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   序章


 アメリアはローズハート男爵家の長女として生まれた。
 ローズハート家は王国のやや北寄りに領地を持つ貴族である。特別裕福でもなければ特別貧しくもない、男爵家としては極めて平均的な力の、御家騒動や貴族同士の派閥争いとは無縁の家だった。
 ――そう、だった、だ。
 アメリアの母は子爵家から嫁いできた女性だった。両家は領地が近く、同年代の子供がおり、同じ派閥に所属している。益もないが損もない、親しい下位貴族同士の結婚だった。
 結婚して二年後、ローズハート家でよく見る赤い髪と、母の翡翠色の目を受け継いだ女児――アメリアが生まれた。
 娘だからと落胆されることはない。若い夫婦のことだ、いずれ跡取りの男の子も生まれるはず。そうすれば両親と子供たちは、歴代のローズハート家の人間と同じように、小さい領地を穏やかに治めていくだろうと、思われていた。
 しかし、アメリアの母は出産から三年後――彼女が物心ついた頃に馬車の事故で他界した。
 そして、それからまた三年後――アメリアが六歳の時、父は新しい妻を屋敷につれて来た。四歳になる、少女と共に……
 跡取りの男児がいない以上、まだ若く、貴族である父が後妻をめとるのはしかたのないことだ。問題なのは、父が後妻と共につれて来た少女の実父だった点だ。少女とアメリアの年齢差は二歳。浮気の末に生まれた庶子だというのは明白だった。
 ローズハート家には温厚な人間が多い。それはつまり、波風を立てるのを嫌う気質ということだ。アメリアの父の不貞を好意的に見る者はいなかった。だが跡取りもおらず、正妻も亡くなっている以上、再婚を反対されることはない。いくつかの小言を頂戴しただけで、後妻と異母妹は、ローズハート家の人間となった。

「ここにあんたの居場所なんてないのよ」

 けれどそれは、アメリアに家族ができたということではない。

「世界のどこにだってないでしょうね。だって、あんたは人間に興味ないんだから。誰も、自分に興味がない人となんて、一緒にいたくないわ。わかる? 人間はひとりじゃ生きていけないから、他の人間のことが気になるようにできてるの。そういう生き物なの。だから、他人に興味も感情も向けないあんたは、欠陥品よ」

 そう言った少女は――


   第一章 絵描き令嬢は北の大地を踏む


 時は流れて十四年後。アメリアは二十歳になった。
 彼女は五年前から父や義母、異母妹がいる王都を離れ、ローズハート男爵領で暮らしている。
 冷遇されて追いやられたわけではない。不貞を働いて子供を作る最低男でも、その本質は温厚でおとなしいローズハート家の気質だ。では義母に追い出されたのかといえば、そうでもない。良くも悪くも義母はアメリアに関わろうとしなかった。
 アメリアは十五歳の時、自らの意思で家を出た。貴族の子女は十六歳になる年の春、王立学園への入学が許可される。在学は任意とされるが、ほとんどの子女は学園に籍を置く。アメリアは入学せず領地へ下がることを選んだ。
 王都のタウンハウスを出て領地で暮らすと言った彼女を、父は止めなかった。
 冷遇されていたわけではないが、ついぞ家族に馴染なじむことができなかった。同じテーブルで食事を囲んでも家族の話に入れない。何か言わなければと口を開いた瞬間には沈黙が流れる。上手く交われないまま、気づけば時間だけが過ぎていた。
 関わることはできないが、アメリアは周囲の様子をよく観察する子供だった。十歳になる頃には家の事情や自分の立場をほぼ完璧かんぺきに理解しており、離れる決断をするのに迷いはなかった。
 男爵領で自由気ままに暮らすこと、五年。
 二十歳となり、結婚適齢期を逃しつつあるアメリアに、次の決断をすべき時が迫っている。

