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四章 英雄の花嫁

61:新婚夫婦は馬車の中

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 鳴りやまない拍手の中、アメリアとオリオンの結婚式は無事に幕を下ろした。貴族などの招待客が集まる神殿の内側から、民衆が押し寄せている屋外へ出れば、祝福の大歓声に迎えられる。飛竜に跨る騎士たちが雲ひとつない空を駆け、淡い色の花弁を撒いてくれていた。

 オリオンの腕に支えられながら、横に長い石段を降りていく。

 神殿で結婚証書に署名したことで、彼女は正式にホワイトディア家に所属する人間になった。自分自身が何か変わったとは思わないが、隣を歩くオリオンの機嫌が、これまでにないほどいいことはわかる。

 石段の下には四頭立ての馬車が停まっていた。豪華で煌びやかな造りの馬車だ。アメリアがここへ来た時よりも大きいのは、屈強な体躯のオリオンが同乗するからだろう。扉が開けられるのを待って、彼にエスコートされながら乗り込んだ。

 馬車が動きはじめる。

 座り心地のいい椅子のおかげか揺れは少ない。来た時と違うのは、窓を隠していたカーテンが外されていることだ。隣に座ったオリオンは、窓の外の民衆に向けて手を振っていた。

 彼の節くれだった厚く、大きな手が左右に揺れている。外から差し込む日差しに白銀が輝いていた。

 外からオリオンを呼ぶ声に混じり「アメリアさまー!」と、彼女の名を呼ぶ声も聞こえる。まさか自分の名前を呼ばれるとは思わなかった。彼女は緑の目を丸くし、声のほう――馬車が来た道へ視線を向ける。

(ああ――)

 自分自身に変わった自覚がなくとも、周囲の見る目は変わるのだ。アメリアはすでに自分が『弱小男爵家の娘』ではなく、『英雄オリオンの妻』として認識されているのだと気付いた。

「手を振ってやってはくれぬか?」
「……え?」

 外を見たままオリオンがそう言った。

 アメリアが小さく声を漏らすと、彼がこちらを振り返る。その貌には優しげな笑みが浮かべられ、紅玉には温もりが満ちていた。

「かの者たちはそれを望んでおる。きっと喜ぶであろう」
「そうなのですか?」
「ああ――聞こえぬか? そなたの名を呼ぶ民たちの、明るく、楽しげで、希望に満ちた声が」

 耳を澄ませるまでもなく、老若男女の声が聞こえる。彼女はその声に引き寄せられるように、わずかに身を乗り出し――窓の外へ向けて手を振った。その瞬間、民衆が更に沸いた――

 いつか異母妹に言われた。人々が求めているのは『アメリア』という個人なのではなく、『英雄オリオンの妻』なのだ、と……。

 民衆のあたたかい歓声と、終わりが見えないほどの熱狂の対象は、いつかの異母妹が言っていた通り後者なのだろう。アメリアも否定せず納得していた。何も間違っていないし、それでかまわないと思っていたのだ。

 しかし、自分自身の立場が変わったことを正しく認識した今は、民衆が熱い感情を向ける先がどこか、ちゃんと見えている。

(『英雄オリオンの妻』は、わたしなのね)

 どこか他人事のように思っていたが、それではいけないのだろう。英雄の妻の肩書きも、画家としての名前も、アメリアの一部なのだ。大きすぎる肩書きも、受け入れて、飲み込んで、それに相応しい人間に成らなくてはいけない。

「オリオン様」
「ん?」
「期待されるというのは、こんなにも重いものなのですね」

 ポツリと、呟く。

「投げ出してしまいたいか?」

 返ってきたのは呟きへの答えではなく、問い掛けだった。民衆の期待も、彼の妻の肩書きも投げ出して、身軽になりたいか。その問いへの答えはすぐに出た。

「いえ。なんだか――重さのおかげで、地に足が着いたような、そんな気がします」
「――それは良かった」

 彼はそう言って、また窓の外を向く。短い言葉だったが、適当に打った相槌などでないことはわかった。心底、良かったと思ってくれているのだろう。安堵の滲んだ声だった。

 馬車が森の中を進むと、押し寄せる民衆の波は引いていく。人がまばらになってくると馬車は少し速度を上げた。

 ふたりが向かうのはメルクロニア城ではない。ロンダーク神殿からバラリオス方面へ進んだところにある、旧リュール要塞だ。

 旧リュール要塞は小規模集落――ベオナ村にある小さな山の傾斜を利用して造られた石の砦で、かつては物資運搬の中継地点として利用されていた。そこからバラリオスへ陸路で向かうには渓谷を越える必要があり、物資運搬の兵士や騎士はもちろん、旅人や傭兵が山越えの支度を整えられる重要な拠点だった。

