16 / 52
第一部
チョコレート
しおりを挟む
「さぁ、長話になってしまったわね。息子が来ないうちに紅茶でも飲みましょう」
夫人は庭を一望できる三階のガーデンルームでのお茶会が多いのだが、目の前の階段を見向きもせず、階段の奥へと進んで行った。
ーー庭にでも出るのかしら?
「今日はどちらににご招待してくださるのですか?」
「あぁ、今日は私の書斎よ。貴女一人ならゆったりと過ごしていただけると思って」
夫人が足を止めると、執事が扉を開ける。
そこに広がったのは、書斎と呼ぶには相応しくない広々とした空間だった。
「さぁ、こちらに腰掛けてちょうだい。わたしのお気に入りのソファなのよ」
「柔らかなソファですわね」
大きなテーブルを超えて、いくつかの本棚を横切りながら部屋の奥にある小さなテーブルと二つのソファの置かれた窓辺で、私はソファの背もたれに触れた。
婦人よりも先にソファに腰掛けると、座面は少し沈み込み、私の身体はいつもの背筋を伸ばした座り方をするのに苦労する事になる。
「力を抜いてソファに身を任せなさい。それがここのマナーです」
私は戸惑いながらゆっくりと背もたれに身を預け、肘掛けに腕を置いた。
「いつもいつも背筋を伸ばしていると疲れてしまうでしょう。たまには肩の力を抜いて話したいわ」
社交界の重鎮の言葉とは思えなかった。
ーーいつでもどこでも気を抜いてはいけません。
それが淑女教育の基本だからだ。
「こんな格好を許されたのは初めてです」
「ここはもうあなたの家のようなものだから気を使わなくてもいいのよ。婚約どころか、まだ家長の了承も得ていないけどね」
「私はもう、この縁談を受けようと思っています」
夫人を敵に回したら、それこそ私に縁談は来なくなるだろう。
今でもイシュトハン家は孤高の辺境伯と呼ばれるほど社交には明るくない。
父はまだ陛下の同級生という伝手と筆頭魔術師であった母の境遇から味方がいるというだけだ。
周りが敵だらけになったとしても、魔力の強い私たち姉妹が生きている限りはイシュトハンが衰えることはないだろうが、油断していれば一網打尽に叩き潰されることもある。
クロエが継ぐ意思がある状態の今なら、この縁談を受ける価値はある。
公爵家という王族とも繋がる血筋は、社交界での立場は確立される。
フロージアに振られた私が公爵夫人の地位にいることは、周りへの牽制にもなるし、未来の王太子妃にもプレッシャーを与えることが出来るだろう。
もちろん比較される立場になるのは望ましくはないが、下手な妃を迎えられるよりかはメリットはある。
「ここまでして嫁に来ないのなら、もう少し手を広げようと思っていたのよ。いい返事が聞けて嬉しいわ。あれを持ってきてちょうだい」
恐ろしいことを口にしながら、夫人はソファに背を埋めて執事に指示を出した。
「このチョコレート、貴女のお気に入りでしょう」
彼女に招かれたお茶会で、一度だけ口にしたことがある刻まれたフルーツが入ったチョコレイトと焼き菓子が、テーブルの真ん中に置かれた。
「よく覚えていらっしゃいましたね」
「もちろんよ。私にとってステラ嬢は最も敬意を表すに相応しい未来の王妃だと思っていたのだもの。好みを把握するのは当たり前のことだわ」
フロージアと結婚が出来ていれば、と考えると責められている気もしてくる。
心を捕まえられなかった魅力のない女性と言われているも同然だ。
「もちろん悪い意味ではないわよ。王家よりも歴史の長いイシュトハンを手にするには今の王族では力不足だったということだわ。ほら貴女、このカップケーキも今人気のものらしいわよ。召し上がって?」
「いただきますわ」
前公爵夫人に向かって、無礼者などと言う言葉は湧いては来ない。彼女は従兄弟同士で結婚した由緒正しき王族の血筋だ。
「そういえば、ステラ嬢の好みの男はどんな男なの?」
「好みと言われましても…一般的に好まれる男性の範疇を超えませんわ。他で子孫を残したりしない浮気者でない方、私をきちんと尊重してくれる方、イシュトハンにメリットのある家柄ならば文句のつけようもないですけれど…」
「欲のない子ね。顔には興味がないの?」
「公爵のことを聞かれているのですか?」
整った顔をしているのは、とてもメリットの大きいことだ。
第一印象が良ければ上手くいく交渉も多い。
「うちの息子の良いところは見目の良さが1番に上がるでしょう?」
