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四章 英雄の花嫁

40:絵具屋

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 レグの絵具屋は小さな建物の中に店舗と工房が一体になっている。

 中に入ってすぐの場所が店舗だ。出入口のある面と左右の壁の棚には、乾燥を防ぐための羊皮紙に包まれた、小さな陶製の壺が一定の間隔を開けて並べられていた。手前には色と値段が書かれた札と小皿が置かれている。どうやら同系統の色ごとにわけられているらしい。

 正面を向いたカウンターの向こうには扉があった。頭を丸めた巨躯の老人が出てきた扉で、どうやらその奥が絵の具を作る工房のようだ。

 店に大きな窓はない。上部に申しわけ程度の小窓があるだけのため、小ぶりのランプの灯りしかない店内は薄暗かった。

 それでもアメリアの心は晴れやかで、自然と笑みがこぼれてしまうくらい、心が躍っている。オリオンの古馴染みだという店主がいる手前、店の中をうろつきはしないが、目は忙しく棚に並んだ絵の具へと向けられていた。

「久しいな、レグ」
「はあ、そうですね。最後にお会いしたのは、辺境伯様がバラリオスへ行く前のことですから……かれこれ、十五、六年振りになりますか」
「もうそれほどになるか。道理で互いに老けたはずだ。それにのう、私はすでに辺境伯ではないぞ」
「ああ、これは失礼しました」

 レグと呼ばれた老人は隠されていない左目を見開く。そして、しまったとばかりに苦笑を浮かべ、形のいい丸い頭を撫でた。黒色の丸い眼帯で隠れた右目や屈強な体躯は威圧的な風貌だが、オリオンと話す表情や比較的ゆっくりとした話し口は、穏やかそうな雰囲気を醸し出している。

 彼の左目が、オリオンの隣に立つアメリアを映した。だが彼女は見られていることに気付かず、棚のブラウンの絵の具が並ぶ列に意識を持っていかれている。

「オリオン様、そちらのお嬢さんは……」
「彼女は私の婚約者である、アメリア=ローズハート嬢だ」
「……それは……なんと……」

 レグが左目をまたたかせた。

「いやはや、結婚のお相手が若いお嬢様だと聞いてはいましたが……聞いていたよりも、はるかにお若い女性ですね。さすがオリオン様と感嘆すべきか、齢六十を過ぎた身でうら若き女性と婚姻など何を考えてのことかと問い詰めるべきか……」
「感嘆や追及よりもまずは祝福してほしいものだ。戦友の婚姻ぞ?」
「俺にとっては戦友というより上官ですけどねえ……まあ、ともかく、ご結婚おめでとうございます。白鹿の尊き御方が伴侶を迎えられますこと、北の地に住まう民として喜ばしい限りです」

 隻眼の老人は胸に手を当て深く頭を下げる。最初こそ冗談染みた物言いだったが、祝福の言葉には温かな感情が込められているとわかるような声音だ。オリオンは「ありがとう。さ、頭を上げてくれ」と顔を綻ばせた。

 そしてオリオンが耳心地のいい声でアメリアを呼ぶ。絵の具に意識を奪われていた彼女はようやく、隣に立つ白熊のような――アメリアにしてみれば白兎のような――オリオンを意識の中へ迎え入れた。

「――オリオン様?」
「紹介させておくれ。この男はレグ=オーマン。私が、今のそなたほどの歳の頃からの付き合いでのう。共に戦った戦友だ」
「オリオン様の戦友の、レグ様……」
「様!? いやいや、やめてください! 俺は農家の三男坊で、生粋の平民……って言い方は変ですが、まあ、そんなもんなんです。貴族のお嬢様に様なんてつけて呼ばれると落ちつかなくていけない。どうぞレグとお呼びください」
「では、レグさん、と。あの……絵の具を見ても?」
「絵の具? ええ、それはもちろん、絵具屋ですから……」

 アメリアは短く礼を言うと、オリオンやレグから離れて、棚に並ぶ陶製の壺を見て回る。

 壺の前に置かれた小皿には見本の色が出ていた。乾燥しているが発色がいい。丁寧に作られているのがわかる。アメリアは小皿を手に取り、角度を変えながら吟味していく。しかしランプの薄明かりの中では、どれが必要な色か判別できない。

