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プロローグ

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「どうして……こんなこと……」

 鋭い刃物を当てられたかのように吹き付けてくる風が痛く、ドラゴンが天高く鳴くかのように耳にぶつかる風の音は煩かった。呟く女性のか細い声が飲み込まれるくらいだ。

「どうして……?」

 深い緑色をした腰のあたりまで伸ばされたストレートの髪が風でうねる。真っすぐ切り揃えられた前髪から見えるクリっとした瞳はエメラルドのようにきらきらと輝いていて意識が飲み込まれる様に目が離せない。
彼女の名前はベルフェゴール。七つの大罪グリモワールの一人にして怠惰を司る者。そんなベルフェゴールの呟きに、鼻で笑うように同じ言葉を繰り返す男はルフエルという。地面につきそうなくらい長く伸ばした黄金の髪がゆるやかに揺れる。軽くウエーブのかかったその髪が風に揺れる度、その毛先は指遊びをするかのように絡み、解ける。

「みんなを……返して……」
「みんなというのは、死んだアスモデウスの事ですか? それとも……」
「アスモデウスもだし、あなたが何処かへ連れて行った兄様たちの事も‼」

 とぼける様に笑うルフエルの言葉に、か細く呟いていたベルフェゴールが大きく叫んだ。彼はアスモデウスを愛していたはずだ。けれど、そんな彼女は今ベルフェゴールの目の前で倒れ伏している。ベルフェゴールと同じく腰のあたりまで伸ばしていたウエーブのかかった濃い紫がかった黒髪は地面を染めるように広がり土埃に汚れている。ルフエルによって、アスモデウスの命は終止符を打たれ、その体は少しずつ冷たくなってきていた。そして、それは連れ去られたベルフェゴールの兄達も例外ではないだろう。

「安心してください、ベルフェゴール殿。あなた方の兄上方はみな、生きていますよ。一応……ですが」

 にこりと微笑む深紅の瞳が、嫌に気持ち悪くて恐怖を覚えた。ベルフェゴールはぶるりと悪寒を感じ、肩を震わせた。一応生きている、というのはどういうことなのだろうか。

「なら、どうしてアスモデウスを殺したの……」
「それは、あなたがよく知っていることでしょう?」

 ルフエルの問いかけに、ベルフェゴールは眉をひそめた。意味が分からない、と心の中で呟いた。ベルフェゴールとルフエルの距離は縮まらない。二人とも一歩たりとも動いていないから。なのに、なぜこんなにも恐怖を感じるのか。

「我々の……天界の目的を果たすため。そして、私の目的を果たすために……」

 あなたにも死んでいただきます、とルフエルはにこりと微笑んだ。ぞくりと背筋に冷たい汗が流れ落ちた瞬間、ベルフェゴールはごふっと咳き込んだ。

「……え?」
「アスモデウスは私ではなくベルゼブブを選んだ……こんなにも、私はあなたを愛していたのに……」

 地面に倒れ伏し、微動だにしないアスモデウスを見下ろして冷たい目つきをしたルフエルが呟いた。確かにベルフェゴールの知るアスモデウスは兄であるベルゼブブと恋仲のように仲が良かった。否、仲が良すぎた。いつも二人は共にいて、寝所もいつの間にかともにするようになっていた。ルフエルと関わる様になってからはベルゼブブの束縛はより一層強くなっていったかのように思う。異常なほどに。

「まさ、か……」

 がくっと、足の力が抜けたベルフェゴールは彼の呟きの意味に気付きながら、その場に膝を負った。体に力が入らない。視線が徐々に下へ落ちていく。胸のあたりが、とても熱い。

「……アスモデウスを、手に入れるため」

 ヒュ、と喉が鳴った。声が、音にならない。

「私は、もう一度彼女と出会わなければならない」

 アスモデウスを見つめる冷たい視線が徐々に熱を帯び、うっとりとしていく。そして、その場に崩れ落ちるベルフェゴールを見つめ、ルフエルは鼻で笑った。

「本当は、あなたの事も封印したかったんですけどね……目的を達成するには、あなたの力が必要なんですよ」

 ゆっくりと近づいてくるルフエルの足音だけが耳に届く。ベルフェゴールは彼の方を向こうとした。けれど、体に力は入らず、ただ音を聞くことしかできなかった。

(死にたく……な、い……)

 ベルフェゴールが心の中でそう強く思った瞬間、共に瀕死の状態に陥ったベルフェゴールの精霊であるコロポックルが強く呼応し、ルフエルめがけて大地から鋭い木々が生えた。その切っ先を避ける素振りも見せずにルフエルはその体を貫かれた。彼の狙いはこれだったのだ。

「これで……私も……死ねます」

 そのつぶやきが聞こえた瞬間、ベルフェゴールの脳内にか細く「ごめんなさい……ベル」とコロポックルの声が響いた。彼女と契約しているベルフェゴールだからこそ、言葉を使わず意思の伝達ができるのだが……それが裏目に出た。
 けれど、そのコロポックルの謝罪に、ベルフェゴールは返事を返すことは出来なかった。意識は朦朧とし、徐々に色は漆黒へと切り替わっていっていた。音は聞こえず、風も感じず、何も見えず、何も感じず。ただただ虚無へ。それは“死”と言うものだった。

(もっと……強ければ……)

 虚無の中で、そう強く思った気持ちだけが、ただ置き去りにされた。ベルフェゴールの、最期の、思い。最期の気持ち。最期の、意思。強さを求める切なる願い。
 強ければ兄様たちを奪われることもなかった。強ければアスモデウスを死なせることもなかった。強ければルフエルの願いを叶えてしまうこともなかった。強ければ、死ぬことだって……なかった。ただただ弱さを実感し、それを噛み締めて後悔だけが魂に刻まれる。

(強さが……欲し────)

 そうしてベルフェゴールの意識は真っ暗な闇の中へと沈んでいった。苦しくもない、何も感じない、ただただ虚無の中へ。
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