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四章 英雄の花嫁
52:木彫りの小鳥
しおりを挟む話がしたい。ほんのわずかでもかまわないから、時間を取ってくれないか――と、そんな内容の手紙を、アメリアは受け取った。差出人は異母妹の婚約者、ノア=クローバーフィールドだ。
(どうしたものかしら)
温室でのプリシアとのことがある。ノアに直接何かを言われたり、危害を加えられたりしたわけではないが、面と向かって会ってもいいものだろうか。少しだけ迷った末に、アメリアはオリオンに相談した。
結婚式が近付く中、ひとりで判断して思いもよらない結果に繋がるのは避けたい。ホワイトディア家にとって、自分が利益を生む存在でないことは理解しているが、とはいえ、不利益を与える存在にはなりたくなかった。
だから翌日の早朝――日課のメルクロニアの黄金城を描き終わったあと、持ってきていた朝食を地面に敷いた広い布の上に並べながら、手紙の件を相談した。
「ノア=クローバーフィールドか。公的に会うべきではなかろうな。とはいえ神経質にならねばならぬ相手でもない……してアメリア嬢、今日の午後の予定はどうなっておる?」
「今日は、特に何もありません」
「ほう、珍しく空いていたようだのう」
「テリーザ様に用事がおありらしいのです。ですので、今日は部屋で、式にいらしてくださる方々の名前を覚えておこうかと……」
オリオンは「そうか」と顎を撫でる。そして何か考えるかのように「ふむ……」とわずかばかり口を閉ざし、やがてひとり頷いた。
「アメリア嬢。城の西側のガーデンでクロッカスが見頃を迎えているようだ。天気がいいからのう。今日の午後にでも見に行ってくるといい」
「ガーデンに、ですか?」
「うむ。私も後ほど足を運ぼう。一緒に行きたいところだが、午後一番で少々用事があってな。先に行っておいておくれ」
――と、オリオンに言われたアメリアは、彼の言葉通り、昼食を終えると西側の庭園へ足を運んだ。
庭園は城の西側――竜舎へ行く途中にある。樹木を刈り込み、立体的に仕立てたトピアリーガーデンだ。緑の生垣で四角く区切った巨大な囲いの中に、幾何学的に刈られた樹木が設置され、隙間を埋めるように花が咲き乱れている。その巨大な四角が九つ。マス目のように配置されていた。
四角と四角の間は通路になっており、アメリアはガーデンを眺めながらゆっくりと進んで行く。生垣と同じ目線では全貌を視認することができない。もっと高いところに登れば、整然とした幾何学模様を見ることができるだろう。
(西側だから、見えなかったのね)
メルクロニアの黄金城を描く時、彼女は朝陽を背負い、城を東側の崖から見下ろしている。ゆえに西側に位置するトピアリーガーデンは城の陰に隠れて見えなかったのだ。
少しだけ背伸びをする。そんなことをしたところで、見える景色はほとんど変わらないが、ついやってしまった。と、その時――
「アメリア様」
前方から聞こえた声に、彼女は足を止めて踵を地面につける。声のしたほうを見ればノア=クローバーフィールドが近付いて来ていた。
この状況がオリオンの作り出したものだとわかっている。庭園を散歩していたらノアと偶然会いました――という流れにするのが最善だと、彼は判断したのだろう。傍らまで来たノアも、同様にオリオンの考えを理解しているらしく、混乱している様子はなかった。
「お久しぶりです。その、先日は……プリシアが失礼いたしました」
対面してすぐ、ノアが深く頭を下げた。落ちついた濃い緑色の髪が揺れるのを見下ろして、アメリアは小さく息を吸う。
「頭を上げて。あの時は熱で意識が朦朧としていて、思ってもいないことを口にしてしまった。そうでしょう?」
「……はい……」
「自分でもどうしようもないことよ。本人ではないあなたには、もっとどうしようもないことだったわ」
話を蒸し返すつもりはない。躊躇いがちに頭を上げた青年に、アメリアはゆるゆると頭を横に振りながら言った。
顔を上げたノアと向かい合う。
どちらにも言葉はなく、沈黙が落ちた。
アメリアには饒舌に話題を提供する能力などない。一方のノアは申しわけなさと、もうこれ以上の失言はできないという緊張感があるのだろう。気まずげに目を泳がせる青年を、アメリアはじっと見ていた。
ノアの唇が微かに震え、彼女の名を紡ぐ。アメリアは普段と変わらない声音で「ええ」と反応を示した。
「少し、歩きませんか?」
