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四章 英雄の花嫁

39:メルクロニアの黄金城

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 アメリア=ローズハートは、あれほど固めていた決意が一瞬で瓦解していくのがわかった。メルクロニアにいる間は絵を描くのを休むと、しばらく筆を置くのだと決めて、オリオンにもそう伝えたのに、被写体から目を逸らせない。

 ――事の起こりは、まだ夜が明ける前のこと。防寒具などの身支度を整えたアメリアは、オリオンに連れられて竜舎へ向かい、彼の相棒である白竜のクィーンの背に乗せてもらった。そして城を発ち、メルクロニア城や城下の街をを一望できる高い崖の上に降り立った。

 春の足音が聞こえるとはいえ、早朝のホワイトディア辺境領はまだ寒い。毛布にくるまって白い息を吐きながら、その時がくるのを待つ――やがてアメリアたちの背後にそびえる山の向こうから、朝陽が昇ってきて――

(……ぁ……)

 彼女は後ろを振り向いた。薄暗い空にたなびく雲が紅く染まっていく。太陽の輪郭はまだ見えない。山の上の空で霞を帯びた色合いの藍と紅が混ざり合い、世界をほんのりと明るく照らし出している。朝焼けだ。緑の目はじっと空を見つめていた。その間、オリオンは何も言わない。ただ静かにクィーンの傍らに立っていた。

 アメリアにとっては刹那の時間――実際には少しの時間の後、朝焼けは眩い金色へと彩を変えていく。太陽の輪郭が見えてきて、彼女は空から目を離した。そして誰に何を言われるでもなく、もともと見ていた城のほうへ向き直り……息を呑む。

 まるで夢に浮かされているかのような心地だ。彼女の意識は一瞬で目の前の光景に囚われた。ふらふらとした足取りで、崖の縁へと近づいて行く。

 それは、一度は見てみたいと思っていた光景だ。

「――メルクロニアの黄金城……」

 荘厳な白亜の壁のメルクロニア城が、朝焼けを経て昇ってきた朝陽を浴び、黄金色に輝いている。城自体が小高くなった場所にあるため、城下の街にそびえるどんな建物よりも早く、東側の城壁が陽光を受けていた。城を築いた建築家が東の城壁に特殊な施工をしたようで、日差しはさまざまな角度で反射する。細かな凹凸があるのだろう。きらきらと、光の粒子が躍っているかのようだった。

 そして光が差すにつれて、メルクロニア城の影が伸びていく。影とのコントラストがより光を際立たせた。アメリアはまばたきすることも、意識的な呼吸すらも忘れて眼下の光景を目に焼き付ける。

 城壁に反射した太陽の光が周辺の草木や、濠に張られた水を、黄金色に染め上げていた。目が眩みそうになるほどの輝きだ。単純な陽光の輝きではない。もっと鮮やかな、自然の生命力が溢れ出すかのような、彩度の高さ。人工の建造物と自然との調和が取れた圧巻の景観だった。

 メルクロニアの黄金城が見れるのは、夜明けの間の、ほんのわずかな時間だけだ。限られた時間にのみ現れる光景を見逃さないよう、アメリアは熱のこもった目で見つめていたが――やがて、その時間は終わりを迎えた。

「……っ、は……」

 どこかまだ夢見心地の気分でいた。けれど不意に肺の苦しさを覚えて、彼女は大きく息を吸う。無意識の内に呼吸の頻度が下がっていたようだ。胸を押さえながら何度か深く呼吸をするが、それでも膝の力が抜けていく。アメリアは立っていられなくなり、その場にへたり込みそうになった――

「美しかろう?」

 その瞬間、後ろから伸びてきたオリオンのたくましい腕が、崩れかけたアメリアの身体を支えてくれた。足の力はまだ入らない。防寒のためにぐるぐる巻きつけていた毛布越しに抱かれ、身動きが取れなかった。だが、例え動けたとしても、アメリアは向こうにそびえるメルクロニア城から顔を背けることはしなかっただろう。

「はい。とても。言葉では、言い表せないくらいに……」
「私はな、ここから見る黄金城がもっとも美しいと思うておる。竜で直接乗りつけねば足を運べぬ場所ではあるが、昔はよく来ていた」
「昔……辺境伯だった頃、ですか?」
「うむ。どのような言葉で飾っても陳腐に聞こえてしまうほど、この場所から見る景色は美しく、ホワイトディアに住まう者たちの生きてきた歩みを感じざるを得ないのだ」
「生きてきた歩み……」

