見る。もう、充分だ。アメリアは小さく頷く。エリックが頭を下げる騎士たちに声をかけると、彼らは顔を上げた。
止まっていた馬車が動き出す。
馬車から見える城塞都市の街並みに、リサが度々、感嘆の声を漏らした。その傍らでアメリアは口を閉じたまま、流れていくバラリオスの風景を頭の中に刻む。たくさんの商品が並ぶ市場、頑丈そうな建物、屋根は雪除けのためか傾斜がきつい。
城塞都市だった頃の名残りか、現在も北部に戦線を抱えているからか、バラリオスには武器屋や防具屋が多いようだ。市場とは別に、酒場などの飲食店、衣料品店など一般市民向けの店もある。この辺りは市民の居住区も兼ねているらしい。
そのまま奥――町の中心へ進んで行くと、建物や商店の様相が変わる。どうやらバラリオスは中心に行くほど裕福な人間が多いようで、客層に合わせた高級店が増えてきた。
となれば城塞都市の中央にいるのは――
「お嬢様、お城です! お城が近づいてきました!」
リサが声を上げた。
馬車の進む先に、高くそびえる城が見える。市街地よりも一段高くなっており、そこもまた、外壁ほど高くはないが城壁に囲まれている。
(二重の壁……軍用拠点の名残り、なのかしら)
だんだん城との距離が縮まっていく。都市全体を囲む外壁ほど高くないが、間近に迫った城壁は、馬車の中からでは天辺が見えないくらい高かった。
進んでいた馬車が止まる。どうやら正門についたらしい。エリックが馬から降りて門番に声をかけていた。今度は周りに騎士が集まることはなく、男爵家の小さな馬車は再び動き出して城壁の中に入った。
玄関まで距離があるらしい。速度を落とした馬車は長いアプローチを進んで行く。興奮を緊張が超えてしまったのか、リサはすっかり静かになっていた。
やがて――馬車が停止し、扉がノックされる。
アメリアは細く、長く、息を吐いた。自然と落ちた目線の先に、膝の上でギュッと握られている両手がある。見慣れた両手が震えていた。バラリオスの街並みを頭に刻んでいた時よりも、心拍数が上がっている。彼女は目をまたたかせた。
(わたし、緊張してる)
自身の状態に気づくのと同時に扉が開く。その音と流れ込んできた冷たい外気に、アメリアは慌てて席を立つ。扉を開けたのはエリックだった。彼が差し出した手の平に、彼女は握りこんでいた手を広げて重ねる。
震えは止まっていない。寒さのせいだと思われたのだろう。エリックに「外套を用意しましょうか?」と尋ねられ、アメリアは「大丈夫です」と答えた。
そして彼女は馬車を降り、バラリオスの地を踏んだ――
(あれは……)
体勢を整えて前を向いたアメリアは、視界に飛び込んできた人を見て、翡翠色の目を見開いた。城の前に、遠目でもわかるくらい大きく、真っ白な男がいる。服も、髪も、ヒゲも、肌も、白い。真っ白な彼は、こちらへ足を踏み出している。
後ろではリサが馬車を降りる気配がした。だがアメリアは、近づいてくる人物から目が離せない。それほどの迫力と、存在感だった。
足が長いからか、歩幅が広いからか、その人はあっと言う間にアメリアの前にやって来た。彼女の父よりもずっと年上の老人だ。老人だが……そう呼ぶには、あまりにも屈強でたくましく、雄々しい雰囲気を纏っている。
名乗られなくても、誰なのかわかった。
「そなたがアメリア嬢で相違ないか」
腹の底に響くような、低く渋い声だ。
「……はい。ローズハート男爵が長女、アメリアにございます」
片足を後ろに引き、ドレスの裾をつまんでこうべを垂れる。大きな足が視界に入った。
「ああ、そんなに畏まらずともよい。頭を上げてくれ」
本当にいいのか少しだけ迷い、彼女はおそるおそる身体を起こす。自分よりも頭ふたつ分ほど高いところにある顔を見上げる。冷たい空気の中、白と銀が混ざったような髪が光り輝いていた。
(真っ白な人……)
もみあげから顎まで繋がったヒゲも白ければ、北の地に住む人特有の透けるような肌も白い。身に纏うのは詰襟の軍服と白い毛皮のマントだ。見上げるほどの巨躯と相まって、白熊を彷彿とさせた。けれど、頭に浮かんだ白熊はすぐ別の動物へと姿を変えていく。
