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四章 英雄の花嫁

56:甥の気持ち

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 オリオンをひとりにしてくれるな。

 疎外感を味合わせるな、と――

 美しい琥珀を持つ、年下の第四王子に頼まれた。殿下の頼みを男爵家の娘が断ることなどできない。しかしアメリアは即答できなかった。何故なら彼女に、これまでオリオンを阻害していたという意識が微塵もないからだ。そのためすぐに返事が出てこなかった。

 何も言わないまま明るい琥珀を見つめていると――軽やかな声がアメリアとデンホルムの名前を呼んだ。眩しい金色が近付いてくる。辺境伯に呼ばれて席を外していたミモザがふたりの元へ戻って来た。ガゼボを離れて竜舎へ移動したが、辺境伯家の従者は同行している。居場所はすぐにわかったのだろう。

「ふたりでベティに会いに来ていたのね。ふふふ、アメリアとデンホルム様がすっかり打ち解けたみたいで嬉しいわ!」

 デンホルムへの答えに窮した返事は、天真爛漫な笑顔を見せる北の姫を前にうやむやになった。第四王子の明るい琥珀は、金色の彼女が近付いて来ている時からずっとそちらに釘付けだ。きらりと。琥珀の輝きが増している。

 ミモザはニコニコ笑いながらデンホルムに寄り添っていた。貴族としてはしたなくない程度の距離を保っているが、ふたりの雰囲気のせいか距離はもっと近く見える。アメリアは高貴な少年少女を一歩引いて眺めた。

 オリオンとの婚約式のあと、バラリオス城を訪れたミモザとふたり、寝室で話したことを思い出す――

『向こうは、政略結婚だって思っているかもしれない。でも、そんなことないって、今伝えているところなの』
『今ですか?』
『学園に通っていらっしゃるわ。同じ歳なのよ!』
『なるほど……』
『これから、婚約者として……いずれは妻として、彼と愛を育んでいくわ。そうすれば、北や南と、王家の関係も今よりずっと良くなると思うの。良くならなくても、少なくとも、争いが起きたりしないでしょう?』
『両家に可愛がられているから、ですね?』
『ふふふ、ええ、そうよ! 北、王家、南のラインが安定すれば、国は平和だわ。たくさんの人がそれを望んでいるでしょう?』

 ――あの時のミモザの顔は優しく、柔らかい表情を浮かべていた。頬や目元を赤く染めて、婚約者のことが大好きで、大好きで、たまらないと、そう言いたげな顔だった。

 彼女は自分の気持ちが一方的なものだと言っていたが、見る限り、そうでもなさそうだ。アメリアは自分が気持ちの機微に疎く、恋愛感情なんてものを正しく理解できていないという自覚がある。

 だが、明るい琥珀の輝きが増したこと、短い黒髪の隙間から見える第四王子の耳が赤くなったこと、それから――ふたりが互いを見つめる瞳の温度が同じなのは、きっとそういうことなのだろう。

 春の陽光が差す。若いふたりは、飛竜たちに見守られているかのようだ。暖かい風に合わせて翼をはためかせる竜がいる。

 ミモザの緩く波打つ金の髪が踊り、彼女は照れくさそうに手で押さえた。風が運んだ花弁が金糸に絡む。それに気付いたデンホルムが手を伸ばし――何かに耐えるようにぐっと手の平を握り締めた。婚約者とはいえ、令嬢の身体にむやみに触れてはいけないと自制したのだろう。

 初々しく、微笑ましい光景だ。

 深い緑の目は、年下の少年少女の姿を鮮明に映していた――と、その時、背後からアメリアを呼ぶ声がした。振り返ればホワイトディア辺境伯家の年かさの侍従が立っており、優雅に頭を下げている。

 そして、思いもよらない言葉を告げてきた。

「辺境伯様がお話をしたいと申しております」
「わたしとですか?」
「はい。叶うことなら、ふたりきりでとのことです」
「……はい?」

 アメリアは小首を傾げる。

 辺境伯の妻であるテリーザとは何度も顔を合わせているが、辺境伯のアークトゥルスとふたりで対面したことはない。世話になっている上に、辺境伯の頂点の人物、そして何よりオリオンの甥だ。断ろうという気は最初からなかったが、なんの話だろうと困惑せずにいられなかった。