「はあ、今、なんとおっしゃいました?」

 困惑した男の声だ。
 領内にある小さな森の中――やわらかな陽光が差し込む湖の傍らで、アメリアは絵を描いていた。作業の邪魔にならないように真っ赤な髪は後ろでひとつにくくり、絵の具で汚れたエプロンを身につけている。澄んだ翡翠色の目は森が描かれたキャンバスに向けられていて、背後にいる男を映していない。
 切り株に腰を下ろした男は年かさだが、老人というには若々しい雰囲気をまとっている。そこはかとない気品を漂わせ、困惑した顔をしながらもどことなく優雅な物腰だ。

「ええ、だからね、ラファエルさんのところで雇ってもらえないかって聞いたの。そう遠くないうち……だいたい、半年以内に」
「僕の耳が耄碌もうろくしていたわけではないようですね」
「耄碌って、そんな歳でもないでしょう?」
「もう六十三ですよ。お嬢様にしてみればジジイもいいところです」
「そんな風に思ったことはないけれど、実の祖父より頼りにしているわ。だからこそ雇ってもらえないか頼んでいるのよ」

 くすくす笑いながらもアメリアの目は前を向いている。

「僕は一介の画商にすぎません」
「優秀な、画商でしょう?」
「まあ、そうですね。見る目はあると自負しています。けれど僕は店を構えているわけではありませんし、各地を放浪して買いつけをする業態です。雇用も何もありませんよ」
「その放浪に同行できないかしら?」
「男爵家のお嬢様が、ですか?」
「ええ。男爵家のお嬢様が、よ」

 軽い声音で話してはいるが、アメリアは本気だった。
 半年以内に家から除籍してもらい、平民として生きていくつもりだ。下位とはいえ、貴族の娘が平民になるのは大変だということくらい理解している。覚悟の上での願いだった。
 絵筆を動かし、パレットから絵の具を取ってキャンバスに置いていく。背後から向けられる視線が少し気になった。

(集中できていないわね)

 アメリアはひとりごちた。集中できている時は、視線はもちろん声すら聞こえない。何を考えなくても手が動き、筆がキャンバスを走った。自我や意識が希薄になり、浮上した頃には絵が仕上がっている。集中できている時は、そんな感覚だ。
 小さく息を吐き、筆とパレットを傍らの小さな台に置いた。エプロンを外しながら振り返ると、ラファエルと視線が絡んだ。

「お嬢様は何をどうして、その考えに至ったんです?」
「次の冬が終わる頃、異母妹とその婚約者が学園を卒業するの。あと九か月くらいかしらね。それまでに男爵領から離れないと。余裕をもって、半年以内には身辺を整理したいわ」
「何故アメリア様が出て行く必要があるのでしょう?」
「だって、ここはふたりが受け継ぐ領地だもの。いずれ視察にも来るでしょうし、もしかすると定住するかもしれない。そうなったら、もうここにはいられないわ」
「後継者問題ですか」
「問題にすらならない。結論は最初から出ていたの」
「この国では男児がいない場合、家督は長子相続が通例では?」
「わたしが籍を抜けば、長子は異母妹よ。そもそも、領主としての仕事や社交が、自分に向いているとは思えないもの。もっとも、身近な人間である家族とすら上手くやれなかったのよ。根本的に人と関わる才能がないの」
「おや、悲しいことをおっしゃいますね。まるで僕とお嬢様は関係を築けていないと言われているようです」

 ラファエルは、およよ……と、流れてもいない涙をぬぐう。
 お茶目な老人にアメリアは肩をすくめながらも笑みをこぼした。

「ラファエルさんは特別よ」
「特別ですか。社交辞令でも嬉しいですね」
「そんなのじゃないわ。わたしは絵を描くことしかできないけど、あなたはその絵に価値をつけてくれる。ラファエルさんがいなかったら、わたしは一ベルにもならない絵を、ただ趣味で描いているだけの小娘でしかなかったわ」