白色の中で、深い色味の赤――紅玉の瞳がきらめいている。生気に満ちこぼれた、爛々と燃える瞳だ。
「雪兎……」
白熊から姿を変えた愛らしい小動物が、頭の中で跳ね回る。無意識のうちに漏れた声は決して大きくなかったが、目の前にいるその人の耳には届いたようだ。
「雪兎?」
紅玉の目を丸くした彼が、首を傾げながら聞き返してくる。生きる伝説とまで言われた屈強な英雄が、小さくか弱い小動物にたとえられて喜ぶはずがない。失態に気づいたアメリアは小声で謝罪の言葉を告げた。
「ははっ、そうか、雪兎か!」
大きな白熊が肩を揺らして豪快に笑う。その反応に、彼女は安堵の息を漏らした。どうやら気分を害してはいないようだ。
彼はひとしきり笑うと、やがて赤い目を細めた。目尻に皺が寄る。
「初対面で雪兎だと言われたのは、生まれて初めてだ。ホワイトディア――白鹿の名前ですら似合わんと言われるのに、雪兎ときたか。我が花嫁殿の翡翠のまなこは、えらく奇特な世界を映すらしい」
「花嫁……やはり、あなた様が……」
「ああ。私が、恥ずかしげもなく孫ほど歳の離れた令嬢に婚姻を申し込んだ好色ジジイ、オリオン・デイヴィス・ホワイトディアだ」
彼女は目をまたたかせた。
(好色ジジイ……)
その言葉は目の前の人物とそぐわないように感じるが、人の内面など見た目からは正確に読み取れない。英雄色を好むという言葉もある。オリオン・デイヴィス・ホワイトディアは、アメリアでさえ知っている英雄だ。だとすれば、好色ジジイはあながち冗談ではないのかもしれない。
口を噤んだアメリアは、オリオンと見つめ合う。
流れた沈黙を破ったのは、前に出てきたひとりの使用人だった。きっちりと身なりを整えた老人だ。細身の体躯だが姿勢は真っ直ぐで足取りもしっかりしている。薄いレンズのモノクルをかけていて、真面目そうな雰囲気を醸し出していた。
「オリオン様、僭越ながら申し上げます」
「ん? なんだ、エリティカ」
オリオンがエリティカと呼んだ男のほうを見る。ただの使用人ではなく、近しい存在なのだろう。エリティカは呆れたと言わんばかりの目を、主人へ向けていた。
「お言葉が過ぎます。貴方様の冗談は非常にわかりにくいのです」
「何?」
「何、ではありません。お嬢様が絶句しておられます」
「おお、それはいかんな」
オリオンがハッとした様子で、アメリアへ向き直る。
「すまぬ。口が過ぎた。今のは冗談だ」
「冗談、ですか」
「主はお嬢様が緊張なさっているのではないかと思い、雰囲気を和ませようとされたのです。しかしその手のことに慣れていらっしゃる方ではありませんので、下手を打ってしまわれたご様子。どうぞ寛大なお心でお許しいただけますと幸いにございます」
恭しく頭を下げるエリティカと、気まずげに頬を掻くオリオンを順に見て、アメリアは納得した。
「そうだったのですね。お気遣いいただきありがとうございます。その……今のお言葉が冗談であるのなら、ひとつお尋ねしたいことがあります」
「ひとつと言わず、いくらでもかまわんが……尋ねたいこととは?」
「わたしを、伴侶として迎えていただく理由はなんでしょう? これまで、お目にかかったことすらないと思うのですが」
「ふむ……」
オリオンはヒゲごと顎を撫でながら頷く。
「もっともな疑問だ。道中……いや、結婚の話を聞き、疑問を抱いた時から、さぞ悩んだことであろう。それならば、きちんと答えよう。だがその前に場所を変えてもよいか?」
「あ……はい、もちろんです」
「エリティカ、温室の支度は?」
「万事整っております」
「さすが我が執事は仕事が早い」
北の英雄は太い首を動かして満足そうに頷くと、アメリアに手の平を差し出してきた。大きな手だ。自分のものとはまったく違う。長年、領地を守るために武器を取り、最前線で戦ってきた戦士の手だった。
ほんの少し、手を重ねることに躊躇いがあった。アメリアの目に映る、大きな手が、とても尊いもののように見えたからだ。
(わたしなんかが、触れてもいいのかしら?)
