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第十二幕
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……すごかった。
発情期に当てられるってこんな……数日は勃たないな。すっからかんだ。
疲れ果てた心身とは裏腹に、お肌の調子はツヤッツヤ。
レッスンのお陰か、一歩も動けませんって感じにはならず、今俺がソファで堕落しているのはただ余韻に浸ってるだけだ。
昨日の出来事、発情期に当てられた俺と遊星と綾人が、お互いに欲を発散させて事なきを得た。
俺は熱を吐き出したい一心で、息をするのにも必死だった。遊星と綾人はそんな俺を見かねて手助けしてくれたのだ。
初めの方のキスされたりとかしか覚えてないけど、確かそんな感じだったはず。
自分たちもしんどいだろうに、本当に優しいよな。
「潤太、体調はどう?昨日はごめんね。」
エプロン姿でカレーを持ってきた遊星が、申し訳なさそうに謝罪しながら甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれている。
理由は簡単、昨日の件で日暮に怒られたから。
社長と話し合うからと自宅待機を命じられた俺たち。
倦怠感だけ抜けない、長い賢者モードのような微睡にいる俺は、テレビ前のソファを占拠し、推理ドラマの再放送を観ていた。
話も終盤に差し掛かり、犯人が誰か分かるタイミングで遊星のスマホに電話がきた。
初めは何を話しているか聞こえなかったが、最後は俺にも聞こえた。
『反省するんだよ?分かったね遊星。』
「……はい。」と、しおらしく答えた遊星が、みるみる元気をなくしていく。しょんぼりした耳が見えるかのように項垂れたその姿に俺は、不覚にもときめいた。
イケメンって、どんなことしても様になるよな。
そんな訳で今日1日オフになったが、することがない。
趣味という趣味がないんだよな……ドラマも適当につけただけだし、潤太の部屋だと教えてもらったところにあったものは、デビューシングルやライブのDVD、ファンから届いた手紙を大事にしまっていた。
最近潤太宛てに届いた千羽鶴は、事務所に飾られている。
本棚から見つけたぼろぼろのノートを開くと、デビュー前…練習生時代の潤太の、涙ぐましい努力が垣間見えた。
《ステップミス15回、移動ミス3回、ターンミス4回。重心ぐらぐら、軸を捉えきれてない。指先まで意識しろ、俯くな、しんどい顔を絶対見せるな。》
適当に開いたページ。
汗で滲んだのかボールペンで書かれた文字は、一部インクが滲んで広がっている。
《ステップミス7回、移動ミス0、ターンミス2回、回る時の視線は床か上、表情研究する!笑顔だけがファンのみたい顔じゃない!楽しませる!自分も楽しむ!》
ぱらぱらとページを流すと、ミスの回数が減っている。
生き生きしているのが字から分かる。
楽しくてしょうがないのだろう。
《ノーミスデー!!流石オレ!!さいきょー!遊星とオレ、2人がいればトップアイドルも夢じゃない!
でもやっぱり、遊星はオレと一緒にいるべきじゃないよな、あいつには母さんも父さんもいるんだから…いつか素敵なお嫁さん見つけて、幸せな家庭を築いて、オレはおじさんになって、子供たちの自慢になりたい。そんな夢くらいみたいよな……》
《オレだけの家族がほしい……運命の番なんて都市伝説だけど、もし本当に出逢えたら……幸せなのかな》
俺が見てしまっていいものだったのだろうか。
ある1ページの隅に、小さく書かれた潤太の願望。
家族……
確か両親とは死別だったか。
幼い頃から鮫島家で世話してもらったとはいえ、本当の家族みたいに甘えることもできなかったんだろう。
運命の番。
潤太は信じていたのだろうか。
もしも、運命の番を見つけてしまったら、俺はどうすればいいのだろう……
潤太の幸せのためにも、番った方がいいのだろうか……
俺自身、この世界に家族がいない。
後ろ向きな考えに、気分が暗くなったその時、スマホの画面がパッと明るくなり1通のメッセージが届いた。
【じゅんたごめん。。きたかも。。】
差し出し人に覚えがない。
メンバーでなければ、事務所の人でもない。
知り合ったばかりの昨日の共演者でもない。
【東堂 つかさ】
表示されている名前、トーク履歴を見ようにも今届いたメッセージ以外にやり取りがない。
【Mホテル1724】
続け様に送られてきたメッセージ。
数字は部屋番号か?
これはつまり、来いってことなのか?
Mホテルを調べてみると、駅近で観光客向けの雰囲気の良い有名ホテルだった。
だがその一方、上階は有名人がこぞって連泊する巣ごもり用のホテルとしても記事が上がっている。
都内にいながら心を休める場所だと、文豪たちも篭って執筆をしている、なんて噂も囁かれている。
ビル街に隣接してはいるが夜景が綺麗で、ライトアップされた街並みを上階から見るのがデートスポットとして人気……そんな場所になぜ?何で潤太は呼ばれたんだ?
【はやくきてつらいよ。。】
切羽詰まった様子のメッセージに、流石に無視できなくなってきた。
東堂つかさが誰か知らないが、助けを求めている奴を見なかったことになんてできない。
潤太の部屋から飛び出して、クローゼットから上着とマフラーを取り出す。
そのまま玄関へ向かい、置いている変装用の伊達メガネとマスクを着ける。
外出する気満々の行動に遊星が泡のついた皿を持ったまま「どこ行くの?!」と聞いてくる。
「ちょっと知り合いが困ってるみたいだから。」
「知り合いって誰?潤太は記憶喪失じゃん!もしかして他のメンバー?」
「いや違う、でもメッセージ見た感じそうとうやばそうだし。ほっとけないなって……様子見たらすぐ帰るから!行ってきます!」
「待って!潤太!行かないで!!!」
遊星がどんな顔をしていたか見てない。悲痛な声で引き止めてきた言葉は耳に残ったままだ。
マンションから最寄駅まで歩いてタクシーを捕まえる。
「ご乗車ありがとうございます。お客さんどちらまで?」
タクシーの運転手によくいる、いかにもなおっちゃんがミラー越しに尋ねてくる。
「Mホテルへお願いします。」
「はい。車動きますよー。」
Mホテルまで20分くらい。東堂つかさからメッセージはない。
思い返せば、この世界に慣れようと、アイドルを頑張ろうとがむしゃらにレッスンやらメンバーとの仲やら、俺の意思で色々してきたけど、潤太ってどんな奴だったんだろう。
スマホのカメラロールを見ても、全然写真を撮らないのか、少しブレた風景写真や、映画のチケットとドリンクの写真、コンサート会場の裏側で誰かに撮ってもらった潤太1人の写真、遊星とのツーショットなどが保存されている。
遡っていくと1番最初に保存されていたのは、幼い頃の潤太だろうか、今の顔に面影のある男の子が、満面の笑みで2人の男女に抱きしめられている。
両親か……
仲睦まじい様子の家族の写真。
母親は潤太と頬を合わせて抱きしめ、父親はそんな2人を抱きしめている。
後ろには瑞々しい木々が聳え立っており、天気の良いこの写真は、ピクニックにでも行ったのだろうかと想像させる。
俺も家族に会いたいよ……会いたいはずなのに、もう家族の声も、顔も、思い出せない。
もしかして、倒れるまでの世界が夢で、俺は本当に吉良潤太なのかもしれない。
記憶喪失によって、夢での自分が本当の自分だと勘違いしているのかもしれない。
だから記憶も朧げで、どんどん忘れていってしまっているのじゃないか。
スマホから目を離して、ビル街の街並みをぼんやりと眺める。
静かな車内、暖房のゴオオという音だけが耳に届く。
俺のことをそっとしておくつもりの遊星たち。
だからこそ、東堂つかさに会って聞きたい。
知りたい、吉良潤太を……
キッと止まったタクシーから、Mホテルのエントランスに降り立つ。
派手すぎず、上品な高級さを魅せつけるロビーはキャリーバッグを持った人がちらほら。
このまま部屋に直行できるのか分からず、暫くロビーでうろうろしていると、チェックインをしている2人組が目に入る。
渡されているホテルのカードキーの説明に聞き耳を立てると、どうやらカードキーを使わないと、エレベーターは自分の階に止まらないらしい。
つまり、東堂の部屋に行くにはカードキーが必要だ。
どうやって?東堂をロビーに呼ぶか?