 眉を寄せながら店内を見回し――ふと視線を止める。

(あそこなら……)

 店内でたった一か所だけ、光が斜に差している場所がある。店の上部に申しわけ程度につけられた小窓から差し込む陽の光だ。彼女は絵の具が置かれた小皿を手に、その場所と棚とを行ったり来たりして、色を吟味していく。

 必要な色、必要でない色、必要になるかもしれない色を選別する中で、ただ単純に欲しい色も出てくる。絵の具をはじめ、筆やパレットなど、良い品質の画材に出会うと所有したくなるのは、画家のサガだ。物欲は薄い彼女だが、そこに関しては資金を費やしてしまう。レグの絵具屋の品揃えは彼女の購買意欲を大いに刺激した。

 本来、絵の具は画家自ら作ることが多い。自分の望む色を生むのに、それが最適解だからだ。しかしその作業はたやすくはなかった。顔料を砕き、油と練り上げる作業は大変で、名のある画家であれば修行中の弟子に任せる工程だ。

 そんな作業だからこそ絵具屋の需要があった。絵具屋の多くは売れない画家の成れの果てである。芽が出ない絵描きや、師の元を去った絵描き、絵一本では食べていけない画家が転業し、絵の具作りを専業するようになるのだ。

 絵の具を吟味するアメリアを、オリオンとレグが眺めていた。

「アメリア様が絵をお描きになるんですか?」
「うむ。広めるなよ」
「ええ、心得ています」
「本人は隠そうとしておるが、いかんせん、本能とは厄介なものだ。理性的な考えで決意をしたことがあろうとも、こうして絵に関する誘惑を前にしてしまえば、全て吹き飛んでしまうらしい。昔のそなたのようにのう」
「ほほう、そうなんですね」

 眩しいものを見るかのように、ふたりが目を細める。すると、それまで絵の具を光にかざしていたアメリアが、不意にオリオンたちのほうを見た。そしてスッと近づいてくると、オリオンの元へ――ではなく、レグの前に立つ。

「レグさん、絵の具はここに並んでいるものが全てですか?」
「いえ、値の張る絵の具は並べていませんので……」
「見せてください」
「ああ、はい、お持ちします」

 そう言うとレグは一度、工房のほうへ戻って行った。

「気に入った色がなかったのか?」
「え? あ、いえ、そんなことはありません。欲しい色は選んでいます。ただ……あるものは、全て見てみたくて……すみません……」
「何を謝る必要があろうか。気持ちはわかる。表には出さぬ商品というのが、多くの店にあるものだ。私も若い頃、剣を買う時によく言うておった。店主、店に出していない品はあるか、とな」
「そうなの、ですか?」
「ん? 信じられぬか?」

 オリオンが『おや?』とばかりに眉を動かし、小首を傾げる。アメリアはハッとして「いえ!」と首を横に振った。

「オリオン様は、特注の武器を使っていらしたと思っていたので……」
「ある程度の戦果を挙げるようになってからは、そうであった。鍛冶屋に赴き、ああしろこうしろと注文をつけては、鍛冶師の親方に嫌な顔をされたものだ」
「嫌な顔、ですか?」

 ホワイトディアの名を冠するオリオンに使用してもらえるのなら、鍛冶師も喜びそうなものなのに、そうではなかったらしい。辺境伯家のお墨付きを貰えれば、客足に悩むことはなくなる。アメリアにもそのくらいの想像はついた。

「うむ、だがまあ、鍛冶師の気持ちはわからんでもない。あれこれ注文をつけておきながら、戦場ですぐ使い潰しておったからのう」

 彼はフッと笑って、肩をすくめる。嘘か本当かわからない冗談めかした言い方に、アメリアも口元に小さな笑みを浮かべた。

 和やかな空気で話していると、工房からレグが戻ってくる。彼は細工の施された木箱をカウンターに置き、アメリアはオリオンと共にそちらへ移動した。

 レグは被せてあった蓋を外して箱の前に置くと、その上に中に入っていた商品を並べていく。それは棚に陳列してあるような陶製の壺ではなく、彼女の拳よりふた回りほど小さな皮の袋だった。