そう思いながらも、手を伸ばして、重ねる。馬車を降りる時から続く手の震えは、未だに止まらない。
「外は寒かろう」
「そう、ですね」
手が震える理由はそれだけではないが、そうだと思われていたほうが気が楽だ。アメリアは口の端を持ち上げて笑うが、それはひどくぎこちないものだった。
オリオンにエスコートされながら、温室へ案内してもらう。足の長さが違うのに、早足になることも、遅れることもない。彼女が無理をしなくてもいいように、オリオンは歩幅を合わせてくれていた。
温室は城内の中庭を通った先にあるらしい。辿りつくまでに、何人もの使用人や騎士とすれ違った。こうべを垂れる者たちに、オリオンは時折足を止めては、アメリアを「我が花嫁殿だ」と紹介する。紹介された使用人は皆、祝福の言葉を口にした。
使用人たちの反応が、彼女は不思議でしかたない。
オリオン・ホワイトディアとは祖父と孫ほどの年齢差もあれば、天と地ほどの家格の差もある。彼は、男爵家の小娘に過ぎないアメリアが、本来顔を見ることすら叶わないような人間だ。
義母と異母妹の名前が出て、アメリアは首を傾げる。
「会ったほうが、いいですか?」
「……いや、いい……」
少し考えたあと、父は力なく首を振る。
アメリアは、話は終わったとばかりに席を立った。レオルは何か言いたげに口を開くが、結局、何も言わずに口を閉じた。
(ラファエルさんが言っていたのは、きっとこのことね)
何をどうしても受け入れるしかない話。これはまさしくそうだ。彼がどういう伝手で、辺境伯家に婚姻の話を出させたのかはわからない。だが、アメリアにとってそれは重要ではなかった。
大事なのは環境だ。
(彼の伝手なら、結婚したとしても絵を描けるはずだわ)
父にはああ言ったが、辺境伯家ほどの名家が、男爵家の小娘を甚振るとは思わない。人間が足元の蟻を気にしないように、北の支配者が自分を気にすることはないだろう。離れに追いやられるとか、妻扱いされないとか、そういった類いの冷遇になるはずだ。
それはそれで、彼女の望む環境である。
応接室を出るアメリアの足は、軽かった。
婚姻の打診からひと月半――秋も半ばの頃、アメリア・ローズハートをのせた小さな馬車は、整備された街道を進んでいた。花嫁が乗る馬車にしては貧相だ。しかし特別裕福ではない男爵家が急遽あつらえた馬車としては充分と言えるだろう。
男爵領を発って十日余り。馬車はホワイトディア辺境伯領に入った。
辺境とは名ばかりだ。有事の際に物資を円滑に運搬するためか、街道は広く、綺麗に整備されている。城壁や関所、砦も点在し、北部が軍事に力を入れているのが窺える。
最低限の荷物が積まれた馬車には、若い侍女が同乗していた。名前はリサ。十三歳の小柄な少女だ。
侍女ひとりつけずに嫁に出すのは、さすがに問題だと考えたのだろう。ローズハート男爵は領の孤児院にいた子をつれて来て、礼儀作法や貴族令嬢の身の回りの世話のやり方を急遽詰め込んだらしい。地頭がいいのか、ひと月程度でそれなりの形になっている。
外から馬の蹄の音が聞こえた。
馬車の隣を並走するのは、辺境伯家から来た護衛兼案内役の騎士だ。彼はホワイトディア辺境伯家の騎士団を表す黒い制服とマントを身に纏い、ピンと背筋が伸びた姿勢を崩すことなく馬を走らせている。
その若き騎士――エリック・ハルドが男爵領を訪れたのは、出発の直前だった。あらかじめ発つ日取りを伝えていたこともあり、アメリアの夫になる人物が、好意で遣わしてくれたそうだ。
