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16.新しい指輪

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 売り言葉に買い言葉、と言えるほど軽い話題じゃない。

 俺は大きく深呼吸をした。

 しなければ、場所も考えず、千尋の体調も考えず、怒鳴り散らしてしまいそうだったから。

『そうまでして、俺を拒むのか!』と。

 店員がオレンジジュースを俺と千尋の前に置く。すかさず、千尋が喉に流し込んだ。

「相手の男は? 結婚するのか?」

 なんて、バカげた質問。

「しないわ。子供だって――」

「――産んでくれ」

「は? だからっ! 比呂の子じゃないって――」

「――産んで、俺にくれ」

「――――っ! 何言ってんのよ! バカじゃないの?!」

 俺より先に声を荒げたのは、千尋。

 もちろん、そう仕向けたのだが。

 俺は残った半分のパイを頬張った。

 もう一つのパイの皿を千尋の前に置く。

 ゆっくり噛んで、オレンジジュースで口の中のパイ生地を飲み込んだ。

「俺の子じゃなくてもいい。千尋がいらないなら、俺が育てる。俺の子だと思って、大事にするよ」

「意味が……わからないわ。不倫だとしても、二股かけてた女の子供なんて、憎いだけじゃない」

「女の子なら、千尋に似て可愛いだろうな。気が強くて、だけど優しい女の子になる。ああ、血の繋がりがないのなら育てたその子と結婚するのもいいな。お前の身代わりにする」

「頭、おかしいんじゃない?」

 千尋が、心底軽蔑した目で俺を見る。

 俺だって、こんな薄気味悪いことを言いたくはない。

 千尋のお腹の子供が俺の子なのは、間違いないのだから。

 だが、千尋がそれを認めない以上、茶番は続く。

「男なら、父親に嫉妬して殴っちまうかもな?」

「いい加減にして!」

「それはこっちのセリフだ! いい加減に諦めろ」

 思ったよりも自分の声が店内に響いてしまい、ハッとした。

 俺たちに注目する客や店員に向かって、頭を下げる。

「パイも食えないくらい、ツラいのか?」

 一転して、囁くように言った。

 千尋はわずかに首を振り、パイに手を伸ばす。

 サクッという咀嚼音が聞こえた。

「頼むから、諦めて俺と結婚してくれ」

 縋るような想いで言った。

 違う。

 縋っている。

 俺を捨てないで欲しい、と。

 千尋は、ひたすらパイを噛む。

 瞬きの度に涙がポタッと落下するが、それを拭おうともせず、パイを食べる。

 俺は、その姿を見ていた。

 彼女が零す涙の意味に、不安や恐怖を感じながら、それでも一筋の希望にしがみついて。

 ただ、審判の時を待つ。

 サクッ、サクッ、サクッ……

 最後の一口が千尋の口に姿を消し、飲み込まれた。オレンジジュースも、既に空。

 おしぼりで手を拭いた千尋は、ふぅっと息を吐いた。

 俺の頭の中では、ジョーズのテーマソングと、ベートーヴェンの天国と地獄、ドボルザークの新世界といった、妙に緊張感がある音楽が一斉に多重放送されている。

 とにかく、いっぱいいっぱい、ってことだ。
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