 アメリアはずっと見つめ合っているミモザとデンホルムへの言伝を使用人に託し、侍従のあとに続いてアークトゥルスが待つ場所へ向かう。

 案内されたのは辺境伯の執務室だった。

(わたしが入っていい場所だとは思えないけれど……)

 大事な情報だけでなく、秘匿すべき情報もあるはずだ。大貴族の当主と趣味嗜好を探られないために、書架の本一冊にまで気を遣うという。それにも関わらず、情報の宝庫と言える執務室に足を踏み入れることになるとは思わなかった。

 広い執務室の中には書類の山ができた机があり、どうしてか大きな窓が全て、木の板で塞がれている。机の数を見る限り、普段ひとりで仕事をしているわけではなさそうだ。

「おう。よく来たな。まあ、座ってくれ」
「……失礼します」

 アークトゥルスの机の前には、おそらく別の机から持ってきたのであろう椅子が置かれていた。机には書類の山ができているが、それは両端に寄せられ、互いの顔が見えるように真ん中が空けられている。

 アメリアは椅子に腰を下ろし、アークトゥルスと対面した。

「急に呼び出して悪かったな。一回ちゃんと話しておきたくてよ」
「そう、でしたか。こちらからご挨拶に伺わず、失礼いたしました」
「ああ、いい、いい。そんな難しい話をしようってんじゃねえ。ただまあ、オジキと結婚してくれるって人に、よろしく頼むって言っておきたくてよ」
「そんな、こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 朗らかに笑う辺境伯に頭を下げる。

 第四王子に引き続き、北の辺境伯にまで、オリオンのことを頼まれるとは思ってもみなかった。それだけオリオン=デイヴィス=ホワイトディアが慕われているということだ。しかも実際に言ってきたメンツを考えれば、彼の過去の栄光や肩書きだけでなく、人間性自体が敬愛されているといことだろう。

 結婚式の準備をしていても、オリオンの伴侶となる実感は未だに希薄なままだ。彼の隣に並び立つ想像なんてまったくできない。では、他の誰の隣に立つ想像ができるかと聞かれれば、その答えも出せやしないのだが。

 表情が固まったアメリアに気付いたのか、アークトゥルスが笑った。

「緊張すんな。アンタとオジキは家族になるし、オレとアンタは親族になるんだぜ。今すぐにはムリだろうが、気楽に接してくれ」
「……なかなか、難しいことを、おっしゃられますね……」
「それだけ歓迎してるってこった。オレはオジキを尊敬してる。尊敬してるってことを恥ずかしげもなく人に言えるくらいにな。アンタはいるか? そういう相手」
「尊敬……」

 すぐに思い浮かぶのは、オリオンだ。出会って以来、傍にいて見守ってくれる大きな存在に敬意を抱かなかったことはない。彼の傍は微かな緊張があるけれど、同じくらい安心できる場所だ。

 それから次に浮かんだのは、春の太陽のような彼女の姿だった。アメリアより四つも年下なのに、自身が何者かを理解し、北の辺境領と南の辺境領と王国中枢という当方もなく大きなものを背負い、けれどプレッシャーに潰されず活き活きと輝いている少女――

「今、誰かを思い浮かべてんな?」
「え?」
「顔見りゃわかるさ。べつに言わなくていい。ただ覚えとけ。人生の中でそういう相手がいるってのは、恵まれたことだぜ。尊敬する人間や愛する人間ってのは、人生を色鮮やかにしてくれるからな」

 アークトゥルスの口の端が持ち上がる。貴族の当主らしくない乱雑な口調でも、美麗な貌には隠しきれない聡明さが顕れていた。

 オリオンと骨格や体格はあまり似ていない。その点に関してはアークトゥルスよりもアンタレスのほうが酷似している。白銀の髪は年齢の分、オリオンのほうが落ち着いた輝きだ。似ていないところが多いが、紅玉の瞳は、もしアメリアが描くとしたら同色の絵の具を重ねるだろうと思うくらい、同じ色味をしていた。

「オレァ、あの人に感謝してるんだ。どうやったって返せねえくらい、デッケー恩がある」
「恩ですか?」
「領主だった親父が死んじまった時、跡を継ぐはずのオレはまだガキだった。何もできねえオレに代わって、オジキは急に領主になって、それから長い間この地を護ってくれた。オレや弟を立派に育ててくれながらな」

