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四章 英雄の花嫁

44:雨雲

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 オリオンの元へ挨拶に訪れる者は日に日に数を増やしている。裕福な商人やかつてメルクロニア城で働いていた文官などもいるが、すでに後継に爵位を譲った、彼と同年代の貴族が圧倒的に多い。もっとも、オリオンと同年代の彼らは戦場にいた経験のある者ばかりで、王国で考えられている貴族の姿とはかけ離れていたのだが。

 結婚式の支度の合間を縫って、アメリアも挨拶の場に同席する。オリオンは無理をせずとも良いのだぞと言ってくれた。けれど婚約式の時のバラリオス同様、メルクロニアの面々も長らく独身を貫いていた英雄の伴侶が気になるのだということは想像に容易い。相手に望まれればできるだけ顔を出すと、それもまた、アメリアが自身で決めたことのひとつだ。

 その日――今にも雨が降りそうな日の午後、オリオンの元を訪れたのは、長らく彼の施政を支えていたというラーズ=トールマン元男爵だった。現在は息子へと爵位を譲っており、老後の手慰みに商会を経営しているらしい。

 応接室に通された老人は、小柄で人の良さそうな顔をしていた。しかしその外見とはうらはらに、若かりし頃はオリオンと共に戦場を駆け抜けた戦友だという。

「のう、ラーズよ。随分と祝いの品を奮発してくれたようだが、どうにも多すぎはせぬか? 馬車何台分持って来ておるのだ」
「ほほほ、お気になさらず。オリオン様への品ではありませぬから。アメリア様」
「はい」

 急に話を振られて、一瞬詰まりながら返事をする。トールマン元男爵は人より細い目をさらに細めてアメリアに笑みを向けた。

「じじいには、どのような品がお好みかわかりませんでしたゆえ、目についたものを全て積んできてしまいました。ひとつでもお心の慰みになるものがあれば良いのですが」
「おい、待て。慰みとはなんだ」
「必要でしょう。英雄だなんだと云われていますが、本気で英雄だと崇め奉っているのは、いいところ、アメリア様の親御殿の世代までですよ。うら若き令嬢が、いい歳したじじいと婚姻など、場合によっては悲劇として語られる話ですぞ」

 心外だとばかりに口を挟んできたオリオンを、ラーズはすげなく一蹴する。同年代のじじいにじじいと称された英雄は反論の言葉が出てこないのか、用意されていた紅茶に口をつけた。

(爵位は関係ない友人なのね)

 普通であれば、辺境伯だった人物が元男爵に言い負かされることはない。横目でオリオンをチラリと見ると眉を寄せていた。だがそれは怒っているというよりも、拗ねているような表情に見える。

 前から小さな笑い声が聞こえて、アメリアは隣へ向けていた意識をラーズへと移した。細すぎて定かではないが目が合っている、気がする。

「アメリア様、ご覧の通りです」
「え?」
「そちらの御仁は英雄だなどと誉めそやされ、辺境伯など大それた役を担ってきた方ですが、存外わかりやすい男でしてね。何も気負う必要はありません。気楽に嫁いでいらしてください」
「ぁ……」

 その言葉がお世辞でないのは、温かな空気と柔らかな声音でわかった。歓迎してくれている。受け入れてくれようとしている。それはラーズ=トールマン元男爵だけではない。バラリオス城の人々や、メルクロニア城で会った人々――北の人間の多くがぽっと出の男爵令嬢を否定しなかった。

 特別賢くもないが、短絡的でもない。アメリアとオリオンを結んだラファエルはともかく、第三者にこれほどあっさりと受け入れられるとは考えてもいなかった。

「本人を目の前にして言うのも気恥ずかしいですが、オリオン様は偉大な方です。英雄と称されるに足る、圧倒的な魅力があり――かつて若かりし時、前線にいた頃は、私をはじめ共に戦った者たちは皆、この人と一緒ならば決して負けない、自分たちは無敵なのだと思えました」

 ラーズがほうと息を吐き、懐かしいとばかりに表情を緩める。皺が刻まれた顔に回顧の情が浮かんでいた。爵位は関係なく、長らく親しくしているのだろう。思い返せば絵具屋のレグ=オーマンも尊敬の念はありつつも、オリオンに親愛の情を寄せているようだった。

「ですが戦場を一歩離れると、孤高の魅力とでも言うのでしょうか、それはなくなってしまうのです」
「ラーズ」
「ああ、もちろん悪い意味ではありませんよ。こちらの御仁はね、片目を失った戦友の肩を抱いて涙を流し、亡くなった者たちへ鎮魂の祈りを捧げ、平民や貴族の垣根を越えて兵士と勝利の美酒を呷るような――そういう方なのですよ。一度、懐に入れた人間にはどこまでも尽くし、共感し、守り、愛す……王と呼ぶには甘すぎるとは思いませんか? アメリア様」
「……申しわけございません。施政者の素質が、どこにあるのか、それを判断する基準など、わたしは持ち合わせていませんので――」
「ラーズ、もうよかろう。その辺にしておけ。おぬし、そのようなことを言いに来たのか? 歳を取るとお節介になるというのは本当だのう」

 調子を取り戻したオリオンが言う。ラーズが口元の笑みを深めた。老人の薄い唇の端がゆっくり持ち上がるのを、アメリアは見た。

「アメリア様。けれどね、私たちは、そんな王を愛さずにいられないのです。今も昔も、この方こそが我らの王だと、胸を張って言えるほどに」
「……お世辞はその辺にしておけ。こそばゆくていかぬ」
「どう思われようとかまいません。私はアメリア様にわかっていていただきたいのです。長らく空いていた我らが王の隣が埋まることを、どれほど喜ばしく、そしてありがたいと思っているのかを……」