「たしかに公爵の整った顔はとても魅力的ではありますね」
「そうでしょう。魔力も決して弱くはないし、人当たりも悪くない。それに妻を放っておくほど愚かではないと思うのよね、私の息子だし。あなた達きっと上手くやっていけると思うのだけど?」
「相手のいることは私一人ではどうにもならないこともありますから」
私はチョコレートを口に含みながら、濃いめに入れ直してもらった紅茶で驚くほどお茶を楽しんだ。
夫人との談笑は長く続くかと思われたが、早々に夫人は退室することになる。
「母上!ステラが……失礼。本当にいるとは思わず」
「あらまぁ、ノックを忘れるほど急いで来たのかしら?折角楽しくお茶をいただいていたのに。ごめんなさいね」
髪を少しばかり乱れさせて突然入ってきたディヴィッドは、私がソファの背もたれ越しに音のしたドアの方を見るとすぐに頭を下げた。
「ふふふふ。ステラ嬢、うちのバカ息子と結婚式の日取りの相談でもしてきたらどう?」
夫人は、挨拶するために立ち上がった私の背中を少しだけ押しながら私を部屋から追い出した。
夫人は庭を一望できる三階のガーデンルームでのお茶会が多いのだが、目の前の階段を見向きもせず、階段の奥へと進んで行った。
ーー庭にでも出るのかしら?
「今日はどちらににご招待してくださるのですか?」
「あぁ、今日は私の書斎よ。貴女一人ならゆったりと過ごしていただけると思って」
夫人が足を止めると、執事が扉を開ける。
そこに広がったのは、書斎と呼ぶには相応しくない広々とした空間だった。
「さぁ、こちらに腰掛けてちょうだい。わたしのお気に入りのソファなのよ」
「柔らかなソファですわね」
大きなテーブルを超えて、いくつかの本棚を横切りながら部屋の奥にある小さなテーブルと二つのソファの置かれた窓辺で、私はソファの背もたれに触れた。
婦人よりも先にソファに腰掛けると、座面は少し沈み込み、私の身体はいつもの背筋を伸ばした座り方をするのに苦労する事になる。
「力を抜いてソファに身を任せなさい。それがここのマナーです」
私は戸惑いながらゆっくりと背もたれに身を預け、肘掛けに腕を置いた。
「いつもいつも背筋を伸ばしていると疲れてしまうでしょう。たまには肩の力を抜いて話したいわ」
社交界の重鎮の言葉とは思えなかった。
ーーいつでもどこでも気を抜いてはいけません。
それが淑女教育の基本だからだ。
「こんな格好を許されたのは初めてです」
「ここはもうあなたの家のようなものだから気を使わなくてもいいのよ。婚約どころか、まだ家長の了承も得ていないけどね」
「私はもう、この縁談を受けようと思っています」
夫人を敵に回したら、それこそ私に縁談は来なくなるだろう。
今でもイシュトハン家は孤高の辺境伯と呼ばれるほど社交には明るくない。
父はまだ陛下の同級生という伝手と筆頭魔術師であった母の境遇から味方がいるというだけだ。
周りが敵だらけになったとしても、魔力の強い私たち姉妹が生きている限りはイシュトハンが衰えることはないだろうが、油断していれば一網打尽に叩き潰されることもある。
クロエが継ぐ意思がある状態の今なら、この縁談を受ける価値はある。
公爵家という王族とも繋がる血筋は、社交界での立場は確立される。
フロージアに振られた私が公爵夫人の地位にいることは、周りへの牽制にもなるし、未来の王太子妃にもプレッシャーを与えることが出来るだろう。
もちろん比較される立場になるのは望ましくはないが、下手な妃を迎えられるよりかはメリットはある。
「ここまでして嫁に来ないのなら、もう少し手を広げようと思っていたのよ。いい返事が聞けて嬉しいわ。あれを持ってきてちょうだい」
恐ろしいことを口にしながら、夫人はソファに背を埋めて執事に指示を出した。
「このチョコレート、貴女のお気に入りでしょう」
彼女に招かれたお茶会で、一度だけ口にしたことがある刻まれたフルーツが入ったチョコレイトと焼き菓子が、テーブルの真ん中に置かれた。
「よく覚えていらっしゃいましたね」
「もちろんよ。私にとってステラ嬢は最も敬意を表すに相応しい未来の王妃だと思っていたのだもの。好みを把握するのは当たり前のことだわ」
フロージアと結婚が出来ていれば、と考えると責められている気もしてくる。
心を捕まえられなかった魅力のない女性と言われているも同然だ。