 アメリアが繰り返すように呟くと、オリオンは静かに語り出す。かつてのこの北の大地は、今よりも遥かに人の住みにくい場所であった、と――。

「この地は雪深い。品種の改良が進んだ今でこそ作物が育つようになったが、我が祖先の時代はもまともに育つ作物などなかったそうだ。飢えに苦しみ、寒さに震え、幼い命や老いた命は、冬を越えられぬことも珍しくなかったと聞く。そして――」

 北にも南にも戦地を抱えたホワイトディア領は、常に貧しかった。

 しかしオリオンの祖先たちはこの地を捨てることなく、戦禍の中、荒れた地を起こし、森を切り開き、育つ作物を生み、経済の基盤を整え……少しずつ、この地を人が豊かに生活できる場所へと成長させていった。

 彼は祖先や過去に生きていた領民たちを、誇らしく思っているのだろう。声は優しく、穏やかでありながら、凛とした響きでアメリアの耳へ流れてくる。

「この場所からは、城はもちろん、メルクロニアの城下が見える。領民の営みが手に取るようにわかるのだ。商店も住居も、宿も、寂れたところはひとつもない。ここは辺境領の中心だ。先祖はメルクロニアの存在を重要視し、戦いのさなかであったにも関わらず、各地へ繋がる街道を整えておった」
「慧眼、ですね。戦時中、莫大な資金と労働力をそこへ投じるのは、判断に悩みそうです」
「目先のことではなく、未来を見ていたのであろうな」

 今現在に重点を置きすぎることも、未来への発展に重点を置きすぎることも、領主の判断としては危険だ。大事なのはバランスである。今を生きる者たちを未来の犠牲にするのは良いことではなく、かといって現状維持を続けるのは後退と同じだと、アメリアが昔読んだ本にあった。それはローズハート男爵領にある屋敷の書斎にしまわれていた本で、領主の心構えについて書かれていた。

 領地の規模はまったく違う。それなのに、オリオンの話を聞いて、昔読んだ本の記憶が掘り起こされるとは思ってもみなかった。

「過去を生き抜いた人々と、今を生きる人々。この場所に立つと、どちらもよく見える。領主であった頃、よくここへ来ていたのは……先達が遺したものを、愛すべき同胞たちを、守らねばならぬと血が沸き立つからだ」
「血が――」

 心が震えるでもなく、力が湧くでもなく、血が沸き立つと、オリオンは言った。その言葉は長きに渡り、戦いの前線に身を置いていた英雄の、あるいは、北の地に君臨していた王らしい言葉だ。

「王国に侮られ、蛮族と揶揄されていたホワイトディア領が、今や王権にも揺るがぬ力を持っておる。それだけのものを得るために、多くの血が流れ、同胞の尊い命は儚くなった。ここから見える景観も、ここからでは見えない景観も、ただ美しいだけのものではない。それをそなたにも、知っていてほしかった」
「はい……」
「その上で、アメリア嬢……そなたは黄金城をどう描く?」

 昨日口にしたばかりの決意がとっくに瓦解していることを、オリオンは気付いているらしい。そもそも瓦解するように仕向けられたと言うべきか。これほどの絶景を目にしてしまえば、もう、筆を休ませることはできない。

 メルクロニアの黄金城を、どう描くか。

 そう問われたアメリアは、小さく首を傾げる。

「わたしは……わたしの目に映ったままの、美しい姿を描きます」
「ほう。その美しさの中に、血に濡れた過去があってもか?」
「美しいと感じたものは、どんな過去があっても美しいです。それに……わたしは、描きたいと思ったものを描くだけで、それ以外のことを考えながら描くなんて、器用なまねはできません」

 複雑な背景に思いを馳せながら絵を描くことはできない。目の前の景色とカンバスに集中できていなければ、納得できる絵にならないのだ。それに血に濡れた背景を聞いてなお、眼前の景色の美しさは薄れない。

(早く、描きたいわ)

