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チノちゃんとイチゴジャム

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『ここでもなければ、そこでもない。あそこでもなければ、どこでもない』

ここは、そんな夢と現の境にある幻想世界、『こそあど村』。ここでは、ちょっと個性的で、それでも優しい住人達が暮らしている。これは、そんな『こそあど村』にある、とある喫茶店の話――――
                               *
  うららかな日射しが降り注ぐ、ある春の日の早朝。
  ――――猫様の朝は、否、少女の朝は早い。鶏が鳴くよりは遅く、目覚ましが鳴るより早く起きたその少女は、毎日の日課として、自分のベッドから飛び起きると、彼女の父親の部屋に直行した。

「パパ!起きるでし!朝でし!朝ご飯の時間でし!」

そう言いながら、ひょい、と軽快にベッドの上に飛び乗り、彼女の『父親』の身体の上で、少女はピョンピョンと元気に飛び跳ねた。彼女が飛び跳ねる度に、片方は白、もう片方は黒い色をした――――――そして、 黒い方の先には赤色の可愛いリボンを付けている――――――、二本の尻尾が揺れる。

「うぐっ……!おい、チノ、分かった、分かったから。  ――――ふあぁ、あふ、おはよう。チノ」

「パパ、おはようでし!」

そう言いながら、チノの父親――――――ローランは、ボサボサの髪の儘ベッドから起き上がると、緩慢な動きで着ていたパジャマを脱ぎ、白いワイシャツに黒いスラックスを履く。
一本だけ長く伸ばしたアッシュグレーの髪を、筒状の小さな髪留めで留めると、髭を整え、店のロゴマークが入った黒いエプロンを身に纏ってから、ローランは肩にチノを乗せて、階段を降りていった。
 この喫茶店の店内は、実によくある間取りになっている。カウンター席が5席、テーブル席が3席、そこにそれぞれ椅子が二脚ずつ。 
――――――もっとも、この店に来る客は、大抵が『普通』じゃないのだが。
 ローランはカウンターに立つと、慣れた手つきでコーヒー豆を挽き、サイフォンでお湯を沸かす。

「チノはいつものか?」

「いつもの!ほっとミルク!」

バンザイ、と元気に小さな両手を挙げて、チノはそう答える。分かった、とローランは返事をすると、コンロに小さな鍋をかけ、そこに冷蔵庫から取り出したパック牛乳を注ぎ込む。沸騰させないようにトロトロと弱火で暖めてから、琥珀色のあまーいレンゲ蜂蜜と一緒に、チノお気に入りの紅い、小さなマグカップに注ぎ込んだ。

「はいどうぞ。溢さないようにな」

「わーい!」

小さな手を伸ばして、チノはローランからマグカップを受け取ると、フーフー、と随分熱心に冷ましてから、チビリチビリと蜂蜜入りホットミルクを飲んでいった。

「おいちい!パパのほっとミルク、てんさい!」

「あはは。チノは嬉しいことを言ってくれるなあ」

トースターで食パンを二枚焼き、その上にこんがり焼いたハム、とろりとした半熟の目玉焼きを乗せて、 ローランとチノは簡単な朝食を摂る。サイフォンで沸かした湯で作った熱いコーヒーを寝ぼけた身体に流し込むと、一日の活力が沸いてくるようだ。

「ああ、そうだ。チノ、ちょっとおつかいを頼まれてくれないか?」

「おつかい?」

朝食後、テーブルを拭いたり、床を掃いたりしながら喫茶店開店の準備をしていると、ふと、ローランが思い出したようにチノに向き直った。

「ああ。えっと……村はずれにあるの森の中に、父さんの知り合いのお婆さんがやっている果実園があるんだ。今、ちょうど店に出すジャムサンドに使うジャムが無くなってしまっていて、そのジャムをお婆さんのところから買ってきて欲しいんだ」

「ジャム」

「ああ。 ――――――待て、メモを書く。良いか、 必要なのは、『・イチゴジャム、・リンゴジャム、・すみれの砂糖漬け』 だ」

「 『イチゴジャム、リンゴジャム、すみれのさとーづけ』?」

「そうだ。今日すぐ使ったりはしないから、慌てずゆっくりでいいからな。大丈夫か?」

「うん、大丈夫!チノに任せるでし!」

そう言って、チノはビシッと『敬礼』のポーズを取る。それからとてとてと階段を上って自分の部屋に行くと、ローランが以前チノの為に作った、若葉色の肩掛けポシェットを持ってきて、ローランはそれに、財布と買い物のメモを入れた。