「もちろん悪い意味ではないわよ。王家よりも歴史の長いイシュトハンを手にするには今の王族では力不足だったということだわ。ほら貴女、このカップケーキも今人気のものらしいわよ。召し上がって?」
「いただきますわ」
前公爵夫人に向かって、無礼者などと言う言葉は湧いては来ない。彼女は従兄弟同士で結婚した由緒正しき王族の血筋だ。
「そういえば、ステラ嬢の好みの男はどんな男なの?」
「好みと言われましても…一般的に好まれる男性の範疇を超えませんわ。他で子孫を残したりしない浮気者でない方、私をきちんと尊重してくれる方、イシュトハンにメリットのある家柄ならば文句のつけようもないですけれど…」
「欲のない子ね。顔には興味がないの?」
「公爵のことを聞かれているのですか?」
整った顔をしているのは、とてもメリットの大きいことだ。
第一印象が良ければ上手くいく交渉も多い。
「うちの息子の良いところは見目の良さが1番に上がるでしょう?」
「たしかに公爵の整った顔はとても魅力的ではありますね」
「そうでしょう。魔力も決して弱くはないし、人当たりも悪くない。それに妻を放っておくほど愚かではないと思うのよね、私の息子だし。あなた達きっと上手くやっていけると思うのだけど?」
「相手のいることは私一人ではどうにもならないこともありますから」
私はチョコレートを口に含みながら、濃いめに入れ直してもらった紅茶で驚くほどお茶を楽しんだ。
夫人との談笑は長く続くかと思われたが、早々に夫人は退室することになる。
「母上!ステラが……失礼。本当にいるとは思わず」
「あらまぁ、ノックを忘れるほど急いで来たのかしら?折角楽しくお茶をいただいていたのに。ごめんなさいね」
髪を少しばかり乱れさせて突然入ってきたディヴィッドは、私がソファの背もたれ越しに音のしたドアの方を見るとすぐに頭を下げた。
「ふふふふ。ステラ嬢、うちのバカ息子と結婚式の日取りの相談でもしてきたらどう?」
夫人は、挨拶するために立ち上がった私の背中を少しだけ押しながら私を部屋から追い出した。
0
お気に入りに追加
277
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。

羨ましいならあなたに差し上げます
木山楽斗
恋愛
男爵家の令嬢であるティセリアは、社交界でも人気の侯爵令息ファルドラから婚約を申し込まれることになった。
しかしティセリアは、その婚約に裏があると知っていた。
彼女は以前、ファルドラがある人と揉めているのを見ていた。そのことから、彼が他の者から思われているような誠実な人間ではないと、わかっていたのである。
だがそれでも、二人の婚約は成立してしまった。ティセリアの父は、例え事情があっても侯爵家との婚約は有益だと判断したのだ。
実際にファルドラと話したティセリアは、自身の考えが間違っていなかったことを悟ることになった。婚約者となった彼は、実質的な脅しの言葉を口にしてきたのだ。
婚約について打ちひしがれていたティセリアだったが、ある時彼女の前に何も知らない一人の令嬢が現れた。
その令嬢は、ティセリアを羨ましがっていた。ファルドラとの婚約を、彼女は熱望していたのである。
そんな令嬢に対して、ティセリアはとある言葉を口にした。
「羨ましいなら、あなたに差し上げます」
その言葉が、自身にとって大きな成果に繋がるとも知らずに。

【完結】白い結婚はあなたへの導き
白雨 音
恋愛
妹ルイーズに縁談が来たが、それは妹の望みでは無かった。
彼女は姉アリスの婚約者、フィリップと想い合っていると告白する。
何も知らずにいたアリスは酷くショックを受ける。
先方が承諾した事で、アリスの気持ちは置き去りに、婚約者を入れ換えられる事になってしまった。
悲しみに沈むアリスに、夫となる伯爵は告げた、「これは白い結婚だ」と。
運命は回り始めた、アリスが辿り着く先とは… ◇異世界:短編16話《完結しました》
【完結】間違えたなら謝ってよね! ~悔しいので羨ましがられるほど幸せになります~
綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
ファンタジー
「こんな役立たずは要らん! 捨ててこい!!」
何が起きたのか分からず、茫然とする。要らない? 捨てる? きょとんとしたまま捨てられた私は、なぜか幼くなっていた。ハイキングに行って少し道に迷っただけなのに?