 ラーズはオリオンには語っていない。会話を重ねていても、彼の目はアメリアにのみ向けられている。真っ直ぐな視線を一身に受けて――彼女は首を横に振った。

「ありがたいと感謝しなければいけないのも、幸運に恵まれたことを喜ばしく思っているのも、わたしのほうです」

 どう伝えれば彼に――彼の向こうにいる、オリオンを想う人々に届くのかわからない。それでも少しずつ言葉を紡いでいく。

「オリオン様のおかげで、わたしは大事なものを手放さずに済み、そして……多くのものを、得ることができました」
「アメリア様がそう思っていらっしゃるのなら、おふたりの未来は明るく、満たされた日々となることでしょう。それはオリオン=ホワイトディアを慕い、愛する全ての者たちの願いであり、望みでございます」

 アメリアには想像もつかない人生を、オリオン=ホワイトディアは歩んでいる。そしてアメリアの知らない彼の人生を、この地への献身を、北の人間は知っている。だからこそ一線を退き、御老公と呼ばれるようになった今――公として生きてきたオリオンが、私として自らの人生を生きるのを望んでいるのかもしれない。

 彼女を受け入れてくれた第三者たちは、アメリアとオリオンが婚姻するに至った理由を知らないのだ。絵を描きたいと私を優先し、むしろ、それ以外にはなく――言葉を選ばなければ、オリオンを利用しているのだと世間は知らない。

「私をはじめとする北の人間の多くは、彼が残りの人生をひとりで生きていくのではなく、伴侶を得たことを心から祝福しております。故に、御老公に捧げるのと同じだけの真心と忠心を、貴方様にも捧げましょうぞ」

 ――申しわけないと、思う。

 けれど、もう無理なのだ。罪悪感を理由に、オリオンが与えてくれる環境と、不自由のない生活、彩りと輝きに満ちた日々を手放すことはできない。貴族としてあるべき公としての姿など微塵もなく、どこまでも自分の欲に忠実な、利己的な考えだ。

 『高貴なる者の義務』を当然のように行う貴族に話せば、軽蔑される考え方だとわかっている。それでもやはり、絵を描いて生きることを諦め、捨てるなんて、彼女にはできなかった。

 アメリアは膝の上で拳を握り締める。そして背筋を伸ばして姿勢を正すと、向かい側に腰を下ろすオリオンの旧友を真っ直ぐ見た。

「祝福いただき、ありがとうございます。期待を寄せていただいていることは、重々理解、いたしました」
「はい。とまあ、言っておいてなんですが、そう気負わず――」
「そうだぞ、アメリア嬢。この男の言うことを、それほど重く受け止める必要はないのだ。右から左へ軽く聞き流して――」
「いえ、そのようなことは、できません」

 ラーズが負担を感じさせようとしたわけではないことも、オリオンが庇ってくれようとしていることも、気づいている。それでいてアメリアは言葉を遮り、そうではないのだと、首を振った。

「大切に、します」

 手放せない。

 捨てられない。

 だから、オリオン=ホワイトディアという、北の至宝を誰よりも大事にすると決めた。

「オリオン様を、大切にします」

 それが彼らがアメリアに望んでいる形だとは言い切れない。だが、アメリアは自分のできる形で、そうしたいと思うように、ただそうすると決めたのだ。容易く揺らいでしまった決断もある。

 だがこれだけは――

「わたしが、傍にいるのを、お許しいただける限り――いえ、例え離れることになっても、ずっと」

 アメリアは誰にともなく誓う。

 誓約の対象が見えない言葉は空虚なのか、重く厳しいものなのか。聞き手によって判断は分かれるだろう。正面にいる老いた貴族は静かな面持ちで彼女を見つめ、糸のような細い目をもっと細めて、微笑む。

「ええ、どうぞよろしくお願いいたします」

 ラーズ=トールマン元男爵は頷いた。

「オリオン様、この度は誠におめでとうございます。良い伴侶を得られましたな。私は息子に家督を譲った身ではありますが、トールマン男爵家の代表として、心からお慶び申し上げます」
「おぬしというやつは……急に堅苦しいことを申すでない。胡散臭いだけだぞ」
「ほほほ、形式的なこともまた、大事ですからな」
「だが、ふむ……私は大切にしてもらえるようだ。そんな風に言ってもらえるのは、なかなか嬉しいものだな」

 アメリアが隣を見ると、光を湛えた赤の瞳がこちらを見ていた。口先だけで喜んでいるのでないことは、柔らかな表情と、彼のまとう温かな雰囲気が証明している。

 オリオンがアメリアを尊重し、見守り、支えてくれているのは理解していた。だからその分を返せるくらい、大切にしようと、何度でも誓う。誰にともなく――彼自身にでも、彼の旧友たちにでも、あるいは神にでもなく……それでも、誓うのだ。

 紅玉から目を逸らさないまま、アメリアはもう一度、その誓いを口にした。

 気持ちが前を向き始める。彼の隣に相応しくないという不安が全て消えることはないが、その上で自分にできることはやるのだと、決めた。結婚式の支度を全て任せたり投げやりになったりせず、後ろ向きな気持ちで足を止めるのをやめ、その日を迎える準備をしていくのだ、と――。

 彼女は気持ちをひとつ乗り越えた。

 だが、それで何もかもが順調に進み出したりはしない。独りだけで生きているわけではないのだ。人の営みの世界で生きる以上、周囲には他の人間がいて、その人々はアメリアの気持ちに沿って、お膳立てをするようには動いてはくれない。第三者の干渉は時に残酷なほど、決意をくじこうと襲い掛かってくる。

 ラーズ=トールマン元男爵が訪れた翌日。結婚式をおよそ半月後に控えたその日、小雨の降る中、メルクロニア城にローズハート男爵家の人間が到着した――。




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