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四章 英雄の花嫁
50:毒の女①:Sideアークトゥルス
しおりを挟むホワイトディア辺境伯専用の執務室で、北の王はその美貌を歪めて机に向かっていた。
ここのところ、北の英雄の結婚式に合わせた各地からの訪問が続き、こまごまとした執務が溜まっている。それに加えて訪問者たちがせっかくの機会だからと、やれ陳情書だの、やれ事業計画書だの、やれパーティーの招待状だの、あれこれと仕事を増やしてくれていた。
中でも厄介なのが、ローズハート男爵家だ。
アークトゥルス=ホワイトディアの元にローズハート男爵家から持ち込まれた事業計画書の数は、いくつあるのか把握するのも億劫なほど多い。とはいえ、自領を盛り上げるべく熱心に取り組み、諦めず打診を続ける姿勢は、込み入った事情さえなければ好感が持てるものだ。
手元に届けられる計画書が荒唐無稽で非現実的な内容であれば、目も通さず一笑に付していたことだろう。しかし実際はそうではなく、北にはわずかにとはいえ、双方に利益をもたらしつつ、王国側の琴線に触れない程度の分を弁えた、よくできていると認めざるを得ない内容だった。
立案者の名前はレオル=ローズハート。叔父の婚約者の父親である男爵だ。けれどそれはあくまでも名義だけの話であり、実際に事業を動かそうとしているのは、夫人のマーガレット=ローズハートだということは、アークトゥルスも把握していた。
(名ばかりの男爵か。次代もそうなんだろうな)
ノア=クローバーフィールドという名の青年が、メルクロニアの城をはじめ、城下の街などあちこちを見て回っていると報告を受けている。貪欲に北の地から学ぼうとしているのだ。教えを乞える立場にないと理解し、自ら動き、学ばんとする姿勢は見所がある。
一方の次代の女男爵は買い物三昧で散財しているときた。それが婚約者のように勉強の一環でないことは、彼女――プリシア=ローズハートが購入した物を見れば一目瞭然だ。ただの物見遊山。異母姉の結婚式が近いことも忘れ、随分と楽しんでいるらしい。
(オジキもなんで好き勝手させてんのか)
わっかんねえなぁ、と漏らし、アークトゥルスは席を立った。そして一歩、その場から離れようとした瞬間――
「どこへ行くつもりだ?」
執務室内にあるもうひとつの机。そこで書類の山を築いていた男――カイル=クラウチが眉間に深い皺を刻んでいた。
右目の横から顎にかけての古傷と三白眼が大迫力の、厳つい相貌の男が睨みを利かせてくる。アークトゥルスがいたいけな子供であれば粗相をして泣いていたことだろう。だがアークトゥルスは見た目に反して肝の座った男で、カイルとは幼少期からの付き合いだ。睨まれたってなんともない。
「そんなの聞くなよ。恥ずかしいだろ」
「……小便か」
「いーや、デカいほうだ。だから戻って来るまで時間がかかっちまうな」
「そうか――って言うとでも思ったか? この状況で逃がすわけがねえ。ほら、さっさと座って手を動かせ」
気心の知れた右腕は、アークトゥルスが辺境伯であっても遠慮などなかった。ギロリと睨まれて、彼は肩をすくめる。
「オレァ、テメェの主だぞ?」
「あー、そうですか、主さま。じゃあさっさとペンをお手に取ってそちらの書類の山にサインをしやがってください。結婚式までに終わらせないといけないヤツがどんだけあると思ってんですか」
「正論で丸め込もうとすんな」
ケッ、とわかりやすく悪態をつき、アークトゥルスは椅子に戻――らず、床を蹴って素早い身のこなしで窓へ向かう。
「ああ!?」
カイルも戦場で活躍していた竜騎士だが、アークトゥルスよりも窓から遠い。見事な瞬発力で席を蹴って辺境伯のあとを追うが、その時にはすでにアークトゥルスの足は窓の桟にかかっていた。
「一時間で戻る。テメェも休んどけ」
「ばっ……!」
制止の声を聞くより先にアークトゥルスは窓枠を蹴った。身体が宙に浮き、内臓を持ち上げられているような感覚を味わいながら、手を伸ばす。そのまま執務室の外に生えている巨木の枝に掴まり、勢いを殺しながら下へ、下へと降りていく。
地面に着地したアークトゥルスは、飛び出した場所を見上げることなく、その場を離れる。わざわざ見なくとも、それはもう恐ろしい顔をした右腕がソコにいることは自明の理、想像にやすかった。
執務室からの逃亡に成功したホワイトディア辺境伯は、その足で妻が管理する温室へと向かう。この時間であれば、誰よりも愛しい伴侶は、叔父の花嫁になる女の結婚式の準備を終えて温室にいるはずだ。
カイル=クラウチの手により、執務室の窓に釘が打たれはじめたことなど知らないアークトゥルスは、最短距離を進んで目的地を目指す。そして彼が予想した通り、温室の鳥籠の形をしたガゼボに伴侶の姿があった。
(あ?)