 何度かホワイトディア領の過去について、オリオンに聞いたことがある。広大な土地と長い歴史を持つ場所だ。アメリアの知っていることなど、氷山の一角ですらないだろう。

「オジキは親みたいな人で、一緒にいた時間なら実の親よりも長い。いろいろ教えてくれて、感謝してるんだ。でもよ、それと同じくらい申しわけなさがあった」
「え?」

 アークトゥルスが白銀の髪を掻きあげた。

「北の人間が一枚岩とはいえ、揺れないわけじゃねえ。もしオジキに家庭があって子供がいたら、まあ、争いの芽になってたろうぜ」
「それは……正当性を取るか、英雄の子を取るか、ということですか?」
「ああ、そうだ。もちろんオジキは正当性を優先するだろうよ。自分が就いた辺境伯の座だってあっさり手放す、私欲とは無縁の人だ」
「ホワイトディア辺境伯領なら貴族も民も、誰しもそうなのでは……? 辺境伯家を中心に、まとまっているわけですし……」
「ハハッ、違いない! けどよ、お嬢さん――」

 辺境伯の赤い目が細められる。実際の年齢よりも遥かに若く見える男だが、隠せない聡明さも、実の娘を見るような穏やかな瞳も、懐の深い大人のそれだった。

(似ている……)

 オリオンに、似ている。外見は似ていないだとか、目の色だけが似ている……だとかではなく、もっと内側の部分が同じだった。

「人間はな、どんなに鍛えたヤツでも、ケンカが強いヤツでも、権力を持ったヤツでも、歳食ったヤツでも、どっかに弱さを抱えてるもんなんだ。だから、これっぽちのちょっとしたきっかけで気持ちが揺らいじまうことがある。そういう弱さを抱えて生きてる。それが人間だぜ」

 アークトゥルスが席を立った。そして言葉を続けながら、机を回り込むようにしてアメリアの隣へ歩いてくる。

「オジキはよ、それがわかってるから、最善の方法を選んだ。自分の人生、ホワイトディアと甥のオレに全部懸けたんだよ。縁談なんか腐るほどきてたのに全部断って、伴侶も子供も、自分の人生の選択肢から消しちまったんだ」
「……きっと、周りの人たちは、望んでいたのでしょうね……辺境伯の伴侶も、英雄の子供も……」
「ああ……オレァよ、オジキに家庭を持ってほしかった。ひとりで死んで逝ってほしくなかったんだ。愛する伴侶と子供たちに見送られながら、安らかに逝ってほしいって思ってたんだ。あの人は――ずっと、いろんなもんと戦ってきた人だからな」

 座るアメリアの隣に立つ彼は背が高い。見上げていると――辺境伯がその場に膝を着いた。圧倒的な権力者が膝を折るとは想像もしていなかった。咄嗟のことにアメリアは何も言えず、ただ翡翠の目を見開く。

「アンタにも、感謝してる。オジキと一緒になってくれて、あの人に家庭ってもんを与えてくれて、ありがとう」
「辺境伯、様――」
「これだけの歳の差だ。どうしたって、オジキが先に逝く。オジキもアンタを残して逝くことになるのはわかってるだろうよ。だが、わかっていてなお、最後に隣にいる相手として、アンタを選んだ。アメリア、アンタをだ」

 こちらを見据えるアークトゥルスの目が、わずかに濡れているように見えるのは気のせいだろうか。大事な人を想う、切実な気持ちを向けられている。アメリアは熱のこもった真剣な想いを前に、息を呑む。

「何度言っても足りねえくらい感謝してる。アメリア、オリオン=ホワイトディアと出会ってくれて、ありがとう」

 何度も、何度も、アークトゥルスは感謝の言葉を紡いでいく。

 以前の自分なら気付かなかったかもしれない。言葉に込められた気持ちの重さも、熱も――ただただ額面通りの言葉としてしか、受け取れなかっただろう。その変化を自覚して、怖くないと言えば嘘になる。変わっていくのは、恐ろしい。現状で満足しているのに、あえて変化しなければならない理由はないのだから。

 けれど、アークトゥルスの気持ちを受け取った、アメリアは――

「感謝しているのは、わたしのほうです」

 オリオンを大事にしたいという決意が、胸の中で輝きを増す。変化から逃げようとする足を、その場に繋ぎ止めるような光だ。

 アークトゥルスの言葉にか、変化したという事実に納得するためか、アメリアは誰にともなく頷く。そしていつもより、心なしか強く脈打つ胸を落ちつけるために、深く息を吐いたのだった――






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