真面目で堅物な印象の青年は、最低限の荷物しか積んでいない馬車を見て顔を顰めた。
「失礼ながら、こちらで全てでしょうか?」
「はい。持参金は不要とのことでしたので、お言葉に甘えさせていただきました」
なんでもないように言うアメリアの隣で、父のレオルが青い顔をする。騎士は表情を変えないまま「持参金の話ではありません」と静かに言った。
「目的地までは長期間の移動になります。これだけでは道中で足りない物も出てくるかと」
「そうなのですか?」
「はい。辺境伯領はこちらより寒いので厚手の着替え、いざという時の携帯食、長距離の移動に慣れていらっしゃらないのなら、クッションや毛布もあったほうがいいでしょう」
「なるほど……では、追加の旅支度をお手伝いいただけますか?」
「……はい? 私が、ですか?」
「見ながら教えていただくほうが、間違いないでしょう。お父様、ハルド卿を屋敷の中にお招きしてもかまいませんか?」
「え? あ、ああ……」
男爵は辺境伯家の騎士に荷造りを頼むことに気が引けている様子だ。
一方のエリックも「俺が令嬢の荷造りの手伝い……」と、一人称がおそらく本来のものに戻ってしまうほどには混乱しているようだった。
アメリアは前日に顔を合わせたばかりのリサと、半ば呆然とする騎士をつれて部屋へ行き、追加分の荷物をまとめていく。狼狽えていたエリックだが、持ち前の真面目さを発揮し、途中からは率先して本物の旅支度を教えてくれた。
そんなこともあり、彼女たちは予定より少し遅れてローズハート男爵領を発った。父娘の別れはあっさりしたものである。アメリアは後ろ髪を引かれることなく、馬車に乗り込んだ。
その後の道中は天候にも恵まれたこともあり、順調に進んでいる。
エリック・ハルドが無理のない行程を組んでくれたおかげで、野宿などはなく、いざという時の携帯食の出番は今のところない。街道にいくつかあった関所は、ホワイトディア辺境伯家が発行した許可証を見せればすぐに通行させてくれた。
朝に出発して日暮れ前に宿を取るといった日程で、十日。こうしてアメリアが乗る馬車は無事に辺境伯領に入ったのである。
(風と、光が変わったわ)
アメリアは馬車の窓から外を見る。男爵領はまだ秋だったが、この辺りはもう冬の匂いがしていた。
北への街道を進むにつれて空気がだんだん冷えてきていたが、辺境伯領に入った途端、気温が急激に下がった。さすがと言うべきか、馬車と並走する騎士は冷たい風など意に介さず、平然とした様子だ。
「くちゅん!」
馬車に同乗している侍女が毛布にくるまってくしゃみを漏らす。
揺れる馬車に身を任せながら、アメリアは窓の外の風景を目に焼きつける。綺麗に整備された街道と、冬の色に変わり始めた木々の対比には、妙な寒々しさを感じるが、同時に静謐な美しさがある。
少し視線を上げれば空が曇り始めていた。ひと雨きそうだ。予定とはずれてしまうが、今夜は次の村か町に泊まることになるかもしれない。
馬車の外を行くエリックと目が合った。どうやら彼も同じ結論に至ったらしい。
一行は次の町で一泊することになった。街道沿いの宿場町のため、宿はすぐ取れた。降り出した雨は夜が近づくにつれ、雨脚を強めていく。このまま明日も雨がひどければ、滞在が延びるだろう。
宿の隣に併設された食堂で夕食を摂る。肉と野菜の煮込み料理、堅焼きのパン、じゃがいもがゴロゴロ入ったサラダ、香辛料が利いたソーセージと、腹に溜まるメニューだ。