ただし、ひとりではない。
何故か妻のテリーザは、マーガレット=ローズハートと一対一で、ティーパーティーを行っていた。やましいことなどないが、思わず身を隠してしまう。アークトゥルスは生い茂る植物の陰に潜み、ガゼボへ意識を集中させた。
口火を切ったのは、マーガレット=ローズハートだ。
「まさか夫人にお誘いいただけるとは思いませんでしたわ」
「あなたとは一度お話ししたいと思っていたの」
「まあっ、それは奇遇ですわね。私も夫人とお話しして、お願いしたいことがあったのです」
「お願い?」
「はい。辺境伯様に事業計画の草案を見ていただけるよう、お口添えをお願いできませんか? なかなかお返事をいただけず、困っていたのです」
アークトゥルスの位置からはテリーザの顔がよく見える。
生粋の高位貴族の生まれで、現在は北の地でもっとも高い地位にいる妻だ。普段は無邪気な顔で天真爛漫に振る舞っているが、好意的に思っていない相手の前では、その明るさもなりを潜める。テリーザは表情を変えず、無機質な目で正面に座る男爵夫人を見据えていた。
「お願いなどとよく言えたわね。事業、事業と、あなたはホワイトディア領へ何をしに来たのかしら?」
「何を……? 申しわけございません。質問の意図がよくわかりませんわ」
「義理とはいえ娘の結婚式にいらしたのでしょう? 嫁ぐ娘に声をかけてあげましょう、式の支度を手伝ってあげましょう……そんな風には思わなかったのかしら?」
「ああ……男爵家でしかない私が手を出すよりも、洗練された辺境伯家の夫人たちにお任せしたほうが素晴らしい式になりますわ」
テリーザの指摘をマーガレットはするりとかわす。そしてテーブルのカップを手に取るとわずかに目を伏せながら口をつけた。
(大したタマだな)
思ってもいないことを、自分よりも権力を持つ相手に、いけしゃあしゃあと言ってのける丹田。その相手がアークトゥルスの妻でなく、自分が身を潜めている状況でなければ、口笛のひとつでも吹いていたところだ。
「全て任せるだなんて、余程、興味がないのね」
「いえ、そのようなことは――」
「否定しなくてもいいわ。けれど、そうなのだとしても、それを態度に出すべきでないと思わない? あなたたちの振る舞いは、今後、英雄の妻となるアメリアを侮辱しているわ」
「アメリア、ですか」
普段のテリーザはアメリアを『アメリア様』と敬意を表して呼んでいる。しかしこの場では『アメリア』と敬称をつけず、そのまま呼んだ。それが何を意味しているのか、アークトゥルスはもちろん、マーガレットがわからないはずがない。
つまるところ、身内だと言っているのだ。
自分たちの家族――義理の叔父の妻だという肩書きだけの身内なのではなく、肩書きを越えて娘のような存在なのだと、言わんとしている。
「義理とはいえ娘が、偉大な辺境伯家の方に受け入れていただいているようで、胸のつかえが取れましたわ」
「おためごかしはいらないわ。そのために侍女を下がらせて、あなたとふたりになっているのよ」
淡々とした物言いに、初めてマーガレットが黙った。軽く首を傾げた男爵夫人のピンクブロンドの髪が揺れる。
「辺境伯夫人、それは私がここで何を言っても不敬にはあたらない、ということでしょうか? だとするなら、そう明言してくださいませ」
「許すわ。テリーザ=ホワイトディアの名において、何を発言しようと、わたくしがあなたを罪に問うことはないと約束しましょう」
「ありがとうございます」
マーガレット=ローズハートが微笑んだ。
「信じてはいただけないでしょうが、私は辺境伯夫人にお会いできて、本当に嬉しく思っているのですよ」
「あら、そうは見えなかったけれど?」
「私たちの世代で、ホワイトディア辺境伯ご夫妻の恋物語は有名ですもの。麗しい南の姫君と北の雄たる王子の仲睦まじく、輝かしい物語を知らない者はおりません」
滔々と語る男爵夫人の言葉は、そこで一旦途切れた。
マーガレットが、目を細める。
「物語はおふたりが結ばれて終わりますが、現実はまだ続きます。ご夫妻は続いてきた現実の中で物語などよりもさらに強い絆で結ばれているようですね」
「賛辞として受け取るわ」
