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四章 英雄の花嫁
55:第四王子
しおりを挟む広大なメルクロニア城の敷地内には、いくつものガゼボが点々と存在している。その中でもミモザ=ホワイトディアがもっとも気に入っているというガゼボに、アメリアは何故か、第四王子のデンホルムとふたりきりでいた。
(どうして?)
内心で首を傾げる。しかし誰に問うたわけでもないので、当然、答えは返ってこない。
春を迎えた庭園の、花のアーチをくぐった先にある、丸屋根の白いガゼボ。その周辺には色とりどりの薔薇が植えられており、柱にも薔薇の蔦と花が伝っている。
いく枚もの花弁が中心から放射状に広がる白い薔薇。緩やかに湾曲した外側の花弁が丸く閉じた内側の花弁を包み込み、カップのような形をした薄い桃色の薔薇。花径が大きくエレガントな赤の薔薇。花径は小さいが点々といくつも花を咲かせる、ほのかな桃色が愛らしい薔薇――
薔薇が咲き乱れているのに香りがあまりしないのは、そういう品種を選んで植えているからだろう。薔薇の芳醇な香りが飲み物や食べ物の邪魔せず、それでいて目で楽しませるために、趣向が凝らされているのだとわかる。
アメリアの対面に腰を下ろす第四王子――デンホルムは口を言葉を発することなくカップに引き結んだ唇を寄せていた。
以前オリオンは第四王子のデンホルムを、真面目で朴訥、偉ぶり驕った傲慢さなどない青年だと評していたが、仕草や挙動ひとつ取っても優雅さは隠しきれいない。生まれながらに洗練された生活の中にいたのは明白だ。
(共通の話題なんてなさそうだわ)
沈黙が流れているが、不思議と気まずさはない。むしろ、気を遣って言葉を選びながら話さなくていい分、気が楽だ。理由は違うとしても、向こうも気まずさを覚えていないことを願いながら、深い色合いの紅茶に口をつけた――
――第四王子デンホルムがメルクロニア城に到着したのは、今から数時間前――もうすぐ正午になろうかという頃だ。澄んだ星空を融かしたような、煌めく夜空色の飛竜に乗った王子と、護衛だと思われる身軽な竜騎士がふたり、荷を運ぶ竜騎士の四人が城へ降り立った。
王族であり、北の姫の婚約者である青年の来訪を、城内の人間は歓迎した。何度も顔を合わせているからか、ホワイトディア家の人間はまるで身内に接するような気安さと、親愛をもって相対している。中でもミモザに至っては、これまでにアメリアが見たことがないほど、可憐な顔で微笑んでいた。
今回、第四王子が渡北したのは、オリオンとアメリアの結婚式に参列するためだ。当事者のアメリアは初対面となるデンホルムに貴族の慣例に則った挨拶をし、彼も決まった文言を返してくれた。
固く、形式的なやり取りだ。ホワイトディア家の面々は『もっと気楽にしていいのに』と肩を竦めていたが、歓談するには時間が時間だった。会話に花を咲かせるのに相応しい場所は他にある。アンタレスの腹が盛大な音を響かせたのを機に、その場にいた者たちは昼食会のために用意されていた部屋へ移った。
昼食会の場に、ローズハート男爵家の人間も、ケイト=スペード子爵家の人間もいない。王族との昼食会に怖気付いて遠慮したのか、ホワイトディア家側から何か言い含められたのか、その辺りの事情は聞かされていなかった。
詳細は不明だが、それで良かったのだと思う。この場に男爵家や子爵家の親族がいたのなら、賑やかでありながらも、和やかな空気が流れる場所にはならなかったはずだ。家族の幸せが溢れる空間に異分子は必要ない――と、そこまで考えたところで、ふと首をもたげた疑問。
彼らが異分子であるなら、自分は――
その疑問の答えが出る前に、メインの肉料理が運ばれてきた。芽を出したばかりの疑問はすぐに霧散する。アメリアは仔牛の香草焼きにナイフを入れた――
――明るい雰囲気のまま昼食会は終わった。
そこでミモザが改めて『婚約者を紹介させてちょうだい!』と言い、デンホルムとアメリアは食後の休息を兼ねて、ガゼボへ移動した。しかし紅茶が用意されてすぐ、ミモザは父親のアークトゥルスに呼ばれて席を離れ、初対面のふたりだけが取り残されたのである。
会話に長けていないアメリアと、さほど口数が多くない第四王子。当たり前だが話が弾むはずもない。やはり気まずくないのだけが救いだった。
それとなく正面の王子を見る。
目の前の彼以外見たことはないが、黒髪は王族の色だという。先ほど見た漆黒の飛竜に似た、艶のある黒だ。短く切っていなければ、さぞかし目を惹くことだろう。精悍な顔にふた粒の、金色とオレンジ色を混ぜ溶かしたような目は、太陽を透かした琥珀のような美しさだ。
