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プロローグ
猫の喫茶店と伝統の味――充と静流
しおりを挟むそこは裏通りを右に曲がったところにある、木造の洋風屋敷だ。銅板の看板が打ち付けられていて、深々とした雪が降り積もっている中を、女性が歩いていく。傘は色の褪めたオレンジで、年はまだうら若くも思えた。
「いらっしゃいませ」
ちりんちりんという鐘の音が、重たげな扉を押すと共に鳴り響いた。寒々しい外とは打って変わって、昔ながらのストォヴと上に乗せられた薬缶、それから何故かみかんも皮ごとどんと置いてあった。
……焦げそうだが、いいのだろうか。と彼女は考えた。
「お席はどうぞご自由に」
「あ、はい」
彼女はカウンターに腰掛けた。大きな銅板が壁にかけられており、秘密保管庫、と表の看板とは別の名称が記されている。
「絹子さんが眠っているので、お静かに」
「きぬこさん……?」
店主に教えられて、その指の方向を見る。女性ははっと口元を覆ってから、その掌の内側でふにゃりと笑み崩れた。
「ずいぶん綺麗な猫さんですね」
「ええ。猫はお好きで?」
「実家で飼っていたんです。黒いのと、斑白の」
すやすやと眠っている――ストォヴのそばのソファをまるまる一つ占領した、日差しをぴったりと浴びてきんいろの毛並みをした、美猫だ。ぴくりと時折耳が震えるのだが、それがまた愛らしい。
「今日は、いかがしますか?」
席と席の真ん中あたりに設置されたメニューを見て、女性はそっと息を詰めた。
震える指で、それを指差す。
「かぼちゃのパウンドケーキと、コーヒーと、とっておきの秘密の箱を」
ぴたり、ととっくに綺麗になったカップを拭いていた手がとまった。メガネを掛けた好々爺といったていの店主は、笑みをひっこめて女性を見つめた。
「――ええ。もちろん、お預かりしましょう」
ゆっくりと彼は頷き、一度キッチンへと引っ込んだ。手に厚切りのパウンドケーキを、それから赤いマグカップを連れてきて。豆から挽いたらしいコーヒーを、注ぐ。ミルクも砂糖も頼まなかったのだが、言う前にたっぷりのクリームとホンの少しの砂糖を追加している。どうして、気づいたのだろうと女性は首をかしげた。抜群に美味しい、彼女好みの味をしていた。
ゆっくりと一口味わってから、彼女はノートを差し出した。
「……お願いしたいのは、こちらのノートです」
「依頼されるということは、リスクは承知ですね」
「ええ。それでも、夫の遺品を託せるのは、こちらだけです」
私は、後妻なんです、と女性は言った。
「後添えとしても年の差がありすぎましたから、きっと大事なひと以外は誤解したでしょう。夫はやきとり屋から始まって大きな店を経営する、叩き上げでした。離婚した前の奥さんとの間に二人、お子さんを設けていまして、上の子が私よりも三つ年下でした。思春期の頃にそんなことになって、色々ともめましたが――最後には分かってくれたと、信じています。
でも、夫が亡くなり、親戚がしゃしゃり出てくるようになると、ふたりは家をどちらが継ぐかで争い始めました。ふたりともに、自分が父の跡目であると主張しました。折り悪く私は体調を崩して――妊娠が、分かりました。
それからというもの、こじれにこじれ、ストレスのたまっていた私は、怒鳴りつけてしまったのです。『あのひとの作った焼き鳥丼と同じものを作れたものに私の持つ株式を譲る』と。実質的な、跡目相続です。
このノートには、秘伝のやきとりのタレについて、書かれています」
これを、あなたに保管していただきたい。
「わかっていらっしゃるでしょうが、約束はふたつ。ひとつは犯罪の片棒ではないこと。もうひとつは保管人である私が、その内容を知ること」
「ええ。存じております」
彼女は相続問題の焦点となりうるものを、あっけなく開いた。
「持っていると親戚にいろいろとされて危険ですし、お預けするだけです。かならず取りに来ますから――ええ、跡目が決まった時に」
そこに書いてあるのはりんごやらソースやら醤油やらが、だいたい『適量』という二文字で表記されたレシピ本だった。
なるほどこれでは――
「ほかの人間の手に渡っても意味がありませんが、価値を知る、味を識る者にとっては億の価値があります。ほんとうに重要なのはこちらで、株なんてどうせ、金をばらまけば済む話なんです」
秘密保管庫の稼業を行う老人は、大胆で若く、豪快な女性の物言いにはははと笑った。
「よろしい、このノートは、責任をもって預からせていただきましょう」
女性は共犯者めいた笑みを浮かべて、甘いカフェオレを飲み干した。かぼちゃのパウンドケーキが、秋のほっこりとした匂いを振りまいている。