アメリアはあまり食に関心がない。飢えを満たせれば充分だと思っている。サラダのじゃがいもを口に運ぶ。見た目よりも濃い味のソースがかかっていた。
(これだけでお腹いっぱいになるわね……)
食に興味がないだけでなく、彼女は小食だ。馬車にのっているだけでは腹も空かず食が進まない。注文した料理のほとんどをエリックとリサが食べるのが、道中の日常となっていた。
食事が終わると、アメリアが宿泊する部屋に三人で集まることになった。エリックに今後の旅の道程を説明してもらうためだ。当然ドアは半分開いており、アメリアの傍にはリサが立つ。アメリアは丸いテーブルに広げられた地図に視線を落とした。
「辺境伯領に入ったので、改めて今後の道程を説明させていただきます。ひと言に辺境伯領と言っても領地は広大です。そのため領を東西南北と中央の五つに区分し、ホワイトディア家のお血筋の方が中心となって統治されております」
地図を見る。
「北は前線です。辺境伯家が有する兵の中でも精鋭と呼ばれる者たちが、日々、蛮族との戦闘に明け暮れています。辺境伯の後継者が兵を率いるのが代々のならわしで、現在常駐なさっているのは嫡男のアケルナル様です」
「一番危険な場所に嫡男がいるのですか?」
貴族の嫡男といえば、当主を除き、何をおいても守られるべき立場だ。
「辺境伯領以外ではあまりないかもしれませんが、辺境伯領には兵士、騎士、傭兵……あるいは賊まで多くの腕自慢が集まります。その頂点に君臨するのが辺境伯であり、逆を言えば、力がなければ北の王として認めらません」
アメリアにはあまりピンとこない価値観だが、納得はできた。北の人間が求めているのは強い支配者なのだろう。心酔でき、熱狂でき、生活の全てを預けられるほど屈強な王に率いてほしいのだ。
王国自体の大きな戦争は四十年前に終結した。だが、北は今でも戦地なのだ。だからこそ上の人間に求める資質も、王都とは違うのかもしれない。
ホワイトディア辺境伯領の北部には雪と氷に覆われた険しい山があり、その向こうには領地を虎視眈々と狙う蛮族がいる。山の先は辺境伯領よりもさらに寒さが厳しく、人が生きにくい土地だ。圧倒的な戦力差があるとわかっていても、蛮族は土地を奪いに来ざるを得ない。侵略を防ぎ、撃破することが次代の辺境伯に課された試練なのだろう。
「今、私たちがいるのは辺境伯領の南部地域です。ここは他領や王都との交易や商売を主としています」
「交易……あ、だから街道が整備されていて宿場町も多いんですね」
「はい。北でもっとも栄えている地域と言っても過言ではありません。西部は冷害に強い作物が開発されて以来、農耕が盛んで、ホワイトディアの食糧庫と言われています。とにかく土地が広いので、飛竜の育成、訓練をする施設があるのもそこです」
「中央には、ホワイトディア辺境伯家の居城があるのですよね?」
「ああ、ご存じでしたか」
「ええ。朝陽を浴びて輝く城――ホワイトディアの黄金城は有名です。とても美しいと聞いて、一度見てみたいと思っていました」
「そうでしたか。アメリア様もホワイトディア家の一員になられるので、今後足を運ぶ機会はいくらでもありますよ」
だといいですけど、という言葉は出てこない。辺境伯家の一員になると言われても実感は薄かった。笑顔で迎えられる可能性が低いことを思えば、あまり期待しないでおくべきだろう。
(実物を見ながら、時間をかけて描くのは難しそうね。見る機会があれば、目に焼きつけておかないと……スケッチくらいなら、できるかしら?)