 自力で立つことすらままならなかった足に、力が戻ってくる。彼女の足はしっかりと地面を踏みしめた。アメリアは首を動かして、後ろを振り返る。

「オリオン様」
「ん?」
「メルクロニアの城下に、絵具屋はありますか?」

 彼女のグリーンアイは光を宿し、真っ直ぐオリオンを見つめた。彼はふっと笑みをこぼし、赤の目をやわく細める。

「もちろんだとも。案内しよう」
「ありがとうございます」

 今すぐ行きましょう、と。

 すでに翻ってしまっているが、筆を置く決意をしていた反動か、アメリアの気分は珍しく高揚していた。バラリオスに愛用の筆や絵の具は置いてきてしまっている。早く購入して描き始めたい。

 そんなアメリアの気持ちを、オリオンは汲んでくれた――。

 一度メルクロニア城へ戻ったふたりは、竜舎でクィーンと別れ、そのままの足で城下の街へと向かった。

 まだ朝も早い時間だが街は活気に満ちている。おしのびではないためオリオンは普段通りの姿だ。もっともどんな格好をしていても、頭ひとつ分以上雑踏から抜け、体格もがっしりした彼は目立ち、忍ぶのは困難だろう。領民は先代辺境伯の姿を見つけて驚き、それからすぐ嬉しそうに声をかけてくる。

「御老公様、おはようございます!」
「あっ、御老公様! 搾りたてのフルーツジュースはいかがです?」

 オリオンは堂々とした笑顔で領民の声に応え、返事をしたり、手を振ったりしながら人の波の間を抜けていく。アメリアははぐれないように彼の腕に掴まっていた。慣れない群衆に気圧される。身体を半分オリオンの背に隠すようにして、必死にしがみつきながらついて行った。

 人が溢れる大通りから逸れて、落ち着いた雰囲気の区画に入る。その辺りはどうやら個人の工房が建ち並ぶ場所のようで、建物の佇まいは民家に似ていた。工房の軒先にぶら下がった小さな看板がなければ、戸口を叩きはしないだろう。

「人に酔いはしなかったか?」
「はい。なんとか」
「すまんのう。この図体だ。どうしても目立ってしまう」
「オリオン様とはぐれても、すぐ見つけられますね」
「そうだのう。だが、何よりもまず、はぐれぬのが一番だ。だからアメリア嬢、しっかりと掴まっていておくれ」

 そう言ってオリオンが微笑んだ。

 アメリアは「はい」と頷く。けれど例え自分が手を離してしまっても、はぐれる前に彼が引き戻してくれるだろうと思った。

 群衆の波の中を進んでいる時も、歩幅はもちろん、いろいろと気を遣ってくれていたのはわかっている。おそらくオリオンにしてみれば、腰を抱いてエスコートしながら歩くほうが楽だったはずだ。しかし、アメリアが衆目に晒されて目立つことが苦手だと知っている彼は、腕を掴ませ、自身の大きな身体を壁にするかのように歩いてくれた。

 それほどの気遣いに気付いていたからこそ、アメリアは雑踏の中ではぐれるかもしれないという心配を、まったくしていなかった。

 大通りよりも遥かに静かな区画を進んでいると、やがてオリオンが一軒の小さな建物の前で足を止める。レンガ造りの民家のような家だが、大きな窓はない。申しわけ程度に上部に小さな丸い窓があるだけだ。軒先にぶら下がっている木製の板には『レグの絵具屋』と書かれていた。

「ここですか?」
「うむ。古馴染みの店だ」

 オリオンが戸を開ける。カロン、カロンと、戸の上につけられていた低い音のベルが鳴った。それと同時に絵の具特有の匂いが鼻腔をくすぐってくる。否が応でも心が沸き立っていくのを感じた。アメリアはオリオンの腕から手を離し、店内に足を踏み入れる。

「はいはい、いらっしゃ――えっ? 辺境伯様!?」

 カウンターの奥の扉から、頭を丸めた立派な体格の老人が顔を出した。歴戦の猛者然りとした風貌の男だ。右目には黒色の丸い眼帯をし、絵の具のついたエプロンをつけていた。一度見たら忘れられない雰囲気を醸し出している。

 だが、アメリアの目は老人を映していない。彼女の意識はとっくに、店内の棚に並ぶ絵の具へと持っていかれていたのだった――。



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