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ルゥリは通された広すぎる部屋で、借りてきた猫のようにおとなしくソファに腰掛けていた。
目の前には紅茶のカップが置かれていたが、作法もわからないので、手をつける気にはなれないでいた。
(すごいお屋敷……男爵様がおっしゃっていたのは本当だったんだ)
調度品は見たこともないほど煌びやかで、その中で着古したシャツとズボンとベストの自分は大層みすぼらしく思えた。それだって村では立派な方だったのに。
男爵からもらった手紙は少し太っちょの執事に渡してしまった。ペンダントは母から肌身離さず持っているように言いつけられていたから、服の下に身につけているけれど。
ルゥリはシャツの上からペンダントヘッドをきつく握りしめた。手に跡がつくほどに。いま、頼れるものはこれしかない。馬車で何日もかかる道のりを歩いてきたのだ。他にはなにも持っていなかった。行くあてもなかった。
(伯爵様が怖い人だったらどうしよう)
これまでのことを思えば、歓迎されるとは到底思えなかった。けれどルゥリのような子供がひとりで生きていくのは難儀であることもまたわかっていた。美しいと評判で愛されていた母でさえ、病を得て何日もせずに簡単に死んでしまったのだ。ルゥリなんてきっともっと簡単だ。
だから男爵の言葉を信じてここまで来たのだ。家畜の世話でも、庭師の見習いでもなんでもやるから置いて欲しい、床に伏してでもそう頼むしかないと彼は思っていた。
悲壮な決意を秘めたルゥリの耳に扉がノックされる音が届き、俯いた肩がビクッと揺れた。
「おや、手をつけていらっしゃらないのですか」
それは先程の執事だった。
「お気に召しませんでしたか?」
初めて会ったときと違う柔和な笑みに、ルゥリの肩の力も抜け気分もいくらか和らいだ。答えを返せず黙って微笑み返すと、執事もまた微笑み返してくれた。それもまたルゥリを安堵させた。
「まもなく伯爵がおみえになります。粗相のないように」
その単語にルゥリの肩が再びギクリと強ばる。
(粗相って……)
ルゥリの脳裏に暗闇に浮かぶアルバートのシルエットがよぎった。粗相をしたと言っては自分に向かって細いムチを振るった。どんなに謝っても許してはもらえず、アルバートの気がすむまでそれは続けられた。指の隙間から見えた目がぎらぎらと光っていて、大層恐ろしかった。伯爵も同じだったら。そう思うと身体が震える。
(でも)
男爵は優しい日もあった。甘いお菓子をくれて、頭を撫でて、抱きしめてくれた。
そう思うことでルゥリは必死に恐怖を抑え込もうと、力を入れて拳を握った。それは執事の言葉も耳に入らぬほどだった。
絨毯で足音はしなかったとはいえ、大股で自分に近づいてくる男の気配にも気付かぬほどに。
急に顎を取られ上をむかされて、ルゥリは驚きに目をみはった。気付いたときには片手でルゥリの顔ほどもある大きな手に捕まえられていた。
「どうした? 顔色が悪いな」
覗き込んでくるのは黒く鋭い瞳。太めの眉としっかりした顎。不健康で痩せていた男爵とは全く違う。こんな大きくて迫力のある男を間近で見るのは初めてだった。
(怖い)
「ぁ……」
「慣れぬことに驚いているのでしょう、旦那様。お茶でも召し上がられませんか」
青ざめたルゥリに執事が非礼とは思いつつ、助けの手を出した。その言葉に伯爵はルゥリから手を離して、少し離れたソファに凭れた。すかさず茶が運ばれてくる。
「名前は何という?」
給仕にはめもくれずに、伯爵はルゥリをじっと睨みつけた。
「ルゥリ・モーランです」
震える声で紡がれた庶民の響きに、伯爵と執事は視線を合わせた。
目の前には紅茶のカップが置かれていたが、作法もわからないので、手をつける気にはなれないでいた。
(すごいお屋敷……男爵様がおっしゃっていたのは本当だったんだ)
調度品は見たこともないほど煌びやかで、その中で着古したシャツとズボンとベストの自分は大層みすぼらしく思えた。それだって村では立派な方だったのに。
男爵からもらった手紙は少し太っちょの執事に渡してしまった。ペンダントは母から肌身離さず持っているように言いつけられていたから、服の下に身につけているけれど。
ルゥリはシャツの上からペンダントヘッドをきつく握りしめた。手に跡がつくほどに。いま、頼れるものはこれしかない。馬車で何日もかかる道のりを歩いてきたのだ。他にはなにも持っていなかった。行くあてもなかった。
(伯爵様が怖い人だったらどうしよう)
これまでのことを思えば、歓迎されるとは到底思えなかった。けれどルゥリのような子供がひとりで生きていくのは難儀であることもまたわかっていた。美しいと評判で愛されていた母でさえ、病を得て何日もせずに簡単に死んでしまったのだ。ルゥリなんてきっともっと簡単だ。
だから男爵の言葉を信じてここまで来たのだ。家畜の世話でも、庭師の見習いでもなんでもやるから置いて欲しい、床に伏してでもそう頼むしかないと彼は思っていた。
悲壮な決意を秘めたルゥリの耳に扉がノックされる音が届き、俯いた肩がビクッと揺れた。
「おや、手をつけていらっしゃらないのですか」
それは先程の執事だった。
「お気に召しませんでしたか?」
初めて会ったときと違う柔和な笑みに、ルゥリの肩の力も抜け気分もいくらか和らいだ。答えを返せず黙って微笑み返すと、執事もまた微笑み返してくれた。それもまたルゥリを安堵させた。
「まもなく伯爵がおみえになります。粗相のないように」
その単語にルゥリの肩が再びギクリと強ばる。
(粗相って……)
ルゥリの脳裏に暗闇に浮かぶアルバートのシルエットがよぎった。粗相をしたと言っては自分に向かって細いムチを振るった。どんなに謝っても許してはもらえず、アルバートの気がすむまでそれは続けられた。指の隙間から見えた目がぎらぎらと光っていて、大層恐ろしかった。伯爵も同じだったら。そう思うと身体が震える。
(でも)
男爵は優しい日もあった。甘いお菓子をくれて、頭を撫でて、抱きしめてくれた。
そう思うことでルゥリは必死に恐怖を抑え込もうと、力を入れて拳を握った。それは執事の言葉も耳に入らぬほどだった。
絨毯で足音はしなかったとはいえ、大股で自分に近づいてくる男の気配にも気付かぬほどに。
急に顎を取られ上をむかされて、ルゥリは驚きに目をみはった。気付いたときには片手でルゥリの顔ほどもある大きな手に捕まえられていた。
「どうした? 顔色が悪いな」
覗き込んでくるのは黒く鋭い瞳。太めの眉としっかりした顎。不健康で痩せていた男爵とは全く違う。こんな大きくて迫力のある男を間近で見るのは初めてだった。
(怖い)
「ぁ……」
「慣れぬことに驚いているのでしょう、旦那様。お茶でも召し上がられませんか」
青ざめたルゥリに執事が非礼とは思いつつ、助けの手を出した。その言葉に伯爵はルゥリから手を離して、少し離れたソファに凭れた。すかさず茶が運ばれてくる。
「名前は何という?」
給仕にはめもくれずに、伯爵はルゥリをじっと睨みつけた。
「ルゥリ・モーランです」
震える声で紡がれた庶民の響きに、伯爵と執事は視線を合わせた。
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