「良いか、何度も言うがゆっくりで良いからな?焦って転んだりしたら危ない。良いな?」

「分かってるでし!いってきまーす!」

そう言って、二本の尻尾を振りながら、元気に喫茶店の外へ掛けだしてゆくチノ。

そんなチノの後ろ姿にローランは

「…………大丈夫かな」

と不安そうに独りごちた。
                               *
チノが村のはずれに向かって元気よく駆けて行くと、突然、ドン!と何かにぶつかった。

「わあぁ!ご、ごめんなさいでし」

すると、そのぶつかった相手は、此方にくるりと向き直る。

「いいえ。それよりお嬢ちゃんは大丈夫かや? 随分慌てた様子だけれど、何処かへお出かけかえ?」

そう言って声を掛けてきたのは、艶やかな紅葉柄の着物を着た女性だった。くるり、と紅色の番傘を回し、そそと笑う姿は、チノにはとても大人っぽく上品に見えた。

「パパに頼まれて、果実園のお婆さんのところにお買い物でし!」

「ふふ、それは感心じゃのう。えらいえらい。……気をつけて行くのじゃよ」

「はーい!ありがとうでし、綺麗なお姉さん」

そういって、チノはその綺麗な着物姿のお姉さんに手を振って、また村はずれの森の中に駆けていった―――――すると。
 暫くして、所々レンガで舗装された道が見えてきた。その道が繋がる方向に、小さな紅い屋根の小屋と、たくさんの樹木が並んでいる。此処が目的地の果実園だろう。

「ごめんくださーい!」

チノが小さい身体から声をいっぱい張り上げる。しかし、待てど暮らせど、辺りはしんと静まりかえっているだけで、何の反応も無い。
 困ったチノが、どうしようかしらと辺りをうろうろし出したその時、上空からひらりと黒い影が舞い降りた。
 その影は一羽の鴉で、ガラス玉の様に透き通った瞳でチノを一瞥すると、ガァー!!と大きく鳴いた。

『オイ、ババア!客ガ来テルゾ!』

「はいはい、そんな騒がなくても聞こえてるわよテーゼ。 …………驚かせてごめんなさいね、可愛いお客様。ご用件を伺いましょうか?」

そう言って現れたのは、恰幅の良い赤い服の老婆。銀瑠璃の髪を頭のてっぺんで綺麗に纏めて、薄氷色の瞳でチノの姿を見ていた。

「あの、えっと、あなたがパパの知り合いのお婆さんですか?」

「パパ……?えっと、ごめんなさい、可愛いお嬢さん。貴女のお名前は……?」

「チノ、でし」

「…………ああ、なるほど。貴女がチノちゃんなのね。ローラン……えっと、貴女のお父さんから、良く貴女のことは聞いていたわ。本当に可愛い娘さんね」

果樹園の老婆――――――レティーシアはそう言うと、いい子いい子とチノの頭を優しく撫で、それからカリカリと優しく喉を触った。

「ふふふ、気持ちいいでしー。 ……って、そうじゃなくて、お買い物でし!パパに頼まれて、ええっと……『・イチゴジャム、・リンゴジャム、・すみれの砂糖漬け』 を買いに来たでし!」

チノはそう言いながら、ローランに書いて貰ったメモをレティーシアに渡す。レティーシアは首に下げていた眼鏡を持ち上げて掛けると、メモに書いてある几帳面な字を追っていった。

「『イチゴジャム、リンゴジャム、すみれの砂糖漬け』ね。砂糖漬けとリンゴジャムは在庫があった気がしたけど……テーゼ?」

『ガァーガァー!ああ、イチゴジャムは確か前回の客で売り切っちまったナ!仕込みからやらねーとネーゾ』

そう言って、黒銀の毛並みが綺麗な鴉――――テーゼは、レティーシアの肩に留まり、コクコクと頷いた。

「……ねえねえ、鴉さんはチノみたいに人間になれないでしか?」

チノがふと、不思議に思って、肩に留まるテーゼに聞くと、テーゼは少しバツが悪そうに翼を食んで答えた。

『オレだって、お前さんみたいに人間に変身できねぇわけじゃねえガ……あれは面倒臭いし、疲れルンダ……あと、単純にオレがこの姿が気に入ってるのさ、オチビちゃん』

「ふうん」

チノは今まで、人間の姿で居た方が、気軽に他人とお話が出来て便利だと思っていた。だから、積極的にこの人型を取っていたし、周りの皆も、そんなチノを受け入れ、可愛いと言ってくれていた。

  ――――人間の姿になることこそが一番だと思っていたけれど、世界には、色々な考え方や、好みがあるのね。 
    チノは、本来の鴉の姿を好んでいるテーゼを見て、一つ、世界の新しいカタチを学んでいた。