「なんだ?」
見はじめたのはそれとなくだが、いつの間にかデンホルムをじっと見つめてしまっていたらしい。アメリアはハッとして「いえ、なんでもありません」と答え、言葉少ない王子は「そうか」と返した。
再びの沈黙。
菓子は用意してあるが、昼食のあとで胃に空きはない。アメリアはカップの紅茶を少しずつ、唇を湿らせるように飲んだ――と、不意にデンホルムが席を立った。
「殿下?」
「そなた、飛竜は好きか?」
「はい。好きです」
即答すれば、王子が頷く。
「わかった。行こう」
「はい?」
あまりにも唐突な行動に困惑しながらも、王子に誘われた以上、無視するわけにもいかない。それに少し離れたところには辺境伯家の使用人も、王子の護衛もいる。婚約者でもない未婚の男女が一緒に行動していたとしても、やましいことさえしなければ、なんら問題ないだろう。
アメリアも席を立ち、デンホルムのあとに続いた。
彼はもう何度もメルクロニア城へ来ているからか、竜舎へ向かう足取りに迷いはない。背の高い王子とは足の長さが違うが、追いかけることなく、自然について行けている。どうやら歩幅を合わせてくれているらしい。
竜舎の隣には、気持ち程度に囲われた放牧場がある。相手は竜だ。いくら囲っていたところで、たいした意味はない。竜は逃げようと思えば、飛んで逃げることも、柵を壊して逃げることもできる。囲いは、ただ『ここが放牧場のスペースです』と示すだけのために設置されたものだ。
デンホルムは放牧場の出入口の押し戸を開けると、中に足を踏み入れた。そのまま開けて待ってくれている。アメリアは足早に放牧場へ入った。王子は戸を開いていた手を離し、漆黒の飛竜の元へ歩み寄って行く。
彼女もそちらへ数歩進んで、足を止めた。
初めて会う飛竜だ。馴れ馴れしく近付きすぎてはいけない。先ほどメルクロニア城に到着した時も目を奪われるほどの美しさだと思った。王族を前にしているというのに、アメリアの意識の比重は飛竜へ傾いていたほどだ。
鱗が太陽の光を反射させ、夜空で星がまたたいているかのようだった。瞳孔が縦に広がった金の瞳は満月を彷彿とさせ、まるで澄んだ夜の空を閉じ込めたみたいだ。デンホルムが差し出した手に頭をこすりつけ、甘えている。それだけで漆黒の飛竜がどれだけ大切に飼育されているのかわかった。
「アメリア嬢、こちらへ」
「ありがとうございます」
胸の鼓動が早くなるのを感じながらも、焦らずゆっくりと、黒の竜と第四王子の元へ近付いて行く。金の瞳がじっとアメリアを見つめていた。警戒している様子ではない。むしろ初めて見る人間に興味があるとでも言うような、好奇心を湛えた目だ。
(まだ子供の竜なのかしら?)
白の女王のような歴戦の猛者の風格はない。どちらかと言えば、知的好奇心を抑えられない若者の様相を見せている。歩み寄って見上げれば、濡れた金の目に自分の姿が映っていた。
「ベティだ」
「ベティ……可愛らしい名前ですね」
「ああ。御先代が名付けてくれた」
「とおっしゃられますと、オリオン様ですか?」
「それが昔からの習わしだ」
アメリアが首を傾げると、デンホルムは、王族の男児の誕生に合わせて北の辺境伯家から黒い竜が贈られるという話をしてくれた。その役目は当代の辺境伯が担っているため、ベティは十六年前にオリオンが最後に名付けた子らしい。
ベティが喉を鳴らしながらアメリアへ顔を近付けた。人懐っこい竜なのだろう。優美で気高く、気位も高いクィーンとはまるで正反対で、愛くるしい大きな犬のようでもある。
「オリオン様の名付け子なのですね。触れてもかまいませんか?」
「私の許可は要らない。ベティが許している」
手を伸ばしベティの鼻先に触れた。光沢のある鱗は冷たい。喜んでいるのか、ベティがアメリアの指先を押してきている。そのまま撫でれば黒い竜は再び喉を鳴らし、金色の目を細めた。
(人間が好きなのね)
オリオンに名付けられ、北の領地を離れて以降も、ずっと大事にされてきたのがわかる。ベティは、ホワイトディア領でこれまで見てきた、戦闘の中で鍛えられた竜たちとは明らかに違っていた。こうして触れることができるのは、獰猛な野生の力を制御されているからではなく、人間が好きで懐いているからだ。
そんな子を描くなら、とアメリアは思考を巡らせる。
自然の中でベティだけを描くよりも、人の営みの中にいる姿を描くほうが、彼女の魅力を最大限に表現できるかもしれない。メルクロニアの高い建物の周りを活き活きと羽ばたく姿――この前、実際に目にした神殿などは――