アメリアはほのかな希望を抱きながら、地図を指差した。
「東部は海沿いですね」
「ええ。過去、海を越えてきた敵との交戦拠点になっていた名残りで、各地に城塞が点在しています。これから私たちが向かうのは東部の中心――城塞都市バラリオスです」
「そこに……オリオン・ホワイトディア様がいらっしゃるのですか?」
「そうです。辺境伯位を甥御――現辺境伯アークトゥルス様にお譲りになって以来、東部の責任者として常駐なさっておられます。かれこれ十五年になりますね」
「甥御、ですか? 息子ではなくて……?」
「はい。ご存じありませんでしたか?」
エリックが目を丸くした。貴族社会にまったく興味がないアメリアは知らなかったが、どうやらその辺りの事情は有名らしい。彼は「説明いたしましょうか?」と言ってくれたが、アメリアは首を横に振る。よそのお家事情に興味はなかった。
「いえ、大丈夫です。それよりも、バラリオスまではどのくらいでつきますか?」
「通常であれば三日以内には到着できるかと。ただ雨のあとの道はぬかるみます。馬車で行くとなればもう少しかかるかもしれません」
「三日……」
早くて三日後には、自分の夫になる人物と顔を合わせることになる。まだどこか他人事のように思えるのは、あまりにもことが早く進んでいるからか――それとも、他人に興味や関心がない、ある種の、人間としての欠陥が表に出てきているからか。
自問の答えは、出ない。
それからいくつかの確認をして、エリックとリサは部屋を出て行った。
ひとりになったアメリアはトランクを開け、底からスケッチブックを取り出す。男爵領を出て以来、毎晩、その日馬車から見た景色を描くのが日課になっていた。今日もまた、白い紙を黒で埋めていく。没頭して、集中すれば、彼女の頭の中から余計な思考は全て消えてくれる。宿の外で降る雨の音も、聞こえない。
夜明け近い時間まで、アメリアの部屋の明かりが消えることはなかった。
翌朝――雨はやんだ。雲間から微かに日が差している。しかしエリック・ハルドが危惧した通り、雨上がりの道はひどくぬかるんでいた。
御者が苦戦しながら馬車を走らせること四日。通常よりも一日多くかかったが、アメリアの乗る馬車は無事、城塞都市バラリオスに到着した――
「わあっ、高い外壁ですね!」
馬車の窓から見える景色にリサがはしゃいだ声を上げる。出会ったばかりの頃のリサは、緊張のせいか大人びて見えていた。しかし半月余りを一緒に過ごしているうちに、彼女は年相応の子供らしさを見せるようになった。
アメリアは少女を横目で見たあと、自身も窓の外に目を向ける。
城塞都市と言うだけあって、まず目に飛び込んでくるのは石造りの高い外壁だ。壁がぐるりと街を囲んでいて、出入りできる場所は東西南北にある四か所の門だけらしい。アメリアたちは馬車が行き交う南門から、バラリオスに入ることになった。
通行証を確認する門番はエリックの知人のようだ。彼が馬を降りて帰還を伝えると、門付近の詰所から騎士たちが出てきた。精悍で屈強そうな男ばかりだ。
外の声が聞こえてくる。視線も感じた。挨拶をすべきだろうか。だが婚姻相手とも顔を合わせていない状況で、先に臣下の騎士に挨拶をするのも順序が違う気がした。とはいえ無視をするのもどうだろう。正解がわからず困っていると、エリックが馬車の窓を隠すように間に立ちはだかった。
「興味本位で覗き見しようとするな。紹介なく声をかけるのも無礼だ」
屈強な騎士たちはエリックの注意にハッとすると、馬車から少し離れて並んだ。そして胸に手を当て、一斉に頭を下げた。アメリアは目を丸くする。北の地を守る高潔な騎士が、たかだか男爵家の娘に対して敬意を表すなんて、想像もしていなかった。
エリックが馬車の窓越しにアメリアを見る。もう、充分だ。アメリアは小さく頷く。エリックが頭を下げる騎士たちに声をかけると、彼らは顔を上げた。
止まっていた馬車が動き出す。
馬車から見える城塞都市の街並みに、リサが度々、感嘆の声を漏らした。その傍らでアメリアは口を閉じたまま、流れていくバラリオスの風景を頭の中に刻む。たくさんの商品が並ぶ市場、頑丈そうな建物、屋根は雪除けのためか傾斜がきつい。
城塞都市だった頃の名残りか、現在も北部に戦線を抱えているからか、バラリオスには武器屋や防具屋が多いようだ。市場とは別に、酒場などの飲食店、衣料品店など一般市民向けの店もある。この辺りは市民の居住区も兼ねているらしい。