後に聖女召喚で間違われたと知るが、だったら責任取って育てるなり、元に戻すなりしてよ! 謝罪のひとつもないのは、納得できない!!
負けん気の強いサラは、見返すために幸せになることを誓う。途端に幸せが舞い込み続けて? いつも笑顔のサラの周りには、聖獣達が集った。
やっぱり聖女だから戻ってくれ? 絶対にお断りします(*´艸`*)
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2022/06/22……完結
2022/03/26……アルファポリス、HOT女性向け 11位
2022/03/19……小説家になろう、異世界転生/転移(ファンタジー)日間 26位
2022/03/18……エブリスタ、トレンド(ファンタジー)1位

【完】瓶底メガネの聖女様
らんか
恋愛
伯爵家の娘なのに、実母亡き後、後妻とその娘がやってきてから虐げられて育ったオリビア。
傷つけられ、生死の淵に立ったその時に、前世の記憶が蘇り、それと同時に魔力が発現した。
実家から事実上追い出された形で、家を出たオリビアは、偶然出会った人達の助けを借りて、今まで奪われ続けた、自分の大切なもの取り戻そうと奮闘する。
そんな自分にいつも寄り添ってくれるのは……。
私達、政略結婚ですから。
黎
恋愛
オルヒデーエは、来月ザイデルバスト王子との結婚を控えていた。しかし2年前に王宮に来て以来、王子とはろくに会わず話もしない。一方で1年前現れたレディ・トゥルペは、王子に指輪を贈られ、二人きりで会ってもいる。王子に自分達の関係性を問いただすも「政略結婚だが」と知らん顔、レディ・トゥルペも、オルヒデーエに向かって「政略結婚ですから」としたり顔。半年前からは、レディ・トゥルペに数々の嫌がらせをしたという噂まで流れていた。
それが罪状として読み上げられる中、オルヒデーエは王子との数少ない思い出を振り返り、その処断を待つ。

もう、愛はいりませんから
さくたろう
恋愛
ローザリア王国公爵令嬢ルクレティア・フォルセティに、ある日突然、未来の記憶が蘇った。
王子リーヴァイの愛する人を殺害しようとした罪により投獄され、兄に差し出された毒を煽り死んだ記憶だ。それが未来の出来事だと確信したルクレティアは、そんな未来に怯えるが、その記憶のおかしさに気がつき、謎を探ることにする。そうしてやがて、ある人のひたむきな愛を知ることになる。
君のためだと言われても、少しも嬉しくありません
みみぢあん
恋愛
子爵家の令嬢マリオンの婚約者、アルフレッド卿が王族の護衛で隣国へ行くが、任期がながびき帰国できなくなり婚約を解消することになった。 すぐにノエル卿と2度目の婚約が決まったが、結婚を目前にして家庭の事情で2人は…… 暗い流れがつづきます。 ざまぁでスカッ… とされたい方には不向きのお話です。ご注意を😓
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる