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一
第五十一話
しおりを挟む部屋からは、海が見えた。
裏側で構わないと言ったが、『瑞樹君は海が好き』という美亜の計らいで、オーシャンビューになった。
幼い頃なら、跳んで喜んでいただろう。軽快に打つ波しぶき、ひんやりと心地良い水の感触、もの珍しい海の生き物、潮の匂いを嗅ぐだけで気持ちが高揚するほど大好きな場所だったのだから。
ただ幸福というものは一瞬にして姿を変える。共に歩いた散歩道さえ、胸を苦しめた。そればかりではなく、背中を流し合った風呂場、一緒に笑ったテレビ番組、眺めた星空。視界に映る物全てが刃となり、突き刺さった。その度に悪魔が囁くのだ、『もういないんだよ』と。
窓を開け、バルコニーに出る。フッと冷たい風が、頬を擦った。湿り気の闇に轟く波音。真丸に膨らんだ月からは、惜しみなく光が降り注いでいた。友の傍らで見た、あの夜の景色。それがそのままに、そこにあった。
誰が消え去ろうと、そして消えなかろうと、この自然の偉大さから比べれば取るに足らないものなのだと、窘められているようだ。
瑞樹はスケッチブックと鉛筆を取り出し、写していく。麗しい黄金に兎の影。海に届いた光はこちらに流れ、ゆらゆらと揺れていた。
そこを辿れば、行けるのか……
天に昇って、星へ。
そのようなファンタジーを、半ば本気で夢想した。今となれば何が不可能で何が可能なのか、わからなかった。気付けば指先は終にかじかみ、思うように動かない。仕方なしに室内へ戻り、クリアに見える場所を求めリビングへ向かった。
この屋敷で、一番大きな間取りであろうこの部屋。カーテンをそっと開けると、優しい光が差し込んで来る。瑞樹はアームチェアを動かし、続きに取り掛かった。
夢のようで、夢ではない、幻想的なこの描写を、一線一線、丁寧に進めていく。カチカチカチ、と秒針のリズムに、シャッシャッ、と鉛筆の摩擦がメロディを奏でる。
もう少し、あと、もう少し……
その後ガタンと音がしたのは、深い暗闇の果てへ苛まれた時だった。
「あ、ごめんね。瑞樹君」
パッと目を開き、振り向くと、皆の顔。美亜が屈んで何かを起こし上げている。状況をそこで、把握した。
「凄いっ、綺麗だね」
菜美が絵を覗き込み、囁く。目の前の景色は既に姿を消し、空にはうっすらと明るみが差していた。
「日の出も、綺麗そうだよ」
司沙が窓の外を見ると葵が「外は寒いかな。ここから、見る?」と続ける。
「でも美亜ちゃん、写真撮りたいみたいっすよ」
「写真? いいねっ」
茅野が瑞樹の顔を窺ったので微笑むと、嬉しそうにした。
顔を洗い、支度をすると外へ出る。
「瑞樹君、もうすぐだよっ!」
一同は波打ち際の特等席に腰を下ろしていた。
「日の出時刻まではあと、二十分ぐらいかな」
「もう結構明るいっすね」
「うん。これからピカッて眩しくなるのかな」
「何だか、ドキドキする」
「昨日のカウントダウンを思い出しちゃう」
美亜は被写体に携帯を向けている。
熱球は次第に輪郭を顕わにし、やがて閃光となって空へ突き抜けた。
「わぁ」
と歓声が上がる。
朝焼けがひとりひとりの顔を赤く照らし出す。
「今年も、宜しくね」
葵がそっと呟いた。
「はい、宜しくお願いします!」
美亜は太陽を前に、笑顔だった。
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