「完ぺきな夫婦は子供たちを授かり、完ぺきな家族と成った。親が子を、子が親を尊敬し、慈しみ、愛情をもって接する――とても素晴らしいことだと存じます。しかし全ての家が、家族がそういうわけではないのです」
コツン、とマーガレットが爪の先でテーブルを叩いた。
「夫人は私を酷い義母だと思い、この場を設けてくださったのでしょう。それが叱責であれ、非難であれ、私は甘んじて受け止める所存です。ですが、私は己が間違っていたと省みたりはいたしません」
「義理の娘だからと慣例に背き、当主となるべき存在を意図的に排除しておきながら間違ったことはしていないと言うの?」
「ええ。正当な後継者がなんだと言うのです。私は血の繋がった自分の子供が、何よりも大事なのです」
そう言い切るマーガレットの顔に笑みはない。
冷え冷えとした空気にアークトゥルスは目を見開く。爵位で相手を判断しているわけではないが、どこか、有能であってもただの男爵夫人だと侮っていたのかもしれない。
「ローズハート男爵領はたいした名産品もなく、領地は狭く、財政は常にひっ迫しております。あの辺りは皆そうなのです。近隣の領地同士で手を取り合い、ようやく成り立っているような弱小貴族の集まり……夫人には想像もつかないでしょう?」
テリーザは肥沃で広大な土地と温暖な気候に恵まれ、王国の食糧庫とも呼ばれる南の辺境領に生まれ、声を大にしては唱えられないが、王家を凌ぐ力を持つ北の辺境領に嫁いだ。生家でも学園でもホワイトディア家へ来てからも領地の差配を学んだが、確かにそれは広大な領地に対してのものだった。
マーガレットの声に揶揄するような色はない。悪意はなく、ただ淡々と意見を述べている。その平静さが、何故かひどく不気味だった。
「弱小貴族の次女など条件のいい家には嫁げません。貴族の娘といえば聞こえはいいえですが、この程度の爵位では財力のある商人も振り向かないでしょう。仮に裕福な平民に嫁げたとしても、貴族の身分を捨て平民の家の一員になるなど苦労するのは目に見えています」
「だから正当な後継者であるアメリアを追い落としたの? あなたの言う弱小貴族であっても、領主として立ち優秀な婿をもらったほうが幸せだとでも?」
「はい。身分を越えた婚姻など幸せになれるはずがありません」
貴族は貴族と、という意味で言っているのだろう。
しかしアークトゥルスには別の意味に聞こえた。暗に、オリオンとアメリアのことを言っているようではないか。貴族同士とはいえ、ふたりの間には決してひとくくりにできないほどの差がある。
「プリシア=ローズハート。ここへ来てからの彼女の様子を見ていたわ。アメリアを排除してまで掴んだ男爵の座……あの娘に当主が務まると思っているの?」
「あら、それは問題ありませんわ。領地の差配も、貴族として生きるのに困らない程度の財産を築くのも、私がいたします。そして死後は私が選び育てた婿が、あの子に不自由のない日常を与えることでしょう」
「物は言いようね。囲い込み、ただ生かされるだけの人生が、幸せで、満ち足りたものになるとでも思っているの?」
「それこそ物は言いようですわ。貴族の娘としてどこかの家へ嫁ぐこともまた、跡取りを生む存在としてあちらの家で囲われていると言えましょう?」
コツン、コツン、と白く細い指が板状を打つ。
「貴族の婚姻は綺麗事ではありませんの。美しく輝く恋物語のように、愛さえあれば幸せな結末へ辿りつくなど、現実ではありえないことです」
「わたくしとアークトゥルスの関係を恋物語だと言った口で、よくもまあ、そのようなことが言えたわね」
「失礼いたしました。けれどお許しをいただいておりますので――それに、私は辺境伯ご夫妻が、愛情だけで結ばれているとは思っておりませんわ。広大な南の領地と屈強な北の領地が手を結ぶことで、間に挟まれた王家を牽制する……ふふ、政略的な旨味のある婚姻ではありませんか」
愛だけでなく利害でも結ばれている。だからこそ誰もが憧れ、夢見るほどの純愛を貫き通せたのです、と――マーガレット=ローズハート男爵夫人は、正面に座る北の女王を見据えて、うっそり微笑んだ――。
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