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1.恋人の浮気現場に遭遇しました

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 意味ありげに『ふ』と『ん』の間を長くのばすから、なぜか少しムッとした。

「順調な付き合いだったってことです」

「恋人が転勤になってなかなか会えなくなったら、泣かないか?」

「……え?」

 泣くのだろうか、普通は。

 いや、決して自分が普通じゃないなんて思っていない。

 ただ、私は卓の転勤で悲しいとか寂しいとか思うことはなかったから、驚いただけ。

「や、だって、週末は会えるし――」

「――一緒に暮らしてた男だろ? 寂しくなるだろ」

「……だとしても、泣くほどのことじゃ――」

「――泣くほどのことだろ」

「……」

 わかっている。

 恋人に浮気されたら、それを知ったら、現場に遭遇したら、泣くとか喚くとか暴れるとか、とにかくコントロールできないほどの感情に我を忘れるものだろう。

 なのに、私は泣くどころか冷静に荷物をまとめ、冷静に別れを告げた。

 ついさっきも、平然と一人前のステーキを平らげた。

 胸が苦しくて水も喉を通らない、なんて考えられもしない。

「最低ですね、私」

「え?」

「浮気されて当然かも……」

「それは、違う」

「え?」

「恋人が最低だからって裏切っていい理由になんかなるかよ。別れりゃいいんだ。それを、あの男は浮気をお前のせいにした。今夜の浮気を隠し通せたら、あいつはきっと味を占めて遠距離恋愛を楽しんだろうな。それは、絶対に違う」

 篠井さんは昔からそうだ。

 ダメなことはどんな理由があってもダメ。

 内部の不正は大きすぎる声で糾弾するし、外部の不正には目を瞑らない。

 私は、彼のそういう部分を尊敬していたし、見習ってきた。

 結局、彼は組織という枠内にはハマりきれずに去った。

 そして、私もまた、組織の在り方に疑問を持ちながら働いている。

「そうですね。でも、私が遠距離になることを泣いて悲しんだり、仕事を放っても彼の元に駆けつけるような女なら、浮気されなかったかもしれない」

「そうだな。でも――」

 チッカチッカとウインカーの音と共に車線変更し、行手を阻むバーの前で停車した。

「――それは羽崎夏依じゃない」

 篠井さんの真剣な横顔から目を逸らし、窓の外に目を向ける。

 ETCカードが認識されて太いバーが上がり、車がゆっくりと進みだす。

「別に泣いて縋れと言ってるんじゃない。ただ、お前が自分の感情に鈍感なことを知ってるからな。限界まで我慢するなってことだ」

「我慢……なん……か……」

 食べ過ぎたようだ。

 喉の奥が詰まって言葉が出ない。

 深夜、そんなに多くない車のライトがキラキラと眩しくて、ゆっくりと目を閉じた。

 眩しさから眼球を守るべく分泌された涙が目頭に溜まり、溢れ、小鼻の脇を通って唇の端を濡らす。

 目を開けると、何色ものライトが混じり合って視界を覆い、また眩しくて目を閉じた。

「こっから二時間はかかる。寝ろ」

 一緒に働いていた頃、出張で長距離を移動する時、彼は同じように運転を引き受けて私に寝ろと言った。

 けれど、私は『勤務時間中ですから』とか『篠井さんが居眠りしないように見張らなきゃ』なんて可愛くないことを言ってそうしなかった。

 でも、今は勤務時間中じゃないし、篠井さんが危ない運転をするような人じゃないこともよく知っている。

 私は窓の外に顔を向けて目を閉じたまま、返事をしなかった。

 ただ、篠井さんが好きだなんて少し意外だなと思えるラップのメロディが、心地いいなと思った。
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