でも体調の悪い奴を呼びつけるのは可哀想だ。
どうしようか悩んでいると、不審に思われたのかホテルマンに声をかけられる。
「お客様、何かお困りですか?」
笑顔で確認してくるホテルマンに安堵と同時に尊敬する。
眼鏡にマスク、挙動不審な俺に話しかけてくれたことに頭が下がるばかりだ。
「あ、あの、知り合いに部屋に来いって呼ばれたんです。そいつ体調悪そうで、でも俺カードキーなくて、ロビーに呼ぶのもちょっと悪いかなって……」
「左様でございますか。失礼ですがお連れさまの部屋番号をお聞きしても?」
「あ、はい。えっと…1724です。」
トーク画面を見ながらホテルマンに答えると、笑顔を貼りつけたまま「お話は伺っております吉良様」と胸に手を当てながら言われる。
「こちらへどうぞ。東堂様がお待ちです。」
ホテルマンに促され、エレベーターへと向かう。
上へのボタンを押してもらい、タイミングよく到着した一機に乗る。ホテルマンがカードキーをかざして17の数字がポーンと明るくなった。
一緒に行くのかと思っていたら、ホテルマンがスッと降り、振り返る。
「それでは、いってらっしゃいませ。」
「え、俺だけでいいんですか?」
困惑する俺に、ホテルマンはにこりとしたプロの笑顔を向けて言い放つ。
「御用の際はフロントまで、お部屋の電話にてお申し付けください。」
ゆっくりと頭を下げたままの姿勢のホテルマンに見送られ、俺だけが乗ったエレベーターのドアが閉まる。
どの階にも止まらず、17階に到着した。
ホテルだからなのもあるかもしれないが、必要以上に静かな階。エレベーターを降りてすぐの案内板に沿って1724へ向かう。
一歩、また一歩と近づくに連れて、鼓動が激しくなる。喉が渇き、生唾を飲み込むが足りない。
呼吸が荒くなり、マスクをしているのがもどかしい。
クラクラするほどの甘い匂い。
本能が求めている。早く匂いの元へ辿り着けと。
恋焦がれた俺の__運命の番。
「?!くそ!」
違う、違う!そんなんじゃない!
足を止めて頭を振り、思考を正そうとする。
運命の番なんて知らない!
またあんな風になるのか?
記憶に新しい、つい昨日の出来事。
発情期に充てられて興奮状態がずっと続くあの感覚。
思い出しただけで体が震える。
あぁ……噛みたい噛みたい。
俺のものにしたい。
俺だけのΩを、俺の家族を作るんだ!
「違う!!」
それは吉良潤太の願望だ!
俺はまだ、オメガバースを受け入れてない。
そんな状態で番ができたなんて、心のゆとりはなくなり、相手にとっても不幸だ。
番になったら、そいつじゃないと満たされず、そいつ以外に触れられることすら嫌悪だ。番に無視されたΩの行き着く先は廃人。
散々姉貴が『番も大切にできないαなんてちょん切ってやりたい』と作品に向かって腹を立てていた。あのハピエン厨がこの場にいたなら迷わず俺を絞めに来るだろう。
俺はこのドアを開けてはいけない。
開けちゃだめ…な、はずなのに……
「……いるんだろ?甘い匂いがしてるんだ…早く、ドア、開けてくれよ。」
こんなの俺じゃない。
意思に反して、懇願するようにドアを引っ掻く。
情けなく「東堂」と呼ぶと、ドアの向こうから「じゅんた?じゅんたぁ」と男の声が聞こえ、甘い匂いがどんどん濃くなる。
俺とあいつを隔てているのは、たった数センチの鉄の塊。
ロックさえ開けば、その間はゼロになるだろう。
「今開けるから、待ってて、潤太……」
もたついているのかガチャガチャと聞こえる雑音に、今か今かと歯を食いしばる。
早く早く。
顔も知らないΩ。
その首筋に噛みつきたい。
ガチャンッ!
ようやく開いたドアの向こう。
俺より少し背の低い黒髪の男。
熱を帯びた瞳と視線がかち合う。
「潤太。」
そっと差し出された手に引かれて、部屋の中へ足が動く。
俺の意識は本能に支配され、ただ《愛しい》という感情だけが溢れていた。
「潤太!!!駄目!!」
近いようで遠い、潤太を呼ぶ声が聞こえたが、ドアが閉まる音に掻き消される。
「潤太、俺、発情期きちゃった。番にしてくれるよな?」
入って早々、しなだれかかって、恥ずかしげもなくトップス1枚で抱きついてくる男。
媚びるような潤んだ瞳。溢れ出るフェロモン。
ああ……なんか、もういっかな。
どうせ俺は夢から覚めない。
俺だけを見てくれる番を潤太も望んでたんだから。
いい、よな?