「そうね。庭園を見たいわ」
ふたりで並んでガーデンを歩く。
午後の日差しが暖かい。頬を撫でる風は、メルクロニアに来た頃よりも冷たさが和らぎ、ガーデンの青い香りを運んでくる。彼女の踵が浮いた。意識は隣の青年から、次第に緑の生垣の向こうへ流れていく。
近くで見れば見るほど、生垣として生い茂る樹木の葉の密度が詰まっている。葉同士の間は影となり、まるでひとつの大きな塊のようだ。まさに壁として作られているのがわかる。
「――か……?」
これだけ見事な庭園だ。手入れを任されている庭師はさぞかし腕のいい、選り抜きの人物たちだろう。庭師ではなくいっそ芸術家と呼ぶべきだ。一度、仕事をしているところを見てみたい。
オリオンが言っていた通り、クロッカスも見頃を迎えている。上に伸びる花弁がグラスのように見える白色の花が咲き誇り、濃い緑を際立たせていた。
「――っ、あの!」
「え?」
何故か、後ろから声がした。
振り返れば、隣を歩いていたはずのノアが立ち止まり、きゅっと眉を寄せてこちらを見つめている。その表情は切なげで、青く、罪悪感に苛まれているかのような、危うさを湛えていた。
「どうしたの?」
「ずっと、聞きたかったんです」
「なぁに?」
ノアが唇を一度引き結ぶ。そして、緊張した面持ちで口を開いた。
「私を――俺を、恨んでますか?」
アメリアは目をまたたかせる。
「どうして、わたしがあなたを恨むの?」
「こうなることを知っていて、黙っていたから……」
「こうなる……?」
「貴方が、当主になれないと、俺は知っていました。ずっと前……プリシアとの婚約が決まるよりも前に、それこそ、タウンハウスで貴方とたまに顔を合わせていた時にはもう、すでに……知っていた」
絞り出すような声だった。
(まるで、懺悔ね)
彼は許しを乞うているのではないのだろう。目の前の青年からそんな甘い気持ちは微塵も漂っていない。ノア=クローバーフィールドは、自身の心の内をポツポツと、ただ震える声で語っていく。
「俺は、自分がローズハート男爵家に婿入りすると、昔からわかっていました。こういう、言い方はあれですけど……婿に取るくらいだから、俺の結婚相手が次の男爵になるのは当然なんだと……」
「そうね。余っている爵位があるわけでもないのに、後継者以外の子の伴侶を家に入れられる余裕はないもの」
「――馬鹿でした」
「わたしが?」
「まさか! 馬鹿だったのは、俺です……!」
ノアが両手をきつく握りしめていた。彼の顔に浮かぶ悲痛の色が増していく。
そんなノアの姿を、アメリアは意外だと思いながら見つめる。これまであまり深く関わっていた人間ではないのに、何故これほどの罪悪感を抱き、自分の前に立っているのだろう。
王都のタウンハウスで時折、ノア=クローバーフィールドと顔を合わせていた。けれどほとんど話してはいない――だが今思えば、家族とも通いの使用人とも交差することのない世界の中で、ただ空気のように漂っていたあの頃、ノアとだけは何度も目が合っていた。
たったそれだけ。
それだけの、ことだ。
「長子相続の慣例から外れた貴族が、周囲の目にどう映るのか、子供の頃の俺は深く考えていませんでした……いや、成長してからも、きっとあなたの立場や気持ちなんて、考えていなかった……」
「わたしたちが会うのは五年振りよ。最後に会った時、あなたは十三歳で、まだ子供だった。それに、自分のことを考えなければいけない時期でもあったでしょう。だから、他人のことを考えられなかったからって、そんなに罪悪感を覚えなくてもいいと思うわ」
アメリアの言葉に、ノアは違うとばかりに首を振る。
「俺は馬鹿だったんです。そして、考えが甘かった……例え慣例から外されて、貴族としての貴方の評判が下がっても、男爵家に、人ひとり養えるだけの力をつけておけば、どうにかなるんだって」
「それは……男爵領に置いていてくれるつもりだったということ?」
「――ええ。馬鹿でしょう? 正当な権利を奪っておきながら、口を噤んで騙しておきながら……俺が成果を挙げれば、プリシアやマーガレット様に文句を言われるだろうけど、アメリア様が苦労することはない、なんて――」
彼の口元には自嘲的な笑みが浮かんでいた。
だが、ノアは目を逸らさず、真っ直ぐアメリアを見つめてくる。その表情を見て、気にする必要はないと告げるために開いた口をそのまま閉じた。ノアは罪悪感で瞳を揺らしている。しかしその奥には、正面から向かい合わなければわからないほど微かな、光が隠れていた。まるで何かを決意しているかのような、真摯な輝きだ。