「左からウルトラマリン、ヴァーミリオン、マシコット――」

 皮の袋に入った状態では中は見えない。レグがひとつひとつの色の名前を言っていくのを、アメリアは真剣な顔で聞いていた。

 説明が終わり、アメリアが気になる色を指差すと、レグは小皿を用意して皮の袋を手に取る。そして鋲で底に穴を開け、皿の上に絵の具を絞り出した。

「綺麗な青……」
「当店でもっとも高価な色です」

 店主は皮の袋に開けた穴に鋲を押し込み栓をする。

「意外と透明度が高いですね」
「おわかりになりますか」
「ええ――」

 絵の具になる前の鉱物は、さぞ上物だったのだろう。磨き上げれば宝石として、どこぞの貴族を飾る宝飾品に成っていたはずだ。この青をどう使うか。アメリアの頭はすでに動き出していた。

「緑も見せてください」
「はい、すぐに――」

 先ほどと同じようにレグが皮の袋に鋲を刺す。そして小皿に緑の絵の具を絞り出した。こちらも丁寧に練り上げられているのがわかる。

「ほう、美しいものだな」

 オリオンが綺麗に整えたヒゲの上から顎を撫でながら言った。アメリアの隣に立った彼は、小さな皿を覗き込みながら感心している。大きな身体を曲げて興味深そうに見ているかつての上官に、レグは隻眼をまたたかせていた。

「長い付き合いになりますが、俺ぁ、貴方が絵の具を美しいだなんておっしゃるのを初めて聞きましたよ」
「そうだったかのう」
「ええ、そうですよ。時代と言ってしまえばそれまでですが、オリオン様は絵や音楽といったものに興味がなかったでしょう?」
「興味がなかったということはないぞ。よくわからなかっただけだ」
「では、今はおわかりになると?」
「少しではあるが、な」

 アメリアが緑の絵の具が乗った皿を置く。するとオリオンの大きな手がそっと皿を持っていった。真剣に色の度合いを見ていた彼女も、ついその手の行方を目で追う。彼の手中にあると皿はますます小さく見えた。

(不思議な感じだわ)

 オリオンが絵の具を持っている。なんでもないことだが、彼がアメリアがしていたようにまじまじと色の明るさや透明度を確認する様子は、見ていて新鮮だ。あまりにも見すぎていたからか、不意にオリオンのふたつの紅玉が彼女を映した。

 目が合って、ジッと見つめられている。逸らすに逸らせず、アメリアもそのままオリオンの瞳を見ていた。ふ、と彼が表情を緩める。

「この緑は、そなたの瞳の色によく似ておる」
「え……」
「そう思って見ていたが、ふむ……比べると、アメリア嬢の瞳のほうがもう少し明るいかのう……」
「そうです、か?」
「うむ。この美しい緑を、どうすればそなたの瞳により近付けられるのか……このように考えること、それが芸術の第一歩なのやもしれぬな」

 彼はやわく目を細めると、アメリアから視線を外した。そして絵の具が乗った皿をレグに手渡す。

「彼女が求めた色は全て包んでくれ。それとはべつに、私にこの色を」
「……あ、はい、すぐ! 準備してきます!」

 レグはハッとすると、とんでもないものを見たとばかりに工房の奥へ行ってしまった。そんな元部下の様子にオリオンは機嫌良さそうに笑っている。

 普段アメリアは人物画は描かない。彼女が描くのは風景画ばかりだ。だからあまり考えたことがなかったが――

「オリオン様」
「ん?」

 アメリアは皮の袋を手に取る。どれに何色が入っているかは、最初の説明の時に聞いていた。鋲で穴を開け、まっさらな更に絞り出す。そして鋲で栓をした皮の袋を置き、その皿を両手で持ってオリオンに見せた。

「ヴァーミリオン……オリオン様の、瞳の色です」
「ほう、これが?」
「光にかざして見ると……あるいはキャンバスに乗せてみると、もっと鮮やかで、それでいて透明度のある色に見えると思います。とても、強くて、綺麗な色です」

 人物画は描かない。それでも、この色を使って描けば、オリオンの瞳はさぞ美しい出来栄えになるだろう。

 アメリアの手ごと包むように、オリオンが赤の絵の具が乗った皿を手に取った。彼が身を屈めると、赤い目と皿の上の赤との距離が近くなる。レグがどの色を買うのか注文を聞きに戻ってくるまで、彼女はオリオンの双眸を静かに見つめていた――。




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