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四章 英雄の花嫁
60:結婚式②:Sideオリオン
しおりを挟むああ、と――
思わず、オリオンの口から感嘆の声が漏れた。
彼の傍にいるアイザイア大司教にはそれが聞こえたのだろう。慈愛に溢れた笑みを深める。同じ戦乱の時代を生き抜いた北の英雄と、エスコートされながら伴侶の元へ一歩ずつ歩いてくる若い花嫁を見つめていた。
気配を察知するのに長けたオリオンは、当然、大司教から向けられる視線に気付いている。けれどそちらへ意識を割くことはなかった。惜しんだのだ。彼女をエスコートする旧友のティグルスの姿も目に入らない。今はただ、ゆっくりと、それでも確かに近付いてくる伴侶の姿を、目に焼き付けておきたかった。
彼女のドレスは、肌の露出が少ない伝統的な花嫁衣装の形を踏襲している。だがしかし、純白のドレスに重ねられた、金糸を編んだ薄布の、なんと軽やかで美しいことか。純白の生地と金糸はそれぞれ光を集めて反射させ、彼女が一歩を踏み出す度に違う輝きを放つようになっている。
壁が吹き抜けの神殿だ。薄衣は風に揺れ、自由に形を変える。自由で、軽やかで、視界に入れてしまえば目が離せなくなる眩い光の乱反射は、まるで彼女が描く絵のようだった。
目を惹く赤い髪は緩く編み込まれ、大きさの違う白の花々が飾られている。燃えるような赤なのに苛烈な印象がまったくないのは、本人の穏やかな性格や、あちらの世界と行き来する性質の表れなのかもしれない。
歩く練習はしていたようだが、踵の高い靴は慣れないのだろう。足取りは普段よりも遥かにゆっくりで、少しだけ――じれったい。そんなことを考えている自分に気付き、オリオンは内心で苦笑した。
(私もまだまだ達観しきれぬか)
駆け寄って手を差し伸べたい気持ちを抑え、彼女が辿り着くのを待つ。表情を見る限り、彼女に緊張した様子はない。普段よりも念入りに化粧をしているからか、少し大人びた貌に見える。
彼女の美しい緑の目が、真っ直ぐオリオンへ向けられていた。視線が絡み、彼女の口元がほんのわずかに緩む。己は彼女の視界に入っており、意識の範疇にいる。それを意外だと思ってしまったのは、もしかすると女神像や神殿内部の精巧な造りに、彼女の意識が持っていかれるかもしれないと考えていたからだ。
だがそれも、杞憂だった。
オリオンは手を差し出す。彼の元まで辿りついた彼女は、ティグルスの腕から手を離し、差し出されたオリオンの手を取った。そしてふたりは腕を組み、女神と大司教が待つ祭壇の前へ進んだ。
ふたりの足が止まると、神殿に属する聖歌隊が女神に捧げる歌を歌いはじめた。高らかに伸びる歌声を聞きながら、隣に立つ彼女へ顔を向ける。同じタイミングで彼女もオリオンのほうを向いた。彼女の目には、年甲斐もなく浮かれた貌を隠せない、オリオン=デイヴィス=ホワイトディアの姿が映っている。
色付いた彼女の唇が薄く開いた。
「お待たせしました。オリオン様」
彼女を見下ろし、オリオンは柔く目を細める。
「ああ、本当に。私はこの時を長く待っていたのやもしれぬ……綺麗だ――アメリア嬢」
アメリアの緑の目がまたたいた。そして彼女が小さく微笑む。
「オリオン様も綺麗です」
「ほう、綺麗とな?」
「はい。とても」
思いがけない言葉に、オリオンは小さく首を傾げた。凛々しい、雄々しいと称されることはあっても、己自身が『綺麗』という言葉で誉めそやされる相貌でないことはわかっている。
咄嗟に出た言葉かと思ったが、よくよく考えてみれば、目の前にいる彼女はオリオンをつかまえて『雪兎』と言ってのける人間だ。『綺麗』という言葉も素直に受け取っていいのかもしれない。彼女の感性は常人の理解が及ぶものではないのだ。
微笑を浮かべて見上げてくるアメリアから目を逸らすのが惜しい。大司教が『早くこちらを向いてください』とばかりに視線を送ってこなければ、このままもうしばらく見つめ返していたことだろう。
オリオンはアメリアと共に前を――大司教と、彼の奥で盾を持ち剣を掲げる女神像のほうを向く。この場所へはもう何度も足を運んだ。結婚式に関しても、一族の人間の挙式に参列したことは一度や二度ではない。だが当事者となった今日は、過去のどの時よりも胸が熱くなっている。
