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四章 英雄の花嫁

58:歩調と歩幅

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 アメリアがドレスの裾を軽く持ち、息を切らしながら駆け寄ると『穴あきの塔』の下にいたオリオン=ホワイトディアは目を丸くした。傍にいた白竜のクィーンも宝石のような目を彼女へ向けている。

 オリオンの元へ行く。絵を描く約束をしていたため、彼の近くにはイーゼルやキャンバス、絵を描く道具が入った鞄が置かれている。しかしアメリアの目は、彼の姿だけを映していた。

「アメリア嬢、どうしたのだ? 何があった?」
「っ、いえ、は……っ、その……っはぁ……」

 上手く喋れなかった。心臓はこれまでに経験したことがないくらいバクバクと早鐘を打ち、呼吸もままならない。血が沸騰しているのか身体が熱く、アメリアは少し俯いて胸元を押さえながら、肩を大きく上下させていた。

 彼が足を踏み出し、アメリアの正面に立つ。

「まずはゆっくりと深く息を吐きなさい」
「は、い……っ……」
「身体を起こせるなら起こしたほうがよい。胸郭を開いた状態のほうが呼吸がしやすくなる」

 オリオンに言われたとおり、俯かせていた顔を上げて呼吸を整えていく。背の高い彼は身体を折るように前屈みになり、アメリアの顔を覗き込んでいた。オリオンは心配そうな表情を浮かべている。

(走ると、こんな風になるのね)

 初めての経験だ。名ばかりの貴族で力のない弱小男爵家の娘だが、腐っても貴族、忙しく走るようなことはしない。子供の頃も外を駆け回る活発な少女ではなく、結果として、初めての走った直後の呼吸困難、体温上昇、手足の震えを体感している。

 不快な症状のはずなのに嫌な気分でないのは、何故だろう。もしかすると、目の前に心配そうな顔をしてくれる人がいるからかもしれない。正面にある紅玉の瞳に、自分の姿が映っていた。もしも今、呼吸が苦しくなくて余裕があれば、彼女の口元には笑みが浮かんでいたことだろう。

 ともあれ、呼吸の乱れにも飛び出しそうな心臓にも慣れていないアメリアだ。彼女が呼吸を整えて普段の状態に戻るまで、しばらく時間を要した――

 やがてだんだんと呼吸が落ちついてきて、上下していた肩が動かなくなる。アメリアは最後に小さく息を吐き「もう大丈夫です」と告げた。

「そうか。良かった」

 オリオンがひとまず安心したようにゆるく目を細める。

「して、どうした? もしや走って来るほど早く絵を描きたかったのか?」
「あ……いいえ、そうではないのです。ただ――お会いしたくて」
「ん?」

 太い首を傾げたオリオンを見つめたまま、アメリアは再び口を開く。

「オリオン様にお会いしたくて、気付いたら、走っていました」

 日暮れの時間はもう終わり、夜が訪れている。薄暗くなりはじめた世界の中で、アメリアの澄んだ緑の目は、オリオンの姿をはっきりとらえていた。彼が微かに目を見開いて、短く「ほう」と漏らす。

 アメリアは意外そうな顔をするオリオンを前に、笑みをこぼした。

『あんたなんて、幸せになんかなれないんだから!』

 ついさっき、異母妹に言われた言葉を思い出す。

 けれど、アメリアはそもそも、幸せになりたいとは思っていなかった。好きなことを――絵を描き続けることができるのなら、幸不幸の問題ではなく、それだけで十分だった。そのために当時もっとも信じていた人に縁を繋げてもらい、そのために結婚すると決めたのだ。

 絵を描く以外は何もできない人間なのに、結婚してまで手を貸してくれる相手に、ただただ恩を感じていた。何も返せないから、せめて邪魔にならないように、息を殺して過ごそうと考えていた――それなのに。

 今では、相手を――オリオン=ホワイトディアを大事にしたいと思っている。たった六か月と少しの間に自分自身の考え方がここまで変化するなんて、想像だにしていなかった。

 透けた夜色のベールが世界を覆う。アメリアがじっと見つめる彼の白銀にも、薄暗い陰が落ちていた。それでもなお輝いて見えるのはどうしてだろう。

 オリオンが柔く微笑んだ。

「ありがとう、アメリア嬢」
「何故、オリオン様が、お礼をおっしゃられるのですか?」
「そう不思議がることではあるまい。息を切らしてまで会いたいと思うてもらえるのは、光栄なことだ」
「光栄……?」