発情期に当てられるってこんな……数日は勃たないな。すっからかんだ。
疲れ果てた心身とは裏腹に、お肌の調子はツヤッツヤ。
レッスンのお陰か、一歩も動けませんって感じにはならず、今俺がソファで堕落しているのはただ余韻に浸ってるだけだ。
昨日の出来事、発情期に当てられた俺と遊星と綾人が、お互いに欲を発散させて事なきを得た。
俺は熱を吐き出したい一心で、息をするのにも必死だった。遊星と綾人はそんな俺を見かねて手助けしてくれたのだ。
初めの方のキスされたりとかしか覚えてないけど、確かそんな感じだったはず。
自分たちもしんどいだろうに、本当に優しいよな。
「潤太、体調はどう?昨日はごめんね。」
エプロン姿でカレーを持ってきた遊星が、申し訳なさそうに謝罪しながら甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれている。
理由は簡単、昨日の件で日暮に怒られたから。
社長と話し合うからと自宅待機を命じられた俺たち。
倦怠感だけ抜けない、長い賢者モードのような微睡にいる俺は、テレビ前のソファを占拠し、推理ドラマの再放送を観ていた。
話も終盤に差し掛かり、犯人が誰か分かるタイミングで遊星のスマホに電話がきた。
初めは何を話しているか聞こえなかったが、最後は俺にも聞こえた。
『反省するんだよ?分かったね遊星。』
「……はい。」と、しおらしく答えた遊星が、みるみる元気をなくしていく。しょんぼりした耳が見えるかのように項垂れたその姿に俺は、不覚にもときめいた。
イケメンって、どんなことしても様になるよな。
そんな訳で今日1日オフになったが、することがない。
趣味という趣味がないんだよな……ドラマも適当につけただけだし、潤太の部屋だと教えてもらったところにあったものは、デビューシングルやライブのDVD、ファンから届いた手紙を大事にしまっていた。
最近潤太宛てに届いた千羽鶴は、事務所に飾られている。
本棚から見つけたぼろぼろのノートを開くと、デビュー前…練習生時代の潤太の、涙ぐましい努力が垣間見えた。
《ステップミス15回、移動ミス3回、ターンミス4回。重心ぐらぐら、軸を捉えきれてない。指先まで意識しろ、俯くな、しんどい顔を絶対見せるな。》
適当に開いたページ。
汗で滲んだのかボールペンで書かれた文字は、一部インクが滲んで広がっている。
《ステップミス7回、移動ミス0、ターンミス2回、回る時の視線は床か上、表情研究する!笑顔だけがファンのみたい顔じゃない!楽しませる!自分も楽しむ!》
ぱらぱらとページを流すと、ミスの回数が減っている。
生き生きしているのが字から分かる。
楽しくてしょうがないのだろう。
《ノーミスデー!!流石オレ!!さいきょー!遊星とオレ、2人がいればトップアイドルも夢じゃない!
でもやっぱり、遊星はオレと一緒にいるべきじゃないよな、あいつには母さんも父さんもいるんだから…いつか素敵なお嫁さん見つけて、幸せな家庭を築いて、オレはおじさんになって、子供たちの自慢になりたい。そんな夢くらいみたいよな……》
《オレだけの家族がほしい……運命の番なんて都市伝説だけど、もし本当に出逢えたら……幸せなのかな》
俺が見てしまっていいものだったのだろうか。
ある1ページの隅に、小さく書かれた潤太の願望。
家族……
確か両親とは死別だったか。
幼い頃から鮫島家で世話してもらったとはいえ、本当の家族みたいに甘えることもできなかったんだろう。
運命の番。
潤太は信じていたのだろうか。
もしも、運命の番を見つけてしまったら、俺はどうすればいいのだろう……
潤太の幸せのためにも、番った方がいいのだろうか……
俺自身、この世界に家族がいない。
後ろ向きな考えに、気分が暗くなったその時、スマホの画面がパッと明るくなり1通のメッセージが届いた。
【じゅんたごめん。。きたかも。。】
差し出し人に覚えがない。
メンバーでなければ、事務所の人でもない。
知り合ったばかりの昨日の共演者でもない。
【東堂 つかさ】
表示されている名前、トーク履歴を見ようにも今届いたメッセージ以外にやり取りがない。
【Mホテル1724】
続け様に送られてきたメッセージ。
数字は部屋番号か?
これはつまり、来いってことなのか?
Mホテルを調べてみると、駅近で観光客向けの雰囲気の良い有名ホテルだった。
だがその一方、上階は有名人がこぞって連泊する巣ごもり用のホテルとしても記事が上がっている。
都内にいながら心を休める場所だと、文豪たちも篭って執筆をしている、なんて噂も囁かれている。
ビル街に隣接してはいるが夜景が綺麗で、ライトアップされた街並みを上階から見るのがデートスポットとして人気……そんな場所になぜ?何で潤太は呼ばれたんだ?
【はやくきてつらいよ。。】
切羽詰まった様子のメッセージに、流石に無視できなくなってきた。
東堂つかさが誰か知らないが、助けを求めている奴を見なかったことになんてできない。
潤太の部屋から飛び出して、クローゼットから上着とマフラーを取り出す。
そのまま玄関へ向かい、置いている変装用の伊達メガネとマスクを着ける。
外出する気満々の行動に遊星が泡のついた皿を持ったまま「どこ行くの?!」と聞いてくる。
「ちょっと知り合いが困ってるみたいだから。」
「知り合いって誰?潤太は記憶喪失じゃん!もしかして他のメンバー?」
「いや違う、でもメッセージ見た感じそうとうやばそうだし。ほっとけないなって……様子見たらすぐ帰るから!行ってきます!」
「待って!潤太!行かないで!!!」
遊星がどんな顔をしていたか見てない。悲痛な声で引き止めてきた言葉は耳に残ったままだ。
マンションから最寄駅まで歩いてタクシーを捕まえる。
「ご乗車ありがとうございます。お客さんどちらまで?」
タクシーの運転手によくいる、いかにもなおっちゃんがミラー越しに尋ねてくる。
「Mホテルへお願いします。」
「はい。車動きますよー。」
Mホテルまで20分くらい。東堂つかさからメッセージはない。
思い返せば、この世界に慣れようと、アイドルを頑張ろうとがむしゃらにレッスンやらメンバーとの仲やら、俺の意思で色々してきたけど、潤太ってどんな奴だったんだろう。
スマホのカメラロールを見ても、全然写真を撮らないのか、少しブレた風景写真や、映画のチケットとドリンクの写真、コンサート会場の裏側で誰かに撮ってもらった潤太1人の写真、遊星とのツーショットなどが保存されている。
遡っていくと1番最初に保存されていたのは、幼い頃の潤太だろうか、今の顔に面影のある男の子が、満面の笑みで2人の男女に抱きしめられている。
両親か……
仲睦まじい様子の家族の写真。
母親は潤太と頬を合わせて抱きしめ、父親はそんな2人を抱きしめている。
後ろには瑞々しい木々が聳え立っており、天気の良いこの写真は、ピクニックにでも行ったのだろうかと想像させる。
俺も家族に会いたいよ……会いたいはずなのに、もう家族の声も、顔も、思い出せない。
もしかして、倒れるまでの世界が夢で、俺は本当に吉良潤太なのかもしれない。
記憶喪失によって、夢での自分が本当の自分だと勘違いしているのかもしれない。
だから記憶も朧げで、どんどん忘れていってしまっているのじゃないか。
スマホから目を離して、ビル街の街並みをぼんやりと眺める。
静かな車内、暖房のゴオオという音だけが耳に届く。
俺のことをそっとしておくつもりの遊星たち。
だからこそ、東堂つかさに会って聞きたい。
知りたい、吉良潤太を……
キッと止まったタクシーから、Mホテルのエントランスに降り立つ。
派手すぎず、上品な高級さを魅せつけるロビーはキャリーバッグを持った人がちらほら。
このまま部屋に直行できるのか分からず、暫くロビーでうろうろしていると、チェックインをしている2人組が目に入る。
渡されているホテルのカードキーの説明に聞き耳を立てると、どうやらカードキーを使わないと、エレベーターは自分の階に止まらないらしい。
つまり、東堂の部屋に行くにはカードキーが必要だ。
どうやって?東堂をロビーに呼ぶか?