 ラファエルと出会ったのは、ローズハート領に下がってしばらくした頃のことである。その頃の彼女はキャンバスやイーゼル、絵の具、パラソルなどの道具を背負い、絵を描く場所を探して領内を歩き回る日々を送っていた。
 緑豊かな農耕地を一望できる小高い丘をひいこら言いながら登り、絵を描く支度をしていた時、ここで描かれるのですか、と声をかけられたのが最初だ。アメリアはぎこちなく返事をしてから、絵を描き始めた。
 ラファエルが後ろから見ているのには気づいていた。会話はない。アメリアは彼がすぐ立ち去ると思い、キャンバスに集中した。
 夕暮れの時間が訪れて集中が切れた頃、後ろを振り返った彼女はギョッとした。すぐいなくなると思っていたラファエルが、予想に反してその場にいたのだ。それも真剣な顔をして――
 そこからはとんとん拍子に話が進んだ。
 ラファエルは自身が画商だと告げ、アメリアの絵を専属で取り扱いたいと申し入れてきた。初対面の相手だが、彼女は自分が描いた絵を、それ以上どうすることもできない。だからラファエルの申し入れを承諾した。彼は嬉々として屋敷に眠っていたアメリアの絵を数点選ぶと、その足で男爵領を去った。
 趣味で描いていた絵だ。安く買い叩かれようが、だまされて持ち逃げされようがかまわなかった。しかしこれまた予想に反し、半年後、ラファエルは再びローズハート領へやって来た。平均的な規模の男爵家の娘が見たことないほどの、大金を持って――
 あまりに莫大な金を前にアメリアは悩んだ。どうすればいいのかわからず、結局、絵を描くのに必要な分だけを差し引いて、残りの金の管理はラファエルに任せることにした。
 潔いと言えば潔いが、不用心と言えば不用心。あっさりとその判断を下してしまうところも、自分に領主は向かないと思う要因のひとつだ。

「お嬢さんは、僕が絵に価値をつけていると思っているんですか? だとすればそれはかぶりすぎですよ」
「そんなことはないと思うけれど……」
「元々価値がないものに、価値をつけることはできません。お嬢さんの絵が売れるのは、それだけ価値のある、魅力的な作品だからです」
「ありがとう……でも雇ってはくれないの?」
「絵を描く才能や芸術への審美眼と、作品の売買を成功させる商才は、全て別のものですからねえ」

 人生の先達であるラファエルが言う意味は理解できる。だからアメリアは「それもそうね」と返し、それ以上食い下がらなかった。
 生まれてからずっと、彼女はたくさんのものを手放してきた。家族の情も、貴族の長子としての権利も、友人を作ることも……小さなものから大きなものまで、数えきれないほどに。
 そんな彼女が唯一手放せないのが、絵を描くことだ。

「画家として生きるつもりはないのですか?」
「女画家の絵は売れないわ」

 王国の芸術家は男の世界である。国立の芸術学園にも、協会にも、女性が足を踏み入れることは許されていない。

「今のように男の雅号を使えばいいだけです」
「それでも、画材は厳選できなくなる。女の画家にいい品を売ってくれる画材屋は、そう多くないでしょう? 今は貴族の令嬢の道楽だと思われているから買えるのよ」
「僕が揃えますよ。お嬢様のためですからね。いくらでも用意しましょう」
「いつまで……それができるかしら?」

 ラファエルが言葉につまったのがわかった。
 ふたりの関係は、距離は、実際の祖父と孫よりも近い。だからこそ、生きていれば避けられない現実があることを、彼女は覚悟していた。ずっと頼ってはいられない。これから先、独りになって何もできなくなる未来が、アメリアには見えている。そしてそれは、ラファエルも悟っているだろう。