「さて、可愛いお客様の為に、早く準備に取りかからなきゃね。テーゼ、貴方も手伝って頂戴」

『チェッ、チェッ!相変わらズ鴉ヅカイが荒イババアダゼ!』

そうして、レティーシアは右手にチノから借りた、ローランの買い物メモ、左手に小さなチノの手を握って、レンガ造りの紅い屋根の家に入っていった。
それほど広くない室内には、フワフワの白い絨毯が敷かれ、チノは暖炉の前の小さな椅子に座ってくつろいでいるように、レティーシアに言われた。部屋の奥にある台所には、大きな鉄鍋が火にかけられており、いかにも彼女がただの老婆ではないことを物語っていた。

「あ、あの…………さっきは聞けなかったんでしが、お婆さんは、パパのどんな知り合いでしか? お婆さんも、パパと同じ魔法使いさんでしか?」

 ふと、チノは先程から気になっていたことを聞いてみる。するとレティーシアは、釜戸にポンポンと太い薪をくべながら答えた。

「あら?お父さんから聞いてなかったの? …………そうよ。私も魔法使い。そしてあの子――――ローランは、私の元教え子なの。魔法学校でね、私が最後に担当したクラスの生徒だったわ。……もっとも、あの子は最終学年を前に中退してしまったけれど」

「そうだったんでしか…………パパ、自分の事はあんまりチノに話してくれないでし」

「ふふ、昔からあの子はそんな感じよ。だからあんまり気にすること無いわ、オチビさん。少なくとも、 私からはローランが、貴女を大切にしているのが伝わってくるもの」

 さて、小さな椅子に座ってくつろいでいろとは言われたものの、目の前で忙しなく動き回るレティーシアを見ていると、なんだか座っているのが申し訳なく思えてくる。
 チノはふと思い立ち、椅子からよいしょっと立ち上がると、トテトテと台所のレティーシアの側に歩いて行った。

「あら、どうしたのかしら? ごめんなさい、ちょっと時間が掛かるけど、もう少し待っててね」

「えっと、違うでし。 …………あの、あの!そのジャム作り、チノもやってみたいでし!良いでし…………か?」

駆け寄ってきたチノの思わぬ発言に、レティーシアはパチクリと目をしばたかせると、ゆっくりと、優しく口角を上げた。

「ふふふ、あはは!やっぱり、あのローランには勿体ないくらい出来たお嬢さんね。良いわ、オチビさん。一緒に作りましょう」

「本当でしか?やったー!」

レティーシアにお手伝いの許可を貰ったチノは、とても嬉しそうに、その場でピョンピョンと上下に飛び跳ねた。

「じゃあまず、何をお手伝いすれば良いでしか?」

「えーっと、じゃあまずは、そこの籠にあるイチゴを綺麗に洗って、ヘタを取ってくれるかしら?」

「わかったでし!」

 そうして、チノは言われたとおりに、台所に置かれていたラタン製のバスケットから、流しの中のステンレス製のザルにイチゴ達を移し替えた。 
 濡れないように袖を捲ってから、冷たい水を流して、ざり、ざり、ざりと小さな手で綺麗にイチゴを洗っていく。その後、プチン、プチンと一粒ずつ丁寧に、深緑色のギザギザした、円形状のヘタを毟った。

「そうそう、上手よ、チノちゃん」

「ふふん、チノはいつもパパのお手伝いをしているでし。このくらいなら朝ご飯前でし!」

「あらあら、それは頼もしいわ。 …………ところで、チノちゃんはサラサラしたジャムと、ドロッとした濃厚なジャム、どっちが好きかしら?」

「チノ、ドロッとしたジャムが好きでし!」

「分かったわ。じゃあ、砂糖を少し多めに入れましょうね」

そんな会話をしながら、レティーシアはチノが下準備を終えたイチゴを譲り受けると、それを白いボウルの中に移し替えて、粉雪のように真白い砂糖を、ふんだんにイチゴに振りかけた。

「わあ、甘くて美味しそうでしー!」

「さあ、これを鍋に入れてぐつぐつ煮るわよ。火は強火で一気にやるから、チノちゃんは火傷しないようにちょっと離れていてね」

「はーいでし!」

レティーシアは、チノを火元から少し遠ざけると、いかにも魔女御用達の、大きな鉄鍋の中に、綺麗に白化粧をしたイチゴの山を放り込んだ。強火で火に掛けていると、段々イチゴから水分が出て、グチュグチュと煮崩れてくる。レティーシアは更にそれを、木べらで焦げないように、丁寧にかき混ぜてゆく。