 現在は南方に大きな道ができたことで、旧リュール要塞や準備拠点として栄えていたベオナ村に足を運ぶ者は少ない。それでも砦や村がきちんとした形で残っているのは、ホワイトディア辺境伯家が管理を村に任せ、その分の報酬を支払うという仕組みできあがっているからだ。

「あの……オリオン様」
「どうした?」
「何故わたしたちは、旧リュール要塞へ行くのですか?」
「テリーザに聞いておらぬか?」
「はい。古い砦のため、不便がないように内装を整えた、とは聞いております。あとは、オリオン様にお任せすれば、おそらく大丈夫だと言われました」

 挙式後の予定を確認していた時に、テリーザから言われたことを伝える。

 本来であれば結婚式のあとは、メルクロニア城で開かれる晩餐会に出席しなければならない。だが、すでに一線を退いた先代が、現辺境伯の居城に貴族を招集し公式的な顔合わせを行うことを、オリオンが良しとしなかった。甥のアークトゥルスは気にする必要はないと最後まで言っていたようだが、オリオンは最後まで固辞していたという。

 そのため晩餐会は主役抜きのまま、行われるらしい。アメリアとしても不満などなかった。大勢の人間にわかりやすく注目される会場に身を置き、適切な受け答えをしつつ、美味しいのは間違いないのだろうが胃に負担をかける豪勢な食事をすることなど、少なくとも今の自分にできるとは思えない。

 アメリアの言葉に、オリオンは整えられたヒゲの上から顎を撫でた。

「なるほどのう……」
「オリオン様?」
「大事な話をせねばならん」
「え?」

 真っ直ぐ向けられるオリオンの瞳から目を逸らせなくなるほど、ひしひしと真剣な気持ちが伝わってくる。アメリアは困惑したように首を傾げていたが、すぐにオリオンにつられる形で表情を引き締めた、のだが――

 ふと、空気が緩んだ。

「ああ、すまぬ。今からそう気を張らずともよい。旧リュール要塞に着いて、落ちついた場所で話そう」
「ここではできない話なのですか?」
「そうだのう。ふたりだけですべき話だ」
「はあ、そうなのですね」

 頷きながらも、アメリアは内心で首を捻る。

 馬車の中にいるのはアメリアとオリオンのふたりだけだ。外に数人の護衛騎士が帯同し、前には御者がいる。けれど馬車の壁は厚く、ふたりの会話が外へ聞こえることはないだろう。

(つまり、重要なのは、実際に聞こえるかどうかではないってこと、かしら? それだけ大事な――デリケートな話だということ……?)

 窺うように彼を見ていると、考えすぎなくてもいいとばかりに、穏やかな笑みを向けられた。そして、オリオンの大きな右手が伸びてて、膝の上にあった彼女の左手を取った。その手の薬指には、サイズこそ違うが、彼と揃いのデザインの指輪がある。

 オリオンの親指が指輪の輪郭をなぞるようにそっと動く。

「オリオン様、どうされましたか?」
「嫌か? こうして、そなたにとって大事な手に触れられるのは」
「いえ、そのようなことはありません。親しくない相手ならば、ともかく、オリオン様ですから」

 彼の大きな手に、指先が包まれた。

 触れた皮膚の硬さも、力を込めず柔く握ってくれることも、触れ合う部分に広がる熱も、すでに知っている。不快さなどまったくなく、これまでそんな風に思われるような態度を取ったこともない……と、思う。だが彼女自身の意図しないところで、彼に誤解を与えていた可能性も無きにしも非ず、だ。

 視線が絡む。

「今日、私は幸運にもそなたと夫婦となった。これからは共に、この北の地で生きてゆくこととなる。もし、そなたが許してくれるのなら――」

 それは、熱のこもった声だった。耳の奥を震わせるような低く、耳心地のいい声には、切実さが滲んでいる。真摯に目を見つめてくる紅玉の瞳と同じくらい、彼女の意識を捉えて離さない。