んでいるのよ、わたし。性別を偽ったまま、平民の画家として生きていくことはできないわ。せいぜいあと三十年……ラファエルさん次第で、四十年くらいかしらね」
「さすがに百歳を超えるまでは生きられませんよ」
「ふふ、そうでしょう? 平民にならないで貴族のまま生きていくには、結婚して家を出るしかない。男爵家の……異母妹たちにしてみれば、穀潰ごくつぶしの居候いそうろうを置いておくほどの資産も情もないもの」
「絵の売上を渡せば納得されるのではありませんか?」
「貴族の娘が性別を偽って、画家として稼いだお金なんて、まともな貴族なら家の収入に入れたがらないわ……娘だけじゃない。妻でもダメよね。よほど寛容か、鈍感な夫や家族でない限り、嫁が絵を描いて売るなんて許してくれないわ」
「八方塞がりですね」
「ええ、そうなの」

 なんて生きにくいのだろう。もっと要領が良ければ、貴族の娘として普通に生きられたなら、良かった。あるいは絵を捨てられたなら。
 いろんなものを手放してきたのに、唯一手放せないものが、己の首を絞めている。
 こんなに生きにくいのだから、きっと自分は生きるのに向いていない。アメリアはそんな風にしか思えなかった。

「アメリア様は、どのような形を望まれているのですか? 本気で僕に雇われて、画商として生きていきたいと思われているのでしょうか?」
「それは……」

 真意を問われて改めて考える。
 自分が本当に望んでいる人生は、どんなものなのか。答えはすぐに出た。
 風が吹いて、絵の具で汚れたアメリアのエプロンがはためく。森に差し込む陽光は穏やかで、湖面に反射して輝いていた。小さな虫の、小動物の、鳥のさえずりの、光の、温度の、香りの、全てが美しい。そして――

(その全てが、愛おしい)

 アメリアは母譲りの翡翠色の目を、やわく細めた。

「わたしは、絵さえ描ければいいわ。筆を折らずに済むのなら、あとはなんでもかまわない」
「望むのは絵を描くことだけ、ですか?」
「ええ。他にはいらないわ」

 できるとも思わないし、とアメリアが清々しく笑う。
 そんなアメリアを前に、彼女よりも遥かに長い時を生きた老人は、呆れたように、あるいはまぶしいものでも見るように目を細めた。そして深く息を吐いて、切り株から立ち上がる。

「わかりました。僕がなんとかしましょう」
「雇ってくれるの?」
「いいえ、そうではありません」

 ラファエルは、そう言いおいて続けた。

「アメリア様。いずれ、どうしても断れない話がきます。何をどうしても断れない話です」
「何をどうしても?」
「はい。そんな話が近いうちにもたらされるでしょう。ですが悲観せず、それを受け入れてください」
「わかったわ」
「自分で言うのもなんですが、即答するような話ではありませんよ」
「そうかもしれないけれど、わたし、ラファエルさんのこと信じてるもの。あなたが言うなら、そうするわ」

 アメリアが微笑むと、ラファエルは一瞬固まって、口元を手でおおう。

「全幅の信頼とは、面映おもはゆいものですね」

 彼はそう言い残すと、すぐに荷物をまとめた。いつもならラファエルは領内で一泊し、アメリアの絵をいくつか持ち出す。しかしその日は何も持たずに、ローズハート領をった。
 アメリアのための行動だということくらい、彼女にもわかる。自分のために親身になって動いてくれる人間なんて、ラファエルしかいない。そんな人間を信頼しないはずがなかった。
 ラファエルを見送ると、アメリアはまだ途中だった絵に再び筆を走らせた――