でも体調の悪い奴を呼びつけるのは可哀想だ。
どうしようか悩んでいると、不審に思われたのかホテルマンに声をかけられる。
「お客様、何かお困りですか?」
笑顔で確認してくるホテルマンに安堵と同時に尊敬する。
眼鏡にマスク、挙動不審な俺に話しかけてくれたことに頭が下がるばかりだ。
「あ、あの、知り合いに部屋に来いって呼ばれたんです。そいつ体調悪そうで、でも俺カードキーなくて、ロビーに呼ぶのもちょっと悪いかなって……」
「左様でございますか。失礼ですがお連れさまの部屋番号をお聞きしても?」
「あ、はい。えっと…1724です。」
トーク画面を見ながらホテルマンに答えると、笑顔を貼りつけたまま「お話は伺っております吉良様」と胸に手を当てながら言われる。
「こちらへどうぞ。東堂様がお待ちです。」
ホテルマンに促され、エレベーターへと向かう。
上へのボタンを押してもらい、タイミングよく到着した一機に乗る。ホテルマンがカードキーをかざして17の数字がポーンと明るくなった。
一緒に行くのかと思っていたら、ホテルマンがスッと降り、振り返る。
「それでは、いってらっしゃいませ。」
「え、俺だけでいいんですか?」
困惑する俺に、ホテルマンはにこりとしたプロの笑顔を向けて言い放つ。
「御用の際はフロントまで、お部屋の電話にてお申し付けください。」
ゆっくりと頭を下げたままの姿勢のホテルマンに見送られ、俺だけが乗ったエレベーターのドアが閉まる。
どの階にも止まらず、17階に到着した。
ホテルだからなのもあるかもしれないが、必要以上に静かな階。エレベーターを降りてすぐの案内板に沿って1724へ向かう。
一歩、また一歩と近づくに連れて、鼓動が激しくなる。喉が渇き、生唾を飲み込むが足りない。
呼吸が荒くなり、マスクをしているのがもどかしい。
クラクラするほどの甘い匂い。
本能が求めている。早く匂いの元へ辿り着けと。
恋焦がれた俺の__運命の番。
「?!くそ!」
違う、違う!そんなんじゃない!
足を止めて頭を振り、思考を正そうとする。
運命の番なんて知らない!
またあんな風になるのか?
記憶に新しい、つい昨日の出来事。
発情期に充てられて興奮状態がずっと続くあの感覚。
思い出しただけで体が震える。
あぁ……噛みたい噛みたい。
俺のものにしたい。
俺だけのΩを、俺の家族を作るんだ!
「違う!!」
それは吉良潤太の願望だ!
俺はまだ、オメガバースを受け入れてない。
そんな状態で番ができたなんて、心のゆとりはなくなり、相手にとっても不幸だ。
番になったら、そいつじゃないと満たされず、そいつ以外に触れられることすら嫌悪だ。番に無視されたΩの行き着く先は廃人。
散々姉貴が『番も大切にできないαなんてちょん切ってやりたい』と作品に向かって腹を立てていた。あのハピエン厨がこの場にいたなら迷わず俺を絞めに来るだろう。
俺はこのドアを開けてはいけない。
開けちゃだめ…な、はずなのに……
「……いるんだろ?甘い匂いがしてるんだ…早く、ドア、開けてくれよ。」
こんなの俺じゃない。
意思に反して、懇願するようにドアを引っ掻く。
情けなく「東堂」と呼ぶと、ドアの向こうから「じゅんた?じゅんたぁ」と男の声が聞こえ、甘い匂いがどんどん濃くなる。
俺とあいつを隔てているのは、たった数センチの鉄の塊。
ロックさえ開けば、その間はゼロになるだろう。
「今開けるから、待ってて、潤太……」
もたついているのかガチャガチャと聞こえる雑音に、今か今かと歯を食いしばる。
早く早く。
顔も知らないΩ。
その首筋に噛みつきたい。
ガチャンッ!
ようやく開いたドアの向こう。
俺より少し背の低い黒髪の男。
熱を帯びた瞳と視線がかち合う。
「潤太。」
そっと差し出された手に引かれて、部屋の中へ足が動く。
俺の意識は本能に支配され、ただ《愛しい》という感情だけが溢れていた。
「潤太!!!駄目!!」
近いようで遠い、潤太を呼ぶ声が聞こえたが、ドアが閉まる音に掻き消される。
「潤太、俺、発情期きちゃった。番にしてくれるよな?」
入って早々、しなだれかかって、恥ずかしげもなくトップス1枚で抱きついてくる男。
媚びるような潤んだ瞳。溢れ出るフェロモン。
ああ……なんか、もういっかな。
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俺だけを見てくれる番を潤太も望んでたんだから。
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