若かりし時分、まだ戦場にいた頃――女神に些少の幸運を与えてくれと願い、死者の冥福を祈り、勝利を誓った時、オリオンの胸は熱く燃えていた。その当時と同じくらい、彼の胸は熱くなり、鼓動は高まり――石像の女神が輝いて見えた。
「汝――」
聖歌隊の歌が止まり、大司教が口を開く。
長い時間をかけて大司教の座まで上り詰めた人物だ。オリオン自身より小さな体躯の男だが威圧感とはまた違う威厳があり、不思議と敬意を払わなければという気にさせられる。張り上げているわけでもないのに、大司教アイザイアの声は吹き抜けの神殿に響き渡った。
人智を越えた存在への畏敬の念を込めた祈りと、大いなる恵みへの感謝と、結ばれるふたりの女神への誓約が、朗々と紡がれていく。隣の彼女は大司教の奥の女神を見つめているようだ。彼女の目には、あの女神がどのように映っているのか……気になって知りたいと思い、同じものを見たいと願う。
(このような気持ちを抱くとは、思ってもおらなんだ)
最初は恩ある旧友の頼みを引き受けただけだった。天賦の画才を持つアメリアが、何ものにも阻害されず絵を描いて生きられるよう自由と安寧を護り、後顧の憂いを抱かずに済むために、彼女だけの騎士になってくれと――旧友のティグルス=メザーフィールドに言われた。
(すまぬな、ティグルス)
神殿の麓から彼女をエスコートしてきた旧友に胸の中で謝る。彼に頼まれた騎士ではなく、本当の意味で彼女を伴侶とし、本当の意味で彼女の伴侶になりたくなってしまった。その想いをティグルスが聞けば、彼はさぞかしへそを曲げることだろう。
王国の英雄と呼び名が高く、先代とはいえ辺境伯の肩書きを持っていたオリオン=ホワイトディアに嫁ぐのが、小さな所領の男爵家の娘だと、この結婚式を機に王国側の貴族たちも広く知ることになる。口さがない連中もいるだろう。そういった連中を牽制するための『メザーフィールド侯爵家』の名前だった。
男爵家の令嬢をエスコートしていた老人は、メザーフィールド家の紋章をつけていた――と、少し調べればわかるように、彼は数十年振りに生まれ育った家の紋を身につけた。
ティグルス=メザーフィールドは若かりし頃に、オリオンとの友情のために家を出て、円満にではあるが侯爵家から勘当された身の上だ。かろうじてメザーフィールドを名乗ることを許されていたが、その名を使わずとも、ティグルスは特に不自由なく辺境領で生きてきた。
十五年前、オリオンが辺境伯の爵位を甥に譲渡したのを機に、彼も共に辺境伯家の内政を執り行う立場から一線を退き、名前を『ラファエル』を変えた。その後は画商として新たな人生を送っている。
すでにメザーフィールド侯爵家は二度の代替わりをしていた。現在の当主はティグルスの兄の子である。ティグルスは今回のために甥に頭を下げに行ったらしい。円満にとはいえ勘当された身の上だ。名前を使わせてほしいなど、図々しく、無粋で、美意識に欠けた不義理な頼みは、普通であれば口が裂けても言えはしない。
(相手の裏をかいて翻弄し、相手に敵だと認識されることなく制し、暗躍するのが十八番だった男が、正面切って頭を下げに行くとはな……)
彼も己も、歳を重ねて変わったのか。
それとも――彼女との出会いが変えたのか。
答えを女神に尋ねてみたい気もしたが、すぐにその気も失せた。答えは神から与えられるものではなく、自分自身で導かなければならないのだ。そうでなければ納得することができない。オリオン=ホワイトディアはそういう性分の男だった。
思考を巡らせている間に式は進んでいく。
「新郎オリオン=デイヴィス=ホワイトディア、あなたはアメリア=フォルトス=ローズハートを妻とし、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
アイザイア大司教が誓約の言葉を口にする。これまでのように朗々と響き渡るものではなく、目の前にいるオリオンと向き合い、語りかけているかのような声だった。
「はい、誓います」
オリオンは堂々と、凛とした姿で答えた。
「新婦アメリア=フォルトス=ローズハート、あなたは――」
オリオンに向けられたものと同じ誓約の言葉を、アメリアも静かな空気を纏って聞いている。誓いますか、と尋ねられた彼女は――
「はい、誓います」
深緑の煌めく瞳で真っ直ぐに前を見据えながら、迷う素振りを微塵も見せずにそう言った。耳心地のいい、落ちついた声音だ。決して大きな声ではなかったが、神殿の前のほうに座っている者たちには届いただろう。