憂いを下ろした後はもう、ただの甘いものは別腹な女性だ。十分に楽しみ、代金を支払って「美味しかったわ。ごちそうさまでした」と告げ出て行った。
「たまに思うんだけどさ」
彼女がちりんちりんという音を立てて退室すると、奥の方から青年が現れた。老人よりも遥かに若いが、妙に似通った風貌の持ち主だ。
「ああいう人って、どうして不思議とちゃんと問題を解決して返ってくるんだろうね」
老人は意味ありげに微笑んだ。
「どんな問題もね。解決策っていうのはたいがいもう既に頭のなかにあるものだよ。人間は意気地が無かったり、大事なものに囚われたりしていて、それができないだけで。彼女にとってはあのレシピを一度手放すことが、一歩踏み出すために必要なんだろう」
まあ見ていなさい、と猫の絹子さんがするりソファから下りるのを見守りながら老人店主は言う。自信たっぷりに。
「彼女は必ず戻ってきて、きっちり始末をつけて、ここでお茶するよ」
果たしてそれは――叶ったのである。
どんな秘密も絶対に預かるカフェを、赤子を連れた女性が訪れたのは半年以上経ってからだった。絹子さんが春の陽気に釣られて散歩へ赴いていて、店主のそばには孫息子が立つようになっていた。定番のパウンドケーキは、苺ジャム仕様になっている。
このジャムも手作りで、スコーンにもとても合う。
「秋にノートを預けた者です。約束の品をお願いしますわ」
「というと、跡目は決まりましたか」
「ええ。この子に」
腕の中の赤子は、どう見てもやきとり丼が作れるようなてのひらをしていない。もみじのように小さな、愛らしい、タオルを握ってふにゃふにゃ笑っている。
憤然とした若き母は、きっぱりと言い切った。
「満足に鳥もさばけない、挙句にひとの作ったやきとり丼を食べて『父さんが帰ってきた』と泣くような義息子なんて、頼りになりません!」
元は若くしてキッチンいちばんの料理人として見込まれ、その味を伝授されたという未亡人は、いちごのパウンドケーキを食べながらそう言い切った。
甘くしっとりとした生地に嬉しそうに微笑んだかと思うと、義息子のていたらくに眉尻を釣り上げる、というなんとも忙しい顔面をしている。
「なので今は乳飲み子を抱えて義息子たちを鍛えているところです。私もきっちり覚えてはいるのですが、やはり心もとなくて」
おそらくはそれは、彼女にとってそのノートが、レシピ以上の価値を持つということだろう。
大切そうに古びたノートを抱きしめた婦人は、はっと気付いて店主に語りかける。
「……本当は、跡目とか、そんな難しいことは、どうでもいいんです。この子だって、周囲を黙らせるためにその位置に据えましたが、カバー出来ないほどの味音痴という可能性もありますし」
「まさか」
「運動好きの子になるかもしれない。歌うのが好きになるのかも。この子がどんなふうに育っていくかなんて、親の私にも分からないし、どうこうできることではないです」
その言葉はまるで、自分に言い聞かせているようであった。子育てを経験しているだろう老人に対する、宣言のようにも。
「ただ、食べるのだけはすきで居てほしい。それは生きる上での基本だから。できれば、命を食べているということを、よく理解してほしい。その上で、思い切り楽しんでほしいと思うのです」
絹子さんがエールのように、にゃおんと鳴いた。
「もしかしたら十年か、二十年後かに私のノートを預けに来ますね。その時は、どうぞよろしく」
「分かりました。きっとこっちもアレに代替わりしているでしょう」
店主にアレ、と示された青年は猫用出入り口から戻ってきた絹子さんにせがまれて、抱き上げている。ソファで優雅に午睡をしている時とはまるで違う人、いや猫のように甘え声を出していた。
「そちらの家を継ぐ条件が『やきとり丼』ならこっちの条件は『絹子さんに好かれること』でしてね。親戚も子供も孫にもまったく懐かなかったのですが、このこにだけは不思議と擦り寄る。私が嫉妬してしまいそうです」
にゃおん、にゃおんとごろごろごろと。撫でられて抱きしめられた絹子さんはとても幸せそうだ。猫好き未亡人も、知らずに目元を緩めた。赤ん坊はまだ、すやすやと眠っている。
しばらくの間ティータイムを楽しみ、閑散とした店をあとにした。その女性の後ろ姿へ、老人と孫息子と絹子さんは頭を下げる。
「喫茶店兼秘密保管庫『ARCANUM』どうぞご贔屓に」
ここは裏通りを右に曲がった先に在る古い洋館。美味しいケーキとコーヒーと紅茶を出す、知る人ぞ知る名店。そして、誰かの秘密を預かり守る、不思議なお店だ。
甘いものが欲しいとき、ほっと一息つきたいとき、誰かになにかを託したいとき――きんいろの美猫に会いたいとき、ぜひご利用ください。
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