 彼はひと呼吸置き、言葉を続ける。

「これからは、アメリアと――その名を呼ぶ栄光をいただきたい」

 アメリアは息を呑む。

 オリオンのほうが遥かに歳上だ。身分も高く、わざわざアメリアの許可など取らなくても、それ以前に、どんな呼び方をしたってかまわない。それにも関わらず彼は、名前を呼んでもいいかと、切実に許しを請う。敬意を払い、尊重してくれている。対等以上に、見てくれている。

 胸の奥がざわついて、くすぐったい、ような気がした。アメリアの口元が綻ぶ。

「呼んで、ください。オリオン様に呼んでいただけるなら、わたし、嬉しいです」
「……ありがとう、アメリア――」

 彼が握っていた手を持ち上げて、静かに顔を近付ける。

(あ――)

 銀の指輪に、オリオンの唇がそっと触れた。神殿でアメリアの唇に重なった時のように優しい。指先に触れるヒゲの感触と、吐息――離れて行ってもまだ、左手の薬指には熱が集まっていた――

 ――アメリアが自身の薬指と、隣に座るオリオンをチラチラと順に見ている内に、馬車は旧リュール要塞へ到着した。

 山の傾斜に合わせて、一の廓、二の廓、三の廓があり、小さな山の最上部に本城がある。見目美しい要塞ではない。縦に長い塔などはなく、全体を俯瞰で見れば横に長い長方形の壁を並べて配置しているようだ。灰色の石を積んだ武骨な外観で、軍用拠点としての要塞なのだとひと目でわかる。

 渓谷の上――川に沿って建造されており、横と背後には急流が。馬車は唯一正門へ通じている幅の狭い橋を通って、中へ入って行く。馬車は一の廓から順に、小さな山を登った。

 窓の外を見る。

 緑や庭園などはないが、壁や敷かれた石に欠けた部分はなく、手入れが行き届いているようだった。オリオン曰く、ベオナ村の住人が日頃から熱心に手入れしているそうだ。

「それに加えて、今回の滞在のために改修をしておる」
「改修……? 内装を整えただけ、なのでは……?」
「ふむ……指揮を執ったのはテリーザだからのう。内装のついでに外側の改修も行ったのであろう。豊かな地である南の生まれの人間は、金の使い道に関しては、なかなか豪胆なところがある。ああ、無駄遣いや豪遊をする、という意味ではないぞ」
「はい。そのような方でないことは、存じています」
「気前がいいとでも言うのかのう。いずれ資金を投じる必要があるのなら、この機に一気に改装、改修をしてしまおうとでも考えたのやもしれぬ」
「そういえば――」

 結婚式の支度を手伝ってくれたテリーザは、金銭面の細かい事情は二の次だった。必要経費は惜しまない。腕を認めた職人を集めていることもあり、その職人の仕事に対しての報酬を値切ることも決してしない。

 豊かな地で生まれ育ったテリーザにとっては当然の価値観で、その価値観は北の地に大きな影響を及ぼしている。もちろん、いい意味での影響だ。トップの人間が潤沢な資金を使うことは、辺境伯領の経済を大きく回す。その結果、彼女が嫁いで以降のホワイトディア辺境伯領の経済は年々右肩上がりになっていた。

 ――本城の建物の入口に馬車を停め、中に入る。

 旧リュール要塞の内側は――改装されていた。

「これは……」

 テリーザは不便がないように整えたと言っていたが、おそらく、その程度の規模の投資額ではない。要塞特有の薄暗さも、湿気も感じなかった。きちんと手が入れられた旧リュール要塞の内側は、要塞としての機能を残しつつ、人が快適に過ごせるようになっている。

 そして『不便がないように』か、何人もの侍女や使用人の姿があった。今日のためにメルクロニア城から派遣されているのだろう。

「すごいです……」
「煌びやかさこそないが、厳かな雰囲気の内装になっておるのう。以前立ち寄った時よりも遥かに、人が住める場所になっている。入口でこれだ。部屋はさらに手が入れられておろう」
「確かに、豪胆な方のようですね」

 と、アメリアは小さな笑み混じりに漏らした。

 旧リュール要塞の内部を忙しく観察していた彼女は、馬車の中でオリオンと話していたことを、すっかりと思考の端へ追いやってしまっている。それを思い出すのは、これから数時間後、夕食を終え、侍女たちの手で身体を磨き上げられ、夫婦の寝室へ案内された時のこと、だった―― 



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