アイザイア大司教はふたりの答えを聞いて笑みを深めた。そこへ、先日紹介された若い司祭が指輪を持って歩み寄る。大小ふたつの指輪だ。大司教は再び朗々とした声で祝詞を紡ぎ、指輪に祝福を与えた。
大司教の祝福が終わると、再び聖歌隊の澄んだ歌声が響きはじめる。若い司祭がオリオンたちの元へ指輪を運んでくると、彼はふたつ並んでいる内の小さいほうの指輪を手に取った。そのままアメリアのほうへ身体を向けると、そっと、白い手が差し出される。
(この小さな手が、今後数百年の歴史に残るであろう作品を生み出し続けるのか)
オリオンは彼女の手を取り、薬指に指輪を贈った。
偉大な画家になる女性の手に、己との繋がりの証が煌めくのは、妙な心地の充足感がある。彼女が生きるもうひとつの世界と、彼女が共に生きてくれるこちらの世界を繋ぐひとつになってくれればと、オリオンは切に願った。
アメリアが残る大きいほうの指輪を手に取る。オリオンが左手を差し出せば、彼女は慎重に指輪を薬指に贈ってくれた。聖なる歌がやまない中、ふたりは指輪を贈り、互いに見つめ合う。深く、美しい緑に、飲み込まれしまいそうだ。
オリオンは小さく吐息を漏らすと、彼女の肩に触れた。彼の大きな手の中にすっぽり収まってしまうほど線が細く、少し力を込めれば折れかねない頼りなさだ。
(誓いの口付け――)
彼は緑の目を見つめながら、ゆっくりと身体を折っていく。結婚式の流れはアメリアの頭にも入っているだろう。彼女は口付けを受け入れるためにか、顔をわずかに上向かせた。これまでにないほどふたりの顔が近付いた。互いの息遣いすらわかる距離で――オリオンは小さく笑みをこぼす。
「アメリア嬢」
聖歌隊の歌声を背に、低い声で囁く。
「口付けの時は目を閉じるものだぞ」
「ぁ……」
彼女が小さく声を漏らす。
「――すみません。オリオン様の……」
「ん?」
「紅玉の瞳が、美しかったもので――」
見入ってしまっていました、と――アメリアは小さな声で返し、長い睫毛を震わせながら目蓋を下ろした。
それがどれほどの口説き文句か、彼女は知らないのだろう。オリオンは笑みを深めた。四十以上も歳が離れた女性に翻弄されつつある。ついこの間までの己は、そんなこと想像もしていなかった。不思議な気分だ。だがそれは、決して不快な感情ではない。
アメリアが薄い腹の前で手を組んで目を閉じている。彼女の唇は色付き、ふっくらとしている――オリオンは、ゆっくりと自身の唇を重ねた。触れた瞬間、彼女の身体がぴくりと反応したのがわかる。初めての口付けなのだろう。触れ合う唇には熱が集まっていた。
誓いの言葉を封じるために行うとされる口付けという行為は、時間にすればたった数秒のことだ。けれど――唇が離れて、目を開けた時のアメリアの顔はこれまでに見たことがないくらいに愛らしく、そして――オリオンの記憶に焼きつくほど、熱のこもった表情を浮かべていた。
離れていくのが、惜しい。
そう思うが、時は止まってはくれないのだ。オリオンとアメリアは結婚式の進行予定の通りに、結婚証書にそれぞれ自身の名前を記入した。署名された羊皮紙を確認して、大司教が声を響かせる。
「この時をもちまして、おふたりは結婚の絆によって結ばれました。皆様、おふたりを女神様が慈しみ、深く守り、力を与えてくださるよう、祈りましょう」
アイザイア大司教の言葉が終わるが早いか、盛大な拍手がロンダーク神殿に鳴り響いた。後ろを振り返ると、オリオンはアメリアに腕を差し出す。曲げた肘に指輪が光る彼女の手が添えられた。
鳴りやまない拍手の中、神殿の外で大きな歓声が挙がる。神殿内で起きたことが外にまで伝わったのだ。楽団が明るい音楽を奏でているのが聞こえてきた。幾本もの太い柱の向こうでは、竜騎士が隊列を組んで飛行するのが見える。空から花が撒かれ、飛竜の翼のはためきが、春一番を思わせる気持ちのいい風を巻き起こしていた。
盛大な祝福の波を感じる。隣にいる彼女も感じているのだろう。オリオンの腕を掴む手に、ぎゅっと力が入っている。
命を脅かすほどに寒さの厳しい冬が終わり、北の領地に緑が芽吹き、あたたかい日差しが降り注ぐようになった、その季節――年齢も、身分も、生きてきた環境も、何もかもが違うオリオンとアメリアの結婚は、多くの人々の祝福の中、成ったのだった――。
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