「アメリア嬢」
名前を呼ばれて、意識が一気に浮上する。朧気になりかけていたところを引き戻され、アメリアはハッとしてデンホルムに頭を下げた。
「申しわけございません。少し考えごとをしておりました」
「謝らなくていい。頭を上げてくれ」
「はい」
頭を上げると、第四王子は表情を変えないまま、明るい琥珀色の目をアメリアに向けていた。
「私は意識が胡乱だと知っていて声をかけた」
「……え?」
「今朝のように空気が変わりつつあった」
「今朝、ですか?」
不敬だと理解しつつも、アメリアはデンホルムをじっと見る。今朝会った記憶はない。一度でも目にしていたら、これほど印象的な明るい琥珀を忘れない。彼女が困惑の中にいると、第四王子は頷いて口を開く。
「メルクロニアの黄金城を描いていただろう」
「どうしてそれを……」
「気持ちが急いて早く着きすぎてしまった。その時に崖の上で御先代とお会いしたのだ。そこにそなたもいた」
「そうでしたか。ご挨拶もせず、失礼いたしました」
「しかたがない。アメリア嬢はそこに在りながら、そこにいなかった」
デンホルムが表情を変えないまま言葉遊びのようなことを言う。アメリアはその言葉の意図よりも気になっていることがあった。
絵を描いていたところを見られた。その時、デンホルムは――貴族の頂点と言える王族の第四王子は何を思ったのだろう。絵を描くのは、貴族の女性の趣味として推奨される類のものではない。こうしてふたりになったのは、もしかすると忠告をするためなのか。御先代の妻となるならその肩書きに相応しく在れ、と。
王子の言葉遊びの続きを待つ。
「私はそなたのような人間を知っている」
「わたしのような?」
「その者は私が支援する教会に通う男爵家の次男だ。私よりも少し年下の少年で、神官の説教を聞いているのか聞いていないのか、いつもぼんやりと虚空を見つめていた」
デンホルムが真っ直ぐアメリアの目を見て話す。性根が真面目なのだろう。身分差があっても見下されているようには感じない。オリオンも傲慢な人間ではないと太鼓判を押していた。固い口調も威圧しているのではなく、素でそれなのだと認識することにした。
「だが教会でオルガンを弾いている時だけは違う」
「オルガンを?」
「鍵盤に触れた瞬間、その者の纏う空気が変わる。そこに在りながら、そこからいなくなるのだ。初めて目の当たりにした時、まるで神が薄いベールで囲ったかのようだと……こちら側ではなくあちら側へ行ったのだと思った」
あちら側、とアメリアは口の中で転がす。
絵を描いている時、時間の感覚がなくなって、周囲の状況も見えなくなる。彼女にしてみればよく集中できている状態だ。それが第三者には『あちら側』に行っているように見える、のかもしれない。
「彼の演奏は素晴らしいものだ。音楽への造詣が深くなくとも、信心深くなくとも、心が洗われるような音だった。アメリア嬢も、その手の人間なのだろうと感じた」
「わたしの絵を見たことがおありなのですか?」
「まだない」
「それなのにも関わらず、殿下が称賛なさる方とわたしが同じだと?」
「ああ。まったくの見当違いだとは思っていない」
確信があるのか、かたくななのか。後者なのだとすれば、まるでムキになる子供のようだ。言葉を交わす中で初めて、第四王子が年下の少年に見えた。
「だから頼みがある」
デンホルムの琥珀はアメリアから逸れない。
「あまりあちら側へ居すぎず、御先代の傍に居てくれ」
「オリオン様の? それはどういう――」
「背中を見続けることしかできないというのは、いささか寂しいものだ。けれど神の掌中に居る者に、凡なる者は手を出せない。ベールの向こうから出てくるのを待つことしかできないのだ」
だから頼む……と、表情が変わらない第四王子は――十六歳の少年は目蓋を伏せてそう言った。
もしかすると彼は、その男爵家の次男と話してみたいと、友達になりたいと思っていたのだろうか。しかし、実際にそうはならなかった。だから、慕い、敬愛するオリオンが同じ気持ちにならないように、アメリアに――吹けば飛ぶような男爵家の娘に頼みごとなどしているのかもしれない。
恐れ多いことで、返事は是以外ないというのはわかる。だがデンホルムが言ったようなことに一切の自覚がなかったアメリアは、なんと答えればいいのか、まったくわからなかった――。
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