 アメリアが首を捻ると、彼が呵々と笑った。

「それだけ喜んでいるのだ。他の誰でもなく、そなたの目の前にいる私が嬉しいと思うておる」

 オリオンの言葉に、アメリアはますます首を捻る。会えて喜んでいるのも、嬉しいのも、彼のほうではなく――

「のう、アメリア嬢。今日これから、そなたが絵を描くはずだった時間を、少々私に融通してはもらえぬだろうか?」

 そう言いながら差し出された大きな手。節くれだった指は長い。長年武器を握っていた厚い手の平の固い感触も、もうアメリアは知っている。

 絵を描く時間が減る――そう理解した上で、彼女は躊躇いなくオリオンの手に、自身の手を重ねた。

「――はい。喜んで」
「良かった。では参ろうか」
「どちらへ、行くのですか?」

 重なった手を引かれ、白竜のクィーンのほうへ進む。隣を歩くオリオンを見上げれば、彼もアメリアのほうを見ていた。

「朝焼けのメルクロニアも良い景色だが、夜のメルクロニアもなかなか見応えのある景色なのだ。そなたにも見てほしいと思い、こうして誘ってしまうほどにな」
「それは、きっと美しいのでしょうね」

 胸が高鳴るのは、これから目にするものへの期待か、それ以外の理由か。本人にも答えはわからないまま、けれど確かに、アメリアの鼓動は早まっていた――

 ――白の女王が夜空を駆る。

 アメリアは彼女の背に跨り、後ろに座すオリオンに抱き支えられていた。クィーンの背にはイーゼルやキャンバス、絵を描く道具が入った鞄が積まれているが、今のところそれを使う予定はない。

 青、黄、白――星がまたたいている。大きい星も、小さな星も、流れる川面のような星の群れも、普段より近くに感じた。それでもやはり、飛竜の背から見上げても夜空は高く、果ては見えない。

 速度は出ていなかったが、頬を打つ風は冷たく、澄んでいる。

 目線を少し下げれば、人間の営みが灯りという形になって表れていた。距離があるため、ひとつひとつの家の姿は定かでない。窓越しに漏れている灯りは、輪郭がぼやけた円形で、まるで地上でまたたく星のようだった。

(オリオン様のおっしゃられたとおり、夜のメルクロニアの景色も美しいわ)

 また目線を動かして手元を見る。艶めく白銀の鱗が、空から差す月と星の明かりを反射させて輝いていた。太陽の下でも、月光の下でも、女王は美しい。彼女の力強い羽ばたきの音を聞きながら、アメリアは後ろの彼に身体を預けていた――

 ――白竜のクィーンが、毎朝メルクロニアの黄金城を描いている崖の上に降り立った。オリオンに女王の背から下ろしてもらい、アメリアは地面に足を着く。久しぶりに長い時間を飛んでいたからか、足が浮ついているような感覚だ。しばらくじっとしていれば、足の不思議な感覚も治まってくる。

 アメリアはいつもの場所に立ち、眼下に広がる景色を眺めた。

「冷えてはおらぬか?」
「はい。大丈夫です。それよりも……綺麗ですね」
「うむ。昼間とはまた違う顔を見せてくれる。こうして灯りを目の当たりにすれば、人の営みが目に見えてわかるものだ」
「人の営み……この時間に、あの灯りの中に共にいるのは家族でしょうか?」
「家族、あるいは恋人、友人、仕事仲間――ひと言では言い表せぬのう。人の関係の形はさまざまだ」

 隣に立つオリオンを見上げる。

 彼は、人間の関係性を羅列しながら、いろんな人の顔が頭に浮かんでいるのかもしれない。アメリアがそう考えてしまうほど、メルクロニアの町並みを見下ろすオリオンの横顔は優しく、誇らしげな顔をしていた。

「オリオン様」
「ん?」
「今、お挙げになったものは、オリオン様にとって大切なものですか?」

 前を向いていた彼がアメリアを見る。オリオンが問いの答えを述べるために口を開く前に、彼女は言葉を続けた。

「わたしは、そのほとんどの関係がよくわかりません。仕事仲間というのは、おそらく、ラファエルさんとの関係が近いような気がするのですが……それも、どことなくしっくりこないような、気がして……」
「ああ。私の見たところ、そなたたちの関係はただの仕事仲間でくくるのは、いささか寂しい気がするのう。あやつもそれを聞けば拗ねかねん」
「拗ねる……ラファエルさんが拗ねますか?」
「間違いなく、拗ねるであろうな」

 顔を見合わせたふたりは、どちらからともなく小さな笑みをこぼす。アメリアの頭には、拗ねていじけた顔のラファエルが浮かんでいた。そしてそれはおそらくオリオンも同じだろう。

 アメリアが口元を隠しながらくすくす笑っていると、彼が穏やかな顔のまま笑みを深めた。目尻に寄った皺が優しげで、向けられる目はあたたかい。

「のう、アメリア嬢。人と人との関係にしっくりとくる名をつけるというのは、そなたでなくとも難しいことなのだぞ」
「……え?」

 彼女の控え目な笑い声が止まる。

「関係は変わるからのう。恋人が夫婦となることもあれば、夫婦が他人に戻ることもある。友人と決別することもあれば、その逆に、他人が友人となることもあろう。自然と移ろい、変化してゆくものなのだ」
「それは……恐ろしい、ものですね」