そのまま奥――町の中心へ進んで行くと、建物や商店の様相が変わる。どうやらバラリオスは中心に行くほど裕福な人間が多いようで、客層に合わせた高級店が増えてきた。
となれば城塞都市の中央にいるのは――
「お嬢様、お城です! お城が近づいてきました!」
リサが声を上げた。
馬車の進む先に、高くそびえる城が見える。市街地よりも一段高くなっており、そこもまた、外壁ほど高くはないが城壁に囲まれている。
(二重の壁……軍用拠点の名残り、なのかしら)
だんだん城との距離が縮まっていく。都市全体を囲む外壁ほど高くないが、間近に迫った城壁は、馬車の中からでは天辺が見えないくらい高かった。
進んでいた馬車が止まる。どうやら正門についたらしい。エリックが馬から降りて門番に声をかけていた。今度は周りに騎士が集まることはなく、男爵家の小さな馬車は再び動き出して城壁の中に入った。
玄関まで距離があるらしい。速度を落とした馬車は長いアプローチを進んで行く。興奮を緊張が超えてしまったのか、リサはすっかり静かになっていた。
やがて――馬車が停止し、扉がノックされる。
アメリアは細く、長く、息を吐いた。自然と落ちた目線の先に、膝の上でギュッと握られている両手がある。見慣れた両手が震えていた。バラリオスの街並みを頭に刻んでいた時よりも、心拍数が上がっている。彼女は目をまたたかせた。
(わたし、緊張してる)
自身の状態に気づくのと同時に扉が開く。その音と流れ込んできた冷たい外気に、アメリアは慌てて席を立つ。扉を開けたのはエリックだった。彼が差し出した手の平に、彼女は握りこんでいた手を広げて重ねる。
震えは止まっていない。寒さのせいだと思われたのだろう。エリックに「外套を用意しましょうか?」と尋ねられ、アメリアは「大丈夫です」と答えた。
そして彼女は馬車を降り、バラリオスの地を踏んだ――
(あれは……)
体勢を整えて前を向いたアメリアは、視界に飛び込んできた人を見て、翡翠色の目を見開いた。城の前に、遠目でもわかるくらい大きく、真っ白な男がいる。服も、髪も、ヒゲも、肌も、白い。真っ白な彼は、こちらへ足を踏み出している。
後ろではリサが馬車を降りる気配がした。だがアメリアは、近づいてくる人物から目が離せない。それほどの迫力と、存在感だった。
足が長いからか、歩幅が広いからか、その人はあっと言う間にアメリアの前にやって来た。彼女の父よりもずっと年上の老人だ。老人だが……そう呼ぶには、あまりにも屈強でたくましく、雄々しい雰囲気を纏っている。
名乗られなくても、誰なのかわかった。
「そなたがアメリア嬢で相違ないか」
腹の底に響くような、低く渋い声だ。
「……はい。ローズハート男爵が長女、アメリアにございます」
片足を後ろに引き、ドレスの裾をつまんでこうべを垂れる。大きな足が視界に入った。
「ああ、そんなに畏まらずともよい。頭を上げてくれ」
本当にいいのか少しだけ迷い、彼女はおそるおそる身体を起こす。自分よりも頭ふたつ分ほど高いところにある顔を見上げる。冷たい空気の中、白と銀が混ざったような髪が光り輝いていた。
(真っ白な人……)
もみあげから顎まで繋がったヒゲも白ければ、北の地に住む人特有の透けるような肌も白い。身に纏うのは詰襟の軍服と白い毛皮のマントだ。見上げるほどの巨躯と相まって、白熊を彷彿とさせた。けれど、頭に浮かんだ白熊はすぐ別の動物へと姿を変えていく。
白色の中で、深い色味の赤――紅玉の瞳がきらめいている。生気に満ちこぼれた、爛々と燃える瞳だ。
「雪兎……」
白熊から姿を変えた愛らしい小動物が、頭の中で跳ね回る。無意識のうちに漏れた声は決して大きくなかったが、目の前にいるその人の耳には届いたようだ。
「雪兎?」
紅玉の目を丸くした彼が、首を傾げながら聞き返してくる。生きる伝説とまで言われた屈強な英雄が、小さくか弱い小動物にたとえられて喜ぶはずがない。失態に気づいたアメリアは小声で謝罪の言葉を告げた。
「ははっ、そうか、雪兎か!」
大きな白熊が肩を揺らして豪快に笑う。その反応に、彼女は安堵の息を漏らした。どうやら気分を害してはいないようだ。
彼はひとしきり笑うと、やがて赤い目を細めた。目尻に皺が寄る。