 それからのアメリアの毎日に、特別な変化はなかった。
 明るいうちは絵を描き、生きるのに最低限必要な食事をし、眠る。そんな代わり映えのしない一日を何度も繰り返した。
 変化が起きたのは、最後にラファエルと会ってから三か月後のことだった――
 夏が終わり、風が涼しくなり始めた頃――アメリアの実父、レオル・ローズハート男爵が、なんの前触れもなく領地を訪れた。
 男爵は領地の差配さはいを管理人に任せている。用事や連絡は手紙で済ませるため、わざわざ遠く離れた王都から足を運んでくることはめったにない。せいぜい国法で義務付けられた三年に一度の視察で訪れるくらいだ。
 視察の周期ではないのに、先触れのない当主の帰還。何かあったのかと、屋敷は騒然とした。アメリアも絵を描きに行くのを取りやめ、管理人と共に男爵を出迎えた。
 馬車を降りてきた父の、アメリアと同じ赤色の髪が揺れる。良く言えば温厚そうな、はっきり言えば気の弱そうな顔は、心なしか青白い。
 目が合った。しかし、どちらも互いに声はかけない。
 レオルは管理人と挨拶程度の言葉を交わし、屋敷の中へ入って行った。
 アメリアは実父の猫背気味の背中を見送ったが、それからさして時間をおかず、応接室に呼び出された。意外にも、そこに管理人の姿はない。レオルひとりだけだ。父用の軽食と、ふたり分の紅茶が置かれたテーブルを挟んで座る。
 顔を合わせるのは前回の視察以来およそ二年振りだ。だがふたりが近況を語り合うこともない。男爵が重々しく口を開いた。

「お前に婚姻の申し入れがあった」
「婚約ではなく婚姻ですか?」
「ああ、そうだ。お相手は、その……」

 レオルが言いよどむ。ひたいに汗をにじませる父をかしたりしない。後妻の言いなりになっているレオルの、気の小ささは知っている。婚姻を申し入れてきた相手は、言葉をつむぐのすら気が引けるような人物なのだろう。男爵はぬるくなった紅茶を一気にあおった。そしてカップを戻し、口を開く。

「婚姻の申し入れは、北の辺境伯家――ホワイトディア家からだ」
「ホワイトディア辺境伯家……」

 王国の北部地域。
 雪と氷に覆われた極寒の大地を支配しているのが、ホワイトディア辺境伯家だ。王都から遠く離れた領地にもかかわらず、この国にホワイトディアの名を知らない者はいない。
 まず有名なのは、ホワイトディア家お抱えの飛竜騎士団だ。一小隊程度の飛竜騎士がいれば戦況は大きく変わるらしい。それを何十、何百と揃えているのは、よその領地、よその国では考えられないことだ。辺境伯家は強大な武力をもって、王国最大の領地を治めていた。
 頂点に立つのは、領地と同じホワイトディアの名を持つ一族だ。人間の域を超える実力者ばかりだと、まことしやかにささやかれている。彼らは辺境領よりもさらに北の地の勢力――蛮族が南下してくるのを決して許さない、王国の剣であり、盾だった。
 軍事力、経済力は言うまでもなく、何よりもホワイトディアの名を王国に知らしめているのは、英雄の存在だ。
 アメリアが生まれるよりも二十年以上、昔――今から四十年ほど前に、王国の南部でふたつの争いが起きた。異国の蜂起と異教徒が先導する反乱が重なったのだ。南部は農業が盛んな地域だが、軍事力はそこまで高くない。多くの兵が動員されたが、南部領主の手に負えず、鎮圧には至らなかった。
 そんな時、ホワイトディア家の次男が飛竜部隊を率いて一気に南下し、これまでの苦戦が嘘だったかのように、あっと言う間に戦争を終わらせた。しかもそれだけでなく、異国に単騎で乗り込み、敵城を半壊させて凱旋がいせんしたのだ。戦争が終わると、やがて反乱も鎮圧された。
 南部を救った青年は英雄と呼ばれるようになり、今では齢六十を超えている。それでも、彼の名声は現代の若者も知るところで、まったくかげりを見せていなかった。
 そんな辺境伯家からの婚姻の申し入れ。顔には出さなかったが、アメリアは内心動揺していた。ローズハート男爵領が地理的には王国のやや北寄りに位置しているとはいえ、辺境伯家とはなんら関わりもない。名前が知られていることすら驚きだ。