 視線がゆっくり下へ落ちていく。ポツリと、ついこぼれてしまったアメリアの声は小さかった。

「――恐れるのは、変化か?」

 近い距離だ。小さな声もしっかり拾われる。オリオンの顔を真っ直ぐ見れず、アメリアは視線を下げたまま――頷く。

「わたしが変わることで、わたしの絵も変わってしまったら……見える世界が変わってしまったら……そう思うと、胸の奥が、冷たくなります。わたしは、絵を描くことしかできないのに、それさえできなくなったら――」
「アメリア嬢」

 名前を呼ばれた。

 けれど、顔を上げることができない。

「アメリア嬢」

 不安で冷たくなる胸に響く、低く、あたたかい声。アメリアが知る誰よりも、オリオンが呼んでくれる『名前』が心地いい。それは彼が優しく、壊れやすいものに触れるかのように丁寧に、大事に、呼んでくれていると思えるからだ。

 もう一度、名前を呼ばれた。

 アメリアは、ゆるゆると顔を上げる。

 オリオンは、不安がることなどないとでも言うように、微笑んでいた。

「そなたの変化が、そなたの絵にどれだけ影響するのか、それは文字通り――神のみぞ知ることであろう。アメリア嬢が心配するように変わってしまうのかもしれぬ。だが、一方で変わらぬのかもしれぬ。例え変わったとして、悪いほうへ変わるのか、良いほうへ変わるのか、それもわからぬ」

 彼女に少しでも伝わるようにか、彼はゆっくりとした速度で、言葉を区切りながら少しずつ、紡いでいく。

「恐れるのは当然だ。己自身がどうなってしまうのか、先の見えない中で進もうというのは、酷く不安にもなろう。けれどのう――厳しいことを言えば、そなたもう引き返せぬのであろう?」

 ――引き返す。

 それはもうできない。男爵領で絵を描く生活が送れなくなると悟り、どうしようもなくなって、流されるように前へ進み、ここまできた。そして、覚悟を決めた。

(すぐに揺れてしまうけれど、それでも――)

 決めたのだ――

「戻れぬのなら、進むしかない。その場で立ち止まり、考えることも時には必要だ。しかしずっと立ち止まっていることはできぬ。何故かわかるか?」
「……時は、流れ続けるから、です」
「そうだのう。時は止まらぬ。そして……人間は前へ進むことができる生き物だからだ。挫けても立ち上がり、傷付いても立ち上がり、迷いで足が止まっても、一歩を踏み出す力を備え持っている」
「それは――」

 わたしにも、あるのでしょうか。

 不安に揺れた、吐息に掻き消されてしまいそうなほど、微かな声。そんな音にならない震えた声でも、やはり彼は――拾ってくれるのだ。

「ある」

 オリオンは言い切った。

 そこにはなんの躊躇もない。言葉は短くとも、強い響きの肯定に、アメリアはぐっと歯を食いしばる。そうしていなければ、身体の内側で騒ぐ感情の渦が流れ出してしまいそうだった。

「踏み出す力をそなたも持っている。しかしそれでもなお恐怖で足がすくむのであれば、私が手を引き共にゆこう」
「ぁ――」
「老いたジジイの歩みだが、震えながらも懸命に進む歩みとであれば、歩調が合うとは思わぬか?」

 冗談めかした言い方も、優しくて、身体の力が抜けていく。食いしばっていた顎の力も抜けて、アメリアは微かな吐息を漏らす。

「……揺れて、止まって、恐れて……きっと、遅い歩みになるのに……わたしと一緒に、行ってくださるの、ですか……?」
「それが夫婦というものであろう?」

 初めての関係ゆえ検証はこれからだが――と、笑うオリオンを見て、アメリアは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。それは先ほどまで胸の奥を冷たくしていた恐怖や不安とは、まったく別のものだ。

「アメリア嬢、そなたが恐れているような変化が訪れてしまった時は、私も持てるもの全てを使って力を尽くすと誓おう」
「――っ、はい……」
「そして、どうか覚えておいてほしい。そなたは、絵を描くことができなくなれば何も残らぬと思っているようだが――もしその時がきても、そこには私がいる。それだけは決して忘れてくれるな」

 覚えておいてほしい、決して忘れてくれるな、と――熱のこもった懇願を、アメリアに払いのけることなどできない――否。そんなこと、したくはなかった。彼女は頷き、もう一度、頷き――

「お約束、します」

 震える声で、誓う。

 目蓋の裏が熱くなる。鼻の奥がツンとして、込み上げてくる感情を抑えておくことができない。指の先が震える。最後にこぼしたのは、もういつだったかも、覚えていない。

 彼女の白くまろい頬に伝うそれを、彼の少しかさついた、太く、硬い指が――そっと拭った――




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