「うーん、甘くてとっても良い匂いー! 楽しみでし、楽しみでし!!」

チノはその周りで、とても楽しそうに跳ね踊った。

 ――――――イチゴジャムが鍋の中でふつふつと良く煮えてきた頃。レティーシアとチノは、最後にキュッとレモンを絞って回しかけ、特性のイチゴジャムが完成した。

「わーい!完成でしー!!」

「本当、美味しく上手に出来たわ。料理上手なチノちゃんのお陰ね」

「チノ、料理上手でしか!? ふふふ、嬉しいでし!」

チノはレティーシアに教えられて、溢さないように注意しながら、出来上がったジャムを瓶に詰め込んだ。瓶に入ったピカピカの宝石のようなイチゴジャムを、チノは何度もくるくると光に透かしながら嬉しそうに見回す。そんな時ふと、少しだけ気になったことがあり、それならと、直接彼女に聞いてみることにした。

「そういえば、お婆さんも魔女さんでしよね?魔法でえい!ってジャムを作った方が、うんと早くできたんじゃないでしか?」

そうチノが言うと、レティーシアはふんわりと目を細めてから、何でも無いというように、淡々とその問いに答えた。

「確かに魔法で作った方が、かかる時間はうんと早いわ。 …………でもね、魔法では出来ないこともある。例えば、チノちゃんが一粒一粒イチゴを洗ってくれたこと、ゆっくり煮込んで味を出したこと。それは、料理に思いを込める、愛情をかけるということで、どんな大魔術師も敵わない、究極の魔法よ。  ――――そうして、かけた時間と愛情の分だけ、料理は美味しい味で、私達に答えてくれる。だから私は、敢えて手間暇を惜しまないのよ」

「ふうん……?なんか難しくてよく分からないでちけど…………、でもそれって、なんだかとても素敵なことな気がするでし」

「ふふふ、ありがとう。  …………そうだ、おうちに帰ったら、お父さんにも伝えて。『また顔を見せにいらっしゃい』って」

「はい!ありがとうでし、お婆さん!」
                               *
 それから、チノはレティーシアに、ブドウの蔓で編んだ籠にイチゴジャム、リンゴジャム、すみれの砂糖漬けを入れて貰うと、今度はそれを割らないように、落とさないように、ゆっくり歩いてローランの待つ店に向かった。
 魔女のお婆さんとイチゴジャムを作った時間はとても楽しかったし、パパの昔の秘密をちょっと知られて、なんだかチノはくすぐったいような、ドキドキワクワクするような、そんな気がするのだった。


 ――――――一方その頃。ローランの待つ喫茶店では。
 なかなか帰ってこないチノを、ローランが今か今かと、店内の壁掛け時計を何度も見たり、拭いたばかりのティーカップをまた拭いたりと、落ち着かない態度で待っていた。

「そんなに心配せんでも、ちゃあんと帰ってくるじゃろうて」

 ふと、カウンター席に座って、今のローランの一挙手一投足を肴に和紅茶を飲んでいた女性がカラカラと笑う。

 艶やかな紅葉柄の着物を着た彼女は、チノが道の途中で出会ったあの女性で、あの時は隠してでもいたのだろうか、今は背後に立派な九本の尻尾を携えて、それをゆったりと優雅に揺らしていた。

「だがしかし、あの子はお前さんと違ってまだ小さいし……」

「あっはは!九尾のわっちと、二尾のあの子を比べるのが、どだい間違ってるじゃろうて! …………しかし、あの子とてただの幼子では無い。何かあっても自分の身は自分で守れるじゃろ」

「何かあったら困るんだよ!」

ローランと九尾の狐の女性―――日中、チノが道すがらぶつかった、この喫茶店の常連客の一人でもある妃月神楽|《ひづきかぐら》がそんなやり取りを繰り広げていると、突然、店のドアベルがカララン!と鳴って、二人に来客を知らせた。

「パパー!ただいまでし! 」

「チノ!ああ、良かった。ちゃんと帰って来られたんだな?どこも怪我してないな?」

まるでカウンターを飛び越えるくらいの勢いで、無事帰ってきたチノにローランが駆け寄り、小さな彼女をぎゅうっと抱きしめると、チノはくすぐったそうに笑った。

「まるで本当の親子じゃな」

和紅茶を優雅に口に運びながら、呆れたように親馬鹿店主を見る神楽はそう呟く。

「当たり前だ!チノは単なる使い魔じゃない、俺にとっては、可愛い可愛い愛娘さ」

そんな神楽にそう返答してから、ローランがチノの、ふわふわした薄いミルクティー色の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
 チノは初めて自分で作ったイチゴジャムを、大切そうに抱きしめたまま、大好きな父親の腕の中で、 満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。
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