「それで、お相手は誰なのですか?」

 努めて冷静に尋ねる。

「それは、だな……先代、辺境伯様、だ……」
「……はい?」

 聞こえた単語の意味が呑み込めず、アメリアは目をまたたかせた。

「婚姻の申し入れは……先代辺境伯で、王国の英雄……オリオン・ホワイトディア様からなのだ……!」

 やけくそとばかりに父が声を張り上げる。

「オリオン・ホワイトディア様が、何故わたしに?」

 冷静に、冷静にと、彼女は内心で自分に言い聞かせた。

「私にわかるわけがないだろう! お前こそ、何か心当たりはないのか?」
「ありませんよ。何をどうすれば、国の英雄と呼ばれる北の御大と、たかが男爵家の小娘が関わりを持つと言うのですか」

 もう何年も会話のない父娘だ。しかし、不測の事態がそうさせているのか、これまでにないほど会話が弾んでいる。

「……それもそうだな……私も、ホワイトディア辺境伯家と関わったことは、ない。あの家の方々はよほどのことがなければ、自領から出ていらっしゃらないからな……」
「婚姻の申し入れの文書が偽物という可能性はないのですか?」
「……最初は私もそう思った。だが、報復を恐れず、ホワイトディア辺境伯家の印章を偽造する度胸のある者はいないだろう……」

 父の言葉はもっともだ。つまり結婚の申し入れは正真正銘、北の辺境伯家からということになる。

「先代となれば、御年は六十を超える……お前とは親子どころか、祖父と孫ほど歳が離れたお相手だ」
「生きる伝説、ですからね」
「ああ……辺境伯家直々の申し入れだ。家格が下の男爵家では断れない……が、そもそも、縁を結ぶこと自体が不敬に……くっ!」
「悩んでいらっしゃるご様子で」
他人事ひとごとのように言うんじゃない!」
「断るという選択肢がない問題なら、他人事と同じです」

 アメリアがなんでもないように言うと、実父は言葉を失った。

「申し入れが断れない以上、わたしはオリオン・ホワイトディア様に嫁ぎます」

 家格が釣り合わない、歳の差がありすぎるなど、おそらくいろいろ言われるだろう。

「北の分――半分はわたしが甘んじて引き受けます。残りの半分、王都での不評は、そちらで甘んじて受け入れてください」
「……可愛げのない、言い方だな」
「もともと、可愛いなんて思っていないでしょう?」
「そんなことは――」

 口をついて出た言葉に、父が何か言おうとした。アメリアは首を振ってそれをさえぎる。

「やめましょう。これ以上話したところで、今さら何も変わりません」

 嫌味ではなく、事実だ。アメリアは淡々と告げた。
 親子関係はこじれている。嫌い合ってもいないし、恨んだり憎み合ってもいないけれど、親子の間には感情を向け合うほどの関係がなかった。

「ところで持参金はどうしましょう?」
「先方は不要だとおっしゃっていたが、そういうわけにもいかないだろう。持参金を出さない花嫁はまともに扱われない」
「いらないと言われたのなら、本当に必要ないのだと思います。先方も取るに足らない男爵家からの持参金を期待してはいないでしょうし……そもそも、まともな扱いを受けられるほどの持参金なんて、用意できませんよね?」

 父が渋い顔をする。

「とにかく、馬車と旅費だけ準備していただければ充分です」
「付き添いの侍女はどうする?」

 領地に下がって以来、世話をしてくれている女性の顔が思い浮かんだ。彼女は来春、結婚すると話していた。冷遇されるとわかっている場所については来ないだろう。

「侍女は、大丈夫です」

 ひとりで行きます、と続けた娘に、レオル・ローズハート男爵は深く息を吐く。

「お前は……こんなにしゃべる子、だったのか」

 こぼれ落ちたかのような言葉に、返事はしない。
 静寂が訪れた応接室で――アメリアも息を吐く。それは短い溜め息のようでも、吐息交じりの笑みが漏れてしまったようでもあった。

「承諾の返事をしたら、すぐに発ちます。可能であればひと月以内には領を出たいです。冬になれば、北へ行く街道は雪で塞がれてしまうでしょうから」
「そんなに早くか……」
「準備するものも、特にはありません」

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