「覚悟が足りなかったんです」
「何への覚悟?」
「……全部です。貴方を蹴落とす覚悟も、その先でノア=ローズハートとして生きていく覚悟も、俺には足りていませんでした」
「その話をするということは、覚悟ができたの?」
「はい」
その肯定は、力強く。
たったひと言に、ノア=クローバーフィールドの覚悟が窺える響きを孕んでいた。自嘲混じりの笑みも、罪悪感に苛まれた表情も、きつく握った拳も、揺れる瞳も消えていない。それでも覚悟を決めて、彼にとっては決して小さくない一歩を踏み出そうとしているのだろう。
「ホワイトディア辺境領へ来て、いろんなものを見ました」
「ええ、熱心に見て回っていると聞いてるわ」
ありがたいことに、とノアが目を細める。
「大きな都市の基盤施設、道路などの公共事業、経済の回し方、領土を防衛するための都市計画と街作り……この城の方々は、資料を惜しげもなく広げてくれるし、疑問をぶつければ丁寧に答えてくれるし……余所者の俺にここまで説明してもいいのかって恐縮してしまうくらい、たくさんのものを見せてくれたんです」
「勉強になった?」
「勉強にはなりましたが、今後、活かせるかどうかはわかりません」
「そうなの?」
「あまりにも規模が大きすぎて、参考にするのもおこがましいです。それだけ圧倒的な差があるのだと、改めてつきつけられました」
悲観ではない。卑下でもない。ホワイトディア家が居を構えるメルクロニアは強大で、洗練されていて、防衛の目的の元計画的に作られた都市だ。ただ人が集まってできた集落が発展し、広がってできた街ではない。
「すごい場所よ、メルクロニアも、わたしが身を置かせていただいているバラリオスも。王都と比べても遜色はないのだと思う」
「はい。俺もそう思いました。俺のいる場所は足元にも及びません……だから、覚悟を決めたんです。これから俺は――男爵領のために生きていきます。貴方から奪ってしまったものを大事に育て、辺境領に及ぶことはなくとも、発展した理由や方法を惜しげもなく公開できるほど強く、たくましい地にしてみせます。そして――」
あ、とアメリアの口から声が漏れた。春の日の午後の暖かい風に乗って、青い香りが駆け抜けていく。
ノア=クローバーフィールドが笑った。自嘲の混ざっていない、青い風のような笑みだ。
「――俺は、あの人たちの家族になります。だから、これを返させてください」
「え?」
アメリアの元へ足を進めたノアが、上着のポケットに手を入れる。そして取り出したソレを彼女に差し出した。
「木彫りの小鳥?」
「覚えていますか?」
「ええ。覚えているわ。まだ持っていたのね」
ブローチよりも少し大きいサイズの木彫りの小鳥は、昔アメリアがこしらえたものだ。部屋の窓から見える木の枝によく止まっていた小鳥で、首元の豊かな毛が風に揺れる度、柔らかそうだと思っていた。子供の手で彫った小鳥は、記憶の中にあったものよりも、遥かに小さく見える。
「どうしても欲しくて、俺がねだったんです。そうしたら貴方がくれました。これはお返しします」
「どうして? べつに返してくれなくても――」
「いえ、ダメです」
急に、昔あげたものを返すと言われても、合点がいかない。しかしノアは差し出した手を引っ込めることなく、じっとアメリアを見つめてくる。何故だろうと思いながらも手の平を差し出せば、その上に小さな木彫りの小鳥が乗せられた。
彼が、寂しげに目蓋を伏せる。
「俺はプリシアと結婚して、ローズハート男爵家の人間になります。だから、コレは持っていちゃいけないんです」
「よくわからないけれど、あなたがそう決めたのなら、コレは返してもらうわね」
ノアが目蓋を持ち上げた。伏せた時は寂しげだと感じたが、目を開ければもうなんともないようにしている。見間違いだったのだろうか。アメリアがそう思ってしまうほど、彼の笑みには若さゆえの眩しさがあった。
「ご結婚おめでとうございます。お義姉様」
「ありがとう、ノア」
ずっと大事にしてくれていたのだろう。木彫りの小鳥は欠けた部分もなく、今にも羽ばたいていきそうだ。アメリアは本物の小鳥にするかのように、木彫りの小鳥を両手で優しく包みながら、義理の弟となる青年からの祝いの言葉を受け取った――。
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