「初対面で雪兎だと言われたのは、生まれて初めてだ。ホワイトディア――白鹿の名前ですら似合わんと言われるのに、雪兎ときたか。我が花嫁殿の翡翠のまなこは、えらく奇特な世界を映すらしい」
「花嫁……やはり、あなた様が……」
「ああ。私が、恥ずかしげもなく孫ほど歳の離れた令嬢に婚姻を申し込んだ好色ジジイ、オリオン・デイヴィス・ホワイトディアだ」
彼女は目をまたたかせた。
(好色ジジイ……)
その言葉は目の前の人物とそぐわないように感じるが、人の内面など見た目からは正確に読み取れない。英雄色を好むという言葉もある。オリオン・デイヴィス・ホワイトディアは、アメリアでさえ知っている英雄だ。だとすれば、好色ジジイはあながち冗談ではないのかもしれない。
口を噤んだアメリアは、オリオンと見つめ合う。
流れた沈黙を破ったのは、前に出てきたひとりの使用人だった。きっちりと身なりを整えた老人だ。細身の体躯だが姿勢は真っ直ぐで足取りもしっかりしている。薄いレンズのモノクルをかけていて、真面目そうな雰囲気を醸し出していた。
「オリオン様、僭越ながら申し上げます」
「ん? なんだ、エリティカ」
オリオンがエリティカと呼んだ男のほうを見る。ただの使用人ではなく、近しい存在なのだろう。エリティカは呆れたと言わんばかりの目を、主人へ向けていた。
「お言葉が過ぎます。貴方様の冗談は非常にわかりにくいのです」
「何?」
「何、ではありません。お嬢様が絶句しておられます」
「おお、それはいかんな」
オリオンがハッとした様子で、アメリアへ向き直る。
「すまぬ。口が過ぎた。今のは冗談だ」
「冗談、ですか」
「主はお嬢様が緊張なさっているのではないかと思い、雰囲気を和ませようとされたのです。しかしその手のことに慣れていらっしゃる方ではありませんので、下手を打ってしまわれたご様子。どうぞ寛大なお心でお許しいただけますと幸いにございます」
恭しく頭を下げるエリティカと、気まずげに頬を掻くオリオンを順に見て、アメリアは納得した。
「そうだったのですね。お気遣いいただきありがとうございます。その……今のお言葉が冗談であるのなら、ひとつお尋ねしたいことがあります」
「ひとつと言わず、いくらでもかまわんが……尋ねたいこととは?」
「わたしを、伴侶として迎えていただく理由はなんでしょう? これまで、お目にかかったことすらないと思うのですが」
「ふむ……」
オリオンはヒゲごと顎を撫でながら頷く。
「もっともな疑問だ。道中……いや、結婚の話を聞き、疑問を抱いた時から、さぞ悩んだことであろう。それならば、きちんと答えよう。だがその前に場所を変えてもよいか?」
「あ……はい、もちろんです」
「エリティカ、温室の支度は?」
「万事整っております」
「さすが我が執事は仕事が早い」
北の英雄は太い首を動かして満足そうに頷くと、アメリアに手の平を差し出してきた。大きな手だ。自分のものとはまったく違う。長年、領地を守るために武器を取り、最前線で戦ってきた戦士の手だった。
ほんの少し、手を重ねることに躊躇いがあった。アメリアの目に映る、大きな手が、とても尊いもののように見えたからだ。
(わたしなんかが、触れてもいいのかしら?)
そう思いながらも、手を伸ばして、重ねる。馬車を降りる時から続く手の震えは、未だに止まらない。
「外は寒かろう」
「そう、ですね」
手が震える理由はそれだけではないが、そうだと思われていたほうが気が楽だ。アメリアは口の端を持ち上げて笑うが、それはひどくぎこちないものだった。
オリオンにエスコートされながら、温室へ案内してもらう。足の長さが違うのに、早足になることも、遅れることもない。彼女が無理をしなくてもいいように、オリオンは歩幅を合わせてくれていた。
温室は城内の中庭を通った先にあるらしい。辿りつくまでに、何人もの使用人や騎士とすれ違った。こうべを垂れる者たちに、オリオンは時折足を止めては、アメリアを「我が花嫁殿だ」と紹介する。紹介された使用人は皆、祝福の言葉を口にした。
使用人たちの反応が、彼女は不思議でしかたない。
オリオン・ホワイトディアとは祖父と孫ほどの年齢差もあれば、天と地ほどの家格の差もある。彼は、男爵家の小娘に過ぎないアメリアが、本来顔を見ることすら叶わないような人間だ。
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